大河内志保さん(タレント) おいしく、楽しくが大切
2020年12月26日

大河内志保さん
祖母がとても料理上手だったんです。会社を経営していた祖父は、大病を患いました。社長ですから取引先の方々を接待しないといけませんが、それを全部、自宅でやったんです。祖母はまるで料亭の懐石料理のように、次々に小皿で料理を出していました。
普段の料理も、祖父の健康を考えて、手間暇をかけて作っていました。大きな木のたるで、何十個ものハクサイを漬けていました。イカの塩辛もユズ風味のものを、たんまり手作り。カレーは無水鍋を使って、水を入れずに野菜の水分だけで作っていました。食材も、無添加、無農薬のもの。祖父が体を悪くする前は銀座の「やす幸」が好きだったので、祖母は店に通って勉強し、同じ味のおでんを作って祖父に出したり。どこで知ったのか、サラダにツブ貝をのせ、めんたいことマヨネーズをあえたドレッシングを掛けたり。
母は料理は得意ではありませんが、家族の健康を考えてくれていました。ファストフードや市販のジュースは禁止。インスタント食品も嫌っていました。
子どもだけで親戚の家に遊びに行くときは、叔母に根回しまでしていたんです。真夏に大阪に行ったとき。炎天下で「今日はお母さんがいないからジュースを飲める」と思っていたら、ちゃんとお茶の水筒が用意されていてがっかり。
高校生になって自分でアルバイトをしました。そのお金を使って、母に注意されることもなく好きなものを食べる。それがうれしかったですね。
でも母のおかげで、病気らしい病気にかからずに済んだんだと思います。1人暮らしをするようになってからも、体に良くないものは取らないというのが、自分の中で常識になっていましたから。私の前の夫はスポーツ選手でしたので、私は調理師免許を取って本格的に健康を意識した調理をするようになりました。その基礎となったのが、祖母や母の教えだと感じています。
私は外食が大好きです。おいしい料理を食べながら、楽しく会話をするというのが。でも外食だと、おいしいだけにいっぱい食べ、カロリーオーバーしてしまいます。
その調整のため、家ではおいしいけど太らない食事をするように工夫しています。例えばタイカレーを作るときは、ココナツミルクの代わりに豆乳を使うとか。外食と家でプラスマイナスゼロになるようにする。そうすれば安心して楽しく外食できますから。
体に良くておいしく食べられる料理、楽しく食べられる料理が大事です。ダイエットをしているからサラダばっかりという、まるでウサギのような食事をしている人がいます。何の楽しみも感じない食事では、餌みたいじゃないですか。食彩が豊かでかみ応えもある、五感で味わう献立が理想です。
私が編み出したメソッドは、弱火料理。鍋に少量の油をひき、少々塩を振るんです。そこに野菜、キャベツでもタマネギでもピーマンでもいいんですが、それを敷いてふたをして火をつけます。弱火です。ふたが汗をかきだしたら火を止める。そうすると余熱でじんわりと火が通るんです。
これが野菜を一番おいしく食べる方法。野菜の上に豚肉の薄切りをのせたり、とろけるチーズをのせたり、いろいろ応用もききます。簡単だし、光熱費も安く済み、洗い物も楽。健康にうるさい母に教えたら、この方法ばかりやっていますよ。(聞き手=菊地武顕)
おおこうち・しほ 1971年東京都生まれ。90年、日本航空キャンペーンガールに。タレント活動と並行して食や健康について学び、日本とイタリアでの調理師免許、イタリアソムリエ、介護士2級などの資格を持つ。先月、『人を輝かせる覚悟 「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を上梓。
普段の料理も、祖父の健康を考えて、手間暇をかけて作っていました。大きな木のたるで、何十個ものハクサイを漬けていました。イカの塩辛もユズ風味のものを、たんまり手作り。カレーは無水鍋を使って、水を入れずに野菜の水分だけで作っていました。食材も、無添加、無農薬のもの。祖父が体を悪くする前は銀座の「やす幸」が好きだったので、祖母は店に通って勉強し、同じ味のおでんを作って祖父に出したり。どこで知ったのか、サラダにツブ貝をのせ、めんたいことマヨネーズをあえたドレッシングを掛けたり。
母は料理は得意ではありませんが、家族の健康を考えてくれていました。ファストフードや市販のジュースは禁止。インスタント食品も嫌っていました。
子どもだけで親戚の家に遊びに行くときは、叔母に根回しまでしていたんです。真夏に大阪に行ったとき。炎天下で「今日はお母さんがいないからジュースを飲める」と思っていたら、ちゃんとお茶の水筒が用意されていてがっかり。
高校生になって自分でアルバイトをしました。そのお金を使って、母に注意されることもなく好きなものを食べる。それがうれしかったですね。
祖母と母が先生
でも母のおかげで、病気らしい病気にかからずに済んだんだと思います。1人暮らしをするようになってからも、体に良くないものは取らないというのが、自分の中で常識になっていましたから。私の前の夫はスポーツ選手でしたので、私は調理師免許を取って本格的に健康を意識した調理をするようになりました。その基礎となったのが、祖母や母の教えだと感じています。
私は外食が大好きです。おいしい料理を食べながら、楽しく会話をするというのが。でも外食だと、おいしいだけにいっぱい食べ、カロリーオーバーしてしまいます。
その調整のため、家ではおいしいけど太らない食事をするように工夫しています。例えばタイカレーを作るときは、ココナツミルクの代わりに豆乳を使うとか。外食と家でプラスマイナスゼロになるようにする。そうすれば安心して楽しく外食できますから。
体に良くておいしく食べられる料理、楽しく食べられる料理が大事です。ダイエットをしているからサラダばっかりという、まるでウサギのような食事をしている人がいます。何の楽しみも感じない食事では、餌みたいじゃないですか。食彩が豊かでかみ応えもある、五感で味わう献立が理想です。
弱火で簡単料理
私が編み出したメソッドは、弱火料理。鍋に少量の油をひき、少々塩を振るんです。そこに野菜、キャベツでもタマネギでもピーマンでもいいんですが、それを敷いてふたをして火をつけます。弱火です。ふたが汗をかきだしたら火を止める。そうすると余熱でじんわりと火が通るんです。
これが野菜を一番おいしく食べる方法。野菜の上に豚肉の薄切りをのせたり、とろけるチーズをのせたり、いろいろ応用もききます。簡単だし、光熱費も安く済み、洗い物も楽。健康にうるさい母に教えたら、この方法ばかりやっていますよ。(聞き手=菊地武顕)
おおこうち・しほ 1971年東京都生まれ。90年、日本航空キャンペーンガールに。タレント活動と並行して食や健康について学び、日本とイタリアでの調理師免許、イタリアソムリエ、介護士2級などの資格を持つ。先月、『人を輝かせる覚悟 「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を上梓。
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“もったいない”野菜詰め合わせ 直売所ロス減へ拡大 通販「JAタウン」
JA全農が運営する通販サイト「JAタウン」で、農産物直売所の食品ロス削減を目的とし、売れ残り野菜の詰め合わせ販売が広がってきた。「お野菜レスキューBOX」と題し、4県のJA直売所4店舗が出品する。予約制で、売れ残りが出たときに順次発送。出荷商品を売り切ることで、農家の所得向上にもつなげる。
直売所は朝取り野菜が売りで、閉店後に残った野菜は販売機会を失う。JAタウンの食品ロス削減特集の一環で、兵庫県のJA兵庫六甲の直売所「六甲のめぐみ」が詰め合わせ販売を発案。JA全農兵庫を通じ2月から売り始めた。購入者からは「新鮮でおいしい」と好評だった。
全農は全国で横断的に取り組めるとみて、お野菜レスキューBOXの特設ページを3月に開設。福島県と滋賀県の直売所2店舗も参加し、同月末までに3店舗合計で200セット を売った。4月には和歌山県の1店舗が加わった。各店は、従来から扱う野菜の詰め合わせ販売の発送の仕組みを利用。売れ残り野菜を一定数選び、通常品より2割ほど安くして出荷当日か翌日に発送する。
「六甲のめぐみ」では、通常の野菜BOXと違って品目が偏り同じ種類が二つ入ることがあることや、簡易包装に理解を求め、11種類以上で2660円(送料別)で売る。出荷会員600人のうち賛同した90人の野菜が対象。出荷日の午後、残りそうな野菜が11種類以上あれば詰め合わせて当日中に発送する。
南陽介店長は「旬でおいしい野菜ほど出荷が集中して残りやすい。農家が丹精した野菜を一つでも多く消費者に食べてほしい」と話す。
全農は「農家が出荷した商品を売り切る、直売所の販売先の一つとして確立させたい」(フードマーケット事業部)として、参加店舗を募る。売れ残りの懸念を減らして農家に直売所への積極的な出荷を促し、売り場の活性化にも貢献したい考えだ。
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2021年04月15日

全農の「JA支援」 収支改善を「一体で」 部門またぎ相談機能発揮へ
JA全農は19日、JA経済事業の収支改善で経営基盤強化を後押しする「JA支援」について、2022年度からの次期中期3カ年計画の取り組み方向を公表した。JAと全農が一体的に取り組む状態を「目指したい姿」と位置付け、JA全体を捉えた支援に向けて、全農は事業部門を横断した相談機能の発揮を目指す。
中期3カ年計画公表
同日、JA支援の加速に向けて、県本部の幹部・担当者らを対象に開いた全国会議で、本所のJA支援課が説明した。……
2021年04月20日

広島産ハッサクサワー新発売 全農
JA全農は20日、広島県産のハッサクとレモン果汁を10%使用した「広島県産はっさく&レモンサワー」(350ミリリットル、アルコール度数4%)を新発売する。JA広島果実連と共同開発した。
ハッサク特有のほのかな苦味を生かし、県産レモンの酸味を組み合わせ、風味豊かな味わいに仕上げた。
高糖度の果実の開発競争の中で、昔ながらの味わいが魅力のハッサクの消費は落ち込み、収穫量は最盛期の15%にまで減少。全農の担当者は「ハッサクを食べたことがない若い人にも訴求していきたい」と意気込む。
価格は183円。中国エリア、近畿、四国、九州のセブン─イレブン約6800店で先行販売する。
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2021年04月18日
野菜の需給調整 価格安定へ産地連携を
農水省は、主要野菜の緊急需給調整事業を大幅に見直した。価格低落時の生産者への補填(ほてん)水準を引き上げ、資金の生産者負担割合は軽減した。需給安定には多くの産地の事業参加が不可欠である。全国の産地が協調・連携して取り組むよう、同省は内容を周知徹底すべきだ。
同事業は、天候の影響を受けやすく、作柄・価格の変動も大きく、消費量が多いダイコン、ニンジン、キャベツ、レタス、ハクサイ、タマネギの6品目を対象に実施している。市場価格が、過去の市場平均価格の80%以下に低落した場合、または50%以上に高騰した場合が発動の目安だ。
価格低落時の対策としてこれまでは、出荷の後送りには過去の平均市場価格の3割、加工用への切り替えや土壌還元には4割を補填していた。しかし補填水準が低く生産者のメリットが小さいとして、事業の活用を巡る合意形成が難しいとの指摘があった。実際、過去10年間で最も野菜価格が低迷した2019年(日農平均価格で1キロ130円)も活用はなく、低調だった。
そこで同省は21年度から、価格低落時対策の全メニューの補填水準を平均市場価格の7割に引き上げた。また国と生産者が1対1で造成してきた資金の負担割合を4対1とし、生産者負担を20%に引き下げた。
同事業の実効性が課題となる中で生産者のメリットが高まり、市場価格が大幅に下落する前の事業活用が促されるとみられる。野菜相場の安定につながる見直しとして評価したい。
また、社会的要請が高まる食品ロスの削減に向けて事業のメニューも再編。加工、飼料化、フードバンクへの提供など、有効利用を促す性格が強まった。しかし、有効利用には受け入れ先の手配などの仕組みが必要となるため、産地が取り組みやすい実効性のある体制の充実が重要だ。
同事業とともに生産基盤を支えてきたのが、価格低落時の収入減少を補う野菜価格安定制度だ。しかし、政府内には、青色申告を行う農家が対象の収入保険制度への一本化を検討すべきだとの意見があり、21年度に論議が予定されている。野菜価格安定制度と同事業は、野菜の産地づくりや安定供給に貢献しているとの評価が高い。多くの農家が加入できるセーフティーネット(安全網)は必要である。
食料・農業・農村基本計画では、野菜の生産量を18年度比で、30年度までに15%増やす目標を設定。「豊作時の価格低落や不作時の価格高騰を防止・緩和する具体策を検討する」と明記した。消費者への安定供給が目的だ。今回の見直しを機に同省には、多くの産地が需給安定に取り組む態勢づくりが求められる。
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2021年04月15日
切り花 品目間で明暗 洋花好調、菊は葬儀用が苦戦
春の需要期が過ぎ、切り花相場は品目で明暗が分かれている。家庭用など用途の広いカーネーションやバラといった洋花は平年と比べ1~3割高で推移。一方、葬儀や供え花に使う輪菊や小菊は1~3割安と低迷する。業務用の仕向けが多い産地は、新型コロナウイルス禍の需要不振から販売が減少する中、新たな販路を模索している。(柴田真希都)
直近の取引があった14日の日農平均価格(全国大手7卸のデータを集計)は、カーネーションやバラ、ガーベラが平年比2、3割高。いずれも小幅だが3営業日連続の上昇で、この時期には異例の高値基調だった。「家庭での普段使いの他、開店の祝い花や装飾など用途が広く、売れ行きが良い」(大田花き)。
今年の切り花全体の相場を見ると、1、2月は大きく下落した。大都市圏の緊急事態宣言再発令と低温が直撃し、月別の日農平均価格は平年比2割安の1本当たり53円と低迷。一方、3月は送別会や彼岸向けの仕入れが進んだことから70円と高水準で、販売量も過去2年を上回り、活発な取引となった。
しかし、彼岸が明け通常期に戻ると、菊類などが再び平年を下回る展開に。輪菊は彼岸後から11営業日連続で平年比1、2割安で推移し、14日は39円と2カ月ぶりに40円を割った。小菊も8営業日連続で平年を1~3割下回る。「量販店の仏花束の動きが鈍い。新型コロナの感染再拡大によって、主要な購入層の高齢者が店に行く頻度が減っている」(同)。
通常であれば、小売りや加工業者が前もって多めに仕入れるケースも多いが、コロナ下では消費の先行きが不透明なため、仕入れを必要最小減に抑える傾向だ。物日向けは間際に足りない分をせりで買う業者が増え、せりよりも高く売れるはずの注文販売分があおりを受け、苦戦している。
輪菊の主産地、JA愛知みなみ(田原市)では、今年度の注文の年間契約分が大きく減った。「コロナ禍による葬儀縮小で上位等級の減少が大きい」(同JA)。減少分を補うため、従来輸入品を使っていた業者に置き換えを提案したり、5月の「母の日」に向けた墓参り需要(母の日参り)を当て込み、積極的に注文を取るなど、新たな販路の開拓に努めている。
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2021年04月16日
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樹里咲穂さん(女優) 苦手なキュウリ舞台の思い出に
子どもの頃から、キュウリが苦手でした。しっかりと味が染み込んだ漬物とか酢漬けなら大丈夫なんですけど、生のキュウリの青臭さが……。
私のキュウリ嫌いは、周りの人やファンの方にも有名でした。というのも、プロフィルに書いていたから。
私は2005年、お世話になった宝塚を卒業しました。最後の舞台は『Ernest in Love』という作品で、19世紀英国の貴族の物語。その当時、英国ではキュウリが貴重品とされていたそうで、舞台ではキュウリサンドがアフタヌーンティーに出てくるんです。
冒頭、主人公の私が親友のもとを訪ねると、親友がキュウリサンドを食べているというシーンがあります。彼に「キュウリサンド、いる?」と聞かれ、「いらないよ」というせりふがありました。ですから食べなくて済むんですよ。
でも千秋楽、本当に卒業するという日に、親友役をやってる子が「いやいや、そう言わずに」と言ったんです。客席から拍手が起きて、食べざるを得なくなってしまって。そのため最後の舞台は、戦意喪失してしまいました。それにしてもキュウリを食べただけでものすごく喜んでいただくなんて。強烈な思い出として残っています。
最近は、生のキュウリにも歩み寄れるようになってきました。いっぱいマヨネーズをかけたり、梅干しとあえたら、食べられるようになったんです。私は努力してるんですよ。でもキュウリが私を拒絶している。一進一退の闘いが続いているところです。
子どもの頃から好きな料理というと、カレーですね。母のカレーには、ジャガイモ、ニンジン、タマネギがたっぷり入っていて。肉はビーフで、ごろっとした大きな肉だったり、薄切りだったり、その時その時で切り方が変わっていました。ごく普通のルーを使ったものですけど、隠し味にコーヒーの粉を入れて奥行きを出していました。
去年の緊急事態宣言期間。毎日ずっと休んでいないといけないので、曜日の感覚がなくなりそうでした。それで思い出したのが、前に護衛艦の1日艦長をやらせていただいた時のこと。よく海軍カレーといいますが、週に1回カレーの日にすることで、曜日の感覚を取り戻すと聞きました。そこで私も、毎週金曜日はカレーの日と決めたんです。
母が作ってくれたカレーとは違い、インド風のスパイスカレーを作り続けました。飽きないように、具材で工夫をしながら。豚のスペアリブを使ったり、キーマにしたり。
最初にホールスパイスを熱して、香りを出して。次にタマネギを炒め、その後で粉のスパイスを入れる。きちんと水分を飛ばさないといけないらしいんですね。お玉でフライパンをこすると道ができれば、水分が飛んだ証拠。カレー業界ではこの道をカレーロードというらしいんです。作りながら「来た来た来た、カレーロード来た」と心の中で叫びました。
ギョーザも作るんですが、最後、ひっくり返して皿にのせるのが難しい。肉汁が手に垂れたら、熱くて死ぬ。そう考えたら怖くてできなくて。思い切りが悪いから、まるで代々木第一体育館みたいな変な形になってしまいます。
私はそれまであまり料理はしなかったんですが、料理を作るのを見るのは好きなんですよ。料理番組を録画して見るくらいでしたから。そうして頭の中にためていった知識が、ようやく開花しました。やっぱうまいなあと、自画自賛して作っています。(聞き手=菊地武顕)
じゅり・さきほ 1971年大阪府生まれ。宝塚歌劇団に入団し、90年花組公演にて初舞台。男役ながら女役もこなし、幅広い役柄を演じた。伸びやかな歌声と優れたダンスに定評がある。2005年、主演を務めた「Ernest in Love」を最後に退団。その後も舞台を中心に活躍を続ける。5月からミュージカル「レ・ミゼラブル」に出演予定。
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2021年04月17日

本郷和人さん(歴史学者) 母の手料理こそ一番のごちそう
母は栄養士で、東京栄養専門学校という栄養士を育成する専門学校の立ち上げから関与していたんですね。僕が幼稚園の頃、まだ洋食があまり普及していない頃から、母はドライカレーや手ごねハンバーグを作ってくれました。
前の東京オリンピックの時、帝国ホテルの村上信夫シェフが選手村の料理を管轄されていましたが、母はその下で働いていたんです。だから僕の家には金メダルがあるんですよ。料理のスタッフに贈られたわけです。母が言ってましたけど、選手村の調理に携わるに当たって、家系から何から全部調査されたそうです。
うちは両親と僕と弟、それに祖父母と父の姉が住む大家族でした。祖父と祖母は、サトイモの煮っ転がしとかが好きなんですね。母は和食も得意で、祖父母が喜ぶような料理も実においしく作ってくれて。だから僕は、子どもの頃から煮っ転がしとかも大好きでした。
僕は小さい頃、体が弱かったんです。それで親が心配して、小学校1年生の時に、1学期間だけ仙台の田舎に預けられました。毎日、朝露を踏んで駆けっこすると、体が良くなるんじゃないかというような話で。
その時に僕が預けられた家では、農作業もやっていたんですね。出荷しない野菜を食べさせてくれました。おいしかったなあ。仙台で、野菜のおいしさに目覚めました。
東京に戻ってからは、母の漬物のおいしさも分かるようになって。キュウリやナスの漬物があれば、それだけでご飯3杯いける、みたいな感じになりました。
おいしいものをどんどん食べなさい。それが母の教えでした。家でおいしいものを食べたからか、小学校の給食がまずく感じて。今になって思えば、懐かしさは感じますよ。でもおいしいと思ったことはない。よく、給食のことを回想して、「おいしかった」という人がいるじゃないですか。僕には信じられません。
中学・高校時代、母はずっと弁当を作ってくれました。でもそれだけじゃ足りないんです。2時間目が終わると、弁当を食べちゃいました。4時間目が終わると、食堂へ。カレーが80円、ラーメンが70円でした。時々、80円でチャーハンが、70円で焼きそばが出たんです。そちらはけっこう人気。数に限りがあって、あっという間になくなるんですね。チャーハンと焼きそばが出る日は、皆、食堂に向かって飛んで行きました。
母が東京栄養専門学校で働いていた頃、東京大学史料編纂(へんさん)所の菊地勇次郎という方が教えに来ていたそうです。菊地先生は後に史料編纂所の所長になられた方です。食物史を得意としていたので、その講義のためにいらしていたんですね、アルバイトで。母によると、菊地先生はとてもすてきな方で人気があったそうです。小学校4年生くらいの時、歴史が好きだった僕に母が言いました。
「あなたは東大に入って、史料編纂所に行けばいいんじゃない」
僕は27歳で史料編纂所に入りました。その年、京都の醍醐寺に調査に行ったんですよ。その調査団のトップが、史料編纂所を辞めていた菊地先生でした。声は掛けなかったけど、顔は見てます。
母はがんで57歳で亡くなりました。末期は、東大のそばにある日本医大病院に入院したんです。僕は大学から自転車で、母の病床に通っていました。同じ頃、病院には菊地先生も療養されていたのです。不思議なご縁を感じました。(聞き手・写真=菊地武顕)
ほんごう・かずと 1960年東京都生まれ。東京大学、同大学院で日本中世史を学ぶ。東京大学史料編纂所教授。「戦国武将の明暗」「戦国夜話」「日本史のツボ」など多数の著書で歴史を分かりやすく説明する。近著に「『失敗』の日本史」(中公新書ラクレ)、「『違和感』の日本史」(産経セレクト)がある。
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2021年04月10日

本田武史さん(プロフィギュアスケーター、スポーツコメンテーター) 海外生活支えた現地の日本料理
小さい頃は、福島県郡山市で農業をやっていた祖父母の家の近くに住んでいたので、よく米作りの手伝いをしました。種まき、田植え、稲刈り……。その頃はまだ機械化が進んでいなくて、機械でできないところを人の手で一本一本補っていました。
田んぼの他に畑もあって、米と野菜は自給自足だったと思います。田んぼもかなり広くて、米蔵があり、精米機もありました。
もち米も作っていて、お正月になると毎年、杵(きね)と臼を使って餅つきをしていました。餅は焼いて砂糖しょう油で食べたり、あんこやきな粉で食べていました。
中学になるとスケートのため、母と2人で仙台に引っ越しました。母はパートで仕事をしていたので忙しかったし、僕は朝早くから夜遅くまで練習があったので、ゆっくりと2人で食事をする時間がありませんでした。
練習中、整氷のために15分ほど休み時間があります。その時に母の作ってくれたおにぎりを素早く食べました。
好き嫌いがなかったので、食べたい物をたくさん食べていました。練習量が多いので、減量に苦しんだことはありません。体脂肪が1桁しかなかったため、下手に体重を落とすと体調を崩すんです。しっかり食べないと、体がもたなかったです。
海外に住んでいた時は、やはり日本食が恋しくなりました。
最初に行ったのは、米国のコネチカット州。日本人がほとんどいない田舎町で、ホームステイをしました。ホームステイ先での料理は肉が中心。もちろんご飯ではなくパンです。
町に1軒だけ日本食レストランがあって、そこですしやそば、うどんを食べました。
その店のオーナーは日本人で、以前はマサチューセッツ州で働いていて、僕が試合に出るためそちらに行った時に会ったことがあったそうです。
そんな縁もあり、すごくよくしてくれました。力になるようにとメニューをいろいろ考えてくれ、時々弁当も作ってくれました。大会前にはカツ丼を作ってもらったこともあります。日本人の客がいないので、日本人に食べてもらうのがうれしかったのかもしれません。
長野オリンピックの後、カナダのトロント郊外に移りました。
トロントは大都市で、日本食レストランがいくつかありました。日本の食材などを扱う店もあったんです。そこで炊飯器を買いました。僕の住んでいたのは車で1時間くらいの小さな町でしたが、週末の練習が休みの時にはトロントでまとめ買いをしました。
売っている米はタイ米でしたが、たまに日本の米も入ってきました。タイ米は細長くパサパサしていますが、水の量を多くして炊いたり、チャーハンやお茶漬けにするなど工夫をすれば、全然大丈夫。
海外生活で気になったのは、野菜ですね。どうしても肉の量が多いので、できるだけ野菜をたくさん取ろうとしました。でも向こうの野菜は大味じゃないですか。いつも蒸して食べていました。その方が体にいいと聞いていましたし、甘味が増すから。
現役を引退してからは、食べ過ぎないように気をつけています。筋肉が落ちやすいし、疲労回復にも時間がかかるので、意識してタンパク質を取っています。それに合わせるようにビタミンも。日本の野菜はおいしいので、生野菜でも温野菜でも食べています。(聞き手=菊地武顕)
ほんだ・たけし 1981年福島県生まれ。7歳からショートトラックスケートを始め、その後フィギュアに転向。史上最年少の14歳で全日本選手権優勝。98年の長野五輪に史上最年少の16歳で出場した。99年、四大陸選手権大会の初代王者に。現在はプロとしてアイスショーに出演する他、後進の指導にも当たっている。
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2021年04月03日

ジェシカ・ゲリティさん(タレント) 二つの文化 良さ伝えたい
私の母国ニュージーランドといえば羊のイメージでしょうけど、牛の国でもあるんです。人口480万人なのに、乳牛だけで620万頭もいます。酪農大国で、チーズやバター、アイスクリームといった乳製品を大量に食べます。
バターは、いろいろな料理に使います。主食はジャガイモなので、それに掛けてジャガバターとして食べます。チーズとヨーグルトは種類が豊富。スーパーに行くと、乳製品の売り場が全体の半分くらいを占めているんです。
ニュージーランド人は自然の中が大好きです。小さい頃からよく父と一緒にキャンプに行きました。父は簡単な料理しかできないんですが、オムレツとトーストの朝食はおいしく、非常に良い思い出がたくさんできました。
釣りも人気で、魚も貝もウニも、自分で捕って食べるのが普通。私も行きました。サメを釣ってしまったことを思い出します。
懐かしく感じる料理は、フィッシュ・アンド・チップス。揚げた魚とポテトフライです。テークアウェー(持ち帰り)の専門店があって、注文すると新聞紙に包んでくれます。これを家で食べたり、海の近くで食べたりするんです。
金曜は家事休み
ニュージーランドでは文化的に、金曜日はお父さんもお母さんも家事を休みたいという考えがあります。私のうちでも、金曜日にはフィッシュ・アンド・チップスを持ち帰って食べていました。
国民食といっていいのが、パイ。日本人のおにぎりのようなものですね。手のひらサイズで、外がペイストリーの生地。中には肉。ミンチとか、ステーキ・アンド・チーズとか、チキンとかいろいろな種類があります。ミンチの上にマッシュポテトを載せるシェパーズパイ(羊飼いのパイ)というのがあって、母がよく作ってくれたんですね。ニュージーランド版おふくろの味かもしれません。
独特の果実として、フェイジョアがあります。キウイフルーツと同じくらいの大きさ。外は緑色で、切ると白。パインナップルとバナナがミックスされたような味です。夏に、庭で大量にできちゃうんですね。
レンコンに驚き
反対に日本に来て初めて知った野菜もあります。レンコンです。切ってみてビックリしました。まさか穴があるなんて。これ、宇宙から来たんじゃないかと思ったくらい。煮物で食べていますけど、ビジュアルのインパクトがすごくあるので、サラダにも載せます。ゴボウにも驚きました。土が付いた状態で売っているのを見て、いったいどうなっているのか分からなかったですね。
不思議だったのがこんにゃく。謎の石みたい。でもおいしいから、炒めたり、肉じゃがやおでんに入れたり、いろいろ使っています。子どもも大好きで、この間、聞かれたんです。「これって、何なの?」と。それで調べて、初めて芋だったことを知りました。
ニュージーランドでは今、日本食がブームです。魚で人気が高いのはサーモンで、ムニエルで食べることが多いですが、お刺し身で食べる人も増えつつあります。緑茶も人気です。ビタミンCが豊富に入っているので、健康に良いと。飲み方はちょっと変わっていて、ミカンやリンゴなどフルーツの味を加えて、ハーブティーのように飲んでいるんです。
二つの国の食文化に接することができて、とてもうれしいです。それぞれの良さを伝えられればと思っています。(聞き手=菊地武顕)
ジェシカ・ゲリティ ニュージーランド生まれ。大学時代に訪れた日本に魅了され、移住。「世界の日本人妻は見た!」「世界が驚いたニッポン! スゴ~イデスネ!!視察団」などの番組に出演。「世界くらべてみたら」(TBS)レギュラー。埼玉県の海外向け観光大使「LOVE SAITAMA アンバサダー」も務める。弓道は三段の腕前。
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2021年03月27日

水道橋博士さん(タレント・著述家) 長年の腰痛、下痢から解放
ずっと長い間、腰痛に苦しんできました。25年くらいですから、人生の半分近く。その上、ここ何年かはひどい下痢にも悩まされ、本当に体調が悪くて。
ひらめいて腸活
これは何か食べ物が関係しているのかなと思いました。最近、腸活という言葉をよく聞くので、自分も腸活をやってみようと思ったんです。別に誰かに勧められたというわけではない。自分のひらめきで。
ヨーグルト、納豆、キムチ、ラッキョウ、ニンニク……あとワカメですね。それらを自然食品の店で買ってきて、大きな丼に入れてミックスしたんです。それを食べたのは、1月28日。
次の日の便は下痢でしたが、色が全く違っていた。宿便でしょう。感覚的には、経年劣化している腸に対して、パイプクリーナーを飲んだ感じ。そしてその次の日。便は固形でした。3年ぶりくらいかな。お通じがこんなに良くなるなんて、思わなかったです。
1週間くらい続けたら、腰痛も治りました。それまではあまりの痛さで、ペットボトルを持つこともできない状態でしたが。
今では毎日1万歩以上、歩いています。これまでやりたくてもできなかった本棚の模様替えも、できました。
ヨーグルトは、小岩井の生乳ヨーグルト。甘味も酸味もそんなに強くないので、他の食材を加えて味を足し算しても大丈夫だろうと。それでまずは納豆と一緒に食べようと思ったのが、始まりです。
材料を見極めて
入れる食材は、本当においしいものを買いに行ってますよ。住んでいる高円寺(東京都杉並区)の日本食屋さんが、市をやっているんです。行列ができるくらい人気で、そこに午前11時半から並んで、ワカメだけを買うんですね。ワカメってピンからキリまでありますよ。ここのは、なんの味付けもしないでそれだけ食べてもいい。ちょっと塩の味がついているから。
キムチは、新高円寺にあるキムチ選手権で日本一になったお店に買いに行っています。ニンニクやラッキョウも、中国産のなら安く買えますが、必ず国産。ニンニクは北九州の業者さんと知り合って、そちらのを食べています。めちゃくちゃうまい上、においが残らない。素揚げして、葉先から根っこまで食べられます。
毎日、朝は必ず発酵ミックス。1日2食のこともあります。
いろんな食材を加えるようになりました。前の晩の残り物の肉じゃが、豚のしょうが焼きとか、冷蔵庫に入っていた万能ネギやゆで卵を入れるんです。
味付けも、例えば今日はエビの味がいいなと思ったら、新潟の南蛮エビのみそ汁のもとを入れたりします。その時の気分で、だしを変えて味を変えるんです。
発酵ミックスによく合うと感じた野菜は、ブロッコリー。もともとブロッコリーは体にいいのでたくさん食べたいと思っていたんですが、味がないじゃないですか。この食べ方だとおいしいので、いくらでも食べられます。
毎日10時から2時間くらいかけて、散歩をしています。
それが終わると、お昼ごはん。
高円寺にはエスニックのお店が多い。それと焼き肉屋が増えました。高円寺で評判の店には、全部行ってますね。新型コロナ禍なので、地元の好きな店を応援したいという気持ちが強くて。発酵ミックスのおかげで体調が良く、昼もおいしく食べています。(聞き手=菊地武顕)
すいどうばしはかせ 1962年、岡山県生まれ。ビートたけしに弟子入りを認められ、87年に玉袋筋太郎と浅草キッドを結成する。著述家としても人気を博し、近著に文庫版「藝人春秋2、3」(文藝春秋)がある。「BOOKSTAND.TV」(BS12)、「北野誠ズバリサタデー」(CBCラジオ、4月から)レギュラー。
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2021年03月20日

松本薫さん(柔道ロンドン五輪金メダリスト) 骨折しない体になり開花
私にとって思い出の食べ物といえば、父が作ってくれたスペアリブです。中学の頃から、試合の前、合宿や遠征に出掛ける前、父がいつも作ってくれました。私にとっての勝負飯でした。
海外での大会での試合前に絶対食べたのが、卵。黄色い黄身が「君に金メダル」と言ってくれているみたいじゃないですか。ロンドンオリンピックの時は、栄養士さんに卵焼きを作ってもらい、それを食べて試合に臨みました。
勝利のためなら
験担ぎやルーティン(決まり事)をあえてしないという考え方もあると思います。でも私はやった方がいいと思っていましたし、周りの選手も何かしらやっていましたね。試合前は必ずカツ丼を食べるとか、パンではなくご飯じゃないと力を出せないとか。
勝つ道に続くのなら、できることはどんなことでもするんです。
これを食べたら、これをやったら、自分が落ち着く。そういうものがあったら、すがり付きます。柔道選手は体はタフなんですが、優勝して当たり前と期待されていますので、プレッシャーが大きい。それだけ注目して応援していただいているわけですから、こちらとしてもしっかり卵を食べて勝ちにいったわけです。
私は甘い物が大好きなんです。学生の頃はめちゃくちゃな食生活をしていました。お昼ご飯は、お米も肉も野菜も食べずに、アイスやチョコと炭酸飲料で済ませていました。いつもそればっかり。
私が甘い物好きなのは、強化コーチも知っていたので、禁止令を出されました。合宿の時は見張られていたんです。それでも食堂でジュースだけ飲んで「ごちそうさまでした」と言って、部屋に戻って甘いお菓子を食べたりしてました。先輩たちにバレて、めちゃ怒られました。
食生活が悪かったから、よく骨折をしました。18、19、20歳と、年に1回骨折したんです。
21歳、大学4年になって、そろそろ実業団に入るので、このままではいけないと感じて、食生活を改善しました。自分でもかなり勉強したんです。体がきつい時は、豚肉を食べてアミノ酸を取る。減量時には脂肪と炭水化物を減らしてタンパク質多めの食事を。試合前の1週間は炭水化物を多めにしてエネルギーを作るように、と。
食事を改善してからは、骨が折れなくなりましたね。しっかり筋肉が出来上がって、減量の必要がほとんどなくなりました。そして、力を発揮しやすくなったんです。それまでできなかった技の仕掛けに素早く入れるようになったんです。戦っていて「あれ、技に入れる。技をかけられる」と、不思議に感じました。瞬間的な動きや素早い反応ができるようになり、柔道の幅が広がったと思います。
“勝負飯”娘にも
結婚して子どもにも恵まれました。旦那と二人で、手料理をするように心掛けています。食事が本当に大事だと分かったからです。私が一番得意なのは、父からレシピを教えてもらったスペアリブ。3歳になった娘が初めてお稽古事に行く時に作ってあげました。娘の勝負飯です。
今、私はアイスクリーム店で働いています。天職だと感じています。一緒に働く皆と試食もしないといけないですから。でも食べ過ぎないように抑えるのが大変。食べたい気持ちを抑えて、ルールを作りました。試食は2口まで。それだけでどう改良すればいいか判断できるように、五感全てを研ぎ澄ませて食べています。(聞き手=菊地武顕)
まつもと・かおり 1987年、石川県生まれ。2010年から3年連続で女子57Kg級世界ランク1位。12年のロンドン五輪で金メダルに輝き、闘志あふれる姿から「野獣」と呼ばれた。16年のリオデジャネイロ五輪では銅。19年に引退し、現在は所属会社が開いたアイスクリーム店「ダシーズ」で働く。2児の母でもある。
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2021年03月13日

栗山千明さん(女優) レンコン映画に悪戦苦闘
私が生まれ育った茨城県は、レンコンの生産日本一なんです。
でもそのことを知ったのは、大人になってから。私の住んでいたところに農地はなく、ちょっと遠出してレンコン畑があると、親から「落ちたらダメだよ」と言われたことを覚えています。
今回、加賀レンコンを題材にした映画『種まく旅人~華蓮のかがやき~』に出演させていただきました。レンコン農家の生き方を描く作品で、畑に入っての撮影シーンもありました。
覚悟はしていたんです。埋まってしまう、思うように動けない。事前に知っていましたので、これは大変だぞと思いながら入ったんですが、やっぱり。
このせりふを言う時にはこの動きを……と思って体を動かすんですが、いざやってもできないもどかしさが。
農家の苦労実感
畑の真ん中で、撮影のセッティングを待つこともありました。普通なら一回上がって待つのでしょうけど、端まで行くのが大変なんです。ですからスタッフの方に「私はここにいます」と言って残るんですが、どんどん足が埋まっていって動けなくなってしまうんです。それを防ぐため、たまにもじもじ動いてみたり。農家の方のご苦労に頭が下がりました。
私は初めて畑に入るという設定の役でしたから、慣れていなくても成立します。私のあたふたしている様子が、ナチュラルに映っていると思います。
金沢での撮影というと、夜はおいしい魚を食べたんだろうと思われるでしょうが、残念なことに違うんです。夜のシーンの撮影がたくさんありましたし、宿泊しているところから繁華街が遠い上、朝早くから撮影が始まりましたので、食べに行けませんでした。前に舞台で金沢に行った時は、いろいろ食べられたんですが。
地元野菜を堪能
その代わり今回は、地元の方々がレンコンをはじめ野菜を使った料理を振る舞ってくださいました。面白い上においしかったのは、レンコンをすりおろしてお好み焼きに入れたもの。他にも、言われないとレンコンだと分からない料理がいくつも出てきました。
子ども時代は、レンコンはきんぴらとか煮物とかでしか食べたことがなかったんです。おいしい食べ方がいろいろあるんだと、初めて知りました。
『種まく旅人』はシリーズ化され、今回が4作目。私が出演するのは2作目ですけど、おかげで食に対する探究心が強まりました。
もともと日本食派なんです。ご飯が大好き。おそば、うどんも好き。茨城生まれですから、納豆は常に冷蔵庫に入っています。あと、生ものが好きなんですよね。魚、貝、鶏のささ身。野菜もそのまま生で食べるのが好きです。セロリとかは、マヨネーズも何も付けずにバリバリと食べます。
生でいただくのが好きだから、料理が上達しないという欠点があるんですが。
仕事で海外に行くことはあっても、海外旅行には興味を持てません。観光は楽しめても、長くいられないんです。「あー和食を食べたい」という気持ちになるから。日本に帰ってきたら、真っ先に刺し身を食べたくなります。
以前、舞台の仕事で金沢に行った時は、おいしい刺し身に感動しました。今回は加賀野菜の素晴らしさを知ることができました。次に金沢に行くことがあったら。ゆっくりと魚と野菜をいただきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
くりやま・ちあき 1984年茨城県生まれ。モデルを経て、99年に映画『死国』で女優デビュー。『バトル・ロワイヤル』(2000年)での演技がクエンティン・タランティーノ監督を魅了し、同監督の『キル・ビルVol.1』(03年)に出演した。『種まく旅人~華蓮のかがやき~』は3月26日石川県先行上映、4月2日公開。
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2021年03月06日

和田秀樹さん(精神科医) 一番おいしい方法を探求
私の好きな食べ物は、エビとカニ。新型コロナ禍のため、今はよく弁当を買うんですけど、エビフライとかカニクリームコロッケが入ったものを選んでしまいます。最近はエビカツが好きになりました。
格別だったエビ
エビ好きに関しては、母親の兄のおかげです。伯父は特攻隊に行くはずで死を覚悟しましたが、結局、行かなかったそうです。戦後、精神的に不安定な時期もありましたが立ち直り、魚の卸売市場の親方に気に入られて、私が子どもの頃は店を任されていました。
伯父はよく私の母親に「持ってけ」といって、氷付けになっているエビを1箱くれたんですよ。クルマエビくらいの大きさでした。
当時は流通や冷凍技術の関係で、どんな魚を食べても生臭かったんです。でも伯父からもらったエビは臭みがなくおいしかった。
エビが本当に高い時代でしたからね。友達がうらやましがるのを横目に食べたんです。豊かさの象徴のように感じられました。
カニについては、父が京都府の丹後出身で、冬場に父の実家に帰ると大量のカニを食べました。
カニというと福井と鳥取が有名ですが、今、東京で最も高額で取引されているのは、生きたまま空輸される間人(たいざ)のカニ。丹後半島で捕れるものです。私は知らずに、雌とはいえ最高のブランドカニを食べていたわけです。
30代のはじめ、米国のカンザスに留学していました。向こうでもエビやカニはスーパーにあるので不自由はなかったんですが、唯一困ったのがカニクリームコロッケ。ずっと飢えていました。
学会出席のため、ニューヨークに行った時。日本の商社や銀行、日本食レストランが並んでいる一角に、居酒屋を見つけたんです、入ってみたら、メニューの中にカニクリームコロッケがあって。すごくおいしくいただきました。
食べ物については、もう一つ思い出があります。やはり米国でのことです。私は基本的に日本食派ですが、世界三大珍味の一つ、白トリュフは大好きなんです。
これをパスタや肉の上に削りかけると値段がグンと上がるわけですが、それほどの価値があるのか疑問に感じていました。
白トリュフの謎
15年くらい前、白トリュフの謎が解けたんです。精神分析の師匠を訪ねて米国に行った時、サンタモニカの高級イタリアンレストランに入ったんですよ。そこは冬場に、世界一高い白トリュフを出すというんです。
白トリュフのカルパッチョがあり、ものすごく高い値段でしたが観光気分で頼んでみました。
これは生まれてこの方、食べた料理で、一番おいしかったです。
何が違うかというと、肉の上から掛けるんではなく、肉を白トリュフの漬けにしたんです。白トリュフを絡めたオイルに、生肉を漬けた料理だったんですね。
一口食べて発見しました。「これは世界一高いかつお節だ」と。かつお節も、上から掛けるよりも、だしにして食材に味を染み込ませる方がうまいじゃないですか。それと同じことを白トリュフでやっていたわけです。
それで感じたのが、食材には一番おいしい食べ方があるということ。カニクリームコロッケにしても白トリュフ漬けにしても、最高においしく食べるための工夫なんです。こうした工夫のおかげでよりおいしく食べられれば、食材を作った方への感謝の気持ちも一段と強くなると思っています。(聞き手=菊地武顕)
わだ・ひでき 1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒後、同付属病院精神神経科、老人科、神経内科で研修。現在は国際医療福祉大学赤坂心理学科教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長などを務める。心理学や受験指導に関する書籍を多数執筆。近著は『感情的にならない心の整理術』(プレジデントムック)。
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2021年02月27日

古村比呂さん(女優) 闘病で知ったありがたみ
私は子宮頸がんの手術をしました。再発後には抗がん剤での治療を受けました。食べ物についての一番の思い出は、その2回の闘病時に感じたことです。
最初は2012年の摘出手術の時です。
術後3日目に、初めて重湯が出ました。それまでずっと点滴でしたから、久しぶりに口から食べ物を入れたわけです。
口で味わう感動
一口目をいただいたら、汗が出てきたんです。全身の毛穴から汗が。そんな経験は初めてだったので、とても驚きました。口から物を入れるということのすごさをまじまじと知ったんですね。細胞が動き出した、細胞が喜んでいる。そのように感じました。
2回目は、5年後。再発したので、抗がん治療を始めました。
そうしたら、食べるということに喜びを得られなくなってしまったんです。料理の味が感じられない。そのため、気分がなえてしまいました。食事というよりも餌を食べているような感覚になってしまったんです。
そんな時期に、息子が玄米かゆを作ってくれました。それがすごくおいしくって。
それまで料理なんて作らなかった息子が作ってくれた。それに対するありがたさもあるんでしょうけど、すごくおいしかったことが忘れられません。
息子も必死だったんでしょうね。けっこう手の込んだかゆで、まるで白い汁のようでした。息子は、私がそれを飲む様子を見ていませんが、「おいしかったよ」と伝えたら「よかった」とものすごくホッとしたように答えました。
抗がん治療を終え、今では普通になんでもおいしく食べられるようになりました。
この二つの経験の後では、食べ物をいただくということに対する感覚が全然違いますね。口から物を食べられるありがたさを知り、食べ物で体ができているんだということを実感したので、感謝の気持ちが強くなりました。
食べ物は、嗜好(しこう)品になりがちのところもあるじゃないですか。欲しいときにすぐに手に入るものだし、好き嫌いを言って構わないものだと。私も病気になる前は、ありがたみを感じずに食べていたと思います。
粗末にできない
今では食べ物を粗末にするのはとても失礼だと感じます。食べ物でいろんな人たちとつながっている。そういう思いが出てきましたね。生産や流通に関わる皆さんのおかげで、私の体がつくられているんだ、と。皆さんはどういう思いで頑張ってくれているんだろうと、バックグラウンドやドラマを想像しながらいただきます。
私は北海道の過疎地で育ちました。同居していた祖父母は、最初はその土地で自給自足のような生活をしていたそうです。私が育った頃でも野菜を作っていましたし、毎朝、近くの農家さんから牛乳を買っていました。
20歳になる年に上京して、芸能活動を始めました。
田舎者としては、東京の食べ物が珍しくて、外食ばかりしていたんです。そうしたら1週間で調子が悪くなったんです。体に発疹が出ました。きっと体がびっくりしたんでしょうね。いったい何を食べているんだ、と。
そこで、自分で作るようにしました。最初に作ったのは、肉じゃがと豚汁。それを食べた時のほっとした感覚を覚えています。やっぱり食べ物が、私たちの体をつくっているんですよね。(聞き手=菊地武顕)
こむら・ひろ 1965年北海道生まれ。85年の映画「童貞物語」の主演でデビュー。87年のNHK朝の連ドラ「チョッちゃん」でヒロインを務めて、人気女優に。子宮頸がん、リンパ浮腫との闘病を経験。同じように病気で苦しむ女性たちを支援する「HIRAKU」プロジェクトを展開している。
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2021年02月20日

黒川伊保子さん(脳科学者・エッセイスト) 山の恵みで「母の味」再現
食のこだわりといえば、私には二つ。信州みそと、九州のぬか漬けです。父が信州は伊那谷の出身で、母は福岡県伊田町(現・田川市)で育ちました。私の名の「伊」は二人の出身地から名付けられました。
幼いころ食べていた祖母の手作りのみそが忘れられずにいたら、大学時代のルームメートが松本に嫁ぎ、姑と手作りしたみそを分けてくれるようになりました。それが、思い出の味そのままで。大豆は家の前の畑で作るのだとか。やはり、土地の味というのがあるのだなと痛感しました。20年ほど幻だった味を、毎日のように食べています。
私にとって、もう一つの幻の味が、母の作るぬか漬けでした。母は腰を悪くしてから、20年ほどぬか床を養生しておらず、私は、時折、母のぬか漬けがどうしても食べたくなり、「高級糠床」なるものを買ってはみるのですが、母のような味はどこにもありませんでした。
ぬか床は家の宝
母の出身地は、ぬか床を大切にする土地柄です。母の実家のぬか床も100年以上続いたものだったといいます。この家のぬか床は、昆布などのだしと、さんしょうをザクザクと入れるのが特徴。母も伯母も、ぬか床をなめて味の確認をしていました。ぬかみそは、臭くなんかなかったです。実際、福岡県の中部・北部では、ぬかみそを使ってイワシなどを煮て食べます。みそと同じ調味料感覚なんです。
私は断然キュウリですが、母が好きなのはナス。ナスにはこだわりがあって、小ナスを漬けるんですが、小さ過ぎると硬過ぎる。漬けるのにちょうどいい大きさというのがあるわけです。
母の里ではぬか漬けにピッタリの大きさのナスが市場に出ていたそうです。私を育ててくれた栃木では、その大きさのナスがなかった。それで自分で種を植えて育てていました。どうもうまくいかなかったようですが。
昭和40年代くらいでは、今のように流通が発達していませんから、それぞれの土地によって食材が違っていました。
私自身は、何度もぬか床作りに挑戦してはいるのですが、どうにも母の味に近づけず、結局、仕事にかまけて駄目にしたりして、とうとう還暦まで来てしまいました。
ところが、その還暦の年、母の味が再現できたんです。息子のおかげ。息子が日光・足尾の山の一角を買ったのですが、その斜面一帯に、サンショウが鈴なりになっていたんです。大粒の、辛いだけではなくうま味を感じさせる極上のサンショウでした。そういえば、母も、サンショウにはこだわっていましたね。
今のぬか床を作り始めたのは、息子の妻のためなんです。彼女は腸が弱いんですね。母も私も便通で悩んだことはないから、母のぬか漬けのおかげで腸内細菌が整ったのかもと。人生最後の挑戦のつもりでぬか床を作ったら、思いもよらぬ山の恵みのおかげで、長年の「幻の味」がよみがえりました。みそもぬか床も、土地の力をいただく営み。いとしいですね。
小言もまた幸せ
母は今年90歳になります。台所に立つこともありません。私のやることについても、何も言わなくなりました。でも私の作ったイワシのぬかみそ煮に「ご飯のおかずにはいいけど、酒のさかなにはちょっとしょっぱいかな」などと、駄目出しをします。それがうれしくて。母に小言を言われながら一緒に食べることが今はとても幸せです。(聞き手=菊地武顕)
くろかわ・いほこ 1959年長野県生まれ、栃木県育ち。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、メーカーで人工知能研究開発に従事。コンサルタント会社勤務などを経て、感性リサーチを設立。『恋愛脳』『夫婦脳』などを執筆。『妻のトリセツ』はベストセラーに。最新刊は『息子のトリセツ』(扶桑社新書)。
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2021年02月13日