新聞社は、訃報記事の扱いに頭を悩ます

 新聞社は、訃報記事の扱いに頭を悩ます。どうしても故人の業績へのある種の評価となる。小さくても大きくても、人の価値に変わりないものの▼作詞家阿久悠さんに逸話がある。12歳の頃、学校の遠泳大会で溺れかけた。死を意識しながらこう思ったという。いま死んでも新聞は「少年水死」の4文字で済ますだろう。だが時代の寵児(ちょうじ)で同じ年の美空ひばりが死ねば、新聞は4万字を費やすだろうと。若き阿久少年の焦燥と憧れが見て取れる▼詩人の石垣りんさんに、無名の戦没者に宛てた「弔辞」という詩がある。新聞の活字にすればわずか数行。名もない無数の死は、やがて忘れられる。〈死者は静かに立ちあがる。さみしい笑顔でこの紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発(た)とうとしている〉▼新型コロナで亡くなった人たちを記録と記憶にとどめる動きもある。米紙ニューヨーク・タイムズが先月、1面を犠牲者の名前で埋めた。紙面を4ページ割き、1000人の氏名、年齢、簡単な人物紹介を並べた。それでも米国の死者の100分の1にすぎない。「誰一人として単なる数字で表せる存在ではなかった」と記事にある▼ニュースが伝えるコロナ感染死者数。無機質な数字の向こうに、人数分の無念がある。数え切れない家族や友人の涙がある。
 

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