伊藤みきさん(元モーグル日本代表) 作って体感農家のすごさ
2020年10月24日

伊藤みきさん
現役時代に大きなけがをし、長いリハビリ期間中に、食事について改めて見直しました。
それまでも油について気にしていましたが、けがをして以降は、脂質をどう取るのがいいのか、公認スポーツ栄養士に相談しました。脂質は、タンパク質、炭水化物と並ぶ三大栄養素の一つです。減らすのではなくどう取るのがいいのか考えました。
生ものは食べないようにしていましたから、魚の刺し身は食べられません。魚の脂を取ることが少ないので、それを亜麻仁油でカバーするとか。そういう細かいところにまで取り組みました。
現役最後の1年間は、MCT(中鎖脂肪酸)オイルをヨーグルトに混ぜて、毎日6グラムずつ取るようにしました。その習慣を続けたら、3、4カ月で筋量が増えて体脂肪が2%落ちたのでびっくりしました。MCTオイルを取るだけで、体が変わったんです。
私は滋賀県で生まれました。農家ではないんですが、家の裏に畑があって野菜を作っていました。母に「ナス、取ってきて」と言われて私が取ったナスが食卓に出る。そんな生活でした。
大学時代の4年間を愛知県で過ごし、その後、社会人として長野県で9年間。今は縁あって、北海道で暮らしています。
地域地域で、食文化というのが違うんですね。私が驚いたのはネギ。滋賀県では九条ネギなんです。他の県のネギは白い部分が多くて太い。それを見て、実家の畑でなっていたネギは出来損ないだったのかなぁと感じたり。
実家の日野町では、日野菜というカブが作られています。細長くて、土に入っている部分は白いんですが、外に出ている部分は薄紫色になります。日野菜で作る漬物は、カブ特有のえぐ味もあって、とてもおいしいんです。でも愛知県でも長野県でも北海道でも、日野菜は手に入らなくて。
北海道江別市の農家と知り合い、この春、2カ月ほど農作業を手伝いました。ニンジン、トウモロコシ、エダマメ作り。お願いして、日野菜の種をまいてもらいました。本当は日野菜は秋まきなんですが、試しにやってみようと、6月から1週間ごとに何度かに分けてまいたんです。
早いものは7月の頭に収穫できました。日野菜は、真っすぐなものが良いとされています。でも畑で収穫したら、きれいな形のものは3分の1くらいしかなくて。
他の野菜も、市場に出すのはそれくらいだと教えていただきました。私はそれまで、収穫したものは基本的に全部出荷しているものだと思っていました。土をつくり、草むしりをして、大事に育てた野菜です。それなのに3分の2は出荷しないなんて、結構衝撃を受けました。実家でやっている家庭菜園と農家の仕事はまるっきり別のものなのだと実感しました。
青果店やスーパーで売られているのは、選ばれし野菜たちだったのですね。そのことを知り、食材への愛着が湧きました。
農業体験を通じて、農業とスポーツは似ていると感じました。アスリートも、コーチやスタッフなどたくさんの人に支えられて成長していく。でも最高の舞台で戦えるのは、選ばれし者だけ。改めて、私のことを支えてくれた皆さんに感謝の気持ちが湧きました。同時に、食材を立派に成長させてくれる農家への感謝の気持ちも。収穫して作った日野菜漬けを食べながら、そう思いました。(聞き手=菊地武顕)
いとう・みき 1987年滋賀県生まれ。姉のあずさ、妹のさつきと共に、モーグル3姉妹として知られる。2001年に14歳で日本代表に選ばれ、02、03年の全日本選手権で優勝。06年のトリノ五輪で20位、10年のバンクーバー五輪で12位。13年のワールドカップ猪苗代大会では優勝を飾った。19年に引退。
それまでも油について気にしていましたが、けがをして以降は、脂質をどう取るのがいいのか、公認スポーツ栄養士に相談しました。脂質は、タンパク質、炭水化物と並ぶ三大栄養素の一つです。減らすのではなくどう取るのがいいのか考えました。
生ものは食べないようにしていましたから、魚の刺し身は食べられません。魚の脂を取ることが少ないので、それを亜麻仁油でカバーするとか。そういう細かいところにまで取り組みました。
油変え体質改善
現役最後の1年間は、MCT(中鎖脂肪酸)オイルをヨーグルトに混ぜて、毎日6グラムずつ取るようにしました。その習慣を続けたら、3、4カ月で筋量が増えて体脂肪が2%落ちたのでびっくりしました。MCTオイルを取るだけで、体が変わったんです。
私は滋賀県で生まれました。農家ではないんですが、家の裏に畑があって野菜を作っていました。母に「ナス、取ってきて」と言われて私が取ったナスが食卓に出る。そんな生活でした。
大学時代の4年間を愛知県で過ごし、その後、社会人として長野県で9年間。今は縁あって、北海道で暮らしています。
地域地域で、食文化というのが違うんですね。私が驚いたのはネギ。滋賀県では九条ネギなんです。他の県のネギは白い部分が多くて太い。それを見て、実家の畑でなっていたネギは出来損ないだったのかなぁと感じたり。
実家の日野町では、日野菜というカブが作られています。細長くて、土に入っている部分は白いんですが、外に出ている部分は薄紫色になります。日野菜で作る漬物は、カブ特有のえぐ味もあって、とてもおいしいんです。でも愛知県でも長野県でも北海道でも、日野菜は手に入らなくて。
「選ばれし野菜」
北海道江別市の農家と知り合い、この春、2カ月ほど農作業を手伝いました。ニンジン、トウモロコシ、エダマメ作り。お願いして、日野菜の種をまいてもらいました。本当は日野菜は秋まきなんですが、試しにやってみようと、6月から1週間ごとに何度かに分けてまいたんです。
早いものは7月の頭に収穫できました。日野菜は、真っすぐなものが良いとされています。でも畑で収穫したら、きれいな形のものは3分の1くらいしかなくて。
他の野菜も、市場に出すのはそれくらいだと教えていただきました。私はそれまで、収穫したものは基本的に全部出荷しているものだと思っていました。土をつくり、草むしりをして、大事に育てた野菜です。それなのに3分の2は出荷しないなんて、結構衝撃を受けました。実家でやっている家庭菜園と農家の仕事はまるっきり別のものなのだと実感しました。
青果店やスーパーで売られているのは、選ばれし野菜たちだったのですね。そのことを知り、食材への愛着が湧きました。
農業体験を通じて、農業とスポーツは似ていると感じました。アスリートも、コーチやスタッフなどたくさんの人に支えられて成長していく。でも最高の舞台で戦えるのは、選ばれし者だけ。改めて、私のことを支えてくれた皆さんに感謝の気持ちが湧きました。同時に、食材を立派に成長させてくれる農家への感謝の気持ちも。収穫して作った日野菜漬けを食べながら、そう思いました。(聞き手=菊地武顕)
いとう・みき 1987年滋賀県生まれ。姉のあずさ、妹のさつきと共に、モーグル3姉妹として知られる。2001年に14歳で日本代表に選ばれ、02、03年の全日本選手権で優勝。06年のトリノ五輪で20位、10年のバンクーバー五輪で12位。13年のワールドカップ猪苗代大会では優勝を飾った。19年に引退。
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5G 地方展開いつ? 中山間地こそ「スマート」必要
中山間地の農家が、スマート農業を使いこなすのに必要な第5世代移動通信システム(5G)を利用できないのではないかと、不安視している。人口が少ない地域は通信会社の実入りが少なく、電波網の整備が後手に回りがちだ。自治体主導で必要な基地局を建てる手もあるが、1基数千万円かかるなど負担が重い。「条件不利地こそ先進技術が必要だ」──農家らはスマート農業推進を叫ぶ国の姿勢をいぶかる。(木村隼人)
技術導入したいが 環境整わず 佐賀県嬉野市
佐賀県嬉野市の岩屋川内地区。同地区に畑を持つ茶農家の田中将也さん(32)は、スマート農業の技術で収穫の負担が大きく減らせることに期待するが「今のままでは普及は難しい」とみる。畑に出た時に携帯電話がつながらず、連絡が取れない経験を何度もしているからだ。山間部にあるため携帯電話の基地局の電波を受信しにくく、現状でも通信環境が悪い。
スマート農業で多用されるドローン(小型無人飛行機)には1~4レベルの設備環境がある。数字が大きいほど通信速度が速く安定しており、補助者がいなくても事前のプログラム通りに自律飛行できる。高解像度の画像を収集でき、利便性が高まる。
高レベルの活用には最先端の5Gが必要だが、普及は始まったばかり。正確なカバー率はつかめないが、大手通信会社は5G展開の指針に、人口を基準にした目標に掲げる。そのため、大都市圏を優先した整備になり、地方は置き去りにされやすい。
現在の携帯電話さえつながらない「不感地域」は全国に残っており、約1万3000人(総務省調べ、2018年度末)が不便を強いられている。総務省東北総合通信局によると、東北地方が最も不感地域が多いという。
工事期間、費用基地局開設に壁
嬉野市は総務省の「携帯電波等エリア整備事業」などを使いながら改善を進めるが「基地局を一つ開設するのに8000万円近くかかる」(市担当者)こともあり、早急な解決は難しい。
農水省九州農政局のスマート農業担当者は「効果的に普及させるためにも高速通信は不可欠。山間部などの通信環境を整えることは必要だ」と指摘するが、通信網整備の所管は総務省となるためか、具体的な改善策については口をつぐむ。
整備の遅れについて、ある通信大手は「5Gネットワークの全国整備には膨大な数の基地局が必要で、長期工事と多額の投資を伴う」とコメント。別の企業も「山間部では基地局整備に必要な光ファイバーなど伝送路の確保が難しい」とする。
だが嬉野市の田中さんは「中山間農業の課題解決のためにもスマート農業は必要。本気で普及を考えるなら、通信環境を早期に改善してほしい」と訴える。
<ことば> 5G
次世代の通信規格。日本では2020年3月からサービスが始まった。大容量・高速通信が可能。最高伝送速度と通信精度は現行(4G)の10倍。一方で、5Gが使う高周波数帯は障害物に弱い。波長が短く通信範囲が狭い特性があり、従来より多くの通信基地が必要になる。
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2021年01月15日
[新型コロナ] 営業短縮飲食店の取引先 最大40万円支援
新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言の再発令を受け、梶山弘志経済産業相は12日の閣議後記者会見で、営業時間の短縮要請に応じた飲食店の取引先に給付金を支給すると発表した。時短の影響などで1月か2月の売上高が前年同月比で半分以下に減った場合に、中堅・中小企業は40万円、個人は20万円を上限に支払う。JAや卸売業者などを通じて間接的に取引する農家も対象に想定する。……
2021年01月13日

ゴロゴロ具材のどさんこ餃子 北海道岩見沢市
北海道岩見沢市の「ゴロゴロふぁーむ」が製造・販売する冷凍ギョーザ。原料は北海道産にこだわった。
皮は岩見沢産小麦「キタノカオリ」を中心に、道産小麦をブレンド。香り豊かでもちもちした食感が特徴だ。道内のブランド豚「留寿都豚」を大きめに切った粗びき肉を使い、野菜も大きく切ってゴロゴロ感を出している。
味は少し甘めで塩味とのバランスが良く「一度食べたら病みつきになる」と評判だ。ニンニクを使っていないため、人と会う前に食べても気にならない。
1袋(15個、375グラム)780円。同社の他、岩見沢観光物産拠点センターiWAFO(イワホ)で販売。問い合わせはゴロゴロふぁーむ、(電)0126(22)5666。
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2021年01月13日
減る消防団員 なり手を増やす環境に
集中豪雨などによる災害から地域住民を守る消防団員の減少が止まらない。大規模災害が頻発している。地域防災の中核を担う消防団員の確保に向け、政府は環境整備を急ぐべきだ。
消防団は、市町村の非常備の消防機関。全ての市町村に設置され、公務員や農業者、JA職員、会社員ら他に本業を持つ団員で構成する。災害時には消火活動や住民の避難誘導、救助活動、救助が必要な人の捜索などに当たる。日曜日などに訓練し、災害に備える。
被害を最小限に抑えるには初動が肝心で、地域密着型の消防団は欠かせない組織だ。熊本県を中心とした昨年7月の豪雨では、12県で延べ5万6000人が救助、巡視警戒、避難誘導などで重要な役割を発揮した。
1954年に200万人を超えていた全国の団員は、少子高齢化や人口減少などで90年には100万人を下回った。昨年は81万8000人で、2年連続で1万人を超す減少となった。
地域の防災力を維持するためにも団員の減少を食い止める必要がある。災害の多発化や激甚化と団員数の減少で、団員1人の役割も増している。50歳以上が2割を超え、高齢化も進む。会社勤めのため日中は不在となる団員が増え、地域防災の弱体化が進んでいるのが実態だ。
消防庁は、退職報償金の引き上げなど、団員確保策に取り組んできたが効果は限定的だ。報酬も、危険を伴う活動に見合う水準への引き上げが急務だろう。国は、一般団員の報酬について年間3万6500円、出動手当1回7000円として、地方交付税を措置している。しかし、市町村が決める実際の報酬は、全国平均で年間3万1000円弱にとどまっている。
同庁は、昨年末に、研究者や首長などによる「消防団員の処遇等に関する検討会」を開いて改善策を探り始めた。報酬全体の底上げを目指すべきだ。
問題は、急速に少子高齢化と人口減少が進む農山村地帯だ。対応を急がないとなり手がいなくなり、地域防災の基盤が揺らぐ。九州大学大学院農学研究院の佐藤宣子教授は「農林業従事者で消防団員の人は、国土保全の役割を果たしている。経営安定資金などの優遇措置を設け、住み続けられる条件を整備することも一案だ」と、農林業者の生計が成り立つような支援を提言する。考慮すべきだろう。
最近は、被災地で復旧活動などに当たるボランティアが増えてきた。行政の手が届かないところをカバーする「共助」は歓迎できる。併せて、住民による地域の防災力を高める日頃の活動が重要だ。その中核となる消防団活動に参加しやすくする職場の理解も欠かせない。
政府は、昨年末、防災・減災や国土強靱(きょうじん)化を推進するため、15兆円の事業規模となる5カ年加速化対策を決めた。地域住民が消防団に積極的に参加できるよう、総合的な取り組みも急ぐべきだ。
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2021年01月12日
環境・所得に配慮を みどりの食料システム戦略 意見交換で全中会長
農水省は1月から、農業の生産基盤強化と環境負荷の軽減を両立する技術・生産体系「みどりの食料システム戦略」の策定に向け、農家や団体などとの意見交換会を進めている。14日に行ったオンライン会合には、JA全中の中家徹会長が出席。……
2021年01月15日
食の履歴書の新着記事

青木愛さん(元シンクロナイズドスイミング日本代表) 引退で知った食べる喜び
食の連載コーナーでいうのもなんですが、現役時代は食べることが嫌でした。
私は体質的に痩せやすくて、もっと太らないといけないと指導されたんです。「食べるのもトレーニングだ」と言われました。
シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)では、脂肪がないと浮かずに沈んでしまうからです。また、見栄えの問題もあります。海外の選手は背が高く体もガッシリしています。体が貧相だといけない、もっと体を大きくしなさい、と言われ続けました。
そのため特に日本代表に入ってからは、味わって食べる時間もないし、味わっていたら量は入らない。急いでかき込む、流し込むといった感じでした。
つらかった合宿
1チームに8人の選手がいるんですが、痩せないといけない人、現状維持でいい人、太らないといけない人がいて。合宿で、痩せないといけない人と同じ部屋になったときは、お互いつらかったです。私はおにぎりや餅を寝るまで食べ続けないといけない。向こうはものすごくおなかがすいているのに、それを見ないといけない。
毎日、4500キロカロリーを取るように言われました。
それを全部揚げ物で取るんだったら、簡単だと思います。でも選手ですから、バランスよく食べないといけません。
炭水化物、脂質、タンパク質の三つを取った上で、カルシウムやビタミンも。自分で計算しながら、いろいろな食材を取って4500キロカロリー以上にするのは大変でした。
母は料理がすごく上手で、子どもの頃はご飯が楽しみだったんです。でもなにせ小学2年生の頃からシンクロを始めたので。
母もちゃんと競技をやるのなら食事から変えないといけないと考えて、私の好きなものや量を食べやすいように工夫して料理してくれたんですが、小学校の頃から量を食べないといけない生活だったんです。
ほっとする実家
代表の合宿が終わると、いったん実家に戻ります。母の料理を食べると「ああ、家はいいなあ」と実感します。ささ身を揚げたのが大好きで。母はささ身の中に梅やシソの葉を入れて巻いてくれるんです。さっぱりとした味なので、量を食べられる。エビフライやハンバーグ、コロッケといったベタな食べ物が好きなので、それも作ってくれます。もちろん脂質ばかりにならないように、他の栄養素も取りながら。
私の目標体重は59キロ。でもどんなに頑張っても56、57キロをうろうろしていました。実家で過ごすと、あっという間に53、54キロまで落ちてしまいます。次の合宿の前日は必死になって食べました。
食べることの楽しさに気付いたのは、23歳で引退してからです。好きな人と好きな時間に好きなものを好きな量だけ食べるのが、こんなにも楽しいだなんて。
私は、夜に友達と食事をすることが多いんですよね。その時に、ものすごい量を食べます。胃が大きくなってしまったんでしょう。朝起きてもおなかがすいてなくて、夜までの間に、おやつを食べるくらいで間に合います。間食はお菓子ではなく、梅干し、納豆、豆腐、漬物などです。
もともとおばあちゃんが好むようなものが好きだったんです。ポテトチップスよりも酢昆布が好きな子どもでした。好きなものを食べられる生活に感謝しています。(聞き手=菊地武顕)
あおき・あい 1985年京都府生まれ。中学2年から井村雅代氏に師事する。2005年の世界水泳で日本代表に初選出されたが、肩のけがで離脱。翌年のワールドカップに出場し、チーム種目で銀メダル。08年の北京五輪ではチーム種目で5位入賞。五輪後に引退し、メディア出演を通じてスポーツ振興に取り組んでいる。
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2021年01月09日

大河内志保さん(タレント) おいしく、楽しくが大切
祖母がとても料理上手だったんです。会社を経営していた祖父は、大病を患いました。社長ですから取引先の方々を接待しないといけませんが、それを全部、自宅でやったんです。祖母はまるで料亭の懐石料理のように、次々に小皿で料理を出していました。
普段の料理も、祖父の健康を考えて、手間暇をかけて作っていました。大きな木のたるで、何十個ものハクサイを漬けていました。イカの塩辛もユズ風味のものを、たんまり手作り。カレーは無水鍋を使って、水を入れずに野菜の水分だけで作っていました。食材も、無添加、無農薬のもの。祖父が体を悪くする前は銀座の「やす幸」が好きだったので、祖母は店に通って勉強し、同じ味のおでんを作って祖父に出したり。どこで知ったのか、サラダにツブ貝をのせ、めんたいことマヨネーズをあえたドレッシングを掛けたり。
母は料理は得意ではありませんが、家族の健康を考えてくれていました。ファストフードや市販のジュースは禁止。インスタント食品も嫌っていました。
子どもだけで親戚の家に遊びに行くときは、叔母に根回しまでしていたんです。真夏に大阪に行ったとき。炎天下で「今日はお母さんがいないからジュースを飲める」と思っていたら、ちゃんとお茶の水筒が用意されていてがっかり。
高校生になって自分でアルバイトをしました。そのお金を使って、母に注意されることもなく好きなものを食べる。それがうれしかったですね。
祖母と母が先生
でも母のおかげで、病気らしい病気にかからずに済んだんだと思います。1人暮らしをするようになってからも、体に良くないものは取らないというのが、自分の中で常識になっていましたから。私の前の夫はスポーツ選手でしたので、私は調理師免許を取って本格的に健康を意識した調理をするようになりました。その基礎となったのが、祖母や母の教えだと感じています。
私は外食が大好きです。おいしい料理を食べながら、楽しく会話をするというのが。でも外食だと、おいしいだけにいっぱい食べ、カロリーオーバーしてしまいます。
その調整のため、家ではおいしいけど太らない食事をするように工夫しています。例えばタイカレーを作るときは、ココナツミルクの代わりに豆乳を使うとか。外食と家でプラスマイナスゼロになるようにする。そうすれば安心して楽しく外食できますから。
体に良くておいしく食べられる料理、楽しく食べられる料理が大事です。ダイエットをしているからサラダばっかりという、まるでウサギのような食事をしている人がいます。何の楽しみも感じない食事では、餌みたいじゃないですか。食彩が豊かでかみ応えもある、五感で味わう献立が理想です。
弱火で簡単料理
私が編み出したメソッドは、弱火料理。鍋に少量の油をひき、少々塩を振るんです。そこに野菜、キャベツでもタマネギでもピーマンでもいいんですが、それを敷いてふたをして火をつけます。弱火です。ふたが汗をかきだしたら火を止める。そうすると余熱でじんわりと火が通るんです。
これが野菜を一番おいしく食べる方法。野菜の上に豚肉の薄切りをのせたり、とろけるチーズをのせたり、いろいろ応用もききます。簡単だし、光熱費も安く済み、洗い物も楽。健康にうるさい母に教えたら、この方法ばかりやっていますよ。(聞き手=菊地武顕)
おおこうち・しほ 1971年東京都生まれ。90年、日本航空キャンペーンガールに。タレント活動と並行して食や健康について学び、日本とイタリアでの調理師免許、イタリアソムリエ、介護士2級などの資格を持つ。先月、『人を輝かせる覚悟 「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を上梓。
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2020年12月26日

朝井リョウさん(作家) 離れて知った母の偉大さ
私が生まれ育った岐阜は、海のない県。川魚を食べる文化があります。夏の間はヤナという、河原に竹を組んで畳のようにした所で、アユを食べさせてくれる店が出ます。塩焼きだったり甘露煮だったり、いろんな食べ方を楽しめるんです。そこに両親に連れて行ってもらい、アユを食べたことをよく覚えています。魚があまり得意ではなかったんですが、その経験もあって今では大好きです。上京してからは、アユをはじめとする川魚に出合う機会が少なくて、ヤナに出掛けたのはすごく貴重な体験だったんだなと思います。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
朝の電車に恐怖
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
絶品焼き鮎醤油
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
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2020年12月19日

秋元順子さん(歌手) ツアーで楽しむ各地の味
12年前にリリースした「愛のままで…」がヒットしたおかげで、紅白歌合戦に2回ほど出場させていただきました。
最初の出場の後に、全国ツアーをスタートさせたんですね。その年に80公演、翌年、翌々年を合わせると200公演くらい。各地を旅することができました。
その時に、おいしい料理に出合えて。終演後にメンバーやスタッフさんと一緒にいただくわけですから、ことさらにおいしく感じることができました。
感動してばかり
中でも感動したのは、まず北海道の魚介類。そして野菜と果物。ジャガイモ、アスパラガス、トマト、ナガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロン……。驚いたのはリンゴですね。北海道のリンゴってこんなにおいしいんだと初めて知りました。
もっと驚いたのは、オホーツク海に面した紋別でいただいたステーキ。北海道って、肉もこんなにおいしいんだと、目からうろこが落ちました。
和歌山で食べたカワハギの肝も忘れられません。東京では、新鮮な肝はまだ出してもらえない頃でした。産地ならではの取れたての味をいただいたわけです。それとノドグロにも心を奪われました。これは半身を刺し身で、半身を塩焼きにしていただきました。
高知では、塩タタキにびっくり。それまで私は、カツオのタタキはポン酢でいただいていたんです。塩で食べるとこんなにおいしいだなんて。聞けば、その塩は高知の海水から作ったものだそうです。土地のもの同士、合うんですね。
熊本では、桜肉専門店で馬刺しを。私が生まれ育った東京都江東区には、有名な桜鍋店があります。小学校に入る前から父に連れられて行っていたので、桜肉には親しみがあります。熊本の馬刺しもおいしかったですね。桜肉は、生で食べると喉にとてもいいんです。そういうこともあって、たくさんいただきました。
もし「愛のままで…」がなかったなら味わうことのなかったもの。それをたくさん食べられたわけです。改めて、曲に携わってくださった方々に感謝の気持ちを抱いたツアーでした。
取り寄せで幸せ
食いしん坊の私は、各地で出合ったおいしいものは、自宅に取り寄せられるかどうか必ずチェックします。もちろん現地で食べる方がおいしいのは承知ですが、家にいる時も少しでもおいしいものを家族と食べられれば幸せです。
また各地を回ることで、友人・知人にも恵まれました。
米は、新潟県や富山県から送ってもらっています。友人の家の近くにある米屋さんが、東京では買えない米を扱っているとのことで、それをいただきました。参りました。完全にはまりました。
私はご飯が残ると、すぐにおにぎりにします。中身は梅干しでもサケでもいいし、何も入れずに塩だけでもいい。冷めたらそれを冷蔵庫に入れて、食べたいときに電子レンジで温めます。
大好きな北海道の野菜を送ってくれる方がいます。おかげで常においしい野菜に恵まれています。
私はサラダのように冷たい野菜は消化しにくいので、蒸したり、煮たりしていただいています。根のもの、茎のもの、葉のもの、実のもの。これらをバランスよく食べるように心掛けています。
食べるものが、体と人格をつくると聞いたことがあります。質の高い食材をいただいているおかげで、今も元気に歌っています。(聞き手=菊地武顕)
あきもと・じゅんこ 1947年東京都生まれ。2004年、インディーズで出した「マディソン郡の恋」が有線で人気を博し、異例のヒットとなった。翌年にメジャーデビュー。3曲目の「愛のままで…」で紅白歌合戦に出場。61歳での初出場は、女性歌手として歴代最高齢。今年、北海道紋別市PR大使に就任。
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2020年12月12日

麻丘めぐみさん(歌手・女優) 故郷で知った「旬の魅力」
生まれたのは大分県の別府ですが、父の仕事の都合で半年で大阪に移りました。別府生まれの大阪育ちで、一番長く住んでいるのが東京ということになります。
大阪での食の記憶といえば、牛肉ですね。安かったんですよ。日常の食卓に、優しいお値段で並べることができました。しょっちゅうすき焼きをしていましたね。たこ焼き鉄板があって、昼とかは自分でたこ焼きを作ったり、お好み焼きを作ったりして食べました。
あまり外食というのはしませんでしたね。時々、何かごほうびとして、デパートの一番上の食堂に連れて行ってもらいました。私は大丸百貨店のちらしのモデルをしていたんです。大人のモデルが藤純子さん(当時)、子どものモデルが私。大丸の食堂で、その頃に出始めたナポリタンを食べるのが、子ども心にうれしかったです。
大分の良さ実感
10年以上前、母が故郷の別府に戻ったんです。それを機に、私も年に何回か行くようになりました。赤ちゃんの頃しか住んでいませんから、別府のことは何も覚えていませんでした。母に会いに行くようになって、大分県はなんて素晴らしい所だろうと知りました。
食べ物についても、海の幸、山の幸に恵まれています。
海なら関サバ、関アジ。瀬戸内海と太平洋の境界の激流を泳ぐので、筋肉が鍛えられてよく締まっているんです。しっかりとした魚の味がしてうれしいですよね。ただし九州の甘いしょうゆは苦手なので、店の人に関東風の辛口しょうゆをお願いしたり、塩で食べたりしています。
フグもおいしいですよね。旬の時期にだけ出るお店があって、肝まで食べられるんです。それがおいしくって。関サバ、関アジにしてもフグにしても、旬って大切だと感じています。
肉なら豊後牛。うちの親戚に頼まれ、豊後牛を作る過程を紹介するビデオに出演したんですよ。それで、農家がどれだけ苦労をして育てているのかを知りました。豊後牛って東京ではめったに見かけませんよね。あまりに手間暇がかかるので生産量が多くなく、ほとんどが県内で消費されてしまうのだそうです。私たちはただ「おいしい」と食べるだけですが、その裏にはどれだけの苦労があるのか。研究と努力があるのか。感謝の気持ちでいっぱいです。
野菜の味に違い
大分県は、野菜と果物もおいしいですよ。東京のスーパーで買うのとは、味がまったく違うんです。私たちが子どもの頃に味わった臭いと味がします。葉っぱ類なら、本当に葉っぱらしい青臭さ、土臭さ。ピーマンも、いかにも子どもが嫌うような強烈な臭い。
母に会いに行っているのか、食べもの目当てなのか、分からなくなってしまったほどです。
別府に通うようになったおかげで、旬の時期に取った新鮮な野菜と果物のおいしさを知りました。それで普段、東京にいる時でも、なるべく良いものを食べたいと思っています。幸い、近くにとても良い八百屋さんがあるので、そこで買うように心掛けています。
地方に旅した時は、道の駅に行くのが楽しみになりました。農家の顔写真が貼ってあるじゃないですか。それを見ると、信頼して買いますよね。
母をみとった後も別府に通い、親戚とおいしいものを食べたり温泉に入ったりして楽しんでいます。別府のおかげで、生活がとても豊かになった気がします。(聞き手=菊地武顕)
あさおか・めぐみ 1955年大分県生まれ。72年に「芽生え」で歌手デビュー。翌年の「わたしの彼は左きき」でトップアイドルに。結婚を機に引退したが、83年に復帰し女優業を中心に活動。今年、自選ベストアルバム「Premium BEST」を発売。29年ぶりの新曲「フォーエバースマイル」をリリース。
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2020年12月05日

倉田真由美さん(漫画家) 祭りで出合った奇跡の味
10年以上前のことでしょうか。私が福岡出身ということで、福岡県の山間部の村から講演の仕事を受けました。
ちょうどその時に祭りをやっていたので、行ってみたんです。小さな祭りでした。県外の人が観光で来るようなものではなく、村の中の人がたくさん集まって楽しむといった感じのものです。
出店もありましたが、的屋が来てやるのではなく、地元の人たちが、おにぎりや豚汁を出していました。そんな中に、イノシシのスペアリブを出す店があったんです。
その土地の猟師が捕ったイノシシを炭火で焼いて、ダイコンとニンジンのぬか漬けと一緒に出してくれていました。
これが、人生で食べた肉で一番おいしかった。もう、ミラクルにおいしかったんです。
私は昔、『課長島耕作』の弘兼憲史さんと一緒に、ものすごく高いレストランを食べ歩くという企画をやったことがあるんですよ。銀座の高級すしとか、マツタケで肉が見えなくなってしまうようなすき焼きとか、1人当たり5万円のステーキとか。
イノシシに感動
でもどんな料理だって、あそこでいただいたイノシシ肉にはかなわない。しかも添えのぬか漬けもおいしいの、なんの。よくぞこの肉にこのぬか漬けを合わせてくれました! と感動する組み合わせ。たぶん猟師の奥さんが漬けていらっしゃるんでしょうね。
この手の祭りでは、意外とおいしい豚汁やなかなかいい感じのカレーに出合うことはありますよね。でも人生の一番に出合うなんて。プラスチックの容器に割り箸で食べたんですけども。
私は普段、料理の写真は撮らないんですけど、その時だけは撮りました。忘れないように、と。
この祭りは、ほとんど告知していないんです。そんなこともあって、それ以来、行けてなくて。
行ったからといって、あの屋台が出ているとも限りません。また、野生動物は個体によってかなり味が違うそうです。私があの時にあの味に出合えたのは、本当に奇跡のようなものなんですよね。
私の出身は福岡でも海に近い方なので、素晴らしい魚を食べて育ちました。山間部ではあんなにもおいしいジビエ(野生鳥獣の肉)があると知り、福岡ってすごいと感じたものです。
祭りでいただいたぬか漬けがおいしかったので、自分でも作ってみようと決意。2年前に友だちから菌を譲ってもらったのを機に、自宅で漬けるようになりました。
ぬか漬けってカブがメジャーだと思いますが、私はあそこで食べた味の刷り込みがあるので、主にダイコンを漬けました。
ぬか床が駄目に
菌が育ってくれたおかげで、始めた頃よりもおいしくなってきて、とてもうれしく思っていたんですけど……。今年、コロナのためにぬか床が駄目になってしまいました。
福岡に仕事に行ったんですけど、移動制限で飛行機に乗れず、帰れなくなっちゃったんです。2カ月も閉じ込められてしまいました。ようやく家に帰って冷蔵庫の中のぬか床を見て……。
まだショックから立ち直れません。大事なペットを失ったのと似たような気持ちですね。乳酸菌は大事な生き物。それを死なせてしまったという気持ちが強くて。「じゃあ、また別のぬか床で」という気持ちにはなれません。ぬか漬け作りを始めるのには、まだまだ時間がかかりそうな気がします。(聞き手=菊地武顕)
くらた・まゆみ 1971年福岡県生まれ。一橋大学卒業後、自身の就職失敗を元にした作品でヤングマガジンギャグ大賞を受賞し、漫画家デビュー。2000年から「SPA!」で連載された「だめんず・うぉ~か~」でブレイクした。新聞・雑誌・テレビ・ラジオのコメンテーターとしても活躍。愛称は「くらたま」。
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2020年11月28日

あさのあつこさん(作家) 好きだった祖母の煮付け
私の食の原点というとおかしいかもしれませんが、昔、祖母がやっていた小さな食堂のことを思い出します。
うどんとそばを出していたんですが、定食もあって。私たちはハエと呼んでいた小さな川魚をあぶってから、甘辛く煮付けて、ご飯とみそ汁と漬物と一緒に出していました。
地元農家に人気
ハエは小さな魚で、大きいものでも10センチくらいです。それを一匹一匹、丁寧に内臓を取って、金串に刺してあぶったんですね。それから昆布の汁につけて、裏のかまどでまきでコトコト煮ていたのを覚えています。つくだ煮のちょっと手前くらいになるまで、骨も食べられるほど軟らかく煮ていました。
家は岡山県美作市の湯郷という温泉町だったんです。農閑期に近所の農家の方が、温泉に入ってから、祖母の食堂で定食を食べるのを楽しみにしていました。
酒のあてにも合うみたいで、魚と酒だけを注文する人もいましたね。
私もその魚がものすごく好きで。おなかがすいたら祖母の食堂に行き、丼ご飯の上にハエを載せてもらって食べていました。
祖母が亡くなった時、私はもう成人していたんですが、その魚をどうしても食べたくなりました。自分で作ってみたんですけど、全然違うんですよ。何が違うか分からないけど。
作り方を聞いておけばよかったという気持ちがすごく強く……。後悔があります。
私が大学生のときに祖母は店を閉めたんです。
「お祖母(ばあ)ちゃん、ハエの煮付けはどう作るの?」と聞いたときに、「砂糖としょうゆとみりんとショウガを入れて……」と教えてくれたんですけど、「それは何cc? 大さじ何杯?」と聞いても、「そんなの分からんわ。そんなもん、体が覚えてる」。
それでも祖母の料理は、味にむらがあったわけではありません。本当に体が覚えていたんでしょう。
ふと思い出す味
母に「あの味出せる?」と聞いてみたら、「私は計量カップを使わない料理はできない」と言われました。母は高校で栄養学を教えていて、「計量できる料理は作れるけど」と開き直っていました。
ただ母によると、祖母が使っていた食材は、昆布もしょうゆも最高級品。もとが取れるか取れないかくらいだったそうです。
そういえば、ハエは川漁師から取れたてを買っていました。ショウガも近所の農家から買っていたみたいです。
契約農家というほどではないんですが、家は野菜を近所の農家から買う約束をしていて、旬の取れたての野菜を持ってきてもらっていました。
家は田んぼを持っていました。両親とも外で働いていたので、米作りを人に頼んでいました。そのご飯もおいしかったですね。
春になると私はよく山菜採りに行かされました。私が採ったフキやワラビも、食堂の定食の付け合わせに使われたんです。
夏は川漁師がアユも持ってきましたし、秋になるとキノコを採りに行きました。季節季節でおいしい食材を利用していました。
普段はあの味は忘れています。でも時々、疲れたなあ、気分転換したいなあと温泉に入りに行くと、フッと思うんです。
やっぱりあのハエの煮付けは一生食べられないのかなあ、と。(聞き手=菊地武顕)
あさのあつこ 1954年岡山県生まれ。97年に「バッテリー」で野間児童文芸賞、2005年に「バッテリー」全6巻で小学館児童出版文化賞を受賞。延べ1000万部超の画期的ベストセラーとなる。児童文学のいくつもの佳作シリーズの他、島清恋愛文学賞受賞作「たまゆら」など幅広いジャンルの物語を生み出している。
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2020年11月21日

廣田遥さん(元トランポリン日本代表) 試合前白米パワー不可欠
トランポリンという競技では、体重が1キロでも増えると、技に大きな影響が出てしまいます。
献身的だった母
食事は、母が研究を重ねて作ってくれました。体重は増えないように、でも筋肉はちゃんと維持するように。これを両立させるのは大変だったと思います。
菓子は全て母の手作りでした。ケーキは、砂糖の量や脂肪分をきっちり計測して作ってくれました。ポテトチップスも、ジャガイモを薄くスライスして揚げて、塩をまぶしてくれました。油も、米油を使うなど工夫して。食材も、添加物の少ないものを選んでくれていました。
でも制限ばかりですと、ストレスで大変なことになります。それで、試合の終わった日だけは、好きなだけ甘い物を食べていいと決めていました。
父も母も魚が大好きなので、ご飯の時には魚がよく並びました。
後は鶏のムネ肉。低脂肪高タンパクな上に、疲労が取れるので。ささ身を食べていた時期もあったんですが、ムネ肉に疲労物質を取ってくれる成分が豊富に入っていると聞き、変えたんです。ありがたかったです。パサパサしているささ身より、ムネ肉の方がおいしいですから。それと、ビタミンB群を取るために豚肉も食べました。
食事の時は、まずボウルいっぱいの生野菜のサラダをいただきます。レタスとトマト、それに旬の野菜をたっぷり食べて、それからタンパク質、ご飯の順です。
海外遠征には、レトルトのご飯と乾燥みそ汁を持って行きました。
オリンピックでは、選手村で食事をいただきます。ご飯も用意されていましたが、パサパサとしていたんです。
私は日本の米が大好き。試合の前には白米を食べないと力が出ない、集中できない気がするんです。レトルトのご飯を温めておにぎりを作って食べました。
素材生かし切る
現役を引退してからも食材にはこだわっています。また、オーガニックフードマイスターの資格を取るため勉強した時に、農家の苦労を学び、野菜は「捨てる部分は何もない」という気持ちで料理をしています。
家の近くにJAの直売所があるんです。地元で取れた新鮮な野菜が手に入るので、とても助かっています。
私の夫の実家は、マグロの卸をやっています。夫は、大阪の中央卸売場でマグロ専門の仲卸業としての仕事を継ぎました。
それまでは食べる専門でしたが、結婚を機に、魚のことを学び魚料理アドバイザーやシーフードマイスターの資格を取りました。
マグロには鉄分をはじめとした栄養素がたくさんあります。夫はアメリカンフットボール選手でしたので、ワコールの陸上部や、京都大学、立命館大学のアメリカンフットボール部などに、低脂肪で高タンパク質な食材として提供しています。多くのアスリートや子どもらの健康的な体づくりのサポートに取り組んでいます。
魚市場に大きなマグロが並んでいるのを見て、食材の命をいただくありがたみを感じるようになりました。マグロの命を全部いただくという意味で、食べられない部分を乾燥粉砕して肥料にする試みを始めました。サステナブル(持続可能)な生活が唱えられていますよね。マグロを使った肥料で農家に野菜を作っていただければ、うれしいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
ひろた・はるか 1984年、大阪府生まれ。12歳から本格的にトランポリン競技を始める。高校2年だった2001年から、全日本選手権で10連覇を達成。04年アテネ五輪で7位入賞。08年北京五輪で12位。11年に引退後は、メディア出演、講演活動、トランポリン教室などで活躍。箕面トランポリン大使でもある。
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2020年11月14日

大津美子さん(歌手) 戦渦でも工夫 両親に感謝
古里の愛知県豊橋市は、昔から養鶏王国といわれていた所です。今でも愛知県養鶏協会は、豊橋に置かれているという話です。
私の父は神奈川県平塚市の出身で、東京で店をやっていましたが、鶏の卸をするために豊橋に来たと聞きました。
実家は鶏料理店
父は戦後、おいしい鶏料理を皆さんに食べてほしいと、鶏料理店を始めました。
子どもの頃、よく父が「鶏は足が早いからすぐに食べなさい」と言っていたことを思い出します。そんな環境で育ちましたので、鶏料理にはこだわりがあります。
母の実家が豊橋の少し北にある新城市にあります。戦時中には新城に疎開。母の実家近くに家を借りて過ごしました。
時には父が、歯応えのある鶏肉を子どもたちが食べやすいように細かく切って、煮込んでくれていました。母は煮魚が得意でした。
戦時中ですから食べ物に限りがあります。自給自足のような生活をするのが当たり前で、畑で野菜を作っていました。
私たちが畑で取った野菜などを使って、母はいろいろと味を工夫して食べさせてくれました。おかげで寂しい思いやひもじい思いをせずに済みました。豊橋の方を見ながら、友達や近所の人たち、知り合いは、何を食べているんだろうと思ったものです。
貧しい時代でしたが、父と母が、子どもたちのことをいろいろと考えてくれていたんだと、今は感謝しております。
私が歌を学び始めたのも、新城での疎開生活中でした。寺で歌を習ったのです。
終戦後は、赤十字のボランティアに参加しました。学校が終わるとボランティアとして、寂しくて泣いている子どもたちを元気づけるために、歌を歌ったり、一緒に遊んであげたりしたのです。この活動を通じて、自分自身いろいろと学びました。
その時に出していただいたスープの味が家の味に似ているので、どんな味付けなのか聞いたところ、鶏ガラを使っていると聞きました。懐かしくおいしかったことを今も覚えています。
他に豊橋と言えば、ちくわ、ウズラの卵の生産も盛んです。子どもの頃、母に「ちくわは焼いたり煮たりではなく、生で食べるのよ」と言われ、確かにおいしいとよく食べました。
また母は、みそにもこだわった上、いろいろな料理に使っていました。豊橋では赤みそを使います。みそ汁はもちろんのこと、赤みそを魚に付けて焼いたり、パンに付けたり、ご飯の上に載せたり。上京して食べたみそには、なかなかなじめませんでした。今も郷土の赤みそで料理しています。
病に倒れ気付き
1980年のある日、突然頭をバットで殴られたような激しい痛さに倒れました。
病名は「くも膜下出血」でした。もう私は駄目かもと思いましたが、奇跡的に回復。2年後にはカムバックできました。病気をして改めて、それまでの食習慣を見直しました。仕事で忙しかったこともあって、不規則な時間に偏ったものを食べてきたことに気付きました。それからは規則正しくバランスの良い食事をするようにしなくてはと思い、気を付けています。
おかげで歌手生活66年目を迎えた今も、歌い続けることができています。年を重ねた今だからこそ、皆さまの心の中に響くようにと歌い続けていきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
おおつ・よしこ 1938年、愛知県生まれ。55年、「千鳥のブルース」でデビュー。その2カ月後に出した「東京アンナ」が大ヒットし、翌年の紅白歌合戦出場。56年に出した同名映画の主題歌「ここに幸あり」は、国内のみならず、ハワイ、ブラジルなどの日系人の間で愛唱された。豊橋市のふるさと大使も務める。
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2020年11月07日

ニック・ニューサさん(歌手) 博多「ごぼう天うろん」最高
博多で過ごした子どものころの食事といえばね、毎朝売りに来た行商さんから買っていたおきゅうと。海藻を天日干しして煮詰めたものです。今でも博多に帰ると、買って帰ります。
母のみそ汁絶品
おふくろは行商の人から他に納豆、豆腐と油揚げを買っていました。納豆はあまり好きではなかったけど、おふくろが作る豆腐と油揚げのみそ汁はうまかった。だしの取り方がうまいんでしょうね。あごだしで麦みそと米みその合わせみそで作っていたと思います。
東京に出てから僕も作ってみるんだけど、何度やってもあの味はまねできないんですよね。どういうわけか知らんけど。
あとはごまサバ(新鮮なサバの刺し身をたれとゴマで和えた一品)。博多は生で食えるほど新鮮なサバがありますから。東京では生で食えないでしょう。だから僕はこっちに来てから、サバの代わりにサンマの刺し身を使って、ごまサンマにして食べたんですよ。だけどやっぱり違う。サバじゃないとね。
博多といえばラーメンが有名ですけど、僕らが子どものころはラーメンはあまり食べなかった。もともと博多で麺類といえば、うどんなんです。
子どものころ、街にはずいぶんたくさんのうどん屋がありましたねえ。よく通ったのは、いなかうどん、英ちゃんうどん、大福うどん、ウエストというチェーン店。
櫛田神社の裏に、かろのうろんという店があって。角のうどんという意味なんだけど、博多弁で、かろ、うろん。今でも同じ味で提供しているのがうれしいね。福岡に行ったら、必ず食べに行きます。名物のごぼう天うろんに、おいなりさん。これは欠かせません。
東京に来てうどんを頼み、色の濃い汁を見てびっくりしました。向こうは薄い色じゃないですか。それに硬さが違う。博多のうどんはすごく軟らかいんです。何十年たっても、東京のうどんには慣れない。だから食いません。
子どものころのうどんって、お小遣いでも食べられるような安さでしたねえ。
ある日、ちょっと悪さをして、親父の財布から1000円札を持ち出したんです。小学校の2、3年生のころかな。お金の価値が分からなくて、1000円というのがどれだけの大金か知らなかった。それを持って近くでうどんを食べて払おうとしたら、店の親父さんがね、「田中さんとこの息子だよね。お釣りは渡しておくから」って。家に帰ってから、親に叱られたことを覚えています。
考えてみれば駄菓子屋で10円出せば、たくさんの菓子を買えたわけですから、1000円なんて本当に大金だったわけですよね。
しつけに厳しく
うちの親父(カメラマン・詩人の田中善徳氏)は、詩人の北原白秋先生の弟子でした。僕の兄弟全員、北原白秋先生が名付け親なんですよ。「水の構図」という写真詩集がありましてね、それは白秋先生と親父との作品なんです。水の都といわれた柳川についての詩と写真で構成されています。
そんなこともあって、親父に連れられて柳川に行ったこともあります。そのときに名物のどじょう鍋も食べました。
親父は、しつけに厳しかった。特に食事中のマナーについては、厳しく叱られました。絶対に肘をついて食べてはいけなかったし、クチャクチャと音を立ててかむのもやってはいけない、と。今になって、そのしつけに感謝しています。(聞き手=菊地武顕)
ニック・ニューサ 1950年、福岡県生まれ。本名・田中収。67年にグループサウンズバンドにギタリストとして参加。81年にバンド、ニック・ニューサを結成し、リーダーとボーカルを担当。デビューシングル「サチコ」が大ヒットし、全日本有線大賞優秀新人賞などに輝く。現在はニック・ニューサ名で活動を続ける。
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2020年10月31日