朝井リョウさん(作家) 離れて知った母の偉大さ
2020年12月19日

朝井リョウさん
私が生まれ育った岐阜は、海のない県。川魚を食べる文化があります。夏の間はヤナという、河原に竹を組んで畳のようにした所で、アユを食べさせてくれる店が出ます。塩焼きだったり甘露煮だったり、いろんな食べ方を楽しめるんです。そこに両親に連れて行ってもらい、アユを食べたことをよく覚えています。魚があまり得意ではなかったんですが、その経験もあって今では大好きです。上京してからは、アユをはじめとする川魚に出合う機会が少なくて、ヤナに出掛けたのはすごく貴重な体験だったんだなと思います。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
朝の電車に恐怖
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
絶品焼き鮎醤油
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
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改正種苗法施行 海外持ち出し制限 初公表 シャインなど1975品種 農水省
農水省は9日、品種登録した品種(登録品種)の海外流出防止を目的とする改正種苗法の施行に伴い、海外への持ち出しを制限する1975品種を公表した。1日の施行後、公表は初めて。ブドウ「シャインマスカット」や北海道の米「ゆめぴりか」など、いずれも同法施行前に品種登録済み・出願中だった品種で、届け出に基づいて「国内限定」の利用条件を追加した。
野上浩太郎農相は同日の閣議後記者会見で「税関とも情報共有し、わが国の強みである新品種の流出を防ぎ、地域農業の活性化につなげていきたい」と述べた。
1日に施行された改正種苗法は、品種登録の際に、栽培地域を国内や特定の都道府県に限定する利用条件を付けられるようにした。「国内限定」の第1弾の品種は、農研機構や42道府県が開発した米や果実が中心だ。同省によると、国や県など公的機関が開発した登録品種の9割が「国内限定」となった。
米では青森県の「青天の霹靂」や新潟県の「新之助」、果実では石川県のブドウ「ルビーロマン」や福岡県のイチゴ「あまおう」、愛媛県のかんきつ「紅まどんな」などが含まれる。今後、民間の種苗会社の品種も含めて、順次追加する。
条件に反して海外に持ち出した場合、個人なら10年以下の懲役や1000万円以下の罰金、法人なら3億円以下の罰金が科される。流通の差し止めや損害賠償といった民事上の措置も請求できる。
同省は、同法施行の経過措置として、施行前に品種登録済み・出願中だった品種も、「国内限定」などの利用条件を追加できるようにしていた。9月30日まで届け出を受け付ける。一方、今後、品種登録する品種は原則として「国内限定」とするよう開発者に促す。
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2021年04月10日
満蒙開拓と感染症 災禍の中教訓考えよう
国策で農業移民として旧満州(中国東北部)に送られ、多くの犠牲者を出した満蒙(まんもう)開拓団。テレビの取材を通し、ソ連侵攻後の避難先の大都市で18万人が飢えや寒さ、感染症で亡くなった事実に光が当たった。新型コロナウイルス禍の中、今につながる教訓を考えたい。
18万人は、満州最大の都市・奉天(現瀋陽)などの大都市で亡くなった。ソ連侵攻による満州での日本人死者は6万人で、その3倍に当たる。
日本農業新聞は、3月27日掲載の「都市で死者18万人なぜ 満蒙開拓団『見過ごされた事実』から迫る」で、番組を企画したディレクター矢島良彰さんの取材の内容や視点を紹介した。日本社会の今の問題につながると考えたからだ。番組は翌日、NHK―BS1「満州 難民感染都市」のタイトルで放送された。
記事掲載と番組放送の後に読者から声が寄せられた。その中から、今の問題との類似性への指摘に着目したい。
番組では、国に見放され命からがら避難した開拓団員が「避難先の奉天でぜいたくをしている」とデマを流された事実を紹介した。東日本大震災の被災地支援を続ける人は「真っ先に思い出したのは、東京電力福島第1原子力発電所の事故で避難した人が『賠償金でぜいたくをしている』と誹謗(ひぼう)中傷された事実。お互い犠牲者なのに差別が起きてしまう構図がまったく同じだ」とみる。
難民収容所で発疹チフス、ペスト、コレラといった感染症が拡大、都市居留民は避難民を差別し、避難民には不信が募った。それが助け合いを阻む「見えない壁」となり、結果、居留民も感染者になった。新型コロナの感染者や医療従事者への差別と重なる。
こうした事実を矢島さんが知ったきっかけは、奉天で日本人居留民会が発行した難民救済事業要覧。大量死の直接の要因を「資金難による3カ月の救済遅れ」と記す。
「国民の命を守る」という責務を国が放棄した後、取り残され、苦難を強いられた人々。今に目を移せば、コロナ禍の中での解雇・雇い止めの拡大、貧困の深刻化、自殺者の増加……。国は責務を十分果たしていると言えるのか。国民は注視し、問題があれば声を上げなければならない。
矢島さんは日中両国の20人ほどから証言を得た。そこから、厳しい暮らしの中で現地の人が、日本人が帰国できるよう寄付を集めたり、孤児を育てたりするなど国を超えた助け合いの事実も分かった。
「さまざまな立場の人の話を突き合わせ、悲劇性だけに目を奪われないように」と矢島さん。今起こっていることを一人一人が冷静に、多角的に見る目を養おう。それが、助け合える社会につながる。
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2021年04月11日
協同の未来像 つながる力は変革の力
日本協同組合連携機構(JCA)が、今後の指針となる「2030ビジョン」を策定した。協同組合間の連携や仲間づくりを通じて、地域課題に向き合い持続可能な社会を目指す。目標は「協同をひろげて、日本を変える」。協同組合の未来に向け、学び、つながり、行動しよう。
JCAは3年前に発足。国内の協同組合をつなぐプラットフォーム(基盤)の機能を担う。JAグループ、生協、漁協、森林組合、ワーカーズコープなどを横断的に結び、協同組合間連携の推進、調査・研究、政策提言を行う。
長期ビジョンは、2030年までの環境変化を見据え、組織協議を重ねてきた。結果、安心して暮らせる地域づくりなど、各協同組合の基本方向が同じであることを改めて確認。新型コロナウイルス禍などで顕在化した格差の拡大や社会的孤立、文化の衰退などの課題も踏まえ、相互扶助を理念とする協同の価値をさらに広げることで一致した。
ビジョンでは、各組合・組織同士で対話を深めることが運動の出発点だとした。その上で、それぞれの強みや特性を生かしながら、各地での実践を通じて緩やかにつながることが重要だ。また、運動の継続には、社会性と事業性の両立、それを支える多様な主体の参画を求めたい。
ビジョンはそのための具体策として、地域課題を話し合う円卓会議の推進、教育・研修に役立てる協同組合白書の刊行、協同組合法制度・税制の研究などを挙げた。
協同組合間連携の鍵を握るのは円卓会議である。既に42都道府県で連携組織はあるが、その取り組みは学習会やイベントが大半で、子ども食堂の運営、買い物弱者や災害支援、環境保全など社会性のある地域密着型の実践はまだ少ない。こうした分野で小回りの利く活動を展開するワーカーズコープやNPO法人などとの連携を強めるべきだ。
また、豊富な事業ノウハウとネットワークを持つJAの参画も促したい。准組合員や住民を巻き込んだ協同活動は地域貢献のモデルとなる。JAにはキープレーヤーとしての自覚と役割を期待する。
混迷の時代にあって協同の価値を見直す動きは、世界的潮流でもある。国際協同組合同盟(ICA)が昨年打ち出した新戦略でも協同組合の「強化と深化」を掲げ、「協同組合間協同」の推進などを重点課題に据えた。
コロナ禍で、暮らしや健康を支える協同組合セクターへの関心は高まっている。長期ビジョンは、広く市民社会とつながることで、初めて変革の力となる。小さな協同から始めよう。地域の課題に真っすぐ向き合い、愚直な取り組みを積み上げることでしか共感と広がりは得られない。
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2021年04月13日

JA運営に准組の声を 実践の年 懇談会、総代選出広がる
JAの事業や運営に准組合員の声を反映する取り組みが広がってきた。懇談会や全戸訪問、総代選出など、JAごとに多様な方法を展開。集まった要望は事業計画に盛り込むなどして実現する。JAグループは2021年度を意思反映の“実践の年”とし、取り組みを加速させる。
水稲を中心とした農業が盛んな滋賀県のJAこうかでは、19年に運営参画を進めるための方針を定め、「准組合員懇談会」を開始。……
2021年04月11日
原発処理水 海洋放出を決定 風評被害を懸念 農業関係者落胆「極めて遺憾」
政府が13日、東京電力福島第1原子力発電所から出る放射性物質トリチウムを含む処理水を海洋放出する方針を決めたことを受け、福島県の農業関係者からは、落胆と同時に風評被害を懸念する声が上がった。JA福島五連の菅野孝志会長は「福島県の第1次産業に携わる立場として極めて遺憾である」とコメントを発表した。
JA福島県青年連盟の手代木秀一前委員長は、「われわれの思いが反映されなくて残念」と無念さをにじませる。県青年連盟は、国が処理水の処分方法に関するパブリックコメントを募集していた際に、海洋放出などには反対し、トリチウム分離のための技術開発への支援を要望していた。
県内の農家が懸念しているのが農畜産物への風評被害だ。手代木前委員長は「これ以上の風評被害が起きないことを祈るが、いろいろな対策をしても風評被害は起こるのではないだろうか。県産農産物の競争力が落ちないか心配だ」と今後を懸念する。
菅野会長は「政府が説明する風評被害の発生抑止対策には具体性がない」と指摘した。
事故後10年経過した現在も農林水産物の風評被害が継続している実態から、「処理水の海洋放出は海産物ばかりでなく、県農林水産業の衰退が加速するとともに、風評被害が拡大することは確実」とした。
これに加えて「一層の研究開発により、放射能物質の完全除去ができる技術開発を進めるとともに、その間は貯蔵タンクの増設などにより本県農林水産物の安全・安心情報を守るよう切望する」と表明した。
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2021年04月14日
食の履歴書の新着記事

本郷和人さん(歴史学者) 母の手料理こそ一番のごちそう
母は栄養士で、東京栄養専門学校という栄養士を育成する専門学校の立ち上げから関与していたんですね。僕が幼稚園の頃、まだ洋食があまり普及していない頃から、母はドライカレーや手ごねハンバーグを作ってくれました。
前の東京オリンピックの時、帝国ホテルの村上信夫シェフが選手村の料理を管轄されていましたが、母はその下で働いていたんです。だから僕の家には金メダルがあるんですよ。料理のスタッフに贈られたわけです。母が言ってましたけど、選手村の調理に携わるに当たって、家系から何から全部調査されたそうです。
うちは両親と僕と弟、それに祖父母と父の姉が住む大家族でした。祖父と祖母は、サトイモの煮っ転がしとかが好きなんですね。母は和食も得意で、祖父母が喜ぶような料理も実においしく作ってくれて。だから僕は、子どもの頃から煮っ転がしとかも大好きでした。
僕は小さい頃、体が弱かったんです。それで親が心配して、小学校1年生の時に、1学期間だけ仙台の田舎に預けられました。毎日、朝露を踏んで駆けっこすると、体が良くなるんじゃないかというような話で。
その時に僕が預けられた家では、農作業もやっていたんですね。出荷しない野菜を食べさせてくれました。おいしかったなあ。仙台で、野菜のおいしさに目覚めました。
東京に戻ってからは、母の漬物のおいしさも分かるようになって。キュウリやナスの漬物があれば、それだけでご飯3杯いける、みたいな感じになりました。
おいしいものをどんどん食べなさい。それが母の教えでした。家でおいしいものを食べたからか、小学校の給食がまずく感じて。今になって思えば、懐かしさは感じますよ。でもおいしいと思ったことはない。よく、給食のことを回想して、「おいしかった」という人がいるじゃないですか。僕には信じられません。
中学・高校時代、母はずっと弁当を作ってくれました。でもそれだけじゃ足りないんです。2時間目が終わると、弁当を食べちゃいました。4時間目が終わると、食堂へ。カレーが80円、ラーメンが70円でした。時々、80円でチャーハンが、70円で焼きそばが出たんです。そちらはけっこう人気。数に限りがあって、あっという間になくなるんですね。チャーハンと焼きそばが出る日は、皆、食堂に向かって飛んで行きました。
母が東京栄養専門学校で働いていた頃、東京大学史料編纂(へんさん)所の菊地勇次郎という方が教えに来ていたそうです。菊地先生は後に史料編纂所の所長になられた方です。食物史を得意としていたので、その講義のためにいらしていたんですね、アルバイトで。母によると、菊地先生はとてもすてきな方で人気があったそうです。小学校4年生くらいの時、歴史が好きだった僕に母が言いました。
「あなたは東大に入って、史料編纂所に行けばいいんじゃない」
僕は27歳で史料編纂所に入りました。その年、京都の醍醐寺に調査に行ったんですよ。その調査団のトップが、史料編纂所を辞めていた菊地先生でした。声は掛けなかったけど、顔は見てます。
母はがんで57歳で亡くなりました。末期は、東大のそばにある日本医大病院に入院したんです。僕は大学から自転車で、母の病床に通っていました。同じ頃、病院には菊地先生も療養されていたのです。不思議なご縁を感じました。(聞き手・写真=菊地武顕)
ほんごう・かずと 1960年東京都生まれ。東京大学、同大学院で日本中世史を学ぶ。東京大学史料編纂所教授。「戦国武将の明暗」「戦国夜話」「日本史のツボ」など多数の著書で歴史を分かりやすく説明する。近著に「『失敗』の日本史」(中公新書ラクレ)、「『違和感』の日本史」(産経セレクト)がある。
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2021年04月10日

本田武史さん(プロフィギュアスケーター、スポーツコメンテーター) 海外生活支えた現地の日本料理
小さい頃は、福島県郡山市で農業をやっていた祖父母の家の近くに住んでいたので、よく米作りの手伝いをしました。種まき、田植え、稲刈り……。その頃はまだ機械化が進んでいなくて、機械でできないところを人の手で一本一本補っていました。
田んぼの他に畑もあって、米と野菜は自給自足だったと思います。田んぼもかなり広くて、米蔵があり、精米機もありました。
もち米も作っていて、お正月になると毎年、杵(きね)と臼を使って餅つきをしていました。餅は焼いて砂糖しょう油で食べたり、あんこやきな粉で食べていました。
中学になるとスケートのため、母と2人で仙台に引っ越しました。母はパートで仕事をしていたので忙しかったし、僕は朝早くから夜遅くまで練習があったので、ゆっくりと2人で食事をする時間がありませんでした。
練習中、整氷のために15分ほど休み時間があります。その時に母の作ってくれたおにぎりを素早く食べました。
好き嫌いがなかったので、食べたい物をたくさん食べていました。練習量が多いので、減量に苦しんだことはありません。体脂肪が1桁しかなかったため、下手に体重を落とすと体調を崩すんです。しっかり食べないと、体がもたなかったです。
海外に住んでいた時は、やはり日本食が恋しくなりました。
最初に行ったのは、米国のコネチカット州。日本人がほとんどいない田舎町で、ホームステイをしました。ホームステイ先での料理は肉が中心。もちろんご飯ではなくパンです。
町に1軒だけ日本食レストランがあって、そこですしやそば、うどんを食べました。
その店のオーナーは日本人で、以前はマサチューセッツ州で働いていて、僕が試合に出るためそちらに行った時に会ったことがあったそうです。
そんな縁もあり、すごくよくしてくれました。力になるようにとメニューをいろいろ考えてくれ、時々弁当も作ってくれました。大会前にはカツ丼を作ってもらったこともあります。日本人の客がいないので、日本人に食べてもらうのがうれしかったのかもしれません。
長野オリンピックの後、カナダのトロント郊外に移りました。
トロントは大都市で、日本食レストランがいくつかありました。日本の食材などを扱う店もあったんです。そこで炊飯器を買いました。僕の住んでいたのは車で1時間くらいの小さな町でしたが、週末の練習が休みの時にはトロントでまとめ買いをしました。
売っている米はタイ米でしたが、たまに日本の米も入ってきました。タイ米は細長くパサパサしていますが、水の量を多くして炊いたり、チャーハンやお茶漬けにするなど工夫をすれば、全然大丈夫。
海外生活で気になったのは、野菜ですね。どうしても肉の量が多いので、できるだけ野菜をたくさん取ろうとしました。でも向こうの野菜は大味じゃないですか。いつも蒸して食べていました。その方が体にいいと聞いていましたし、甘味が増すから。
現役を引退してからは、食べ過ぎないように気をつけています。筋肉が落ちやすいし、疲労回復にも時間がかかるので、意識してタンパク質を取っています。それに合わせるようにビタミンも。日本の野菜はおいしいので、生野菜でも温野菜でも食べています。(聞き手=菊地武顕)
ほんだ・たけし 1981年福島県生まれ。7歳からショートトラックスケートを始め、その後フィギュアに転向。史上最年少の14歳で全日本選手権優勝。98年の長野五輪に史上最年少の16歳で出場した。99年、四大陸選手権大会の初代王者に。現在はプロとしてアイスショーに出演する他、後進の指導にも当たっている。
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2021年04月03日

ジェシカ・ゲリティさん(タレント) 二つの文化 良さ伝えたい
私の母国ニュージーランドといえば羊のイメージでしょうけど、牛の国でもあるんです。人口480万人なのに、乳牛だけで620万頭もいます。酪農大国で、チーズやバター、アイスクリームといった乳製品を大量に食べます。
バターは、いろいろな料理に使います。主食はジャガイモなので、それに掛けてジャガバターとして食べます。チーズとヨーグルトは種類が豊富。スーパーに行くと、乳製品の売り場が全体の半分くらいを占めているんです。
ニュージーランド人は自然の中が大好きです。小さい頃からよく父と一緒にキャンプに行きました。父は簡単な料理しかできないんですが、オムレツとトーストの朝食はおいしく、非常に良い思い出がたくさんできました。
釣りも人気で、魚も貝もウニも、自分で捕って食べるのが普通。私も行きました。サメを釣ってしまったことを思い出します。
懐かしく感じる料理は、フィッシュ・アンド・チップス。揚げた魚とポテトフライです。テークアウェー(持ち帰り)の専門店があって、注文すると新聞紙に包んでくれます。これを家で食べたり、海の近くで食べたりするんです。
金曜は家事休み
ニュージーランドでは文化的に、金曜日はお父さんもお母さんも家事を休みたいという考えがあります。私のうちでも、金曜日にはフィッシュ・アンド・チップスを持ち帰って食べていました。
国民食といっていいのが、パイ。日本人のおにぎりのようなものですね。手のひらサイズで、外がペイストリーの生地。中には肉。ミンチとか、ステーキ・アンド・チーズとか、チキンとかいろいろな種類があります。ミンチの上にマッシュポテトを載せるシェパーズパイ(羊飼いのパイ)というのがあって、母がよく作ってくれたんですね。ニュージーランド版おふくろの味かもしれません。
独特の果実として、フェイジョアがあります。キウイフルーツと同じくらいの大きさ。外は緑色で、切ると白。パインナップルとバナナがミックスされたような味です。夏に、庭で大量にできちゃうんですね。
レンコンに驚き
反対に日本に来て初めて知った野菜もあります。レンコンです。切ってみてビックリしました。まさか穴があるなんて。これ、宇宙から来たんじゃないかと思ったくらい。煮物で食べていますけど、ビジュアルのインパクトがすごくあるので、サラダにも載せます。ゴボウにも驚きました。土が付いた状態で売っているのを見て、いったいどうなっているのか分からなかったですね。
不思議だったのがこんにゃく。謎の石みたい。でもおいしいから、炒めたり、肉じゃがやおでんに入れたり、いろいろ使っています。子どもも大好きで、この間、聞かれたんです。「これって、何なの?」と。それで調べて、初めて芋だったことを知りました。
ニュージーランドでは今、日本食がブームです。魚で人気が高いのはサーモンで、ムニエルで食べることが多いですが、お刺し身で食べる人も増えつつあります。緑茶も人気です。ビタミンCが豊富に入っているので、健康に良いと。飲み方はちょっと変わっていて、ミカンやリンゴなどフルーツの味を加えて、ハーブティーのように飲んでいるんです。
二つの国の食文化に接することができて、とてもうれしいです。それぞれの良さを伝えられればと思っています。(聞き手=菊地武顕)
ジェシカ・ゲリティ ニュージーランド生まれ。大学時代に訪れた日本に魅了され、移住。「世界の日本人妻は見た!」「世界が驚いたニッポン! スゴ~イデスネ!!視察団」などの番組に出演。「世界くらべてみたら」(TBS)レギュラー。埼玉県の海外向け観光大使「LOVE SAITAMA アンバサダー」も務める。弓道は三段の腕前。
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2021年03月27日

水道橋博士さん(タレント・著述家) 長年の腰痛、下痢から解放
ずっと長い間、腰痛に苦しんできました。25年くらいですから、人生の半分近く。その上、ここ何年かはひどい下痢にも悩まされ、本当に体調が悪くて。
ひらめいて腸活
これは何か食べ物が関係しているのかなと思いました。最近、腸活という言葉をよく聞くので、自分も腸活をやってみようと思ったんです。別に誰かに勧められたというわけではない。自分のひらめきで。
ヨーグルト、納豆、キムチ、ラッキョウ、ニンニク……あとワカメですね。それらを自然食品の店で買ってきて、大きな丼に入れてミックスしたんです。それを食べたのは、1月28日。
次の日の便は下痢でしたが、色が全く違っていた。宿便でしょう。感覚的には、経年劣化している腸に対して、パイプクリーナーを飲んだ感じ。そしてその次の日。便は固形でした。3年ぶりくらいかな。お通じがこんなに良くなるなんて、思わなかったです。
1週間くらい続けたら、腰痛も治りました。それまではあまりの痛さで、ペットボトルを持つこともできない状態でしたが。
今では毎日1万歩以上、歩いています。これまでやりたくてもできなかった本棚の模様替えも、できました。
ヨーグルトは、小岩井の生乳ヨーグルト。甘味も酸味もそんなに強くないので、他の食材を加えて味を足し算しても大丈夫だろうと。それでまずは納豆と一緒に食べようと思ったのが、始まりです。
材料を見極めて
入れる食材は、本当においしいものを買いに行ってますよ。住んでいる高円寺(東京都杉並区)の日本食屋さんが、市をやっているんです。行列ができるくらい人気で、そこに午前11時半から並んで、ワカメだけを買うんですね。ワカメってピンからキリまでありますよ。ここのは、なんの味付けもしないでそれだけ食べてもいい。ちょっと塩の味がついているから。
キムチは、新高円寺にあるキムチ選手権で日本一になったお店に買いに行っています。ニンニクやラッキョウも、中国産のなら安く買えますが、必ず国産。ニンニクは北九州の業者さんと知り合って、そちらのを食べています。めちゃくちゃうまい上、においが残らない。素揚げして、葉先から根っこまで食べられます。
毎日、朝は必ず発酵ミックス。1日2食のこともあります。
いろんな食材を加えるようになりました。前の晩の残り物の肉じゃが、豚のしょうが焼きとか、冷蔵庫に入っていた万能ネギやゆで卵を入れるんです。
味付けも、例えば今日はエビの味がいいなと思ったら、新潟の南蛮エビのみそ汁のもとを入れたりします。その時の気分で、だしを変えて味を変えるんです。
発酵ミックスによく合うと感じた野菜は、ブロッコリー。もともとブロッコリーは体にいいのでたくさん食べたいと思っていたんですが、味がないじゃないですか。この食べ方だとおいしいので、いくらでも食べられます。
毎日10時から2時間くらいかけて、散歩をしています。
それが終わると、お昼ごはん。
高円寺にはエスニックのお店が多い。それと焼き肉屋が増えました。高円寺で評判の店には、全部行ってますね。新型コロナ禍なので、地元の好きな店を応援したいという気持ちが強くて。発酵ミックスのおかげで体調が良く、昼もおいしく食べています。(聞き手=菊地武顕)
すいどうばしはかせ 1962年、岡山県生まれ。ビートたけしに弟子入りを認められ、87年に玉袋筋太郎と浅草キッドを結成する。著述家としても人気を博し、近著に文庫版「藝人春秋2、3」(文藝春秋)がある。「BOOKSTAND.TV」(BS12)、「北野誠ズバリサタデー」(CBCラジオ、4月から)レギュラー。
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2021年03月20日

松本薫さん(柔道ロンドン五輪金メダリスト) 骨折しない体になり開花
私にとって思い出の食べ物といえば、父が作ってくれたスペアリブです。中学の頃から、試合の前、合宿や遠征に出掛ける前、父がいつも作ってくれました。私にとっての勝負飯でした。
海外での大会での試合前に絶対食べたのが、卵。黄色い黄身が「君に金メダル」と言ってくれているみたいじゃないですか。ロンドンオリンピックの時は、栄養士さんに卵焼きを作ってもらい、それを食べて試合に臨みました。
勝利のためなら
験担ぎやルーティン(決まり事)をあえてしないという考え方もあると思います。でも私はやった方がいいと思っていましたし、周りの選手も何かしらやっていましたね。試合前は必ずカツ丼を食べるとか、パンではなくご飯じゃないと力を出せないとか。
勝つ道に続くのなら、できることはどんなことでもするんです。
これを食べたら、これをやったら、自分が落ち着く。そういうものがあったら、すがり付きます。柔道選手は体はタフなんですが、優勝して当たり前と期待されていますので、プレッシャーが大きい。それだけ注目して応援していただいているわけですから、こちらとしてもしっかり卵を食べて勝ちにいったわけです。
私は甘い物が大好きなんです。学生の頃はめちゃくちゃな食生活をしていました。お昼ご飯は、お米も肉も野菜も食べずに、アイスやチョコと炭酸飲料で済ませていました。いつもそればっかり。
私が甘い物好きなのは、強化コーチも知っていたので、禁止令を出されました。合宿の時は見張られていたんです。それでも食堂でジュースだけ飲んで「ごちそうさまでした」と言って、部屋に戻って甘いお菓子を食べたりしてました。先輩たちにバレて、めちゃ怒られました。
食生活が悪かったから、よく骨折をしました。18、19、20歳と、年に1回骨折したんです。
21歳、大学4年になって、そろそろ実業団に入るので、このままではいけないと感じて、食生活を改善しました。自分でもかなり勉強したんです。体がきつい時は、豚肉を食べてアミノ酸を取る。減量時には脂肪と炭水化物を減らしてタンパク質多めの食事を。試合前の1週間は炭水化物を多めにしてエネルギーを作るように、と。
食事を改善してからは、骨が折れなくなりましたね。しっかり筋肉が出来上がって、減量の必要がほとんどなくなりました。そして、力を発揮しやすくなったんです。それまでできなかった技の仕掛けに素早く入れるようになったんです。戦っていて「あれ、技に入れる。技をかけられる」と、不思議に感じました。瞬間的な動きや素早い反応ができるようになり、柔道の幅が広がったと思います。
“勝負飯”娘にも
結婚して子どもにも恵まれました。旦那と二人で、手料理をするように心掛けています。食事が本当に大事だと分かったからです。私が一番得意なのは、父からレシピを教えてもらったスペアリブ。3歳になった娘が初めてお稽古事に行く時に作ってあげました。娘の勝負飯です。
今、私はアイスクリーム店で働いています。天職だと感じています。一緒に働く皆と試食もしないといけないですから。でも食べ過ぎないように抑えるのが大変。食べたい気持ちを抑えて、ルールを作りました。試食は2口まで。それだけでどう改良すればいいか判断できるように、五感全てを研ぎ澄ませて食べています。(聞き手=菊地武顕)
まつもと・かおり 1987年、石川県生まれ。2010年から3年連続で女子57Kg級世界ランク1位。12年のロンドン五輪で金メダルに輝き、闘志あふれる姿から「野獣」と呼ばれた。16年のリオデジャネイロ五輪では銅。19年に引退し、現在は所属会社が開いたアイスクリーム店「ダシーズ」で働く。2児の母でもある。
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2021年03月13日

栗山千明さん(女優) レンコン映画に悪戦苦闘
私が生まれ育った茨城県は、レンコンの生産日本一なんです。
でもそのことを知ったのは、大人になってから。私の住んでいたところに農地はなく、ちょっと遠出してレンコン畑があると、親から「落ちたらダメだよ」と言われたことを覚えています。
今回、加賀レンコンを題材にした映画『種まく旅人~華蓮のかがやき~』に出演させていただきました。レンコン農家の生き方を描く作品で、畑に入っての撮影シーンもありました。
覚悟はしていたんです。埋まってしまう、思うように動けない。事前に知っていましたので、これは大変だぞと思いながら入ったんですが、やっぱり。
このせりふを言う時にはこの動きを……と思って体を動かすんですが、いざやってもできないもどかしさが。
農家の苦労実感
畑の真ん中で、撮影のセッティングを待つこともありました。普通なら一回上がって待つのでしょうけど、端まで行くのが大変なんです。ですからスタッフの方に「私はここにいます」と言って残るんですが、どんどん足が埋まっていって動けなくなってしまうんです。それを防ぐため、たまにもじもじ動いてみたり。農家の方のご苦労に頭が下がりました。
私は初めて畑に入るという設定の役でしたから、慣れていなくても成立します。私のあたふたしている様子が、ナチュラルに映っていると思います。
金沢での撮影というと、夜はおいしい魚を食べたんだろうと思われるでしょうが、残念なことに違うんです。夜のシーンの撮影がたくさんありましたし、宿泊しているところから繁華街が遠い上、朝早くから撮影が始まりましたので、食べに行けませんでした。前に舞台で金沢に行った時は、いろいろ食べられたんですが。
地元野菜を堪能
その代わり今回は、地元の方々がレンコンをはじめ野菜を使った料理を振る舞ってくださいました。面白い上においしかったのは、レンコンをすりおろしてお好み焼きに入れたもの。他にも、言われないとレンコンだと分からない料理がいくつも出てきました。
子ども時代は、レンコンはきんぴらとか煮物とかでしか食べたことがなかったんです。おいしい食べ方がいろいろあるんだと、初めて知りました。
『種まく旅人』はシリーズ化され、今回が4作目。私が出演するのは2作目ですけど、おかげで食に対する探究心が強まりました。
もともと日本食派なんです。ご飯が大好き。おそば、うどんも好き。茨城生まれですから、納豆は常に冷蔵庫に入っています。あと、生ものが好きなんですよね。魚、貝、鶏のささ身。野菜もそのまま生で食べるのが好きです。セロリとかは、マヨネーズも何も付けずにバリバリと食べます。
生でいただくのが好きだから、料理が上達しないという欠点があるんですが。
仕事で海外に行くことはあっても、海外旅行には興味を持てません。観光は楽しめても、長くいられないんです。「あー和食を食べたい」という気持ちになるから。日本に帰ってきたら、真っ先に刺し身を食べたくなります。
以前、舞台の仕事で金沢に行った時は、おいしい刺し身に感動しました。今回は加賀野菜の素晴らしさを知ることができました。次に金沢に行くことがあったら。ゆっくりと魚と野菜をいただきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
くりやま・ちあき 1984年茨城県生まれ。モデルを経て、99年に映画『死国』で女優デビュー。『バトル・ロワイヤル』(2000年)での演技がクエンティン・タランティーノ監督を魅了し、同監督の『キル・ビルVol.1』(03年)に出演した。『種まく旅人~華蓮のかがやき~』は3月26日石川県先行上映、4月2日公開。
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2021年03月06日

和田秀樹さん(精神科医) 一番おいしい方法を探求
私の好きな食べ物は、エビとカニ。新型コロナ禍のため、今はよく弁当を買うんですけど、エビフライとかカニクリームコロッケが入ったものを選んでしまいます。最近はエビカツが好きになりました。
格別だったエビ
エビ好きに関しては、母親の兄のおかげです。伯父は特攻隊に行くはずで死を覚悟しましたが、結局、行かなかったそうです。戦後、精神的に不安定な時期もありましたが立ち直り、魚の卸売市場の親方に気に入られて、私が子どもの頃は店を任されていました。
伯父はよく私の母親に「持ってけ」といって、氷付けになっているエビを1箱くれたんですよ。クルマエビくらいの大きさでした。
当時は流通や冷凍技術の関係で、どんな魚を食べても生臭かったんです。でも伯父からもらったエビは臭みがなくおいしかった。
エビが本当に高い時代でしたからね。友達がうらやましがるのを横目に食べたんです。豊かさの象徴のように感じられました。
カニについては、父が京都府の丹後出身で、冬場に父の実家に帰ると大量のカニを食べました。
カニというと福井と鳥取が有名ですが、今、東京で最も高額で取引されているのは、生きたまま空輸される間人(たいざ)のカニ。丹後半島で捕れるものです。私は知らずに、雌とはいえ最高のブランドカニを食べていたわけです。
30代のはじめ、米国のカンザスに留学していました。向こうでもエビやカニはスーパーにあるので不自由はなかったんですが、唯一困ったのがカニクリームコロッケ。ずっと飢えていました。
学会出席のため、ニューヨークに行った時。日本の商社や銀行、日本食レストランが並んでいる一角に、居酒屋を見つけたんです、入ってみたら、メニューの中にカニクリームコロッケがあって。すごくおいしくいただきました。
食べ物については、もう一つ思い出があります。やはり米国でのことです。私は基本的に日本食派ですが、世界三大珍味の一つ、白トリュフは大好きなんです。
これをパスタや肉の上に削りかけると値段がグンと上がるわけですが、それほどの価値があるのか疑問に感じていました。
白トリュフの謎
15年くらい前、白トリュフの謎が解けたんです。精神分析の師匠を訪ねて米国に行った時、サンタモニカの高級イタリアンレストランに入ったんですよ。そこは冬場に、世界一高い白トリュフを出すというんです。
白トリュフのカルパッチョがあり、ものすごく高い値段でしたが観光気分で頼んでみました。
これは生まれてこの方、食べた料理で、一番おいしかったです。
何が違うかというと、肉の上から掛けるんではなく、肉を白トリュフの漬けにしたんです。白トリュフを絡めたオイルに、生肉を漬けた料理だったんですね。
一口食べて発見しました。「これは世界一高いかつお節だ」と。かつお節も、上から掛けるよりも、だしにして食材に味を染み込ませる方がうまいじゃないですか。それと同じことを白トリュフでやっていたわけです。
それで感じたのが、食材には一番おいしい食べ方があるということ。カニクリームコロッケにしても白トリュフ漬けにしても、最高においしく食べるための工夫なんです。こうした工夫のおかげでよりおいしく食べられれば、食材を作った方への感謝の気持ちも一段と強くなると思っています。(聞き手=菊地武顕)
わだ・ひでき 1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒後、同付属病院精神神経科、老人科、神経内科で研修。現在は国際医療福祉大学赤坂心理学科教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長などを務める。心理学や受験指導に関する書籍を多数執筆。近著は『感情的にならない心の整理術』(プレジデントムック)。
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2021年02月27日

古村比呂さん(女優) 闘病で知ったありがたみ
私は子宮頸がんの手術をしました。再発後には抗がん剤での治療を受けました。食べ物についての一番の思い出は、その2回の闘病時に感じたことです。
最初は2012年の摘出手術の時です。
術後3日目に、初めて重湯が出ました。それまでずっと点滴でしたから、久しぶりに口から食べ物を入れたわけです。
口で味わう感動
一口目をいただいたら、汗が出てきたんです。全身の毛穴から汗が。そんな経験は初めてだったので、とても驚きました。口から物を入れるということのすごさをまじまじと知ったんですね。細胞が動き出した、細胞が喜んでいる。そのように感じました。
2回目は、5年後。再発したので、抗がん治療を始めました。
そうしたら、食べるということに喜びを得られなくなってしまったんです。料理の味が感じられない。そのため、気分がなえてしまいました。食事というよりも餌を食べているような感覚になってしまったんです。
そんな時期に、息子が玄米かゆを作ってくれました。それがすごくおいしくって。
それまで料理なんて作らなかった息子が作ってくれた。それに対するありがたさもあるんでしょうけど、すごくおいしかったことが忘れられません。
息子も必死だったんでしょうね。けっこう手の込んだかゆで、まるで白い汁のようでした。息子は、私がそれを飲む様子を見ていませんが、「おいしかったよ」と伝えたら「よかった」とものすごくホッとしたように答えました。
抗がん治療を終え、今では普通になんでもおいしく食べられるようになりました。
この二つの経験の後では、食べ物をいただくということに対する感覚が全然違いますね。口から物を食べられるありがたさを知り、食べ物で体ができているんだということを実感したので、感謝の気持ちが強くなりました。
食べ物は、嗜好(しこう)品になりがちのところもあるじゃないですか。欲しいときにすぐに手に入るものだし、好き嫌いを言って構わないものだと。私も病気になる前は、ありがたみを感じずに食べていたと思います。
粗末にできない
今では食べ物を粗末にするのはとても失礼だと感じます。食べ物でいろんな人たちとつながっている。そういう思いが出てきましたね。生産や流通に関わる皆さんのおかげで、私の体がつくられているんだ、と。皆さんはどういう思いで頑張ってくれているんだろうと、バックグラウンドやドラマを想像しながらいただきます。
私は北海道の過疎地で育ちました。同居していた祖父母は、最初はその土地で自給自足のような生活をしていたそうです。私が育った頃でも野菜を作っていましたし、毎朝、近くの農家さんから牛乳を買っていました。
20歳になる年に上京して、芸能活動を始めました。
田舎者としては、東京の食べ物が珍しくて、外食ばかりしていたんです。そうしたら1週間で調子が悪くなったんです。体に発疹が出ました。きっと体がびっくりしたんでしょうね。いったい何を食べているんだ、と。
そこで、自分で作るようにしました。最初に作ったのは、肉じゃがと豚汁。それを食べた時のほっとした感覚を覚えています。やっぱり食べ物が、私たちの体をつくっているんですよね。(聞き手=菊地武顕)
こむら・ひろ 1965年北海道生まれ。85年の映画「童貞物語」の主演でデビュー。87年のNHK朝の連ドラ「チョッちゃん」でヒロインを務めて、人気女優に。子宮頸がん、リンパ浮腫との闘病を経験。同じように病気で苦しむ女性たちを支援する「HIRAKU」プロジェクトを展開している。
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2021年02月20日

黒川伊保子さん(脳科学者・エッセイスト) 山の恵みで「母の味」再現
食のこだわりといえば、私には二つ。信州みそと、九州のぬか漬けです。父が信州は伊那谷の出身で、母は福岡県伊田町(現・田川市)で育ちました。私の名の「伊」は二人の出身地から名付けられました。
幼いころ食べていた祖母の手作りのみそが忘れられずにいたら、大学時代のルームメートが松本に嫁ぎ、姑と手作りしたみそを分けてくれるようになりました。それが、思い出の味そのままで。大豆は家の前の畑で作るのだとか。やはり、土地の味というのがあるのだなと痛感しました。20年ほど幻だった味を、毎日のように食べています。
私にとって、もう一つの幻の味が、母の作るぬか漬けでした。母は腰を悪くしてから、20年ほどぬか床を養生しておらず、私は、時折、母のぬか漬けがどうしても食べたくなり、「高級糠床」なるものを買ってはみるのですが、母のような味はどこにもありませんでした。
ぬか床は家の宝
母の出身地は、ぬか床を大切にする土地柄です。母の実家のぬか床も100年以上続いたものだったといいます。この家のぬか床は、昆布などのだしと、さんしょうをザクザクと入れるのが特徴。母も伯母も、ぬか床をなめて味の確認をしていました。ぬかみそは、臭くなんかなかったです。実際、福岡県の中部・北部では、ぬかみそを使ってイワシなどを煮て食べます。みそと同じ調味料感覚なんです。
私は断然キュウリですが、母が好きなのはナス。ナスにはこだわりがあって、小ナスを漬けるんですが、小さ過ぎると硬過ぎる。漬けるのにちょうどいい大きさというのがあるわけです。
母の里ではぬか漬けにピッタリの大きさのナスが市場に出ていたそうです。私を育ててくれた栃木では、その大きさのナスがなかった。それで自分で種を植えて育てていました。どうもうまくいかなかったようですが。
昭和40年代くらいでは、今のように流通が発達していませんから、それぞれの土地によって食材が違っていました。
私自身は、何度もぬか床作りに挑戦してはいるのですが、どうにも母の味に近づけず、結局、仕事にかまけて駄目にしたりして、とうとう還暦まで来てしまいました。
ところが、その還暦の年、母の味が再現できたんです。息子のおかげ。息子が日光・足尾の山の一角を買ったのですが、その斜面一帯に、サンショウが鈴なりになっていたんです。大粒の、辛いだけではなくうま味を感じさせる極上のサンショウでした。そういえば、母も、サンショウにはこだわっていましたね。
今のぬか床を作り始めたのは、息子の妻のためなんです。彼女は腸が弱いんですね。母も私も便通で悩んだことはないから、母のぬか漬けのおかげで腸内細菌が整ったのかもと。人生最後の挑戦のつもりでぬか床を作ったら、思いもよらぬ山の恵みのおかげで、長年の「幻の味」がよみがえりました。みそもぬか床も、土地の力をいただく営み。いとしいですね。
小言もまた幸せ
母は今年90歳になります。台所に立つこともありません。私のやることについても、何も言わなくなりました。でも私の作ったイワシのぬかみそ煮に「ご飯のおかずにはいいけど、酒のさかなにはちょっとしょっぱいかな」などと、駄目出しをします。それがうれしくて。母に小言を言われながら一緒に食べることが今はとても幸せです。(聞き手=菊地武顕)
くろかわ・いほこ 1959年長野県生まれ、栃木県育ち。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、メーカーで人工知能研究開発に従事。コンサルタント会社勤務などを経て、感性リサーチを設立。『恋愛脳』『夫婦脳』などを執筆。『妻のトリセツ』はベストセラーに。最新刊は『息子のトリセツ』(扶桑社新書)。
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2021年02月13日

西川りゅうじんさん(マーケティングコンサルタント) いただきます 日本の神髄
子どもの頃、休みになると母方の伯父の家によく遊びに行きました。伯父は大学で教壇に立ちながら、代々受け継いできた田畑で米や野菜を作っていたんです。
一緒に草むしりしながら、いろいろなことを教わりました。
小学校で農という漢字を習ったときに不思議に感じ、聞いてみたんです。
「農という字は、曲がるに辰(たつ)と書くよね。曲がったことをすると、辰が出てくるってこと」
「面白い見方だな。実は、曲は田を、辰は石で作った農具を表しているんだ。田畑を農具を使って耕すという意味だよ」
命の尊さ教わる
伯父は無農薬で作っていて、野菜には時々虫が付くことがありました。私も種をまき水をやっていましたから、チョウの幼虫に食べられたりすると悔しいわけですよ。
憎たらしいからつぶそうとすると、伯父に「それはそれで育ててあげたらいいんだよ」と言われ、幼虫を自分の家に持ち帰りました。やがて、かわいいモンシロチョウに育ち、命の尊さを知りました。
私の家では、食事の前に必ず手を合わせて「いただきます」と唱えてから食べていました。この言葉こそ日本の食文化の神髄を表していると思います。動・植物の命、農家の皆さんの耕作の成果を賜って生かしていただいているわけですから。
食べ物を粗末にすると両親は許しませんでした。出されたものは、全て食べるのが当たり前。
小学校の低学年のある日。キャベツとシソを刻んだサラダが出ました。シソが苦くて、両親が食べ終わった後も一人で食べ続けましたが、食べ残して自分の部屋に行って寝ました。すると翌朝から3食全てそのサラダだけ。
それで、伯父の家に行かされるようになったのかもしれません。自分で野菜を作って、その苦労を知れば、好き嫌いなく、おいしく食べられるようになるだろうという、両親の食育だったのでしょう。
食事は一汁三菜が基本でした。母が漬けた漬物が、朝夕、食卓に彩りを添えていたのを覚えています。
1960年代には、既に家でぬか漬けを漬けるのは臭いし面倒だと敬遠されていました。
今でこそ和食が見直されていますが、当時は食でも何でも欧米化が正しいという風潮でした。朝はパンとベーコンとコーヒーが豊かさと健康をもたらすという幻想が支配していた時代です。
欧米化とは無縁
その頃から、カブトムシはデパートで、漬物はスーパーで売っているモノになり果てたのです。祖母から受け継いだ臭いぬか床を母親が自分の手でかき混ぜ、自宅で漬物を作っていたわが家は戦前の食文化の化石でした。
父方の祖父母の家に泊まりに行った時の思い出も、まるで「ふるさと」の歌のようによみがえってきます。
春の河辺でみんなでツクシを取り、あく抜きして、おひたしや卵とじにして食べました。ヨモギを摘み、すり鉢ですって、よもぎ餅を作りました。
今も「春の七草」は全部言えますよ。一方、「秋の七草」は知りません。だって食べずに鑑賞するものですからね。でもこの歳になって、そんな風流もやっと分かってきた気がします。
幼き日に心と体でいただいた農と食の実体験はかけがえのない人生の宝物です。文字通り、「有り難い」ことですね。ありがとうございます。(聞き手=菊地武顕)
にしかわ・りゅうじん 1960年兵庫県生まれ。「愛・地球博」のモリゾーとキッコロや「平城遷都祭」のせんとくんの選定・PR、「つくばエクスプレス」沿線の街づくり、全国的な焼酎の人気作りに携わる。JAや日本食鳥協会で講師を務め、農産物のブランド化と大都市部でのチャンネル開発に手腕を発揮している。
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2021年02月06日