農と食のこれから
新型コロナウイルスの感染拡大は、100年に一度もない世界同時危機をもたらしている。
日本の農業にも大きな影響を与え、日本の農業が抱える構造的な問題を浮かび上がらせた。
課題解決に向けた取り組みを『「農と食」のこれから』と題し、食料自給体制の危うい側面や未来図をルポルタージュで提示する。

[災い転じて](下) 仙台牛「1頭買い」提案 売り場並ぶ希少部位
仙台市若林区の会社員、佐沼俊輔さん(38)は9月下旬、「ザブトン」と呼ばれる牛肉を近所のスーパーで購入し、宮城県石巻市の実家を訪ねた。20代の頃、母と初めて口にし、そのおいしさにほれ込んだが、市中のスーパーや精肉店ではなかなか手に入らなかった。新型コロナウイルスの感染拡大で定期的な帰省がままならない中、大好物のザブトンで母と久しぶりに食事をすることを喜んでいた。……
2020年10月29日

[災い転じて](上) 観光地の新戦略 宮城県蔵王町 都市離れ仕事…「すてき」
「ここに来て本当によかった」
新型コロナウイルス感染拡大に伴う全国緊急事態宣言が解除された直後の6月、仙台市の自宅で不動産会社の事務を受託している佐藤亜矢子さん(48)は、蔵王連峰の懐に抱かれた宮城県蔵王町で暮らしていた。……
2020年10月28日

[新たな日常](下) 休業続いた観光果樹園
SNSで心の“交流”
営業を再開して10日が過ぎた8月21日、山形県天童市の観光果樹園「王将果樹園」に客の姿はまばらだった。3代目代表の矢萩美智さん(44)が、事務所に保管していた厚さ2センチ近くの紙束を手にした。4月7日の政府による最初の緊急事態宣言以降、首都圏を中心とした予約客から送られてきたキャンセル連絡票の束だ。
約10ヘクタールの面積を持つ同園は、国内最大のサクランボ産地・山形で最も集客力のある観光農園の一つだ。だが新型コロナウイルス禍は、サクランボシーズンを狙い撃ちし、観光客の姿は消えた。「このまま開けていても意味がない」と休業に踏み切ったのは、全国に宣言が拡大された4月下旬だった。
ところが今、紙束を繰る矢萩さんの表情に暗さはない。「毎日が驚きと気付きの連続でした」。そう語り、休業から営業再開までの4カ月近くを振り返った。
休業を決めた時、園には創業50年にわたる顧客1万人分の名簿があることを思い出した。そこには住所と電話番号が、近年はメールアドレスやインターネット交流サイト(SNS)のアカウントがあった。
観光客を迎えられない中でダイレクトメールやネット通販に力を入れようとした時、それはまるで「宝の山」を見つけた気分になった。PRには「あたかも果樹園で好きな果物を摘むように」と、来園をイメージしてもらう言葉を考えた。同時に、SNSのツイッターなどを通じて思いを発信する回数を増やした。
サクランボは来園者が来なくても成長するから、管理も必要になる。毎日の仕事ぶりを書き込むと、「暑くないですか?」と心配してくれる人がいた。「灼熱(しゃくねつ)の中でやってます」と答えると、応援の声であふれた。「生育の悪い木には小まめに水をやります」と伝えると、「まるでサクランボのお医者さんですね」と共感の輪が広がった。
SNSのフォロワーは1800人近くとなり、休業で失うと思っていた客との関係が逆に深まったと感じた。
地域との絆が勇気に
山形県天童市の観光果樹園「王将果樹園」の3代目代表、矢萩美智さん(44)が休業中の7月12日にサクランボシーズンを終えた時、ツイッターには「おつかれさまでした」とねぎらいの言葉があふれた。自分より大変な人がいるはずなのに、心遣いが胸にしみた。「不安いっぱいでこんなふうになるとは想像できなかった。苦しかったけど毎日が新鮮でわくわくでした」。矢萩さんは正直な気持ちを書き込んだ。
客のいない果樹園で「ラ・フランス」の手入れをする矢萩さん(左)とスタッフ(山形県天童市で)
驚いたのは、この間、休業に伴う損失を埋めるほどサクランボの注文が殺到したことだった。感謝したのは、休業した市内にある旅館の従業員たちが「観光客が戻ってきた時、果物狩りの魅力をうまく伝えられるから」と気持ちよく収穫を支えてくれたことだった。
営業していれば来園客が実を摘み取るから、収穫作業の負担は少ない。人手がいつも以上に必要になると気付いた休業前、天童市の温泉旅館等で組織する旅行会社「DMC天童温泉」の鈴木誠人さん(30)に依頼し、旅館に籍を置いたまま副業として園で働いてもらえないかと打診していた。
そして、うれしかったのは、県内のサクランボ農家の多くが緊急事態宣言下の困難を乗り切り、売り上げも前年同期より伸ばしたことだった。山形県によると、収穫を支える「さくらんぼ産地サポーター」の登録企業は今年、前年より23社増の72社と過去最多だった。シーズン中の市場出荷などを含む販売金額も6%増え、ふるさと納税によるサクランボ返礼品の取扱量は4割近く伸びた。
矢萩さんの4カ月は、コロナ禍に向き合う地域と共に歩んだ月日だった。来園者がいない苦しい胸の内を隠さず、サクランボや山形の魅力を発信し続け、客をより身近に感じ、地域の人との絆も深まった。
王将果樹園は10月、洋梨「ラ・フランス」のシーズンを迎える。しかし、首都圏からの観光客は当面戻らないだろう。だが、矢萩さんは「観光はいずれ復活する」と悲観していない。従来の顧客と、新たにSNSなどを通じてつながった人々、そして、共に危機を乗り越えた地域の人との信頼が、コロナ禍の日常に向き合う勇気となった。(音道洋範)(2020年9月1日掲載)
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2020年09月01日

[新たな日常](中) 県外アルバイター雇用
重なるバブル崩壊後
海にそのまま落ち込む山の斜面に、温州ミカンの畑が広がる愛媛県八幡浜市真穴地区。親子3代のミカン農家、松浦有毅さん(80)、喜孝さん(51)、壽毅さん(23)が、8月半ばの強烈な西日を受けながら、直径5センチほどの緑色の実を摘んでいた。秋の収穫に向け実を育てるためだ。
県最大の温州ミカン産地は今年、収穫や選果を支える県外からのアルバイター約400人にPCR検査を行った上で農家が直接雇用する。この前例のない取り組みは、全国からの出荷要請に応えるための選択だった。
八幡浜でアルバイターの受け入れが始まったのはバブル経済崩壊直後の27年前だった。都市を中心に「就職氷河期」が深刻化した時代だ。産地や地域の未来、都市と地方の関係を考え、若者を雇い入れようと動いたのが有毅さんだった。
温州ミカンは全国の生産量が360万トンとピークを迎えた1970年代以降、生産量や価格が乱高下し、農家の所得が不安定になった。そこに追い打ちを掛けたのがガット(関税貿易一般協定)・ウルグアイラウンドだった。92年にオレンジ果汁の輸入が自由化され、農家の経営を下支えしていた果汁原料の価格が暴落。果実の価格低迷も続き、農家の廃業が起きた。
地方から都市へ若者が流れ、農村は高齢化が進み、寂れた。八幡浜も例外ではなく、有毅さんの下で働いてもらっていた繁忙期が異なる近隣町の農家も、高齢で手伝いに来られなくなった。
都市に住む若者も働き口を失っており、「現代のコロナ禍と同じようだった」と有毅さんは言う。有毅さんが当時、そんな若者に八幡浜で働いてもらおうと大阪や東京で面接を重ねたのは、自分が病に倒れたことで高校卒業と同時に家業に入った喜孝さんのため「地域の未来をより良くしなければ」と思ったからだった。
産地ノウハウ共有を
JA支所に張り出された「100年の歩み」。江戸時代からの歴史が手書きでつづられている(愛媛県八幡浜市で)
しかし、地域では当初、県外からアルバイターを受け入れることに反対する人も少なくなかった。雇われた人たちが無職だったことで冷たい視線を浴びることもあった。有毅さんは「産地を成長させてゆくには働き手がたくさん必要になる」と説得し続ける一方、不真面目なアルバイターには厳しく相対した。
有毅さんの姿勢と高齢化が進む現実が、一人また一人とアルバイターを受け入れる農家を増やし、八幡浜は産地として成長した。有毅さん一家の栽培面積も4ヘクタールと、八幡浜の平均面積より3倍近く広がった。離農や死亡する農家の園地を引き継ぐなどしたためだが、他の農家も同様に面積を広げ、昨年は真穴地区だけで過去最多の92戸が239人を受け入れた。アルバイターは産地を支える要になっていた。
コロナ禍はそんな産地に新たな試練を与え、産地はPCR検査という前例のない取り組みで応じた。有毅さんが言った。「アルバイターとの交流が続いてほっとした。でも、うれしかったのは、都市と地方との共生関係が守られたことかな」
PCR検査の重要性を八幡浜市に提案したJAにしうわの農業振興部主任、河野晃範さん(39)は、都市で職を失った若者が地方の産地へ働きに来る流れが続くとみる。「八幡浜の取り組みが全国に広がれば、都市と地方が安心して手を携えられる」と「ウィズコロナ時代」の新しい産地の在り方を提案し、「感染を防ぐ農家を支える私たちのノウハウを他の地域とも共有したい」と語る。
就職氷河期のただ中だった四半世紀前、アルバイターとして有毅さんの畑で働いた関東在住の女性から、毎年のように「温州ミカンが欲しい」と便りが届く。昨年は「変わりなくお過ごしですか。子どもが大きくなりました」と記されていた。
地域と家族への思いから懸命に働いた有毅さん。一時は病気で倒れたとは思えないほど元気で、喜孝さんは「だまされた」と笑う。そんな祖父と父を見て育った壽毅さんは「これからの農業には企業経営が必要」と大阪の大学で経営学を学び、八幡浜へ戻ってきた。一家の歩みが産地の未来を照らす。(丸草慶人)
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2020年08月28日

[新たな日常](上) ユニクロ 銀座で挑戦
洋服店「花」求める人
シャネルやバーバリーなど、世界の高級ブランド店が軒を並べる東京・銀座マロニエ通り。8月盆さなかの13日は気温30度を超す猛暑だったが、多くの人が行き交っていた。その中で女性たちが足を止めていたのは、ショーウインドーではなく「1束390円」「3束990円」と、安価な価格表示の花売り場だった。
仕掛けたのは「UNIQLO TOKYO」。全国緊急事態宣言解除後の6月にオープンし、通りに面した玄関口にユニクロとしては新たな試みの花売り場を設けた。屋内側にはバラやユリなどの定番品が、屋外は暑さに強いヒマワリやケイトウ、ヘリコニアが並ぶ。どこから飛んで来たのか、1匹のミツバチが羽音を響かせていた。
「今はまだ実験段階です」。ユニクロの運営会社・ファーストリテイリングの広報担当、謝宝友さんが控えめに言う。
同店は2020年東京五輪・パラリンピックを前に、国内外から東京を訪れる人々にユニクロの取り組みなどを知ってもらう「グローバル旗艦店」として4月のオープン予定だった。衣料品を軸に日々の暮らしを彩る品々を提案する「ライフウェア」をコンセプトに、その一翼を担う商品として生花は位置付けられた。
ところが、コロナ禍は当初の狙いを狂わせた。一方で、災いは思わぬ結果へとつながった。
本来ならば海外から観光客が多く訪れるはずだった同店は、家で快適に過ごすためのアイテムがよく売れている。売れ筋は部屋着だが、屋内を彩る花々のニーズも掘り起こした。在宅勤務が広がり、家にいる時間が長くなった人々が、それまで日中の管理が難しかった切り花を買い求めている。売れ行きは「予想以上に好調」だ。
コロナ禍は花農家や流通関係者から「花を売る日常」を奪った。感染が深刻化した3月以降、入学・卒業式、入社式などの式典、レストランや展示場など業務用向けに育てられていた花は、相次ぐ自粛や休業の中で行き場を失った。
そうした中で、ユニクロの取り組みは「コロナ禍の新しい日常」にマッチした。衣料品と同様に「気軽に手に取って使ってほしい」という意思を表した価格設定や売り方が、100年に1度とも言われる災いの時代に生きる人々を引き付ける。
コロナ禍の新習慣に
「とてもきれい」。通りがかりに足を止めた女性が花束を手に取った(東京都中央区銀座で=共に釜江紗英写す)
「今日はお供え花を買った。今年のお盆はコロナが心配で長野にいる親類の元には帰れない。せめて、家の仏壇にはきれいな花を飾りたいと思って」。13日、仕事帰りに「UNIQLO TOKYO」に立ち寄った東京都の中野有美さん(42)が言った。コロナ禍がなければ帰省休暇中だったという。
店頭に並ぶ花束から選んだのは、紫のスターチスにピンクのケイトウ、パンパスグラス。以前は花を買う習慣はなかったが、同店が勤務先の近くにオープンし、花売り場が目に止まった。1束390円という「買いやすい価格」に背中を押され、花のある暮らしを始めた。
アパレル関連では世界に名をはせたユニクロだが、花業界ではベンチャー的な存在だ。花売り場の新設に当たり衣料品売り場の社員とは切り離した専従チームを編成し、担当社員が週3日、市場で直接買い付けをしている。傍らから見れば、力の入れようは半端でない。
東京の大手花き卸「大田花き」の磯村信夫社長は、コロナ禍で花の需要が激減した3月以降、自社ホームページのコラムで「業務需要は当面、以前のようには戻らない」と明言し、家庭需要の掘り起こしを訴えた。消費地の動向を敏感に捉え、変化する品種や色目へのニーズを迅速に産地へつなぐ卸の提案力の重要性を説いた。
ユニクロの花販売と軌を一にするが、どこまで広がるかは不透明だ。花は刻々と変化し、衣料品と違って在庫は利かない。水の管理が重要なため、衣料品とは分けられた売り場も必要だ。花を知るスタッフや入荷した生花を並べ置くスペースもいる。花売り場は「UNIQLO TOKYO」と原宿や横浜の計3店舗に設けたが、どの店にも設置できない事情もある。
とはいえ、「花のある新しい日常」の到来に業界の注目は集まる。
盆が開けた17日、東京・大森にある大花園の3代目、堀切実さんが「今年のお盆は忙しかった。帰省しない分、供え花を飾ったり贈ったりする人が増えたようだ。おかげで今日は売る花がない」と苦笑した。戦前は目黒で、戦後は大森に移り、87年の間、花を販売してきた老舗生花店も予測しなかった事態。家庭で花を必要とする人は着実に増えていると、堀切さんは実感していた。(柴田真希都)
◇
失われた日常から新しい日常へ──。連載「農と食のこれから」第2部「新たな日常」は、都市と地方で試行錯誤しながらコロナ禍を乗り越えようとする取り組みを3回にわたって報告する。(2020年8月27日掲載)
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2020年08月27日
[人手不足の産地](1) 実習生来ぬ春 群馬県嬬恋村
投光器が照らす中、今季の収穫が始まった松本さんのキャベツ畑(群馬県嬬恋村で=釜江紗英写す)
「公共の使命」果たす
7月7日午前3時半すぎ、標高1200メートルの群馬県嬬恋村田代地区は、梅雨前線の影響で昨夜から降り続いていた雨が上がり、流れる雲の切れ間から天の川がのぞいた。代替わりで今季から陣頭指揮を執る4代目農家の松本裕也さん(34)が投光器のスイッチを入れた。暗闇に沈んでいたキャベツが照らされた光で色を取り戻し、10月まで続く収穫が始まった。
松本さんの他、父秀信さん(75)、母ゆき子さん(72)、新型コロナウイルス禍で入国できなかった外国人技能実習生2人に代わって雇用した望月由香利さん(54)と竹原由祐さん(30)の計5人が畑に入った。望月さんはコロナ禍で休業状態となった村内のリゾートホテル従業員。派遣社員の竹原さんも長野・軽井沢の保養施設が臨時閉鎖され、嬬恋にやってきた。
刈る、並べる、箱に詰める。5人の息がぴたりと合い、途中から降りだした雨の中でも作業は黙々と進んだ。2時間後、夜明けとともに深緑に輝きだした広大な畑を見渡しながら、松本さんは「今年もこの日を迎えられた」ことに感謝した。
作付け危機
4カ月前の春先、世界同時危機の荒波は嬬恋村にも押し寄せた。各国は自国保護のため国や地域間の移動を制限し、政府も外国人の入国規制に乗り出した。外国人技能実習生へのビザ発給は止まり、農業分野だけで2400人が来日できなくなった。その1割分の受け入れを予定していたのが同村の農家だった。
2018年から毎年、中国からの実習生2人を雇ってきた松本さんも、河北省に住む40歳前後の男性2人の来日を待っていた。昭和期に山林を開墾した8ヘクタールを営むには、両親と実習生を加えた計5人が必要だった。実習生の監理団体から「ビザが出ない」と連絡があった時、松本さんは「今季の作付けは5ヘクタールが精いっぱいか」と悩んだ。
キャベツはタマネギやハクサイなどと並び、国が定める重要野菜4品目の一つだ。同村は安定供給の指定産地となっており、キャベツ農家は、収穫が終わると来季の生産計画を立てる。同村で栽培されるのは、7月から10月に出荷される夏秋キャベツで、そのシェアは全国の5割を超えている。
巨大産地は食料の安定供給という「公共の使命」を負う。生産量が計画から大幅ダウンすれば、国内の需給バランスは崩れ、価格は高騰し、食卓への影響は計り知れない。松本さんの悩みは個人の領域を超えていた。
行政後押し
同じ頃、3月23日。村役場1階の村長室にJA嬬恋村の関喜吉専務と嬬恋キャベツ振興事業協同組合の干川秀一理事長が駆け付け、緊急会議が持たれた。2人は熊川栄村長に、実習生のうち入国できたのは4割にすぎず、6割に当たる計221人が入国できない見通しだと伝えた。
村のキャベツ農家361戸のほとんどは家族経営で、耕作面積が広いほど実習生に支えられている。収穫が始まる6月末までには入国規制も緩和されるのではとの楽観論もあったが、熊川村長の決断は早かった。村独自の支援策として5000万円の異例の予算化を決め、JAや協同組合などと人手不足を解消する有効な使途を詰めるよう農林振興課に指示した。
農水省が調査を開始した1970年以降、夏秋キャベツの出荷量が常に全国最多の同村は今秋、「日本一連続50年」を迎える。その節目に、生産縮小の選択肢を突き付けられる事態が幕を開けた。
3カ月後の6月末、嬬恋キャベツが群馬県産として全国の市場に届き始めた。昨年と同じ価格水準で販売され、食料の安定供給という公共の使命は果たされた。
2020年07月15日
農と食のこれからアクセスランキング
1
[災い転じて](上) 観光地の新戦略 宮城県蔵王町 都市離れ仕事…「すてき」
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2020年10月28日

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[新たな日常](上) ユニクロ 銀座で挑戦
洋服店「花」求める人
シャネルやバーバリーなど、世界の高級ブランド店が軒を並べる東京・銀座マロニエ通り。8月盆さなかの13日は気温30度を超す猛暑だったが、多くの人が行き交っていた。その中で女性たちが足を止めていたのは、ショーウインドーではなく「1束390円」「3束990円」と、安価な価格表示の花売り場だった。
仕掛けたのは「UNIQLO TOKYO」。全国緊急事態宣言解除後の6月にオープンし、通りに面した玄関口にユニクロとしては新たな試みの花売り場を設けた。屋内側にはバラやユリなどの定番品が、屋外は暑さに強いヒマワリやケイトウ、ヘリコニアが並ぶ。どこから飛んで来たのか、1匹のミツバチが羽音を響かせていた。
「今はまだ実験段階です」。ユニクロの運営会社・ファーストリテイリングの広報担当、謝宝友さんが控えめに言う。
同店は2020年東京五輪・パラリンピックを前に、国内外から東京を訪れる人々にユニクロの取り組みなどを知ってもらう「グローバル旗艦店」として4月のオープン予定だった。衣料品を軸に日々の暮らしを彩る品々を提案する「ライフウェア」をコンセプトに、その一翼を担う商品として生花は位置付けられた。
ところが、コロナ禍は当初の狙いを狂わせた。一方で、災いは思わぬ結果へとつながった。
本来ならば海外から観光客が多く訪れるはずだった同店は、家で快適に過ごすためのアイテムがよく売れている。売れ筋は部屋着だが、屋内を彩る花々のニーズも掘り起こした。在宅勤務が広がり、家にいる時間が長くなった人々が、それまで日中の管理が難しかった切り花を買い求めている。売れ行きは「予想以上に好調」だ。
コロナ禍は花農家や流通関係者から「花を売る日常」を奪った。感染が深刻化した3月以降、入学・卒業式、入社式などの式典、レストランや展示場など業務用向けに育てられていた花は、相次ぐ自粛や休業の中で行き場を失った。
そうした中で、ユニクロの取り組みは「コロナ禍の新しい日常」にマッチした。衣料品と同様に「気軽に手に取って使ってほしい」という意思を表した価格設定や売り方が、100年に1度とも言われる災いの時代に生きる人々を引き付ける。
コロナ禍の新習慣に
「とてもきれい」。通りがかりに足を止めた女性が花束を手に取った(東京都中央区銀座で=共に釜江紗英写す)
「今日はお供え花を買った。今年のお盆はコロナが心配で長野にいる親類の元には帰れない。せめて、家の仏壇にはきれいな花を飾りたいと思って」。13日、仕事帰りに「UNIQLO TOKYO」に立ち寄った東京都の中野有美さん(42)が言った。コロナ禍がなければ帰省休暇中だったという。
店頭に並ぶ花束から選んだのは、紫のスターチスにピンクのケイトウ、パンパスグラス。以前は花を買う習慣はなかったが、同店が勤務先の近くにオープンし、花売り場が目に止まった。1束390円という「買いやすい価格」に背中を押され、花のある暮らしを始めた。
アパレル関連では世界に名をはせたユニクロだが、花業界ではベンチャー的な存在だ。花売り場の新設に当たり衣料品売り場の社員とは切り離した専従チームを編成し、担当社員が週3日、市場で直接買い付けをしている。傍らから見れば、力の入れようは半端でない。
東京の大手花き卸「大田花き」の磯村信夫社長は、コロナ禍で花の需要が激減した3月以降、自社ホームページのコラムで「業務需要は当面、以前のようには戻らない」と明言し、家庭需要の掘り起こしを訴えた。消費地の動向を敏感に捉え、変化する品種や色目へのニーズを迅速に産地へつなぐ卸の提案力の重要性を説いた。
ユニクロの花販売と軌を一にするが、どこまで広がるかは不透明だ。花は刻々と変化し、衣料品と違って在庫は利かない。水の管理が重要なため、衣料品とは分けられた売り場も必要だ。花を知るスタッフや入荷した生花を並べ置くスペースもいる。花売り場は「UNIQLO TOKYO」と原宿や横浜の計3店舗に設けたが、どの店にも設置できない事情もある。
とはいえ、「花のある新しい日常」の到来に業界の注目は集まる。
盆が開けた17日、東京・大森にある大花園の3代目、堀切実さんが「今年のお盆は忙しかった。帰省しない分、供え花を飾ったり贈ったりする人が増えたようだ。おかげで今日は売る花がない」と苦笑した。戦前は目黒で、戦後は大森に移り、87年の間、花を販売してきた老舗生花店も予測しなかった事態。家庭で花を必要とする人は着実に増えていると、堀切さんは実感していた。(柴田真希都)
◇
失われた日常から新しい日常へ──。連載「農と食のこれから」第2部「新たな日常」は、都市と地方で試行錯誤しながらコロナ禍を乗り越えようとする取り組みを3回にわたって報告する。(2020年8月27日掲載)
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2020年08月27日

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[人手不足の産地](1) 実習生来ぬ春 群馬県嬬恋村
投光器が照らす中、今季の収穫が始まった松本さんのキャベツ畑(群馬県嬬恋村で=釜江紗英写す)
「公共の使命」果たす
7月7日午前3時半すぎ、標高1200メートルの群馬県嬬恋村田代地区は、梅雨前線の影響で昨夜から降り続いていた雨が上がり、流れる雲の切れ間から天の川がのぞいた。代替わりで今季から陣頭指揮を執る4代目農家の松本裕也さん(34)が投光器のスイッチを入れた。暗闇に沈んでいたキャベツが照らされた光で色を取り戻し、10月まで続く収穫が始まった。
松本さんの他、父秀信さん(75)、母ゆき子さん(72)、新型コロナウイルス禍で入国できなかった外国人技能実習生2人に代わって雇用した望月由香利さん(54)と竹原由祐さん(30)の計5人が畑に入った。望月さんはコロナ禍で休業状態となった村内のリゾートホテル従業員。派遣社員の竹原さんも長野・軽井沢の保養施設が臨時閉鎖され、嬬恋にやってきた。
刈る、並べる、箱に詰める。5人の息がぴたりと合い、途中から降りだした雨の中でも作業は黙々と進んだ。2時間後、夜明けとともに深緑に輝きだした広大な畑を見渡しながら、松本さんは「今年もこの日を迎えられた」ことに感謝した。
作付け危機
4カ月前の春先、世界同時危機の荒波は嬬恋村にも押し寄せた。各国は自国保護のため国や地域間の移動を制限し、政府も外国人の入国規制に乗り出した。外国人技能実習生へのビザ発給は止まり、農業分野だけで2400人が来日できなくなった。その1割分の受け入れを予定していたのが同村の農家だった。
2018年から毎年、中国からの実習生2人を雇ってきた松本さんも、河北省に住む40歳前後の男性2人の来日を待っていた。昭和期に山林を開墾した8ヘクタールを営むには、両親と実習生を加えた計5人が必要だった。実習生の監理団体から「ビザが出ない」と連絡があった時、松本さんは「今季の作付けは5ヘクタールが精いっぱいか」と悩んだ。
キャベツはタマネギやハクサイなどと並び、国が定める重要野菜4品目の一つだ。同村は安定供給の指定産地となっており、キャベツ農家は、収穫が終わると来季の生産計画を立てる。同村で栽培されるのは、7月から10月に出荷される夏秋キャベツで、そのシェアは全国の5割を超えている。
巨大産地は食料の安定供給という「公共の使命」を負う。生産量が計画から大幅ダウンすれば、国内の需給バランスは崩れ、価格は高騰し、食卓への影響は計り知れない。松本さんの悩みは個人の領域を超えていた。
行政後押し
同じ頃、3月23日。村役場1階の村長室にJA嬬恋村の関喜吉専務と嬬恋キャベツ振興事業協同組合の干川秀一理事長が駆け付け、緊急会議が持たれた。2人は熊川栄村長に、実習生のうち入国できたのは4割にすぎず、6割に当たる計221人が入国できない見通しだと伝えた。
村のキャベツ農家361戸のほとんどは家族経営で、耕作面積が広いほど実習生に支えられている。収穫が始まる6月末までには入国規制も緩和されるのではとの楽観論もあったが、熊川村長の決断は早かった。村独自の支援策として5000万円の異例の予算化を決め、JAや協同組合などと人手不足を解消する有効な使途を詰めるよう農林振興課に指示した。
農水省が調査を開始した1970年以降、夏秋キャベツの出荷量が常に全国最多の同村は今秋、「日本一連続50年」を迎える。その節目に、生産縮小の選択肢を突き付けられる事態が幕を開けた。
3カ月後の6月末、嬬恋キャベツが群馬県産として全国の市場に届き始めた。昨年と同じ価格水準で販売され、食料の安定供給という公共の使命は果たされた。
2020年07月15日
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[災い転じて](下) 仙台牛「1頭買い」提案 売り場並ぶ希少部位
仙台市若林区の会社員、佐沼俊輔さん(38)は9月下旬、「ザブトン」と呼ばれる牛肉を近所のスーパーで購入し、宮城県石巻市の実家を訪ねた。20代の頃、母と初めて口にし、そのおいしさにほれ込んだが、市中のスーパーや精肉店ではなかなか手に入らなかった。新型コロナウイルスの感染拡大で定期的な帰省がままならない中、大好物のザブトンで母と久しぶりに食事をすることを喜んでいた。……
2020年10月29日

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[新たな日常](下) 休業続いた観光果樹園
SNSで心の“交流”
営業を再開して10日が過ぎた8月21日、山形県天童市の観光果樹園「王将果樹園」に客の姿はまばらだった。3代目代表の矢萩美智さん(44)が、事務所に保管していた厚さ2センチ近くの紙束を手にした。4月7日の政府による最初の緊急事態宣言以降、首都圏を中心とした予約客から送られてきたキャンセル連絡票の束だ。
約10ヘクタールの面積を持つ同園は、国内最大のサクランボ産地・山形で最も集客力のある観光農園の一つだ。だが新型コロナウイルス禍は、サクランボシーズンを狙い撃ちし、観光客の姿は消えた。「このまま開けていても意味がない」と休業に踏み切ったのは、全国に宣言が拡大された4月下旬だった。
ところが今、紙束を繰る矢萩さんの表情に暗さはない。「毎日が驚きと気付きの連続でした」。そう語り、休業から営業再開までの4カ月近くを振り返った。
休業を決めた時、園には創業50年にわたる顧客1万人分の名簿があることを思い出した。そこには住所と電話番号が、近年はメールアドレスやインターネット交流サイト(SNS)のアカウントがあった。
観光客を迎えられない中でダイレクトメールやネット通販に力を入れようとした時、それはまるで「宝の山」を見つけた気分になった。PRには「あたかも果樹園で好きな果物を摘むように」と、来園をイメージしてもらう言葉を考えた。同時に、SNSのツイッターなどを通じて思いを発信する回数を増やした。
サクランボは来園者が来なくても成長するから、管理も必要になる。毎日の仕事ぶりを書き込むと、「暑くないですか?」と心配してくれる人がいた。「灼熱(しゃくねつ)の中でやってます」と答えると、応援の声であふれた。「生育の悪い木には小まめに水をやります」と伝えると、「まるでサクランボのお医者さんですね」と共感の輪が広がった。
SNSのフォロワーは1800人近くとなり、休業で失うと思っていた客との関係が逆に深まったと感じた。
地域との絆が勇気に
山形県天童市の観光果樹園「王将果樹園」の3代目代表、矢萩美智さん(44)が休業中の7月12日にサクランボシーズンを終えた時、ツイッターには「おつかれさまでした」とねぎらいの言葉があふれた。自分より大変な人がいるはずなのに、心遣いが胸にしみた。「不安いっぱいでこんなふうになるとは想像できなかった。苦しかったけど毎日が新鮮でわくわくでした」。矢萩さんは正直な気持ちを書き込んだ。
客のいない果樹園で「ラ・フランス」の手入れをする矢萩さん(左)とスタッフ(山形県天童市で)
驚いたのは、この間、休業に伴う損失を埋めるほどサクランボの注文が殺到したことだった。感謝したのは、休業した市内にある旅館の従業員たちが「観光客が戻ってきた時、果物狩りの魅力をうまく伝えられるから」と気持ちよく収穫を支えてくれたことだった。
営業していれば来園客が実を摘み取るから、収穫作業の負担は少ない。人手がいつも以上に必要になると気付いた休業前、天童市の温泉旅館等で組織する旅行会社「DMC天童温泉」の鈴木誠人さん(30)に依頼し、旅館に籍を置いたまま副業として園で働いてもらえないかと打診していた。
そして、うれしかったのは、県内のサクランボ農家の多くが緊急事態宣言下の困難を乗り切り、売り上げも前年同期より伸ばしたことだった。山形県によると、収穫を支える「さくらんぼ産地サポーター」の登録企業は今年、前年より23社増の72社と過去最多だった。シーズン中の市場出荷などを含む販売金額も6%増え、ふるさと納税によるサクランボ返礼品の取扱量は4割近く伸びた。
矢萩さんの4カ月は、コロナ禍に向き合う地域と共に歩んだ月日だった。来園者がいない苦しい胸の内を隠さず、サクランボや山形の魅力を発信し続け、客をより身近に感じ、地域の人との絆も深まった。
王将果樹園は10月、洋梨「ラ・フランス」のシーズンを迎える。しかし、首都圏からの観光客は当面戻らないだろう。だが、矢萩さんは「観光はいずれ復活する」と悲観していない。従来の顧客と、新たにSNSなどを通じてつながった人々、そして、共に危機を乗り越えた地域の人との信頼が、コロナ禍の日常に向き合う勇気となった。(音道洋範)(2020年9月1日掲載)
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2020年09月01日

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[新たな日常](中) 県外アルバイター雇用
重なるバブル崩壊後
海にそのまま落ち込む山の斜面に、温州ミカンの畑が広がる愛媛県八幡浜市真穴地区。親子3代のミカン農家、松浦有毅さん(80)、喜孝さん(51)、壽毅さん(23)が、8月半ばの強烈な西日を受けながら、直径5センチほどの緑色の実を摘んでいた。秋の収穫に向け実を育てるためだ。
県最大の温州ミカン産地は今年、収穫や選果を支える県外からのアルバイター約400人にPCR検査を行った上で農家が直接雇用する。この前例のない取り組みは、全国からの出荷要請に応えるための選択だった。
八幡浜でアルバイターの受け入れが始まったのはバブル経済崩壊直後の27年前だった。都市を中心に「就職氷河期」が深刻化した時代だ。産地や地域の未来、都市と地方の関係を考え、若者を雇い入れようと動いたのが有毅さんだった。
温州ミカンは全国の生産量が360万トンとピークを迎えた1970年代以降、生産量や価格が乱高下し、農家の所得が不安定になった。そこに追い打ちを掛けたのがガット(関税貿易一般協定)・ウルグアイラウンドだった。92年にオレンジ果汁の輸入が自由化され、農家の経営を下支えしていた果汁原料の価格が暴落。果実の価格低迷も続き、農家の廃業が起きた。
地方から都市へ若者が流れ、農村は高齢化が進み、寂れた。八幡浜も例外ではなく、有毅さんの下で働いてもらっていた繁忙期が異なる近隣町の農家も、高齢で手伝いに来られなくなった。
都市に住む若者も働き口を失っており、「現代のコロナ禍と同じようだった」と有毅さんは言う。有毅さんが当時、そんな若者に八幡浜で働いてもらおうと大阪や東京で面接を重ねたのは、自分が病に倒れたことで高校卒業と同時に家業に入った喜孝さんのため「地域の未来をより良くしなければ」と思ったからだった。
産地ノウハウ共有を
JA支所に張り出された「100年の歩み」。江戸時代からの歴史が手書きでつづられている(愛媛県八幡浜市で)
しかし、地域では当初、県外からアルバイターを受け入れることに反対する人も少なくなかった。雇われた人たちが無職だったことで冷たい視線を浴びることもあった。有毅さんは「産地を成長させてゆくには働き手がたくさん必要になる」と説得し続ける一方、不真面目なアルバイターには厳しく相対した。
有毅さんの姿勢と高齢化が進む現実が、一人また一人とアルバイターを受け入れる農家を増やし、八幡浜は産地として成長した。有毅さん一家の栽培面積も4ヘクタールと、八幡浜の平均面積より3倍近く広がった。離農や死亡する農家の園地を引き継ぐなどしたためだが、他の農家も同様に面積を広げ、昨年は真穴地区だけで過去最多の92戸が239人を受け入れた。アルバイターは産地を支える要になっていた。
コロナ禍はそんな産地に新たな試練を与え、産地はPCR検査という前例のない取り組みで応じた。有毅さんが言った。「アルバイターとの交流が続いてほっとした。でも、うれしかったのは、都市と地方との共生関係が守られたことかな」
PCR検査の重要性を八幡浜市に提案したJAにしうわの農業振興部主任、河野晃範さん(39)は、都市で職を失った若者が地方の産地へ働きに来る流れが続くとみる。「八幡浜の取り組みが全国に広がれば、都市と地方が安心して手を携えられる」と「ウィズコロナ時代」の新しい産地の在り方を提案し、「感染を防ぐ農家を支える私たちのノウハウを他の地域とも共有したい」と語る。
就職氷河期のただ中だった四半世紀前、アルバイターとして有毅さんの畑で働いた関東在住の女性から、毎年のように「温州ミカンが欲しい」と便りが届く。昨年は「変わりなくお過ごしですか。子どもが大きくなりました」と記されていた。
地域と家族への思いから懸命に働いた有毅さん。一時は病気で倒れたとは思えないほど元気で、喜孝さんは「だまされた」と笑う。そんな祖父と父を見て育った壽毅さんは「これからの農業には企業経営が必要」と大阪の大学で経営学を学び、八幡浜へ戻ってきた。一家の歩みが産地の未来を照らす。(丸草慶人)
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2020年08月28日
