西川りゅうじんさん(マーケティングコンサルタント) いただきます 日本の神髄
2021年02月06日

西川りゅうじんさん
子どもの頃、休みになると母方の伯父の家によく遊びに行きました。伯父は大学で教壇に立ちながら、代々受け継いできた田畑で米や野菜を作っていたんです。
一緒に草むしりしながら、いろいろなことを教わりました。
小学校で農という漢字を習ったときに不思議に感じ、聞いてみたんです。
「農という字は、曲がるに辰(たつ)と書くよね。曲がったことをすると、辰が出てくるってこと」
「面白い見方だな。実は、曲は田を、辰は石で作った農具を表しているんだ。田畑を農具を使って耕すという意味だよ」
伯父は無農薬で作っていて、野菜には時々虫が付くことがありました。私も種をまき水をやっていましたから、チョウの幼虫に食べられたりすると悔しいわけですよ。
憎たらしいからつぶそうとすると、伯父に「それはそれで育ててあげたらいいんだよ」と言われ、幼虫を自分の家に持ち帰りました。やがて、かわいいモンシロチョウに育ち、命の尊さを知りました。
私の家では、食事の前に必ず手を合わせて「いただきます」と唱えてから食べていました。この言葉こそ日本の食文化の神髄を表していると思います。動・植物の命、農家の皆さんの耕作の成果を賜って生かしていただいているわけですから。
食べ物を粗末にすると両親は許しませんでした。出されたものは、全て食べるのが当たり前。
小学校の低学年のある日。キャベツとシソを刻んだサラダが出ました。シソが苦くて、両親が食べ終わった後も一人で食べ続けましたが、食べ残して自分の部屋に行って寝ました。すると翌朝から3食全てそのサラダだけ。
それで、伯父の家に行かされるようになったのかもしれません。自分で野菜を作って、その苦労を知れば、好き嫌いなく、おいしく食べられるようになるだろうという、両親の食育だったのでしょう。
食事は一汁三菜が基本でした。母が漬けた漬物が、朝夕、食卓に彩りを添えていたのを覚えています。
1960年代には、既に家でぬか漬けを漬けるのは臭いし面倒だと敬遠されていました。
今でこそ和食が見直されていますが、当時は食でも何でも欧米化が正しいという風潮でした。朝はパンとベーコンとコーヒーが豊かさと健康をもたらすという幻想が支配していた時代です。
その頃から、カブトムシはデパートで、漬物はスーパーで売っているモノになり果てたのです。祖母から受け継いだ臭いぬか床を母親が自分の手でかき混ぜ、自宅で漬物を作っていたわが家は戦前の食文化の化石でした。
父方の祖父母の家に泊まりに行った時の思い出も、まるで「ふるさと」の歌のようによみがえってきます。
春の河辺でみんなでツクシを取り、あく抜きして、おひたしや卵とじにして食べました。ヨモギを摘み、すり鉢ですって、よもぎ餅を作りました。
今も「春の七草」は全部言えますよ。一方、「秋の七草」は知りません。だって食べずに鑑賞するものですからね。でもこの歳になって、そんな風流もやっと分かってきた気がします。
幼き日に心と体でいただいた農と食の実体験はかけがえのない人生の宝物です。文字通り、「有り難い」ことですね。ありがとうございます。(聞き手=菊地武顕)
にしかわ・りゅうじん 1960年兵庫県生まれ。「愛・地球博」のモリゾーとキッコロや「平城遷都祭」のせんとくんの選定・PR、「つくばエクスプレス」沿線の街づくり、全国的な焼酎の人気作りに携わる。JAや日本食鳥協会で講師を務め、農産物のブランド化と大都市部でのチャンネル開発に手腕を発揮している。
一緒に草むしりしながら、いろいろなことを教わりました。
小学校で農という漢字を習ったときに不思議に感じ、聞いてみたんです。
「農という字は、曲がるに辰(たつ)と書くよね。曲がったことをすると、辰が出てくるってこと」
「面白い見方だな。実は、曲は田を、辰は石で作った農具を表しているんだ。田畑を農具を使って耕すという意味だよ」
命の尊さ教わる
伯父は無農薬で作っていて、野菜には時々虫が付くことがありました。私も種をまき水をやっていましたから、チョウの幼虫に食べられたりすると悔しいわけですよ。
憎たらしいからつぶそうとすると、伯父に「それはそれで育ててあげたらいいんだよ」と言われ、幼虫を自分の家に持ち帰りました。やがて、かわいいモンシロチョウに育ち、命の尊さを知りました。
私の家では、食事の前に必ず手を合わせて「いただきます」と唱えてから食べていました。この言葉こそ日本の食文化の神髄を表していると思います。動・植物の命、農家の皆さんの耕作の成果を賜って生かしていただいているわけですから。
食べ物を粗末にすると両親は許しませんでした。出されたものは、全て食べるのが当たり前。
小学校の低学年のある日。キャベツとシソを刻んだサラダが出ました。シソが苦くて、両親が食べ終わった後も一人で食べ続けましたが、食べ残して自分の部屋に行って寝ました。すると翌朝から3食全てそのサラダだけ。
それで、伯父の家に行かされるようになったのかもしれません。自分で野菜を作って、その苦労を知れば、好き嫌いなく、おいしく食べられるようになるだろうという、両親の食育だったのでしょう。
食事は一汁三菜が基本でした。母が漬けた漬物が、朝夕、食卓に彩りを添えていたのを覚えています。
1960年代には、既に家でぬか漬けを漬けるのは臭いし面倒だと敬遠されていました。
今でこそ和食が見直されていますが、当時は食でも何でも欧米化が正しいという風潮でした。朝はパンとベーコンとコーヒーが豊かさと健康をもたらすという幻想が支配していた時代です。
欧米化とは無縁
その頃から、カブトムシはデパートで、漬物はスーパーで売っているモノになり果てたのです。祖母から受け継いだ臭いぬか床を母親が自分の手でかき混ぜ、自宅で漬物を作っていたわが家は戦前の食文化の化石でした。
父方の祖父母の家に泊まりに行った時の思い出も、まるで「ふるさと」の歌のようによみがえってきます。
春の河辺でみんなでツクシを取り、あく抜きして、おひたしや卵とじにして食べました。ヨモギを摘み、すり鉢ですって、よもぎ餅を作りました。
今も「春の七草」は全部言えますよ。一方、「秋の七草」は知りません。だって食べずに鑑賞するものですからね。でもこの歳になって、そんな風流もやっと分かってきた気がします。
幼き日に心と体でいただいた農と食の実体験はかけがえのない人生の宝物です。文字通り、「有り難い」ことですね。ありがとうございます。(聞き手=菊地武顕)
にしかわ・りゅうじん 1960年兵庫県生まれ。「愛・地球博」のモリゾーとキッコロや「平城遷都祭」のせんとくんの選定・PR、「つくばエクスプレス」沿線の街づくり、全国的な焼酎の人気作りに携わる。JAや日本食鳥協会で講師を務め、農産物のブランド化と大都市部でのチャンネル開発に手腕を発揮している。
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台湾、56年ぶり干ばつ 農産物被害 日本産に期待高まる
台湾で昨年、1964年以来初めて台風が上陸せず、降雨量は、地域によっては例年の2~6割に減少した。その影響で、タマネギなどの農産物に被害が生じている。今後も干ばつ傾向が続くことが見込まれることから、有力な輸入国である日本に期待する見方も出ている。
日本の農水省に当たる農業委員会(農委会)によると、昨年、台風が上陸しなかったため降雨量は例年の2~6割に減り、56年間で最も少ない年となった。&
干ばつの影響で、8日現在、3715ヘクタールの農産物に被害が生じている。品目別では、マンゴーへの被害が2162ヘクタールと最も多く、次に茶、梅、タマネギの順となった。
今年1期作としてかんがいが必要な面積は、23万6000ヘクタール。しかし、75%に当たる17万8000ヘクタールで水不足が深刻になる恐れがある。農委会は、今後も干ばつ傾向が続くとみて、関連病害虫の防除を進め、農業被害を最小限に抑えるように呼び掛けている一方、干ばつによるタマネギなど野菜生産量の減少で日本産の需要が高まるとみられている。台湾は昨年、日本から前年の4・3倍に当たる3万7624トンのタマネギを輸入した。日本は、米国や韓国を抜いて初めて輸入量が1位となった。今年1~2月の輸入量も、前年同期の2・8倍の5269トンと1位を維持している。
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2021年04月11日

疑似グルーミング装置使用 子牛の体重2割増 農研機構
農研機構は、母牛の毛繕いを再現できる電動回転ブラシ「子牛用疑似グルーミング装置」を使うと、使わなかった子牛に比べて体重の増加率が2割高かったと明らかにした。群飼育移行時の生存率も高かった。同機構は「乳用牛に比べて誕生時の体重が軽い黒毛和種は肺炎や下痢などの影響が大きい」として、肉用牛の繁殖農家でのメリットを説明する。
ナイロン製のブラシは長さが40センチ、直径17センチの円柱状で、牛舎の柱などへ子牛の体高に合わせた位置に取り付ける。牛がブラシに体を押し付けるとスイッチが入ってモーターが毎分30回転し、体を離すと止まる。
農研機構が開発し、2016年から農家での実証を続ける。同機構畜産研究部門の矢用健一主席研究員によると、これまでの実証で黒毛和種の生後3カ月間12頭1群で飼った場合、ブラシを使用した牛は、使用しなかった牛と比べて体重の増加率が23%向上。群飼育移行時にブラシを使わなかった牛は10頭残存したが、ブラシを使うと11頭残った。試験では子牛1頭が1回約1分で、1日20分ほど装置を使っていた。
養牛農家では、母牛の発情を早く促すために生後1週間ほどで子牛を母牛から離して飼育する。子牛は母牛に体を毛繕いしてもらう「グルーミング」を受ける機会が減ると、ストレスになる恐れがあるという。
装置は富士平工業が受注生産し、1台25万円ほどで販売する。矢用主席研究員は、肉用牛の繁殖農家こそ導入メリットがあるとし「和子牛が60万円前後で取引される中、1頭だけでも農家の損害は大きい。機械代は1年で元が取れる」と話す。
動画が正しい表示でご覧になれない場合は下記をクリックしてください。
https://www.youtube.com/watch?v=yswKRrjaVxs
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2021年04月14日
左右とも底に穴が開いた革靴
左右とも底に穴が開いた革靴。あしなが育英会の昨年度の活動報告書に写真が載っていた。病気などで親を亡くした子どもたちを、奨学金で支える民間非営利団体である▼同会から緊急支援金を受け取った奨学生の親から届いた。添えられた手紙には、そのお金で靴を買ったとあり、それまでは「娘もわが家の家計を理解しているので(略)ガムテープを貼って履いていました」▼緊急支援金は全奨学生に、昨年2回給付した。コロナ禍で収入が減り、食費や光熱費も払えず、人生を悲観する保護者が出始めていた。経済格差は教育格差を生み、将来の所得格差をもたらす。菅首相は国民にまずは「自助」を求めたが、その条件を整えるのが政治の仕事である。街頭募金ができない中、同会は寄付を呼び掛け、総額が前年度を上回った。他にも各地で、食の支援を含め、多くの「共助」が生まれた▼ふたり親を含め、政府は低所得の子育て世帯に特別給付金を支給する。「命と暮らしを守り抜く」。首相はそう表明している。子どもの状況に応じて継続的に支援してほしい▼子どもの7人に1人が貧困状態にある。子どもたちが、衣食足りて、安心して勉学に励めるよう、もっと「公助」を、平時から。そう望みたい
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2021年04月14日
農業遺産と里山システム 農村は可能性の宝箱 農業ジャーナリスト 小谷あゆみ氏
地域伝統の持続可能な農業システムを評価する「日本農業遺産」に、今年新しく7地域が加わりました。これは国連食糧農業機関(FAO)による「世界農業遺産」の基準にのっとって国が定めているもので、世界および日本の「農業遺産」は、30地域に上ります。この農業遺産で最も特筆すべきは、国連の持続可能な開発目標(SDGs)17目標の全てに貢献する点です。
そもそもSDGsが国連で提唱されるに至った背景には、世界的な科学者グループによる「プラネタリーバウンダリー(人間の活動が『地球の限界』を超えつつある)」という概念が元になっているのですが、そうした自然共生社会へ世界一丸となってかじを切る先駆けとしてFAOが提唱したのが「世界農業遺産」なのです。
日本初の世界農業遺産として2011年、石川・能登と新潟・佐渡を申請登録する道筋を作った専門家会議委員長で、公益財団法人地球環境戦略研究機関理事長の武内和彦氏は、先日の認証式で、「自然資本の健全性はSDGs達成の基礎であり、国連では、家族農業の振興や生態系の回復(エコシステム)を掲げている」と講演しました。世界的な環境学者である武内委員長は、10年に開かれた第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)で、日本における自然共生型モデルを「SATOYAMA」として国際社会に広めたことでも知られています。
農業を持続可能なものにすることは、いま議論されている「みどりの食料システム戦略」のテーマです。
日本農業遺産や里地里山に注目が集まれば、伝統的な農業や美しい景観が評価され、農村にやる気が生まれ、経済や地域の活性化につながります。
ところで、今年認定された7地域のうち、特に時代を表していると感じたのは、兵庫県・南あわじの水稲・タマネギ・畜産システムと、宮崎県・田野清武地域の干し野菜システム(名称略)です。いずれも「耕畜連携」が環境や生産に貢献しているという評価で、これは国の畜産の未来を考える上でも希望となるものです。
農業遺産はどれも生産性、大規模、新技術の真逆にありますが、地域の個性が輝き、継承者が誇りを持っています。実はこれが一番の宝で、農泊、観光、商品開発、教育や人材育成につながっています。
プレーヤーが楽しそうに取り組む地域には、人を呼び込む力があります。まず農村に必要なのは、郷土への愛着や誇りではないでしょうか。循環型の里山ライフスタイルは、SDGsの根底に通じます。本当はどんなむらも、可能性の宝箱なのです。
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2021年04月13日

ダイダイ地域の顔に 「サワー」PR実行委も発足 静岡県熱海市
ダイダイで熱海を元気に――。全国有数のダイダイ産地・静岡県熱海市では生産者と食品卸、飲食店などが一体となって、地域活性化とダイダイのブランド化に注力する。その一環として熱海市の飲食店関連団体は9日、「熱海だいだい実行委員会」を発足した。ダイダイの活用によって地域経済を循環させ、縮小するダイダイの生産基盤維持にもつなげたい考えだ。
委員会は熱海料飲連合会、熱海社交業組合、県飲食業生活衛生同業組合熱海支部の3団体が立ち上げた。……
2021年04月10日
食の履歴書の新着記事

本郷和人さん(歴史学者) 母の手料理こそ一番のごちそう
母は栄養士で、東京栄養専門学校という栄養士を育成する専門学校の立ち上げから関与していたんですね。僕が幼稚園の頃、まだ洋食があまり普及していない頃から、母はドライカレーや手ごねハンバーグを作ってくれました。
前の東京オリンピックの時、帝国ホテルの村上信夫シェフが選手村の料理を管轄されていましたが、母はその下で働いていたんです。だから僕の家には金メダルがあるんですよ。料理のスタッフに贈られたわけです。母が言ってましたけど、選手村の調理に携わるに当たって、家系から何から全部調査されたそうです。
うちは両親と僕と弟、それに祖父母と父の姉が住む大家族でした。祖父と祖母は、サトイモの煮っ転がしとかが好きなんですね。母は和食も得意で、祖父母が喜ぶような料理も実においしく作ってくれて。だから僕は、子どもの頃から煮っ転がしとかも大好きでした。
僕は小さい頃、体が弱かったんです。それで親が心配して、小学校1年生の時に、1学期間だけ仙台の田舎に預けられました。毎日、朝露を踏んで駆けっこすると、体が良くなるんじゃないかというような話で。
その時に僕が預けられた家では、農作業もやっていたんですね。出荷しない野菜を食べさせてくれました。おいしかったなあ。仙台で、野菜のおいしさに目覚めました。
東京に戻ってからは、母の漬物のおいしさも分かるようになって。キュウリやナスの漬物があれば、それだけでご飯3杯いける、みたいな感じになりました。
おいしいものをどんどん食べなさい。それが母の教えでした。家でおいしいものを食べたからか、小学校の給食がまずく感じて。今になって思えば、懐かしさは感じますよ。でもおいしいと思ったことはない。よく、給食のことを回想して、「おいしかった」という人がいるじゃないですか。僕には信じられません。
中学・高校時代、母はずっと弁当を作ってくれました。でもそれだけじゃ足りないんです。2時間目が終わると、弁当を食べちゃいました。4時間目が終わると、食堂へ。カレーが80円、ラーメンが70円でした。時々、80円でチャーハンが、70円で焼きそばが出たんです。そちらはけっこう人気。数に限りがあって、あっという間になくなるんですね。チャーハンと焼きそばが出る日は、皆、食堂に向かって飛んで行きました。
母が東京栄養専門学校で働いていた頃、東京大学史料編纂(へんさん)所の菊地勇次郎という方が教えに来ていたそうです。菊地先生は後に史料編纂所の所長になられた方です。食物史を得意としていたので、その講義のためにいらしていたんですね、アルバイトで。母によると、菊地先生はとてもすてきな方で人気があったそうです。小学校4年生くらいの時、歴史が好きだった僕に母が言いました。
「あなたは東大に入って、史料編纂所に行けばいいんじゃない」
僕は27歳で史料編纂所に入りました。その年、京都の醍醐寺に調査に行ったんですよ。その調査団のトップが、史料編纂所を辞めていた菊地先生でした。声は掛けなかったけど、顔は見てます。
母はがんで57歳で亡くなりました。末期は、東大のそばにある日本医大病院に入院したんです。僕は大学から自転車で、母の病床に通っていました。同じ頃、病院には菊地先生も療養されていたのです。不思議なご縁を感じました。(聞き手・写真=菊地武顕)
ほんごう・かずと 1960年東京都生まれ。東京大学、同大学院で日本中世史を学ぶ。東京大学史料編纂所教授。「戦国武将の明暗」「戦国夜話」「日本史のツボ」など多数の著書で歴史を分かりやすく説明する。近著に「『失敗』の日本史」(中公新書ラクレ)、「『違和感』の日本史」(産経セレクト)がある。
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2021年04月10日

本田武史さん(プロフィギュアスケーター、スポーツコメンテーター) 海外生活支えた現地の日本料理
小さい頃は、福島県郡山市で農業をやっていた祖父母の家の近くに住んでいたので、よく米作りの手伝いをしました。種まき、田植え、稲刈り……。その頃はまだ機械化が進んでいなくて、機械でできないところを人の手で一本一本補っていました。
田んぼの他に畑もあって、米と野菜は自給自足だったと思います。田んぼもかなり広くて、米蔵があり、精米機もありました。
もち米も作っていて、お正月になると毎年、杵(きね)と臼を使って餅つきをしていました。餅は焼いて砂糖しょう油で食べたり、あんこやきな粉で食べていました。
中学になるとスケートのため、母と2人で仙台に引っ越しました。母はパートで仕事をしていたので忙しかったし、僕は朝早くから夜遅くまで練習があったので、ゆっくりと2人で食事をする時間がありませんでした。
練習中、整氷のために15分ほど休み時間があります。その時に母の作ってくれたおにぎりを素早く食べました。
好き嫌いがなかったので、食べたい物をたくさん食べていました。練習量が多いので、減量に苦しんだことはありません。体脂肪が1桁しかなかったため、下手に体重を落とすと体調を崩すんです。しっかり食べないと、体がもたなかったです。
海外に住んでいた時は、やはり日本食が恋しくなりました。
最初に行ったのは、米国のコネチカット州。日本人がほとんどいない田舎町で、ホームステイをしました。ホームステイ先での料理は肉が中心。もちろんご飯ではなくパンです。
町に1軒だけ日本食レストランがあって、そこですしやそば、うどんを食べました。
その店のオーナーは日本人で、以前はマサチューセッツ州で働いていて、僕が試合に出るためそちらに行った時に会ったことがあったそうです。
そんな縁もあり、すごくよくしてくれました。力になるようにとメニューをいろいろ考えてくれ、時々弁当も作ってくれました。大会前にはカツ丼を作ってもらったこともあります。日本人の客がいないので、日本人に食べてもらうのがうれしかったのかもしれません。
長野オリンピックの後、カナダのトロント郊外に移りました。
トロントは大都市で、日本食レストランがいくつかありました。日本の食材などを扱う店もあったんです。そこで炊飯器を買いました。僕の住んでいたのは車で1時間くらいの小さな町でしたが、週末の練習が休みの時にはトロントでまとめ買いをしました。
売っている米はタイ米でしたが、たまに日本の米も入ってきました。タイ米は細長くパサパサしていますが、水の量を多くして炊いたり、チャーハンやお茶漬けにするなど工夫をすれば、全然大丈夫。
海外生活で気になったのは、野菜ですね。どうしても肉の量が多いので、できるだけ野菜をたくさん取ろうとしました。でも向こうの野菜は大味じゃないですか。いつも蒸して食べていました。その方が体にいいと聞いていましたし、甘味が増すから。
現役を引退してからは、食べ過ぎないように気をつけています。筋肉が落ちやすいし、疲労回復にも時間がかかるので、意識してタンパク質を取っています。それに合わせるようにビタミンも。日本の野菜はおいしいので、生野菜でも温野菜でも食べています。(聞き手=菊地武顕)
ほんだ・たけし 1981年福島県生まれ。7歳からショートトラックスケートを始め、その後フィギュアに転向。史上最年少の14歳で全日本選手権優勝。98年の長野五輪に史上最年少の16歳で出場した。99年、四大陸選手権大会の初代王者に。現在はプロとしてアイスショーに出演する他、後進の指導にも当たっている。
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2021年04月03日

ジェシカ・ゲリティさん(タレント) 二つの文化 良さ伝えたい
私の母国ニュージーランドといえば羊のイメージでしょうけど、牛の国でもあるんです。人口480万人なのに、乳牛だけで620万頭もいます。酪農大国で、チーズやバター、アイスクリームといった乳製品を大量に食べます。
バターは、いろいろな料理に使います。主食はジャガイモなので、それに掛けてジャガバターとして食べます。チーズとヨーグルトは種類が豊富。スーパーに行くと、乳製品の売り場が全体の半分くらいを占めているんです。
ニュージーランド人は自然の中が大好きです。小さい頃からよく父と一緒にキャンプに行きました。父は簡単な料理しかできないんですが、オムレツとトーストの朝食はおいしく、非常に良い思い出がたくさんできました。
釣りも人気で、魚も貝もウニも、自分で捕って食べるのが普通。私も行きました。サメを釣ってしまったことを思い出します。
懐かしく感じる料理は、フィッシュ・アンド・チップス。揚げた魚とポテトフライです。テークアウェー(持ち帰り)の専門店があって、注文すると新聞紙に包んでくれます。これを家で食べたり、海の近くで食べたりするんです。
金曜は家事休み
ニュージーランドでは文化的に、金曜日はお父さんもお母さんも家事を休みたいという考えがあります。私のうちでも、金曜日にはフィッシュ・アンド・チップスを持ち帰って食べていました。
国民食といっていいのが、パイ。日本人のおにぎりのようなものですね。手のひらサイズで、外がペイストリーの生地。中には肉。ミンチとか、ステーキ・アンド・チーズとか、チキンとかいろいろな種類があります。ミンチの上にマッシュポテトを載せるシェパーズパイ(羊飼いのパイ)というのがあって、母がよく作ってくれたんですね。ニュージーランド版おふくろの味かもしれません。
独特の果実として、フェイジョアがあります。キウイフルーツと同じくらいの大きさ。外は緑色で、切ると白。パインナップルとバナナがミックスされたような味です。夏に、庭で大量にできちゃうんですね。
レンコンに驚き
反対に日本に来て初めて知った野菜もあります。レンコンです。切ってみてビックリしました。まさか穴があるなんて。これ、宇宙から来たんじゃないかと思ったくらい。煮物で食べていますけど、ビジュアルのインパクトがすごくあるので、サラダにも載せます。ゴボウにも驚きました。土が付いた状態で売っているのを見て、いったいどうなっているのか分からなかったですね。
不思議だったのがこんにゃく。謎の石みたい。でもおいしいから、炒めたり、肉じゃがやおでんに入れたり、いろいろ使っています。子どもも大好きで、この間、聞かれたんです。「これって、何なの?」と。それで調べて、初めて芋だったことを知りました。
ニュージーランドでは今、日本食がブームです。魚で人気が高いのはサーモンで、ムニエルで食べることが多いですが、お刺し身で食べる人も増えつつあります。緑茶も人気です。ビタミンCが豊富に入っているので、健康に良いと。飲み方はちょっと変わっていて、ミカンやリンゴなどフルーツの味を加えて、ハーブティーのように飲んでいるんです。
二つの国の食文化に接することができて、とてもうれしいです。それぞれの良さを伝えられればと思っています。(聞き手=菊地武顕)
ジェシカ・ゲリティ ニュージーランド生まれ。大学時代に訪れた日本に魅了され、移住。「世界の日本人妻は見た!」「世界が驚いたニッポン! スゴ~イデスネ!!視察団」などの番組に出演。「世界くらべてみたら」(TBS)レギュラー。埼玉県の海外向け観光大使「LOVE SAITAMA アンバサダー」も務める。弓道は三段の腕前。
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2021年03月27日

水道橋博士さん(タレント・著述家) 長年の腰痛、下痢から解放
ずっと長い間、腰痛に苦しんできました。25年くらいですから、人生の半分近く。その上、ここ何年かはひどい下痢にも悩まされ、本当に体調が悪くて。
ひらめいて腸活
これは何か食べ物が関係しているのかなと思いました。最近、腸活という言葉をよく聞くので、自分も腸活をやってみようと思ったんです。別に誰かに勧められたというわけではない。自分のひらめきで。
ヨーグルト、納豆、キムチ、ラッキョウ、ニンニク……あとワカメですね。それらを自然食品の店で買ってきて、大きな丼に入れてミックスしたんです。それを食べたのは、1月28日。
次の日の便は下痢でしたが、色が全く違っていた。宿便でしょう。感覚的には、経年劣化している腸に対して、パイプクリーナーを飲んだ感じ。そしてその次の日。便は固形でした。3年ぶりくらいかな。お通じがこんなに良くなるなんて、思わなかったです。
1週間くらい続けたら、腰痛も治りました。それまではあまりの痛さで、ペットボトルを持つこともできない状態でしたが。
今では毎日1万歩以上、歩いています。これまでやりたくてもできなかった本棚の模様替えも、できました。
ヨーグルトは、小岩井の生乳ヨーグルト。甘味も酸味もそんなに強くないので、他の食材を加えて味を足し算しても大丈夫だろうと。それでまずは納豆と一緒に食べようと思ったのが、始まりです。
材料を見極めて
入れる食材は、本当においしいものを買いに行ってますよ。住んでいる高円寺(東京都杉並区)の日本食屋さんが、市をやっているんです。行列ができるくらい人気で、そこに午前11時半から並んで、ワカメだけを買うんですね。ワカメってピンからキリまでありますよ。ここのは、なんの味付けもしないでそれだけ食べてもいい。ちょっと塩の味がついているから。
キムチは、新高円寺にあるキムチ選手権で日本一になったお店に買いに行っています。ニンニクやラッキョウも、中国産のなら安く買えますが、必ず国産。ニンニクは北九州の業者さんと知り合って、そちらのを食べています。めちゃくちゃうまい上、においが残らない。素揚げして、葉先から根っこまで食べられます。
毎日、朝は必ず発酵ミックス。1日2食のこともあります。
いろんな食材を加えるようになりました。前の晩の残り物の肉じゃが、豚のしょうが焼きとか、冷蔵庫に入っていた万能ネギやゆで卵を入れるんです。
味付けも、例えば今日はエビの味がいいなと思ったら、新潟の南蛮エビのみそ汁のもとを入れたりします。その時の気分で、だしを変えて味を変えるんです。
発酵ミックスによく合うと感じた野菜は、ブロッコリー。もともとブロッコリーは体にいいのでたくさん食べたいと思っていたんですが、味がないじゃないですか。この食べ方だとおいしいので、いくらでも食べられます。
毎日10時から2時間くらいかけて、散歩をしています。
それが終わると、お昼ごはん。
高円寺にはエスニックのお店が多い。それと焼き肉屋が増えました。高円寺で評判の店には、全部行ってますね。新型コロナ禍なので、地元の好きな店を応援したいという気持ちが強くて。発酵ミックスのおかげで体調が良く、昼もおいしく食べています。(聞き手=菊地武顕)
すいどうばしはかせ 1962年、岡山県生まれ。ビートたけしに弟子入りを認められ、87年に玉袋筋太郎と浅草キッドを結成する。著述家としても人気を博し、近著に文庫版「藝人春秋2、3」(文藝春秋)がある。「BOOKSTAND.TV」(BS12)、「北野誠ズバリサタデー」(CBCラジオ、4月から)レギュラー。
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2021年03月20日

松本薫さん(柔道ロンドン五輪金メダリスト) 骨折しない体になり開花
私にとって思い出の食べ物といえば、父が作ってくれたスペアリブです。中学の頃から、試合の前、合宿や遠征に出掛ける前、父がいつも作ってくれました。私にとっての勝負飯でした。
海外での大会での試合前に絶対食べたのが、卵。黄色い黄身が「君に金メダル」と言ってくれているみたいじゃないですか。ロンドンオリンピックの時は、栄養士さんに卵焼きを作ってもらい、それを食べて試合に臨みました。
勝利のためなら
験担ぎやルーティン(決まり事)をあえてしないという考え方もあると思います。でも私はやった方がいいと思っていましたし、周りの選手も何かしらやっていましたね。試合前は必ずカツ丼を食べるとか、パンではなくご飯じゃないと力を出せないとか。
勝つ道に続くのなら、できることはどんなことでもするんです。
これを食べたら、これをやったら、自分が落ち着く。そういうものがあったら、すがり付きます。柔道選手は体はタフなんですが、優勝して当たり前と期待されていますので、プレッシャーが大きい。それだけ注目して応援していただいているわけですから、こちらとしてもしっかり卵を食べて勝ちにいったわけです。
私は甘い物が大好きなんです。学生の頃はめちゃくちゃな食生活をしていました。お昼ご飯は、お米も肉も野菜も食べずに、アイスやチョコと炭酸飲料で済ませていました。いつもそればっかり。
私が甘い物好きなのは、強化コーチも知っていたので、禁止令を出されました。合宿の時は見張られていたんです。それでも食堂でジュースだけ飲んで「ごちそうさまでした」と言って、部屋に戻って甘いお菓子を食べたりしてました。先輩たちにバレて、めちゃ怒られました。
食生活が悪かったから、よく骨折をしました。18、19、20歳と、年に1回骨折したんです。
21歳、大学4年になって、そろそろ実業団に入るので、このままではいけないと感じて、食生活を改善しました。自分でもかなり勉強したんです。体がきつい時は、豚肉を食べてアミノ酸を取る。減量時には脂肪と炭水化物を減らしてタンパク質多めの食事を。試合前の1週間は炭水化物を多めにしてエネルギーを作るように、と。
食事を改善してからは、骨が折れなくなりましたね。しっかり筋肉が出来上がって、減量の必要がほとんどなくなりました。そして、力を発揮しやすくなったんです。それまでできなかった技の仕掛けに素早く入れるようになったんです。戦っていて「あれ、技に入れる。技をかけられる」と、不思議に感じました。瞬間的な動きや素早い反応ができるようになり、柔道の幅が広がったと思います。
“勝負飯”娘にも
結婚して子どもにも恵まれました。旦那と二人で、手料理をするように心掛けています。食事が本当に大事だと分かったからです。私が一番得意なのは、父からレシピを教えてもらったスペアリブ。3歳になった娘が初めてお稽古事に行く時に作ってあげました。娘の勝負飯です。
今、私はアイスクリーム店で働いています。天職だと感じています。一緒に働く皆と試食もしないといけないですから。でも食べ過ぎないように抑えるのが大変。食べたい気持ちを抑えて、ルールを作りました。試食は2口まで。それだけでどう改良すればいいか判断できるように、五感全てを研ぎ澄ませて食べています。(聞き手=菊地武顕)
まつもと・かおり 1987年、石川県生まれ。2010年から3年連続で女子57Kg級世界ランク1位。12年のロンドン五輪で金メダルに輝き、闘志あふれる姿から「野獣」と呼ばれた。16年のリオデジャネイロ五輪では銅。19年に引退し、現在は所属会社が開いたアイスクリーム店「ダシーズ」で働く。2児の母でもある。
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2021年03月13日

栗山千明さん(女優) レンコン映画に悪戦苦闘
私が生まれ育った茨城県は、レンコンの生産日本一なんです。
でもそのことを知ったのは、大人になってから。私の住んでいたところに農地はなく、ちょっと遠出してレンコン畑があると、親から「落ちたらダメだよ」と言われたことを覚えています。
今回、加賀レンコンを題材にした映画『種まく旅人~華蓮のかがやき~』に出演させていただきました。レンコン農家の生き方を描く作品で、畑に入っての撮影シーンもありました。
覚悟はしていたんです。埋まってしまう、思うように動けない。事前に知っていましたので、これは大変だぞと思いながら入ったんですが、やっぱり。
このせりふを言う時にはこの動きを……と思って体を動かすんですが、いざやってもできないもどかしさが。
農家の苦労実感
畑の真ん中で、撮影のセッティングを待つこともありました。普通なら一回上がって待つのでしょうけど、端まで行くのが大変なんです。ですからスタッフの方に「私はここにいます」と言って残るんですが、どんどん足が埋まっていって動けなくなってしまうんです。それを防ぐため、たまにもじもじ動いてみたり。農家の方のご苦労に頭が下がりました。
私は初めて畑に入るという設定の役でしたから、慣れていなくても成立します。私のあたふたしている様子が、ナチュラルに映っていると思います。
金沢での撮影というと、夜はおいしい魚を食べたんだろうと思われるでしょうが、残念なことに違うんです。夜のシーンの撮影がたくさんありましたし、宿泊しているところから繁華街が遠い上、朝早くから撮影が始まりましたので、食べに行けませんでした。前に舞台で金沢に行った時は、いろいろ食べられたんですが。
地元野菜を堪能
その代わり今回は、地元の方々がレンコンをはじめ野菜を使った料理を振る舞ってくださいました。面白い上においしかったのは、レンコンをすりおろしてお好み焼きに入れたもの。他にも、言われないとレンコンだと分からない料理がいくつも出てきました。
子ども時代は、レンコンはきんぴらとか煮物とかでしか食べたことがなかったんです。おいしい食べ方がいろいろあるんだと、初めて知りました。
『種まく旅人』はシリーズ化され、今回が4作目。私が出演するのは2作目ですけど、おかげで食に対する探究心が強まりました。
もともと日本食派なんです。ご飯が大好き。おそば、うどんも好き。茨城生まれですから、納豆は常に冷蔵庫に入っています。あと、生ものが好きなんですよね。魚、貝、鶏のささ身。野菜もそのまま生で食べるのが好きです。セロリとかは、マヨネーズも何も付けずにバリバリと食べます。
生でいただくのが好きだから、料理が上達しないという欠点があるんですが。
仕事で海外に行くことはあっても、海外旅行には興味を持てません。観光は楽しめても、長くいられないんです。「あー和食を食べたい」という気持ちになるから。日本に帰ってきたら、真っ先に刺し身を食べたくなります。
以前、舞台の仕事で金沢に行った時は、おいしい刺し身に感動しました。今回は加賀野菜の素晴らしさを知ることができました。次に金沢に行くことがあったら。ゆっくりと魚と野菜をいただきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
くりやま・ちあき 1984年茨城県生まれ。モデルを経て、99年に映画『死国』で女優デビュー。『バトル・ロワイヤル』(2000年)での演技がクエンティン・タランティーノ監督を魅了し、同監督の『キル・ビルVol.1』(03年)に出演した。『種まく旅人~華蓮のかがやき~』は3月26日石川県先行上映、4月2日公開。
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2021年03月06日

和田秀樹さん(精神科医) 一番おいしい方法を探求
私の好きな食べ物は、エビとカニ。新型コロナ禍のため、今はよく弁当を買うんですけど、エビフライとかカニクリームコロッケが入ったものを選んでしまいます。最近はエビカツが好きになりました。
格別だったエビ
エビ好きに関しては、母親の兄のおかげです。伯父は特攻隊に行くはずで死を覚悟しましたが、結局、行かなかったそうです。戦後、精神的に不安定な時期もありましたが立ち直り、魚の卸売市場の親方に気に入られて、私が子どもの頃は店を任されていました。
伯父はよく私の母親に「持ってけ」といって、氷付けになっているエビを1箱くれたんですよ。クルマエビくらいの大きさでした。
当時は流通や冷凍技術の関係で、どんな魚を食べても生臭かったんです。でも伯父からもらったエビは臭みがなくおいしかった。
エビが本当に高い時代でしたからね。友達がうらやましがるのを横目に食べたんです。豊かさの象徴のように感じられました。
カニについては、父が京都府の丹後出身で、冬場に父の実家に帰ると大量のカニを食べました。
カニというと福井と鳥取が有名ですが、今、東京で最も高額で取引されているのは、生きたまま空輸される間人(たいざ)のカニ。丹後半島で捕れるものです。私は知らずに、雌とはいえ最高のブランドカニを食べていたわけです。
30代のはじめ、米国のカンザスに留学していました。向こうでもエビやカニはスーパーにあるので不自由はなかったんですが、唯一困ったのがカニクリームコロッケ。ずっと飢えていました。
学会出席のため、ニューヨークに行った時。日本の商社や銀行、日本食レストランが並んでいる一角に、居酒屋を見つけたんです、入ってみたら、メニューの中にカニクリームコロッケがあって。すごくおいしくいただきました。
食べ物については、もう一つ思い出があります。やはり米国でのことです。私は基本的に日本食派ですが、世界三大珍味の一つ、白トリュフは大好きなんです。
これをパスタや肉の上に削りかけると値段がグンと上がるわけですが、それほどの価値があるのか疑問に感じていました。
白トリュフの謎
15年くらい前、白トリュフの謎が解けたんです。精神分析の師匠を訪ねて米国に行った時、サンタモニカの高級イタリアンレストランに入ったんですよ。そこは冬場に、世界一高い白トリュフを出すというんです。
白トリュフのカルパッチョがあり、ものすごく高い値段でしたが観光気分で頼んでみました。
これは生まれてこの方、食べた料理で、一番おいしかったです。
何が違うかというと、肉の上から掛けるんではなく、肉を白トリュフの漬けにしたんです。白トリュフを絡めたオイルに、生肉を漬けた料理だったんですね。
一口食べて発見しました。「これは世界一高いかつお節だ」と。かつお節も、上から掛けるよりも、だしにして食材に味を染み込ませる方がうまいじゃないですか。それと同じことを白トリュフでやっていたわけです。
それで感じたのが、食材には一番おいしい食べ方があるということ。カニクリームコロッケにしても白トリュフ漬けにしても、最高においしく食べるための工夫なんです。こうした工夫のおかげでよりおいしく食べられれば、食材を作った方への感謝の気持ちも一段と強くなると思っています。(聞き手=菊地武顕)
わだ・ひでき 1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒後、同付属病院精神神経科、老人科、神経内科で研修。現在は国際医療福祉大学赤坂心理学科教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長などを務める。心理学や受験指導に関する書籍を多数執筆。近著は『感情的にならない心の整理術』(プレジデントムック)。
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2021年02月27日

古村比呂さん(女優) 闘病で知ったありがたみ
私は子宮頸がんの手術をしました。再発後には抗がん剤での治療を受けました。食べ物についての一番の思い出は、その2回の闘病時に感じたことです。
最初は2012年の摘出手術の時です。
術後3日目に、初めて重湯が出ました。それまでずっと点滴でしたから、久しぶりに口から食べ物を入れたわけです。
口で味わう感動
一口目をいただいたら、汗が出てきたんです。全身の毛穴から汗が。そんな経験は初めてだったので、とても驚きました。口から物を入れるということのすごさをまじまじと知ったんですね。細胞が動き出した、細胞が喜んでいる。そのように感じました。
2回目は、5年後。再発したので、抗がん治療を始めました。
そうしたら、食べるということに喜びを得られなくなってしまったんです。料理の味が感じられない。そのため、気分がなえてしまいました。食事というよりも餌を食べているような感覚になってしまったんです。
そんな時期に、息子が玄米かゆを作ってくれました。それがすごくおいしくって。
それまで料理なんて作らなかった息子が作ってくれた。それに対するありがたさもあるんでしょうけど、すごくおいしかったことが忘れられません。
息子も必死だったんでしょうね。けっこう手の込んだかゆで、まるで白い汁のようでした。息子は、私がそれを飲む様子を見ていませんが、「おいしかったよ」と伝えたら「よかった」とものすごくホッとしたように答えました。
抗がん治療を終え、今では普通になんでもおいしく食べられるようになりました。
この二つの経験の後では、食べ物をいただくということに対する感覚が全然違いますね。口から物を食べられるありがたさを知り、食べ物で体ができているんだということを実感したので、感謝の気持ちが強くなりました。
食べ物は、嗜好(しこう)品になりがちのところもあるじゃないですか。欲しいときにすぐに手に入るものだし、好き嫌いを言って構わないものだと。私も病気になる前は、ありがたみを感じずに食べていたと思います。
粗末にできない
今では食べ物を粗末にするのはとても失礼だと感じます。食べ物でいろんな人たちとつながっている。そういう思いが出てきましたね。生産や流通に関わる皆さんのおかげで、私の体がつくられているんだ、と。皆さんはどういう思いで頑張ってくれているんだろうと、バックグラウンドやドラマを想像しながらいただきます。
私は北海道の過疎地で育ちました。同居していた祖父母は、最初はその土地で自給自足のような生活をしていたそうです。私が育った頃でも野菜を作っていましたし、毎朝、近くの農家さんから牛乳を買っていました。
20歳になる年に上京して、芸能活動を始めました。
田舎者としては、東京の食べ物が珍しくて、外食ばかりしていたんです。そうしたら1週間で調子が悪くなったんです。体に発疹が出ました。きっと体がびっくりしたんでしょうね。いったい何を食べているんだ、と。
そこで、自分で作るようにしました。最初に作ったのは、肉じゃがと豚汁。それを食べた時のほっとした感覚を覚えています。やっぱり食べ物が、私たちの体をつくっているんですよね。(聞き手=菊地武顕)
こむら・ひろ 1965年北海道生まれ。85年の映画「童貞物語」の主演でデビュー。87年のNHK朝の連ドラ「チョッちゃん」でヒロインを務めて、人気女優に。子宮頸がん、リンパ浮腫との闘病を経験。同じように病気で苦しむ女性たちを支援する「HIRAKU」プロジェクトを展開している。
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2021年02月20日

黒川伊保子さん(脳科学者・エッセイスト) 山の恵みで「母の味」再現
食のこだわりといえば、私には二つ。信州みそと、九州のぬか漬けです。父が信州は伊那谷の出身で、母は福岡県伊田町(現・田川市)で育ちました。私の名の「伊」は二人の出身地から名付けられました。
幼いころ食べていた祖母の手作りのみそが忘れられずにいたら、大学時代のルームメートが松本に嫁ぎ、姑と手作りしたみそを分けてくれるようになりました。それが、思い出の味そのままで。大豆は家の前の畑で作るのだとか。やはり、土地の味というのがあるのだなと痛感しました。20年ほど幻だった味を、毎日のように食べています。
私にとって、もう一つの幻の味が、母の作るぬか漬けでした。母は腰を悪くしてから、20年ほどぬか床を養生しておらず、私は、時折、母のぬか漬けがどうしても食べたくなり、「高級糠床」なるものを買ってはみるのですが、母のような味はどこにもありませんでした。
ぬか床は家の宝
母の出身地は、ぬか床を大切にする土地柄です。母の実家のぬか床も100年以上続いたものだったといいます。この家のぬか床は、昆布などのだしと、さんしょうをザクザクと入れるのが特徴。母も伯母も、ぬか床をなめて味の確認をしていました。ぬかみそは、臭くなんかなかったです。実際、福岡県の中部・北部では、ぬかみそを使ってイワシなどを煮て食べます。みそと同じ調味料感覚なんです。
私は断然キュウリですが、母が好きなのはナス。ナスにはこだわりがあって、小ナスを漬けるんですが、小さ過ぎると硬過ぎる。漬けるのにちょうどいい大きさというのがあるわけです。
母の里ではぬか漬けにピッタリの大きさのナスが市場に出ていたそうです。私を育ててくれた栃木では、その大きさのナスがなかった。それで自分で種を植えて育てていました。どうもうまくいかなかったようですが。
昭和40年代くらいでは、今のように流通が発達していませんから、それぞれの土地によって食材が違っていました。
私自身は、何度もぬか床作りに挑戦してはいるのですが、どうにも母の味に近づけず、結局、仕事にかまけて駄目にしたりして、とうとう還暦まで来てしまいました。
ところが、その還暦の年、母の味が再現できたんです。息子のおかげ。息子が日光・足尾の山の一角を買ったのですが、その斜面一帯に、サンショウが鈴なりになっていたんです。大粒の、辛いだけではなくうま味を感じさせる極上のサンショウでした。そういえば、母も、サンショウにはこだわっていましたね。
今のぬか床を作り始めたのは、息子の妻のためなんです。彼女は腸が弱いんですね。母も私も便通で悩んだことはないから、母のぬか漬けのおかげで腸内細菌が整ったのかもと。人生最後の挑戦のつもりでぬか床を作ったら、思いもよらぬ山の恵みのおかげで、長年の「幻の味」がよみがえりました。みそもぬか床も、土地の力をいただく営み。いとしいですね。
小言もまた幸せ
母は今年90歳になります。台所に立つこともありません。私のやることについても、何も言わなくなりました。でも私の作ったイワシのぬかみそ煮に「ご飯のおかずにはいいけど、酒のさかなにはちょっとしょっぱいかな」などと、駄目出しをします。それがうれしくて。母に小言を言われながら一緒に食べることが今はとても幸せです。(聞き手=菊地武顕)
くろかわ・いほこ 1959年長野県生まれ、栃木県育ち。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、メーカーで人工知能研究開発に従事。コンサルタント会社勤務などを経て、感性リサーチを設立。『恋愛脳』『夫婦脳』などを執筆。『妻のトリセツ』はベストセラーに。最新刊は『息子のトリセツ』(扶桑社新書)。
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2021年02月13日

西川りゅうじんさん(マーケティングコンサルタント) いただきます 日本の神髄
子どもの頃、休みになると母方の伯父の家によく遊びに行きました。伯父は大学で教壇に立ちながら、代々受け継いできた田畑で米や野菜を作っていたんです。
一緒に草むしりしながら、いろいろなことを教わりました。
小学校で農という漢字を習ったときに不思議に感じ、聞いてみたんです。
「農という字は、曲がるに辰(たつ)と書くよね。曲がったことをすると、辰が出てくるってこと」
「面白い見方だな。実は、曲は田を、辰は石で作った農具を表しているんだ。田畑を農具を使って耕すという意味だよ」
命の尊さ教わる
伯父は無農薬で作っていて、野菜には時々虫が付くことがありました。私も種をまき水をやっていましたから、チョウの幼虫に食べられたりすると悔しいわけですよ。
憎たらしいからつぶそうとすると、伯父に「それはそれで育ててあげたらいいんだよ」と言われ、幼虫を自分の家に持ち帰りました。やがて、かわいいモンシロチョウに育ち、命の尊さを知りました。
私の家では、食事の前に必ず手を合わせて「いただきます」と唱えてから食べていました。この言葉こそ日本の食文化の神髄を表していると思います。動・植物の命、農家の皆さんの耕作の成果を賜って生かしていただいているわけですから。
食べ物を粗末にすると両親は許しませんでした。出されたものは、全て食べるのが当たり前。
小学校の低学年のある日。キャベツとシソを刻んだサラダが出ました。シソが苦くて、両親が食べ終わった後も一人で食べ続けましたが、食べ残して自分の部屋に行って寝ました。すると翌朝から3食全てそのサラダだけ。
それで、伯父の家に行かされるようになったのかもしれません。自分で野菜を作って、その苦労を知れば、好き嫌いなく、おいしく食べられるようになるだろうという、両親の食育だったのでしょう。
食事は一汁三菜が基本でした。母が漬けた漬物が、朝夕、食卓に彩りを添えていたのを覚えています。
1960年代には、既に家でぬか漬けを漬けるのは臭いし面倒だと敬遠されていました。
今でこそ和食が見直されていますが、当時は食でも何でも欧米化が正しいという風潮でした。朝はパンとベーコンとコーヒーが豊かさと健康をもたらすという幻想が支配していた時代です。
欧米化とは無縁
その頃から、カブトムシはデパートで、漬物はスーパーで売っているモノになり果てたのです。祖母から受け継いだ臭いぬか床を母親が自分の手でかき混ぜ、自宅で漬物を作っていたわが家は戦前の食文化の化石でした。
父方の祖父母の家に泊まりに行った時の思い出も、まるで「ふるさと」の歌のようによみがえってきます。
春の河辺でみんなでツクシを取り、あく抜きして、おひたしや卵とじにして食べました。ヨモギを摘み、すり鉢ですって、よもぎ餅を作りました。
今も「春の七草」は全部言えますよ。一方、「秋の七草」は知りません。だって食べずに鑑賞するものですからね。でもこの歳になって、そんな風流もやっと分かってきた気がします。
幼き日に心と体でいただいた農と食の実体験はかけがえのない人生の宝物です。文字通り、「有り難い」ことですね。ありがとうございます。(聞き手=菊地武顕)
にしかわ・りゅうじん 1960年兵庫県生まれ。「愛・地球博」のモリゾーとキッコロや「平城遷都祭」のせんとくんの選定・PR、「つくばエクスプレス」沿線の街づくり、全国的な焼酎の人気作りに携わる。JAや日本食鳥協会で講師を務め、農産物のブランド化と大都市部でのチャンネル開発に手腕を発揮している。
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2021年02月06日