大津美子さん(歌手) 戦渦でも工夫 両親に感謝

大津美子さん

 古里の愛知県豊橋市は、昔から養鶏王国といわれていた所です。今でも愛知県養鶏協会は、豊橋に置かれているという話です。

 私の父は神奈川県平塚市の出身で、東京で店をやっていましたが、鶏の卸をするために豊橋に来たと聞きました。
 

実家は鶏料理店


 父は戦後、おいしい鶏料理を皆さんに食べてほしいと、鶏料理店を始めました。

 子どもの頃、よく父が「鶏は足が早いからすぐに食べなさい」と言っていたことを思い出します。そんな環境で育ちましたので、鶏料理にはこだわりがあります。

 母の実家が豊橋の少し北にある新城市にあります。戦時中には新城に疎開。母の実家近くに家を借りて過ごしました。

 時には父が、歯応えのある鶏肉を子どもたちが食べやすいように細かく切って、煮込んでくれていました。母は煮魚が得意でした。

 戦時中ですから食べ物に限りがあります。自給自足のような生活をするのが当たり前で、畑で野菜を作っていました。

 私たちが畑で取った野菜などを使って、母はいろいろと味を工夫して食べさせてくれました。おかげで寂しい思いやひもじい思いをせずに済みました。豊橋の方を見ながら、友達や近所の人たち、知り合いは、何を食べているんだろうと思ったものです。

 貧しい時代でしたが、父と母が、子どもたちのことをいろいろと考えてくれていたんだと、今は感謝しております。

 私が歌を学び始めたのも、新城での疎開生活中でした。寺で歌を習ったのです。

 終戦後は、赤十字のボランティアに参加しました。学校が終わるとボランティアとして、寂しくて泣いている子どもたちを元気づけるために、歌を歌ったり、一緒に遊んであげたりしたのです。この活動を通じて、自分自身いろいろと学びました。

 その時に出していただいたスープの味が家の味に似ているので、どんな味付けなのか聞いたところ、鶏ガラを使っていると聞きました。懐かしくおいしかったことを今も覚えています。

 他に豊橋と言えば、ちくわ、ウズラの卵の生産も盛んです。子どもの頃、母に「ちくわは焼いたり煮たりではなく、生で食べるのよ」と言われ、確かにおいしいとよく食べました。

 また母は、みそにもこだわった上、いろいろな料理に使っていました。豊橋では赤みそを使います。みそ汁はもちろんのこと、赤みそを魚に付けて焼いたり、パンに付けたり、ご飯の上に載せたり。上京して食べたみそには、なかなかなじめませんでした。今も郷土の赤みそで料理しています。
 

病に倒れ気付き


 1980年のある日、突然頭をバットで殴られたような激しい痛さに倒れました。

 病名は「くも膜下出血」でした。もう私は駄目かもと思いましたが、奇跡的に回復。2年後にはカムバックできました。病気をして改めて、それまでの食習慣を見直しました。仕事で忙しかったこともあって、不規則な時間に偏ったものを食べてきたことに気付きました。それからは規則正しくバランスの良い食事をするようにしなくてはと思い、気を付けています。

 おかげで歌手生活66年目を迎えた今も、歌い続けることができています。年を重ねた今だからこそ、皆さまの心の中に響くようにと歌い続けていきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)

 おおつ・よしこ 1938年、愛知県生まれ。55年、「千鳥のブルース」でデビュー。その2カ月後に出した「東京アンナ」が大ヒットし、翌年の紅白歌合戦出場。56年に出した同名映画の主題歌「ここに幸あり」は、国内のみならず、ハワイ、ブラジルなどの日系人の間で愛唱された。豊橋市のふるさと大使も務める。
 

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