「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第16回「十勝開拓の祖・依田勉三」~今日の食料基地の礎築く

NHK連続テレビ小説「なつぞら」場面写真 (C)NHK

  戦争孤児のなつが引き取られた先の牧場主・柴田泰樹(草刈正雄)は、1902(明治35)年に富山県から入植したという設定です。その入植を19年さかのぼる1883(明治16)年、泰樹の尊敬する依田勉三が人跡未踏の帯広で開拓を始めました。「十勝開拓の祖」と今でも地元で敬われる人物です。

  勉三は1853(嘉永6)年5月、伊豆の大沢村(今の静岡県松崎町)の豪農の家に生まれました。東京の英語塾を経て慶應義塾に入りますが、胃を病み学業半ばで帰郷します。勉三が北海道開拓の志を立てたのは慶応時代といわれ、道内踏査を経て開墾会社・晩成社を設立したのは1882(明治15)年1月でした。社名は、開拓は短期間で成就しないと考え、大器晩成からとりました。

  翌年春、勉三は13戸27人とともに5月20日、下帯広村オベリベリ(現在の帯広市東9条南5丁目付近)で開墾に着手しました。ところが野火、ひでり、夏には蚊やブヨで作業ができない日が続きました。「ここは人が住むところではない」と、3戸4人が脱走した3日後の8月4日、南の空が見る間に真っ黒になりました。イナゴの大群です。イナゴは大地を埋め尽くし、農作物はすべて食い尽くされました。

  晩成社は当初、15年間で1万ヘクタールを開墾する目標を立てましたが、開拓は初年度からつまずき、食料にも事欠くありさまでした。勉三は入植4年目に当縁村オイカマナイ(現在の大樹町生花苗)で農牧場を開き、乳牛を飼い、バターを作りました。「マルセイバタ」です。しかし、これも長くは続かず中止のやむなきに至りました。

  晩成社の事業は多くが不首尾に終わり、会社は1932(昭和7)年に伊豆で解散しました。しかし、十勝が今日、日本の食料基地として大発展したのは勉三率いる晩成社が艱難(かんなん)辛苦をものともせず、先駆的役割を果たしたからです。「十勝の産業の源流を探るならば、そのほとんどが晩成社に発している」(帯広市史)とされます。

  勉三は1925(大正14)年12月に亡くなりました。その功績を後世に残そうと、運動したのが中島武市です。
 
帯広市内の中島公園にある依田勉三の銅像
帯広市内の中島公園にある依田勉三の銅像

 武市は岐阜県出身で大正時代に来道。帯広で古着商で成功し、後に帯広商工会議所会頭、帯広市議会議長などを務めます。1941(昭和16)年、帯広神社向かいに勉三の銅像を建てますが、立像は1910(明治43)年の途別水田50町歩完成記念写真を基に作製されました。帯広市長は武市の篤志に応え、ここを中島公園と命名しました。

  勉三の銅像は戦時中、金属応召で姿を消しましたが、武市は1951(昭和26)年、元の場所に銅像再建を果たし、除幕式も行いました。

 ちなみに、武市の孫は名前を「美雪」といい、長じて我が国を代表するシンガソングライターとなる中島みゆきさんです。
(農業ジャーナリスト・神奈川透)
 
 
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