泉麻人さん(コラムニスト) 「洋食=ごちそう」だった

泉麻人さん

 前の東京オリンピックが行われた1964年。僕は小学校2年生でした。今よりも洋食への憧れが強かった時代だと思います。

 母に連れられて銀座に行き、買い物の後で、数寄屋橋交差点の所にある不二家に寄っていました。1階がお菓子の売り場で、2階と3階が喫茶&グリルでした。

 喫茶室に入ると漂う、バニラエッセンスとカラメルの甘い香りがたまらなくてねえ。プリンの横にクリームやフルーツがいっぱい載っているプリンアラモード、チョコレートサンデー……。いろいろ食べた記憶が残っています。
 

熱々のグラタン


 もう一軒、銀座2丁目のオリンピックという洋食レストランも思い出の店。今はもうなくなりましたが、昭和の初めくらいからやっていたようで、永井荷風の日記『断腸亭日常』にも出てきます。

 そこのマカロニグラタンが大好きだったんですね。母は天火という言葉を使っていましたけど、天火でチーズに焦げ目が付いていて。当時はオーブンなんてなかったから家ではできません。熱々のグラタンがテーブルに置かれ、焦って触ってしまって手をやけどしたこともあります。チーズの焦げた味というのは、刺激的でした。

 わが家は東京都新宿区の下落合で、よく出掛ける大きな街というと池袋でした。家の前の道をバスが走っていて、それに乗って1本で行けたので。近いということもあって、池袋は普段着で行く街でした。銀座に行く時は革靴を履かされたんですけどね。

 池袋では西武デパートによく行きました。7階辺りの大食堂の横に、しゃれたアイスパーラーがありました。バニラやチョコレートといった普通の味の他に、エッグというカスタード味などいろんなアイスがありました。抹茶味を最初に食べたのも、この店です。
 

“泥玉”正体は…


 大食堂の通路横には、食品サンプルが並んでいました。ナポリタンやハンバーグが並ぶ一番端に、ピータンがあったんですね。もみ殻に包まれたものが2個。まるで泥玉のようで、その奇怪なサンプルが目の底に焼き付きました。

 街の中華料理店でピータンを出すとこはまだなかったし、母に聞いても分からない。大人になって初めて食べて、ああこれがあの泥玉の正体かと納得しました。

 今なら店に行くと、ウエーターやウエートレスが席に案内したり、満席の時は外で待つように言われたりしますよね。その頃はお客さんが普通に入って来て、満席ならすきそうな席の後ろに立って待っていたんです。別の家族が背後霊のように立っている前で食べていた。その不思議な感覚を覚えています。デパートの屋上には乗り物がありましたし、遊園地みたいなところでしたね。周りに高い建物はなく、望遠鏡が置いてあって、それで周囲を眺めました。

 家で食べた料理で思い浮かぶのは、ロールキャベツ。母の作るのはトマトクリーム味でした。ケチャップに牛乳とバターを入れたのかな。ピンク色をしていましたね。2日目くらいになると、キャベツを留めるようじが折れて、肉の間に入っていました。

 祖父は大阪で会社の役員をやっていて、家に帰って来る時は、難波の肉屋さんで割と良い牛肉を買ってきてくれました。すき焼きにすることが多かったんですが、時にはステーキ用の肉を買ってくることも。そんな時、父が「今日はビフテキだぞ」と、うれしそうに伝える。ごちそうの代名詞がビフテキ。そういう時代を懐かしく思い出します。(聞き手・写真=菊地武顕)

 いずみ・あさと 1956年東京都生まれ。慶応義塾大学卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊テレビガイド」を担当。84年に退社し、「週刊文春」で「ナウのしくみ」を連載開始。近年は昭和時代カルチャー、街歩きなどを得意とする。近著に『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた』(三賢社)。
 

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