食の履歴書
和食が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されるなど、国内外であらためて注目を集める日本の「食」と「農」。著名人に食と農への思いなどを語ってもらった記事を一部再収録しました。

姫野和樹さん(ラグビー選手) おいしいご飯が「力の源」
高校(愛知・春日丘高校)の時は、「食べることもトレーニングだ。食事時間も練習中だ」と常々言われました。寮での食事では、ご飯を8杯くらい食べていましたね。食べられない子もいて、しんどそうでした。残って時間をかけて食べていましたが、僕は食べられる方なんで平気でした。
大学は1日5食
大学(帝京大学)の時の寮生活でも食事をたくさん取ることは徹底されていて、朝からご飯を450グラムは食べるように指導されました。一日に5食も食べていたんですが、その都度、ご飯は最低でも450グラム。僕はいつも700グラム以上食べていましたけど。
高校の時と比べれば、ご飯以外の食事についても工夫されていたように思います。サラダもよく食べていました。栄養のバランスが取れていたと思います。
1日の最後、5食目は夜食の鍋でした。グループが決まっていて、そのグループごとに鍋を作って皆で突っつくんです。具はちゃんと準備されていて、自分たちでその具を鍋に盛り付けて煮ました。
おやつは食べませんでした。好きじゃないんです。僕の好物は白いご飯。それをたっぷりと食べていましたから、おやつを食べる必要がなかったんです。
おかげでしっかりと体づくりができました。高校入学の時点で、身長は今(187センチ)と一緒。でも体重は90キロくらいしかありませんでした。それが3年の時には100キロちょっとまでいきました。大学でも10キロほど増えました。今は108キロあります。
とにかく体を大きくしようと一生懸命食べたんですが、大学時代はけがをして食事の量と運動量のバランスが取れず、太っただけの時期がありました。けがから復帰して練習量を戻してから、体を絞っていったんです。今はうまくバランスが取れていると思います。
日本代表の合宿では、食事はビュッフェスタイル。たくさんあるおかずの中から自分でチョイスして食べる方式です。僕が好きなのは、焼き肉とウナギとポテトサラダ。それがある日は必ず食べます。
海外に遠征すると、食事の面で苦労します。向こうでは、基本はパン食。ご飯を食べる機会があまりないので。長期遠征を終えて帰ると、体重が2、3キロ落ちていることがほとんどです。
試合前は好物で
僕の体を作っているのは、ご飯なんだ──。そう強く感じています。好きなブランド米は特にありません。こだわりはないんです。日本のおいしいお米であれば、なんでもありがたく、おいしく、たくさんいただきます。みそ汁も大好きです。好きな具は、タマネギとジャガイモ。それを赤みそで。去年のワールドカップが日本で開催されて良かったと感じています。
最近はより多くの野菜を取ろうと思い、スムージーも飲むようにしています。小松菜、バナナ、リンゴ、蜂蜜、ヨーグルト、豆乳を入れて作ります。小松菜はいいですよね。おいしいです。
ワールドカップの時はホテルでの食事ばかりでしたから、期間中に何を食べたかほとんど覚えていません。ただ豊田スタジアムでの試合の前日は、うな丼を食べに出掛けました。
チーム(トヨタ自動車ヴェルブリッツ)にいる時も、大事な試合の前には食べることで気合を入れます。ルーティンは焼き肉かウナギ。栄養のバランスを考えることは大切ですけど、好きなものを食べるのも大事。そうやって気持ちを上げて試合に臨んでいます。(聞き手=菊地武顕)
ひめの・かずき 1994年愛知県生まれ。中学時代からラグビーを始め、春日丘高校ではU20日本代表に選出される。王者・帝京大を経て、2017年にトヨタ自動車ヴェルブリッツに。同年、トップリーグ新人賞とベストフィフティーンに輝いた。昨年のワールドカップではジャッカルを駆使し、ベスト8進出の立役者に。
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2020年08月08日

やくみつるさん(漫画家) 尽きない食への探求心
子どもの頃はとにかく偏食だったんですよ。どうにも苦手なものがたくさんあって、小学校の給食では大変な思いをしました。
当時、給食は残さず食べなさい、と。最後のひとかけらを食べ終えないうちは、給食の時間が終わっても、5時間目でも6時間目でも食べさせられたんですね。
苦手だった給食
とんかつのへりについている脂身が一番大変でした。チョビチョビと小さく切って、牛乳で流し込むという作業をするんです。当時はまだ脱脂粉乳もありました。脱脂粉乳は今もとやかく言われますが、私にとっては苦手なものを流し込むための貴重なツールでありました。牛乳ないしは脱脂粉乳が尽きてしまうと、もう手に負えません。どうしても脂身を全部は食べられなくて、ハンカチに包んで机の中に隠したことがあります。でも先生にばれてしまい、ひどく叱られました。
6時間目を終えても食べ切れなかった時は、一人で食器を給食室に返すことになります。子ども心にも罪なことをしているという意識がありますから、渡り廊下の人目につかない所に隠してしまうとか、あるいは返すにしても自分が代表して持って来ました的に振る舞うとか。今思えば、給食のおばさんは「残したのは君だろう」と分かっていたでしょうけど。
ところが長じて今は、嫌いなものがほとんどなくなりました。あれだけ嫌いだった脂も食べます。脂身と赤身が半分ずつある豚の角煮も、脂身だらけのチェーン店の牛丼も大好物です。
私は生まれ育った土地から移っていないので、年がら年中、小学校の同級生とつるんで飲んでいます。そのたび「畠山君(本名)、なんでも食べられるようになって良かったね」と言われます。ですから、残さず食べることを強要したあの頃の教育ってなんだったんだろうと感じたりもします。
海外、それもアフリカや南米の辺境に行くのが好きで、向こうの料理をなんでも食いたくなるんです。野生動物の肉とかネズミとか、むしろ好んで食べる。そんな人間になってしまっているんですね。
知識「披歴」が大事
食べたことのない食材への興味が強いので、国内にいても新顔の野菜などを見ると、それが何か知りたくなり、食べてみたくなります。レストランで、向学心のため聞いてしまうことも。「すみません。これは何という種類なんでしょう?」と。旅館でのご飯でも、あらかじめお品書きが置いてありますよね。その中でよく分からないものがあると、逐一尋ねます。
この間デパートの食堂で食事をした折、料理の中に珍しい野菜がありました。
実はその野菜は、直前に見たテレビで紹介されていたんですね。それで「これはプチヴェールではありませんか?」という聞き方をしたんです。そうしたらウエートレスの方が、厨房(ちゅうぼう)まで確認に行きました。申し訳ないなという気持ちもありますし、「プチヴェールについて聞くなんて、ただの客ではないな」と思わせるちょっとややこしい客になってしまったと、少し後悔もしました。
でも知らないものについては、聞かないと気が済まぬたちで。そうやって、物事を覚えていくわけですから。
食べ物に限らず、知識を定着させるには、繰り返し言ったり聞いたりすることが大事。自分で披歴して初めて、定着するんです。真摯(しんし)に食べ物に向き合うためには、必要なことだと思いませんか。(聞き手=菊地武顕)
やく・みつる 1959年東京都生まれ。早稲田大卒。81年、はた山ハッチ名義でデビュー。プロ野球や時事を風刺した4こま漫画で人気を博す。96年文藝春秋漫画賞受賞。本紙をはじめ、連載執筆多数。ラジオのコメンテーターとしても活躍する他、日本昆虫協会副会長、ユーキャン新語・流行語大賞選考委員も務める。
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2020年08月01日

小林麗菜さん(女優) 作り手と食材に感謝の心
出身は埼玉県の熊谷です。祖父母が畑や田んぼをやってましたので、食卓には常に自分の家で作った野菜とお米が出ていました。
幼少期には、祖父母の畑仕事を手伝っていました。見よう見まねで種をまいたり、草むしりをしたり。畑は家の目の前なので、夕方になると母と祖母と一緒に野菜を取りに行って、それを料理に使って食べていました。
母と祖母の料理はなんでもおいしかったんですが、特に印象に残っているのが祖母が作ってくれたズッキーニのカレー。畑から取ってきたズッキーニを入れたスープカレーなんです。夏になると、よく祖母におねだりしました。
米一粒も残さず
そういう暮らしでしたから、食に対して感謝の気持ちを持つように教えられました。「お米一粒一粒に神様が宿っているんだから、絶対に残しちゃ駄目よ」と。
私はお米が大好きでしたから、ありがたいという気持ちを持ちながらおいしくいただきました。おかずなしでも2杯くらいペロッと食べちゃうような子どもでした。いまだにその名残はあります。
18歳で上京しました。一人暮らしを始めると、なかなか食にまで気が回らなくなるものですね。簡単にパパッと食べられることを重視してしまいがちに。母と祖母がいかに栄養バランスを考えて、野菜をおいしく調理してくれていたのか、改めて分かりました。
食のリポートの仕事をするようになって、全国を回るようになりました。ありがたいことに47都道府県ほとんどに出掛け、おいしい食べ物をいただく経験をしています。「この食材がこういう料理に変身するんだ!」と、自分の知らない食の世界の広さに驚かされます。新たな扉を開けていただいたという感じです。
「どぶ汁」に驚き
一番印象に残っているのは、去年行った茨城県の大洗。どぶ汁と呼ばれるあんこう鍋のリポートですね。
実は私、この仕事をするまでは、食わず嫌いのところがあったんです。なじみのある食材は喜んでいただきますが、そうでない食材には手を出さない。食べもしないで「好きじゃない」と勝手に思い込む部分がありました。
その取材をするまで、アンコウを食べたことはありませんでした。なんかヌルッとしているじゃないですか。見た目からして無理だと思っていました。
どぶ汁という名前にも、ちょっと抵抗を感じましたし、大洗に行く前はどんなことになるかと少し不安でもありました。
アンコウを解体する様子から見せていただきました。私は実家で野菜の種をまき、水を与え、収穫するまでの過程を見て育ちました。でも魚をさばく様子を見たことはありません。海なし県の埼玉で育ったので、そういう文化に触れることがなかったんです。アンコウをさばくのをちょっと手伝わせていただき、新鮮な感動を受けました。生き物の命をいただくということに、改めて感謝の気持ちが湧いたんです。
初めて食べたどぶ汁は、とても滋味深く感じました。他のアンコウ料理も取材し、一つの食材でこんなにもたくさんの調理法があるんだと感動。食べ物の奥深さと面白さを知りました。
食材がたどってきた過程を意識して食べることが、大事だと思います。自分の口に入るまでに、どれだけの方々の苦労があったことか。作り手に感謝し、生き物に感謝し、しっかりと味わうよう心掛けています。(聞き手=菊地武顕)
こばやし・れいな 1995年埼玉県生まれ。2011年、映画「パラダイス・キス」でデビュー。「王様のブランチ」(TBS)のリポーター、「映画館へ行こう」(CSムービープラス)のメインMC、「ZAPPA」(J―WAVE)の月曜ナビゲーターも務める。映画「めぐみへの誓い」(21年公開予定)で金賢姫役を。
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2020年07月25日
食の履歴書アクセスランキング
1
青木愛さん(元シンクロナイズドスイミング日本代表) 引退で知った食べる喜び
食の連載コーナーでいうのもなんですが、現役時代は食べることが嫌でした。
私は体質的に痩せやすくて、もっと太らないといけないと指導されたんです。「食べるのもトレーニングだ」と言われました。
シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)では、脂肪がないと浮かずに沈んでしまうからです。また、見栄えの問題もあります。海外の選手は背が高く体もガッシリしています。体が貧相だといけない、もっと体を大きくしなさい、と言われ続けました。
そのため特に日本代表に入ってからは、味わって食べる時間もないし、味わっていたら量は入らない。急いでかき込む、流し込むといった感じでした。
つらかった合宿
1チームに8人の選手がいるんですが、痩せないといけない人、現状維持でいい人、太らないといけない人がいて。合宿で、痩せないといけない人と同じ部屋になったときは、お互いつらかったです。私はおにぎりや餅を寝るまで食べ続けないといけない。向こうはものすごくおなかがすいているのに、それを見ないといけない。
毎日、4500キロカロリーを取るように言われました。
それを全部揚げ物で取るんだったら、簡単だと思います。でも選手ですから、バランスよく食べないといけません。
炭水化物、脂質、タンパク質の三つを取った上で、カルシウムやビタミンも。自分で計算しながら、いろいろな食材を取って4500キロカロリー以上にするのは大変でした。
母は料理がすごく上手で、子どもの頃はご飯が楽しみだったんです。でもなにせ小学2年生の頃からシンクロを始めたので。
母もちゃんと競技をやるのなら食事から変えないといけないと考えて、私の好きなものや量を食べやすいように工夫して料理してくれたんですが、小学校の頃から量を食べないといけない生活だったんです。
ほっとする実家
代表の合宿が終わると、いったん実家に戻ります。母の料理を食べると「ああ、家はいいなあ」と実感します。ささ身を揚げたのが大好きで。母はささ身の中に梅やシソの葉を入れて巻いてくれるんです。さっぱりとした味なので、量を食べられる。エビフライやハンバーグ、コロッケといったベタな食べ物が好きなので、それも作ってくれます。もちろん脂質ばかりにならないように、他の栄養素も取りながら。
私の目標体重は59キロ。でもどんなに頑張っても56、57キロをうろうろしていました。実家で過ごすと、あっという間に53、54キロまで落ちてしまいます。次の合宿の前日は必死になって食べました。
食べることの楽しさに気付いたのは、23歳で引退してからです。好きな人と好きな時間に好きなものを好きな量だけ食べるのが、こんなにも楽しいだなんて。
私は、夜に友達と食事をすることが多いんですよね。その時に、ものすごい量を食べます。胃が大きくなってしまったんでしょう。朝起きてもおなかがすいてなくて、夜までの間に、おやつを食べるくらいで間に合います。間食はお菓子ではなく、梅干し、納豆、豆腐、漬物などです。
もともとおばあちゃんが好むようなものが好きだったんです。ポテトチップスよりも酢昆布が好きな子どもでした。好きなものを食べられる生活に感謝しています。(聞き手=菊地武顕)
あおき・あい 1985年京都府生まれ。中学2年から井村雅代氏に師事する。2005年の世界水泳で日本代表に初選出されたが、肩のけがで離脱。翌年のワールドカップに出場し、チーム種目で銀メダル。08年の北京五輪ではチーム種目で5位入賞。五輪後に引退し、メディア出演を通じてスポーツ振興に取り組んでいる。
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2021年01月09日

2
若村麻由美さん(女優) 食への感謝いつも忘れず
私は20歳の時に、ドラマ「はっさい先生」でデビューしました。NHK大阪の制作でしたので、9カ月間を大阪で過ごしました。
東京出身の私は、関東と関西の味の違いに驚かされました。大阪の味を一番強く感じたのは、きつねうどん。しょうゆベースの濃い色のうどんで育ってきましたから、見た瞬間に「透明なんだけど、味は付いているのかしら?」と思ったんです。でも食べてみたら、おだしがしっかりと出ていて。なんておいしいんだろうと。
だしの違い驚き
今でこそ東京でも関西風のうどんを出すお店はたくさんありますが、私は大阪で初めて食べたわけです。今ほど東西の交流が盛んではなかったんですね。
今度の映画「みをつくし料理帖」でも、関東と関西の違い、当時の言い方をすれば江戸と上方の味わい方の違いが描かれています。上方から江戸に移ってきた主人公・澪の料理は、最初は評判がよくありませんでした。それで悩んだ末、上方の料理を江戸の人たちに受け入れてもらえるような工夫を凝らします。
映画の中では、食材へのこだわりも描かれています。昆布一つ取っても3種類を取り寄せておだしを取ります。私が演じる芳は夫の形見のかんざしを売り、それで得たお金で、良いかつお節を買います。みりんも最良のものを求めます。私はそのみりんを一口味見するシーンがありますが、本当に味も香りも良い。そのみりんと出合ったからこそ誕生した料理が出てきます。
丹精して作られた食材が、日本料理をおいしくしてくれているんだと感じさせられました。
それで思い出したのが、山にいた時のこと。私は小学5、6年生の2年間、山村留学といって、信州の山の中の農家にホームステイをしました。住民票を移して、向こうの小学校に通ったんです。
その家にはすごく立派な栗の木がありました。落ちたイガを、子どもながらに靴で開いて栗を取り出して、皮を小刀でむいたんです。火を通すのが待ちきれなくて、朝、拾ってすぐに生で食べました。
「食べ過ぎては駄目。口に草が生えるよ」と言われました。それで1粒か2粒だけ。栗って結構あくがあるので、甘味とともにほのかな青臭さを感じました。
野菜やお米を作る手伝いもしました。私たち山村留学の子どものために用意された田んぼもありました。その田んぼでは、全部手作業なんです。田植えをしてからずっと大事に育てた稲を、鎌で刈っていき、千歯こきでもみを外してから選別して、木臼でもみ殻を取りました。
信州ですからソバ畑もありまして、昔ながらに手刈りして棒でたたいて実を外しました。
思い出残るそば
ホームステイ先のお父さんは山にキジを撃ちに行き、お母さんはそば粉を打ってそばを作ってくれました。稲刈りが終わった後の田んぼで収穫祭をする時、キジのだしでおそばを食べたんです。夕日を見ながら。汗水たらした稲刈りの後だから、余計においしかったんでしょう。今でもあの味を超えるそばに出合えていません。
そういう経験をしたことで、自給自足できるようになりたいと思い、農法もいろいろ調べました。
気が付けば、この年まで何もしないで、知識だけ。せいぜいハーブを育てて料理に使うくらいです。でも食に携わる農家の方々への感謝だけは、いくつになっても忘れません。(聞き手=菊地武顕)
わかむら・まゆみ 東京都生まれ。1987年、NHK連続テレビ小説「はっさい先生」でデビュー。近年は舞台での活躍も顕著で、2017年度と19年度に読売演劇大賞優秀女優賞、18年度に菊田一夫演劇賞。主演映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」公開中。「みをつくし料理帖」10月16日公開。朝ドラ「おちょやん」に出演予定。
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2020年09月19日

3
大河内志保さん(タレント) おいしく、楽しくが大切
祖母がとても料理上手だったんです。会社を経営していた祖父は、大病を患いました。社長ですから取引先の方々を接待しないといけませんが、それを全部、自宅でやったんです。祖母はまるで料亭の懐石料理のように、次々に小皿で料理を出していました。
普段の料理も、祖父の健康を考えて、手間暇をかけて作っていました。大きな木のたるで、何十個ものハクサイを漬けていました。イカの塩辛もユズ風味のものを、たんまり手作り。カレーは無水鍋を使って、水を入れずに野菜の水分だけで作っていました。食材も、無添加、無農薬のもの。祖父が体を悪くする前は銀座の「やす幸」が好きだったので、祖母は店に通って勉強し、同じ味のおでんを作って祖父に出したり。どこで知ったのか、サラダにツブ貝をのせ、めんたいことマヨネーズをあえたドレッシングを掛けたり。
母は料理は得意ではありませんが、家族の健康を考えてくれていました。ファストフードや市販のジュースは禁止。インスタント食品も嫌っていました。
子どもだけで親戚の家に遊びに行くときは、叔母に根回しまでしていたんです。真夏に大阪に行ったとき。炎天下で「今日はお母さんがいないからジュースを飲める」と思っていたら、ちゃんとお茶の水筒が用意されていてがっかり。
高校生になって自分でアルバイトをしました。そのお金を使って、母に注意されることもなく好きなものを食べる。それがうれしかったですね。
祖母と母が先生
でも母のおかげで、病気らしい病気にかからずに済んだんだと思います。1人暮らしをするようになってからも、体に良くないものは取らないというのが、自分の中で常識になっていましたから。私の前の夫はスポーツ選手でしたので、私は調理師免許を取って本格的に健康を意識した調理をするようになりました。その基礎となったのが、祖母や母の教えだと感じています。
私は外食が大好きです。おいしい料理を食べながら、楽しく会話をするというのが。でも外食だと、おいしいだけにいっぱい食べ、カロリーオーバーしてしまいます。
その調整のため、家ではおいしいけど太らない食事をするように工夫しています。例えばタイカレーを作るときは、ココナツミルクの代わりに豆乳を使うとか。外食と家でプラスマイナスゼロになるようにする。そうすれば安心して楽しく外食できますから。
体に良くておいしく食べられる料理、楽しく食べられる料理が大事です。ダイエットをしているからサラダばっかりという、まるでウサギのような食事をしている人がいます。何の楽しみも感じない食事では、餌みたいじゃないですか。食彩が豊かでかみ応えもある、五感で味わう献立が理想です。
弱火で簡単料理
私が編み出したメソッドは、弱火料理。鍋に少量の油をひき、少々塩を振るんです。そこに野菜、キャベツでもタマネギでもピーマンでもいいんですが、それを敷いてふたをして火をつけます。弱火です。ふたが汗をかきだしたら火を止める。そうすると余熱でじんわりと火が通るんです。
これが野菜を一番おいしく食べる方法。野菜の上に豚肉の薄切りをのせたり、とろけるチーズをのせたり、いろいろ応用もききます。簡単だし、光熱費も安く済み、洗い物も楽。健康にうるさい母に教えたら、この方法ばかりやっていますよ。(聞き手=菊地武顕)
おおこうち・しほ 1971年東京都生まれ。90年、日本航空キャンペーンガールに。タレント活動と並行して食や健康について学び、日本とイタリアでの調理師免許、イタリアソムリエ、介護士2級などの資格を持つ。先月、『人を輝かせる覚悟 「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を上梓。
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2020年12月26日

4
麻丘めぐみさん(歌手・女優) 故郷で知った「旬の魅力」
生まれたのは大分県の別府ですが、父の仕事の都合で半年で大阪に移りました。別府生まれの大阪育ちで、一番長く住んでいるのが東京ということになります。
大阪での食の記憶といえば、牛肉ですね。安かったんですよ。日常の食卓に、優しいお値段で並べることができました。しょっちゅうすき焼きをしていましたね。たこ焼き鉄板があって、昼とかは自分でたこ焼きを作ったり、お好み焼きを作ったりして食べました。
あまり外食というのはしませんでしたね。時々、何かごほうびとして、デパートの一番上の食堂に連れて行ってもらいました。私は大丸百貨店のちらしのモデルをしていたんです。大人のモデルが藤純子さん(当時)、子どものモデルが私。大丸の食堂で、その頃に出始めたナポリタンを食べるのが、子ども心にうれしかったです。
大分の良さ実感
10年以上前、母が故郷の別府に戻ったんです。それを機に、私も年に何回か行くようになりました。赤ちゃんの頃しか住んでいませんから、別府のことは何も覚えていませんでした。母に会いに行くようになって、大分県はなんて素晴らしい所だろうと知りました。
食べ物についても、海の幸、山の幸に恵まれています。
海なら関サバ、関アジ。瀬戸内海と太平洋の境界の激流を泳ぐので、筋肉が鍛えられてよく締まっているんです。しっかりとした魚の味がしてうれしいですよね。ただし九州の甘いしょうゆは苦手なので、店の人に関東風の辛口しょうゆをお願いしたり、塩で食べたりしています。
フグもおいしいですよね。旬の時期にだけ出るお店があって、肝まで食べられるんです。それがおいしくって。関サバ、関アジにしてもフグにしても、旬って大切だと感じています。
肉なら豊後牛。うちの親戚に頼まれ、豊後牛を作る過程を紹介するビデオに出演したんですよ。それで、農家がどれだけ苦労をして育てているのかを知りました。豊後牛って東京ではめったに見かけませんよね。あまりに手間暇がかかるので生産量が多くなく、ほとんどが県内で消費されてしまうのだそうです。私たちはただ「おいしい」と食べるだけですが、その裏にはどれだけの苦労があるのか。研究と努力があるのか。感謝の気持ちでいっぱいです。
野菜の味に違い
大分県は、野菜と果物もおいしいですよ。東京のスーパーで買うのとは、味がまったく違うんです。私たちが子どもの頃に味わった臭いと味がします。葉っぱ類なら、本当に葉っぱらしい青臭さ、土臭さ。ピーマンも、いかにも子どもが嫌うような強烈な臭い。
母に会いに行っているのか、食べもの目当てなのか、分からなくなってしまったほどです。
別府に通うようになったおかげで、旬の時期に取った新鮮な野菜と果物のおいしさを知りました。それで普段、東京にいる時でも、なるべく良いものを食べたいと思っています。幸い、近くにとても良い八百屋さんがあるので、そこで買うように心掛けています。
地方に旅した時は、道の駅に行くのが楽しみになりました。農家の顔写真が貼ってあるじゃないですか。それを見ると、信頼して買いますよね。
母をみとった後も別府に通い、親戚とおいしいものを食べたり温泉に入ったりして楽しんでいます。別府のおかげで、生活がとても豊かになった気がします。(聞き手=菊地武顕)
あさおか・めぐみ 1955年大分県生まれ。72年に「芽生え」で歌手デビュー。翌年の「わたしの彼は左きき」でトップアイドルに。結婚を機に引退したが、83年に復帰し女優業を中心に活動。今年、自選ベストアルバム「Premium BEST」を発売。29年ぶりの新曲「フォーエバースマイル」をリリース。
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2020年12月05日

5
朝井リョウさん(作家) 離れて知った母の偉大さ
私が生まれ育った岐阜は、海のない県。川魚を食べる文化があります。夏の間はヤナという、河原に竹を組んで畳のようにした所で、アユを食べさせてくれる店が出ます。塩焼きだったり甘露煮だったり、いろんな食べ方を楽しめるんです。そこに両親に連れて行ってもらい、アユを食べたことをよく覚えています。魚があまり得意ではなかったんですが、その経験もあって今では大好きです。上京してからは、アユをはじめとする川魚に出合う機会が少なくて、ヤナに出掛けたのはすごく貴重な体験だったんだなと思います。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
朝の電車に恐怖
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
絶品焼き鮎醤油
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
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2020年12月19日

6
姫野和樹さん(ラグビー選手) おいしいご飯が「力の源」
高校(愛知・春日丘高校)の時は、「食べることもトレーニングだ。食事時間も練習中だ」と常々言われました。寮での食事では、ご飯を8杯くらい食べていましたね。食べられない子もいて、しんどそうでした。残って時間をかけて食べていましたが、僕は食べられる方なんで平気でした。
大学は1日5食
大学(帝京大学)の時の寮生活でも食事をたくさん取ることは徹底されていて、朝からご飯を450グラムは食べるように指導されました。一日に5食も食べていたんですが、その都度、ご飯は最低でも450グラム。僕はいつも700グラム以上食べていましたけど。
高校の時と比べれば、ご飯以外の食事についても工夫されていたように思います。サラダもよく食べていました。栄養のバランスが取れていたと思います。
1日の最後、5食目は夜食の鍋でした。グループが決まっていて、そのグループごとに鍋を作って皆で突っつくんです。具はちゃんと準備されていて、自分たちでその具を鍋に盛り付けて煮ました。
おやつは食べませんでした。好きじゃないんです。僕の好物は白いご飯。それをたっぷりと食べていましたから、おやつを食べる必要がなかったんです。
おかげでしっかりと体づくりができました。高校入学の時点で、身長は今(187センチ)と一緒。でも体重は90キロくらいしかありませんでした。それが3年の時には100キロちょっとまでいきました。大学でも10キロほど増えました。今は108キロあります。
とにかく体を大きくしようと一生懸命食べたんですが、大学時代はけがをして食事の量と運動量のバランスが取れず、太っただけの時期がありました。けがから復帰して練習量を戻してから、体を絞っていったんです。今はうまくバランスが取れていると思います。
日本代表の合宿では、食事はビュッフェスタイル。たくさんあるおかずの中から自分でチョイスして食べる方式です。僕が好きなのは、焼き肉とウナギとポテトサラダ。それがある日は必ず食べます。
海外に遠征すると、食事の面で苦労します。向こうでは、基本はパン食。ご飯を食べる機会があまりないので。長期遠征を終えて帰ると、体重が2、3キロ落ちていることがほとんどです。
試合前は好物で
僕の体を作っているのは、ご飯なんだ──。そう強く感じています。好きなブランド米は特にありません。こだわりはないんです。日本のおいしいお米であれば、なんでもありがたく、おいしく、たくさんいただきます。みそ汁も大好きです。好きな具は、タマネギとジャガイモ。それを赤みそで。去年のワールドカップが日本で開催されて良かったと感じています。
最近はより多くの野菜を取ろうと思い、スムージーも飲むようにしています。小松菜、バナナ、リンゴ、蜂蜜、ヨーグルト、豆乳を入れて作ります。小松菜はいいですよね。おいしいです。
ワールドカップの時はホテルでの食事ばかりでしたから、期間中に何を食べたかほとんど覚えていません。ただ豊田スタジアムでの試合の前日は、うな丼を食べに出掛けました。
チーム(トヨタ自動車ヴェルブリッツ)にいる時も、大事な試合の前には食べることで気合を入れます。ルーティンは焼き肉かウナギ。栄養のバランスを考えることは大切ですけど、好きなものを食べるのも大事。そうやって気持ちを上げて試合に臨んでいます。(聞き手=菊地武顕)
ひめの・かずき 1994年愛知県生まれ。中学時代からラグビーを始め、春日丘高校ではU20日本代表に選出される。王者・帝京大を経て、2017年にトヨタ自動車ヴェルブリッツに。同年、トップリーグ新人賞とベストフィフティーンに輝いた。昨年のワールドカップではジャッカルを駆使し、ベスト8進出の立役者に。
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2020年08月08日

7
秋元順子さん(歌手) ツアーで楽しむ各地の味
12年前にリリースした「愛のままで…」がヒットしたおかげで、紅白歌合戦に2回ほど出場させていただきました。
最初の出場の後に、全国ツアーをスタートさせたんですね。その年に80公演、翌年、翌々年を合わせると200公演くらい。各地を旅することができました。
その時に、おいしい料理に出合えて。終演後にメンバーやスタッフさんと一緒にいただくわけですから、ことさらにおいしく感じることができました。
感動してばかり
中でも感動したのは、まず北海道の魚介類。そして野菜と果物。ジャガイモ、アスパラガス、トマト、ナガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロン……。驚いたのはリンゴですね。北海道のリンゴってこんなにおいしいんだと初めて知りました。
もっと驚いたのは、オホーツク海に面した紋別でいただいたステーキ。北海道って、肉もこんなにおいしいんだと、目からうろこが落ちました。
和歌山で食べたカワハギの肝も忘れられません。東京では、新鮮な肝はまだ出してもらえない頃でした。産地ならではの取れたての味をいただいたわけです。それとノドグロにも心を奪われました。これは半身を刺し身で、半身を塩焼きにしていただきました。
高知では、塩タタキにびっくり。それまで私は、カツオのタタキはポン酢でいただいていたんです。塩で食べるとこんなにおいしいだなんて。聞けば、その塩は高知の海水から作ったものだそうです。土地のもの同士、合うんですね。
熊本では、桜肉専門店で馬刺しを。私が生まれ育った東京都江東区には、有名な桜鍋店があります。小学校に入る前から父に連れられて行っていたので、桜肉には親しみがあります。熊本の馬刺しもおいしかったですね。桜肉は、生で食べると喉にとてもいいんです。そういうこともあって、たくさんいただきました。
もし「愛のままで…」がなかったなら味わうことのなかったもの。それをたくさん食べられたわけです。改めて、曲に携わってくださった方々に感謝の気持ちを抱いたツアーでした。
取り寄せで幸せ
食いしん坊の私は、各地で出合ったおいしいものは、自宅に取り寄せられるかどうか必ずチェックします。もちろん現地で食べる方がおいしいのは承知ですが、家にいる時も少しでもおいしいものを家族と食べられれば幸せです。
また各地を回ることで、友人・知人にも恵まれました。
米は、新潟県や富山県から送ってもらっています。友人の家の近くにある米屋さんが、東京では買えない米を扱っているとのことで、それをいただきました。参りました。完全にはまりました。
私はご飯が残ると、すぐにおにぎりにします。中身は梅干しでもサケでもいいし、何も入れずに塩だけでもいい。冷めたらそれを冷蔵庫に入れて、食べたいときに電子レンジで温めます。
大好きな北海道の野菜を送ってくれる方がいます。おかげで常においしい野菜に恵まれています。
私はサラダのように冷たい野菜は消化しにくいので、蒸したり、煮たりしていただいています。根のもの、茎のもの、葉のもの、実のもの。これらをバランスよく食べるように心掛けています。
食べるものが、体と人格をつくると聞いたことがあります。質の高い食材をいただいているおかげで、今も元気に歌っています。(聞き手=菊地武顕)
あきもと・じゅんこ 1947年東京都生まれ。2004年、インディーズで出した「マディソン郡の恋」が有線で人気を博し、異例のヒットとなった。翌年にメジャーデビュー。3曲目の「愛のままで…」で紅白歌合戦に出場。61歳での初出場は、女性歌手として歴代最高齢。今年、北海道紋別市PR大使に就任。
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2020年12月12日

8
野口五郎さん(歌手) 地元のみそが「元気の源」
僕はみそにはこだわりがあります。生まれ育ったのは岐阜県で、濃厚な赤みそなんですね。八丁みそですけど、本場・岡崎のとはちょっと違います。岡崎と名古屋でも違いますし、うちの方は名古屋のものに近い感じでした。
家から300メートルくらいの所にみそとしょうゆを造る工場があり、そこで買っていたんです。いつも外から見たり、工場の中から漂う匂いをかいだりしていました。母に「買ってきて」と言われて、みそを入れる容器や1升瓶を持って買いに行きました。
食の違いに驚き
歌手になるため中学の時に東京に出ました。みそ汁を飲んで「なに、これ?」とびっくりしました。全然違うんですよ、みそが。
僕にとってみそ汁とは、おいしいもの、ほっとするもの、癒やされるものでした。でも東京に出てからは、そのように感じることができなかった。僕に言わせると、東京のみそ汁はお吸い物ですね。
僕が一番好きなみそ汁の具は、ネギ。緑の部分が煮込まれてシナーッとなっているのがいいんです。あとは絹ごし豆腐ですね。
東京ではネギにも驚きました。白い部分がずいぶんと長い。実家の方のネギは緑の部分が長いんですよ。といっても、京都の九条ネギのように細いものではありません。太さは深谷ネギと同じくらい。でも深谷ネギとは違って、緑の部分がかなり長いんです。
同じ日本でも、地域によってみそやネギがこんなに違うんだとびっくりしたことを覚えています。
上京して何年かたった頃のことでしょうか。ヒット曲に恵まれて、コンサートで名古屋へ行く機会を頂きました。
名古屋に行くのは本当に久しぶりでした。名物のみそ煮込みうどんを食べたら、うれしくなって。そのうどんに使われてるみそこそ、僕が求めている味なんです。一口食べて「これだーっ」と。
それで止まらなくなってしまって。リハーサルの合間に食べ、仕事が一段落して食べ、夜に食べ、帰る間際に食べ……結局6杯も食べてしまいました。
結婚してからは、奥さん(タレントの三井ゆりさん)に岐阜のみそでみそ汁を作ってもらっています。みその味と匂いが強いですから、だしもそれに負けないものが必要になるじゃないですか。九州のあごだしを取り寄せています。赤みそは見た目が強烈ですから、どうしても薄く作ってしまいがち。「思い切って濃くして」と注文しちゃいます(笑)。
こだわりの七味
みそ汁には、七味唐辛子を掛けていただきます。浅草でおいしい七味唐辛子に出合ってから、そちらにも凝るようになって。店で自分で調合することができるんです。いつも行くたびに「麻の実抜き、さんしょう多め」にブレンドして買っています。これじゃなきゃ駄目。赤みそには、さんしょうのピリッとした味が欠かせません。
みそ汁といえば思い出すのが、小学校の頃。学校から帰ると、残りご飯にみそ汁を掛けて食べたものです。がーっとかきこんで、野球に行きました。食べるのに時間がかかると、友達から「何やってるんだ」と怒られる。ものすごいスピードで食べて、家を飛び出しました。時々家にご飯が残っていないことがあって、そんな時は力が入らずに三振でした(笑)。
今はジャーでいつも保温になっていますよね。今度、保温しないで冷や飯にして、みそ汁を掛けて食べてみよう。童心に帰って、そんなことを考えています。(聞き手=菊池武顕)
のぐち・ごろう 1956年岐阜県生まれ。71年に「博多みれん」でデビュー。「青いリンゴ」のヒットで一躍スターに。今年デビュー50周年を迎え、コブクロ・小渕健太郎氏作詞・作曲の記念シングル「光の道」とメモリアルアルバムをリリース。8月30日~9月5日、東京「COTTON CLUB」でライブ開催予定。
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2020年08月22日

9
新沼謙治さん(歌手) 大所帯支えてくれた野菜
僕が生まれ育ったのは、岩手県の大船渡。大家族だった上、子どもの頃は家族以外の人も僕の家に寝泊りしていたんですよ。少ない時で12人、多い時は16人くらいが一緒に住んでいました。
2升炊きの釜が二つもあって、それでご飯を炊いていました。母親と祖母は毎朝早く起きて、おかずをテーブルいっぱいに並べていました。料理の種類は少なくて、量だけがものすごく多かったように覚えています。
それだけの人数のおかずを作るため、畑を借りて野菜を作っていました。祖父と母がせっせと畑をやっていましたね。つまり母は働き詰めだったわけです。
僕も手伝わされました。畑に行くと、母が「メロン、食うか?」と声を掛けてくれました。実際はウリだったんですけど。
食卓では、よくキュウリを食べた記憶があります。でっかいボウルにたっぷりと水を入れて、その中に畑で取ったキュウリを斜めに切って入れていました。皆の前に小皿があり、キュウリにみそをつけて食べていました。
思い出のサンマ
大船渡には漁港がありますから、肉よりも魚です。サンマとイワシが多かったですね。
僕が好きだったのは、サンマの塩炊き。鍋に1センチくらい水を入れて、千切りにしたダイコンを大量に入れるんです。その上に、ブツ切りにしたサンマを載せて、さらにダイコンを載せて煮ます。調味料は塩だけ。サンマは頭や尻尾、はらわたを取らずに、5センチくらいに切りました。サンマがおいしいだけでなく、魚の匂いと味が染み込んだダイコンもおいしかったなあ。
子どもの頃はよく釣りに行きました。学校から帰ると、友達と一緒に自転車で海に。魚市場ではいろんな魚が水揚げされ、商売にならないのは海に捨てるんですよね。その魚を食べに、魚が寄って来る。岸壁のそばにサバが集まる場所があり、そこにさおを入れるとまさに入れ食い状態。サバを釣っているところに、カツオ漁の漁船が帰ってきたりします。漁船に乗ってる意気の良いお兄さんはサバを釣って喜んでいる僕たちを見て、「おーい、おめだち。持って行ってくれー」と、カツオを投げてくるんですよ。大量のサバと丸々1匹のカツオを持って家に帰りました。
好き嫌いがなく育ち、大人になってからもガツガツと食べていました。僕は早食いです。というのも僕は歌手になる前、左官屋で働いていました。昼飯をゆっくりと食べていると、親方に叱られました。「いつまでも食ってるんじゃない」「早く食って、壁塗りの練習をしろ」と。見習いだった僕は、皆が食べている間に練習をしないと駄目だったんです。
若い頃は体調のことなど考えずに、食べたいものを食べていればよかったんですが、50歳を超えた頃から変わりました。
良い喉に不可欠
最近は野菜をたくさん取るように心掛けています。レタス、トマト、アボカドは毎日食べます。外出の時は、野菜を持ち歩いています。ゴルフの合間に食べ、ロケ弁を食べる時にも取り出して食べる。というのも、野菜を食べると喉の調子がいいんです。野菜の水分のおかげで、喉が潤います。
喉の調子を良くしておくと、伸び伸び声が出るので気持ちがいい。そういう日はお客さんの盛り上がり方も違うんです。ステージから見てて、すぐ分かります。新型コロナウイルスの影響で歌う機会が減りましたが、喉の調子は整えておきたいので、野菜は欠かせません。(聞き手=菊地武顕)
にいぬま・けんじ 1956年岩手県生まれ。オーディション番組「スター誕生」出場をきっかけに、76年に「おもいで岬」でデビュー。続く「嫁に来ないか」が大ヒットし、新人賞を総なめにした。その後も「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」とヒット曲を出し続ける。「地図のない旅」好評発売中。
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2020年10月10日

10
廣田遥さん(元トランポリン日本代表) 試合前白米パワー不可欠
トランポリンという競技では、体重が1キロでも増えると、技に大きな影響が出てしまいます。
献身的だった母
食事は、母が研究を重ねて作ってくれました。体重は増えないように、でも筋肉はちゃんと維持するように。これを両立させるのは大変だったと思います。
菓子は全て母の手作りでした。ケーキは、砂糖の量や脂肪分をきっちり計測して作ってくれました。ポテトチップスも、ジャガイモを薄くスライスして揚げて、塩をまぶしてくれました。油も、米油を使うなど工夫して。食材も、添加物の少ないものを選んでくれていました。
でも制限ばかりですと、ストレスで大変なことになります。それで、試合の終わった日だけは、好きなだけ甘い物を食べていいと決めていました。
父も母も魚が大好きなので、ご飯の時には魚がよく並びました。
後は鶏のムネ肉。低脂肪高タンパクな上に、疲労が取れるので。ささ身を食べていた時期もあったんですが、ムネ肉に疲労物質を取ってくれる成分が豊富に入っていると聞き、変えたんです。ありがたかったです。パサパサしているささ身より、ムネ肉の方がおいしいですから。それと、ビタミンB群を取るために豚肉も食べました。
食事の時は、まずボウルいっぱいの生野菜のサラダをいただきます。レタスとトマト、それに旬の野菜をたっぷり食べて、それからタンパク質、ご飯の順です。
海外遠征には、レトルトのご飯と乾燥みそ汁を持って行きました。
オリンピックでは、選手村で食事をいただきます。ご飯も用意されていましたが、パサパサとしていたんです。
私は日本の米が大好き。試合の前には白米を食べないと力が出ない、集中できない気がするんです。レトルトのご飯を温めておにぎりを作って食べました。
素材生かし切る
現役を引退してからも食材にはこだわっています。また、オーガニックフードマイスターの資格を取るため勉強した時に、農家の苦労を学び、野菜は「捨てる部分は何もない」という気持ちで料理をしています。
家の近くにJAの直売所があるんです。地元で取れた新鮮な野菜が手に入るので、とても助かっています。
私の夫の実家は、マグロの卸をやっています。夫は、大阪の中央卸売場でマグロ専門の仲卸業としての仕事を継ぎました。
それまでは食べる専門でしたが、結婚を機に、魚のことを学び魚料理アドバイザーやシーフードマイスターの資格を取りました。
マグロには鉄分をはじめとした栄養素がたくさんあります。夫はアメリカンフットボール選手でしたので、ワコールの陸上部や、京都大学、立命館大学のアメリカンフットボール部などに、低脂肪で高タンパク質な食材として提供しています。多くのアスリートや子どもらの健康的な体づくりのサポートに取り組んでいます。
魚市場に大きなマグロが並んでいるのを見て、食材の命をいただくありがたみを感じるようになりました。マグロの命を全部いただくという意味で、食べられない部分を乾燥粉砕して肥料にする試みを始めました。サステナブル(持続可能)な生活が唱えられていますよね。マグロを使った肥料で農家に野菜を作っていただければ、うれしいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
ひろた・はるか 1984年、大阪府生まれ。12歳から本格的にトランポリン競技を始める。高校2年だった2001年から、全日本選手権で10連覇を達成。04年アテネ五輪で7位入賞。08年北京五輪で12位。11年に引退後は、メディア出演、講演活動、トランポリン教室などで活躍。箕面トランポリン大使でもある。
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2020年11月14日
