「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第21回(最終回) 「太田寛一の挑戦」(下)~危機を乗り越えブランド確立

NHK連続テレビ小説「なつぞら」場面写真 (C)NHK

 欧州の乳業事情視察から帰国した太田寛一(士幌町農協組合長)は1966(昭和41)年、秘密裏に十勝8農協(士幌町、鹿追町、音更町、上士幌町、川西、幕別町、豊頃町、中札内村)に農民工場建設を呼びかけました。

 欧州の乳製品工場は、多くを協同組合が運営し、酪農経営の安定に貢献していました。日本ではこの年、値段の安いバターや脱脂粉乳向けの生乳を価格補てんする不足払い制度がスタートしましたが、まだまだ酪農家は貧しく、北海道でさえ1戸あたり乳牛飼養頭数は数頭の規模。今日的な酪農専業経営にほど遠い状況でした。

 太田は、欧州をモデルに、酪農家自らが乳業経営を行うことで、酪農経営の長期安定を図ろうと考えました。ところが、国や大手乳業は太田の考えに反対でした。雪印乳業、明治乳業、森永乳業の大手3社は十勝管内ですでに5工場を稼働させており、新たに農民工場が加われば3社の集乳地盤が侵されることになります。

 当時、太田が構想した工場予定地の音更町では、乳業工場の建設は道知事に届け出るだけで可能でした。これは同町が「高度集約酪農地域」外だったからです。集約酪農地域に指定されると、国の濃密な支援が得られる一方、工場などの建設には知事の認可が必要になります。十勝管内では大樹、清水、浦幌の3町のみが集約酪農地域で、残る市町村は指定外でした。この「集約酪農地域」の問題は「なつぞら」でも取り上げられました。

 こうした中、1967(昭和42)年2月3日、十勝全市町村長宛に「集約酪農地域について意見を聞きたい」と、道からの親展速達が届きました。十勝全域を集約酪農地域に指定する意図で送付されたものであり、返答は2日後の2月5日という極めて性急な内容でした。

 太田は翌4日、十勝農協組合長会議を緊急開催し、この日のうちに工場新設を十勝支庁に届け出ることを決めました。4日は土曜日でしたが、届け出はぎりぎりで受理され、農民工場が日の目をみることになったのです。

 太田は新会社の社長に就任したものの、乳製品工場の建設運営に携わったことはありません。そこで、ホクレンや全国酪農業協同組合連合会に専門家の派遣を要請、全面的な協力を得ることに成功します。

 
    北海道協同乳業の工場予定地(よつ葉乳業提供)
北海道協同乳業の工場予定地(よつ葉乳業提供)
くわ入れする太田寛一(よつ葉乳業提供)
くわ入れする太田寛一(よつ葉乳業提供)
こうして北海道協同乳業は建設届け出から3カ月後に着工、わずか6カ月の工期で完工し、この年の11月9日にバター3トンと脱脂粉乳15トンを初出荷することができました。

 ところが創業2年目の1968(昭和43)年、乳製品の需給緩和で過剰在庫を抱え、倒産寸前に追い込まれました。窮地を救ったのはホクレンや十勝8農協です。増資など強力な支援を行い、危機を脱した北海道協同乳業は全国に先駆け、紙パックによる市乳の販売、第二乳製品工場の建設など、次代を見据えた積極策を次々に打ち出し、農民工場としての基盤を固めていきました。

 同社はその後、北海道農協乳業を経て社名をブランド名の「よつ葉乳業」に変更、今日に至っています。いまでは日本一の農協系乳業として盤石な経営基盤を築きあげました。

 その基は創業者・太田寛一がつくった「適正乳価の形成」「酪農経営の長期安定」の社是にあります。全役職員がこれを脈々と受け継ぎ、いまも前進を続けているのです。
(農政ジャーナリスト・神奈川透)
 

*「北の酪農ヒストリー」は今回で終了します。


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