食の履歴書
和食が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されるなど、国内外であらためて注目を集める日本の「食」と「農」。著名人に食と農への思いなどを語ってもらった記事を一部再収録しました。

迫田さおりさん(元バレーボール日本代表) 引退後に知る郷土の特産
出身は鹿児島で、高校を出てから滋賀が拠点の東レアローズに入りました。
私は2010年に初めて日本代表に選んでいただいたのですが、当時代表は鹿児島で合宿を行っていたのです。合宿先でみそ汁を飲んだ時、「ああ、帰ってきた」と懐かしく感じました。
具がどうのこうのではないんですね。懐かしさを感じたのは、みそです。鹿児島は麦みそを使います。滋賀では白みそでした。
合宿の癒やしに
代表での合宿はすごく気が張り、ピリピリしていました。そんな中にあって、食事はゆっくりとくつろげる癒やしの時間。地元の味に触れられて、心が和みました。
合宿中には、さつま揚げや地元の菓子を差し入れていただきました。これもまたおいしく、懐かしく感じたんです。
さつま揚げといえば、子どものころ、父と魚屋さんに買いに行った時のことを思い出します。さつま揚げを買って車の中に置いて、別の用事で出たんです。戻って来たら、車の窓をちゃんと閉めていなかったので、猫が入ってきて全部食べられちゃったんですよ。「やられたあ」と父は悔しがり、私は笑い話のネタにしました。
菓子といえば、明石屋の軽羹(かるかん)と蒸氣屋のかすたどん。軽羹はすり下ろした山芋を使ったふんわりとした菓子。かすたどんは、カスタードクリームを軟らかいスポンジで包んで蒸したものです。
軽羹には餡(あん)入りのものと入っていないものがあり、どちらが好きかと意見が分かれます。私は餡の入っていない方が好きですね。これに急須で入れた知覧茶があれば、バッチリです。
蜂楽饅頭(まんじゅう)という大判焼きみたいな菓子も名物で、これには黒餡入りと白餡入りがあります。高校時代、部活帰りに寄って買ったんですが、お小遣いが少ないから1個しか買えません。「今日はどっちにしよう」と悩んだことを思い出します。
眞鍋(政義)監督時代は、代表は毎年鹿児島で合宿をしたので、そのたびに私は心が和みましたし、他の選手に鹿児島の食の魅力を伝えたりしました。
私は滋賀で11年プレーをして、現役を引退。今は鹿児島と東京を往復する生活をしています。
楽しい食べ歩き
高校時代までは何気なく食べていただけで、鹿児島特産のおいしい物のありがたみを分かりませんでした。代表の合宿で過ごしたとはいっても、年に1、2週間くらいの短い期間ですし、食べ歩きをするわけにはいきません。鹿児島の本当の食の魅力を知ったのは、引退してからです。
私は小さいころからオクラが大好き。細かく刻んでしょうゆと混ぜて食べると最高です。鹿児島県は、オクラの生産量が日本一だということを知りました。
サツマイモも、取れる地域で味が違うことを知りました。頴娃町(南九州市の一部)の「えいもちゃん」をいただいた時は、あまりのおいしさにびっくりしました。種子島の「安納芋」も好きですが、それとは違ったおいしさ。ホクホクとした食感で食べやすいんです。
先日は鹿児島ラーメン王決定戦で2度も優勝している指宿のTAKETORAに初めて行き、とんこつラーメンを食べました。今度は仙巌園に行って、名物のぢゃんぼ餅を初めて食べるつもりです。
今まで知らなかった鹿児島のおいしい物を食べることで、郷土の魅力を知り、人に伝えていけれればと思っています。(聞き手=菊地武顕)
さこだ・さおり 1987年鹿児島県生まれ。県立鹿児島西高を卒業後、2006年に東レアローズに入団。10年4月に日本代表メンバーとなり、12年のロンドン五輪で女子バレー28年ぶりのメダル獲得の立役者となった。16年のリオ五輪では5位入賞。17年に引退後は、主要大会の解説やバレーボールクリニックなどで活躍。
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2020年10月03日

神田陽子さん(講談師) 苦しい時こそ食事が大切
新型コロナウイルスのために、改めて人情に触れることができました。
「コロナで大変でしょう」と、米を送ってくれた方が、3人もいました。トイレットペーパーやマスクが手に入らなかった時期がありましたが、生活必需品が買えないと、とても不安な気持ちになるものです。米を送っていただいたことで、「そうだ。一人じゃないんだ。ともかく米さえあれば生きていけるんだ!」と勇気をもらうことができました。
私には弟子が4人います。そのうちの一人、もう真打ちになった神田京子は、2月に東京から山口県に引っ越しました。小さな子どもがいるので、保育園など子育ての環境を考えると東京よりも地方がいい、と。ですから東京での私の弟子は3人。この3人が私のもとに稽古に来るので、「皆さん、召し上がってください」と10キロの米を送ってくれたのです。
米あれば大丈夫
彼女は農家の方と知り合って、農業体験もしたそうです。田んぼで子どもが大はしゃぎをしたという手紙も添えてありました。
もう一人、お世話になっているお姉ちゃまも真空パックにした米を10キロ届けてくださいました。知人の大学の先生も、ブランド米を送ってくださったり。おかげで肝が据わったというか、やはり、「何がなくとも日本人は米なんだなあ」と実感しているところです。
苦しい時こそ、しっかり食べていないと駄目ですね。それで思い出したのは、亡き師匠(二代目神田山陽)のことです。
弟子にどういうものを食べさせるかというのは、師匠それぞれに考えがあります。
明治生まれの名人、落語の三遊亭圓朝が入門したてのころ、師匠のお供でそば屋に入ったところ、師匠にだけ天ぷらそばが運ばれてきました。自分の分はまだかなと思っていると、師匠は「お前も早くこういうものを食べるようにおなり」と言って、結局そばにはありつけなかったそうです。そのおかげか、圓朝は大名人になるのです。
しかし、私の師匠はまったくそういうことはなく、弟子に同じように食べさせてくれました。年の暮れに弟子たちが師匠の家の大掃除をして、それが終わると、おかみさんが全員分の天丼を取ってくれました。そうやって一門になっていけたんですね。
優しかった師匠
晩年入院していた師匠は、私が見舞いに行くと必ず「持ってきたかね?」と言って、大福とか草餅を楽しみにしていました。「せめて半分にしてください」と言うんですが、師匠は1個丸々食べてしまうんです。糖尿だからいけないのは分かっているんですが、子息には言えないことも弟子には言えるんですね。次の日の検査では、数値がピッと上がってしまうのでひやひやしたものです。
入院中は毎日、病院から3時ごろおやつが出るんですね。プリンとかヨーグルトとか。一番若い弟子の京子が見舞いに行くと、師匠はそれを「君、食べなさい」と言って譲ったんです。本当は、自分だっておやつが楽しみだろうに。ダンディーな人でした。孫ほど若い弟子にまで優しかったなあと、今も感謝の思いでいっぱいに包まれるのです。
食というのは大事で、同じ釜の飯を食べた体験はかけがえないですね。同じものを一緒に食べて、泣いたり笑ったりしながら、一緒に国難を乗り越えていきたい。師匠の教えを守り、伝えていきたいと心がけております。(聞き手=菊地武顕)
かんだ・ようこ 東京都生まれ。1979年二代目神田山陽門下に入門した。女性講談師の草分け的な存在。88年、真打ち昇進。2017年、早稲田大学卒業。新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、上野広小路亭を拠点に、忠臣蔵や怪談、女性一代記ものを得意とする。大阪、名古屋、東京の講談教室も好評。
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2020年09月26日

若村麻由美さん(女優) 食への感謝いつも忘れず
私は20歳の時に、ドラマ「はっさい先生」でデビューしました。NHK大阪の制作でしたので、9カ月間を大阪で過ごしました。
東京出身の私は、関東と関西の味の違いに驚かされました。大阪の味を一番強く感じたのは、きつねうどん。しょうゆベースの濃い色のうどんで育ってきましたから、見た瞬間に「透明なんだけど、味は付いているのかしら?」と思ったんです。でも食べてみたら、おだしがしっかりと出ていて。なんておいしいんだろうと。
だしの違い驚き
今でこそ東京でも関西風のうどんを出すお店はたくさんありますが、私は大阪で初めて食べたわけです。今ほど東西の交流が盛んではなかったんですね。
今度の映画「みをつくし料理帖」でも、関東と関西の違い、当時の言い方をすれば江戸と上方の味わい方の違いが描かれています。上方から江戸に移ってきた主人公・澪の料理は、最初は評判がよくありませんでした。それで悩んだ末、上方の料理を江戸の人たちに受け入れてもらえるような工夫を凝らします。
映画の中では、食材へのこだわりも描かれています。昆布一つ取っても3種類を取り寄せておだしを取ります。私が演じる芳は夫の形見のかんざしを売り、それで得たお金で、良いかつお節を買います。みりんも最良のものを求めます。私はそのみりんを一口味見するシーンがありますが、本当に味も香りも良い。そのみりんと出合ったからこそ誕生した料理が出てきます。
丹精して作られた食材が、日本料理をおいしくしてくれているんだと感じさせられました。
それで思い出したのが、山にいた時のこと。私は小学5、6年生の2年間、山村留学といって、信州の山の中の農家にホームステイをしました。住民票を移して、向こうの小学校に通ったんです。
その家にはすごく立派な栗の木がありました。落ちたイガを、子どもながらに靴で開いて栗を取り出して、皮を小刀でむいたんです。火を通すのが待ちきれなくて、朝、拾ってすぐに生で食べました。
「食べ過ぎては駄目。口に草が生えるよ」と言われました。それで1粒か2粒だけ。栗って結構あくがあるので、甘味とともにほのかな青臭さを感じました。
野菜やお米を作る手伝いもしました。私たち山村留学の子どものために用意された田んぼもありました。その田んぼでは、全部手作業なんです。田植えをしてからずっと大事に育てた稲を、鎌で刈っていき、千歯こきでもみを外してから選別して、木臼でもみ殻を取りました。
信州ですからソバ畑もありまして、昔ながらに手刈りして棒でたたいて実を外しました。
思い出残るそば
ホームステイ先のお父さんは山にキジを撃ちに行き、お母さんはそば粉を打ってそばを作ってくれました。稲刈りが終わった後の田んぼで収穫祭をする時、キジのだしでおそばを食べたんです。夕日を見ながら。汗水たらした稲刈りの後だから、余計においしかったんでしょう。今でもあの味を超えるそばに出合えていません。
そういう経験をしたことで、自給自足できるようになりたいと思い、農法もいろいろ調べました。
気が付けば、この年まで何もしないで、知識だけ。せいぜいハーブを育てて料理に使うくらいです。でも食に携わる農家の方々への感謝だけは、いくつになっても忘れません。(聞き手=菊地武顕)
わかむら・まゆみ 東京都生まれ。1987年、NHK連続テレビ小説「はっさい先生」でデビュー。近年は舞台での活躍も顕著で、2017年度と19年度に読売演劇大賞優秀女優賞、18年度に菊田一夫演劇賞。主演映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」公開中。「みをつくし料理帖」10月16日公開。朝ドラ「おちょやん」に出演予定。
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2020年09月19日

松村和子さん(歌手) 野菜の力 食べるたび感動
両親は北海道で歌手をやっていました。父は歌謡曲を歌う他、プロダクションを経営していまして、司会業や興行師も手掛けるなど幅広く仕事をしていました。母は民謡歌手でした。
両親は巡業で忙しいので、3人姉妹の真ん中の私は、一人だけ遠別町の父の実家に預けられ、6歳まで祖父母に育てられました。
祖父は馬喰(ばくろう)といって、馬の売り買いをしていました。祖母は出面取り(でめんとり)という、パートさんを集めて農家さんに連れて行くリーダー役。田植えや稲刈りの忙しい時期に、作業する人を連れて行ったんです。母も農家に連れて行かれて、私たち姉妹をおんぶして田んぼで働いたことがあるそうです。沢の水で私たちのおむつを洗いながら、農作業をしたと聞きました。
6歳の頃に遠別を出て、母と姉妹と暮らすようになりました。魚を食べることが多かったですね。ハタハタは今ではあまり見掛けなくなりましたが、当時はもういいというくらい食べました。煮付けにしたり、鍋にしたり、そのまま焼いたり。タラちり鍋もよく食べました。スケソウダラをジャガイモ、ニンジン、タマネギと一緒にみそ味で煮るんです。
肉といえばジンギスカン。真ん中が盛り上がっている丸い鍋で焼くんです。下にタマネギともやしを置き、上の方で焼いたマトンの脂が落ちて野菜と一緒になると、これがまたおいしくって。
郷土料理 母の味
母は青森の出身です。子どもの頃は気が付かなかったんですが、今になって思えば青森の料理を作ることも多かったようですね。
一番印象に残っているのは、正月に食べるなます。母が作るのは煮なますといって、ダイコンとサケとタラコを、ちょっと酸味を利かせて煮るんです。三平汁みたいな感じですね。これを丼いっぱい食べていました。私はそれがなますだとずっと思っていましたから、初めて普通のなますを食べた時には驚きました。今、振り返ると、北海道っておいしいものがたくさんあるんだなと改めて思います。おいしい野菜を食べて育ったおかげで、野菜好きになりました。
スーパーで見たことがない野菜を見ると、つい買ってしまいます。この間見つけたのが、白いタマネギ。「真白」という名前で北見で作っているそうです。甘くておいしくって。スイカも、富良野で取れる「マドンナ」というのを食べたら、これがめちゃくちゃおいしい。生で食べられるカボチャ「コリンキー」も面白いですよね。
姉が神奈川県の相模原に住んでいて、ときどき遊びに行きます。近くにJAの直販所があって、地元の野菜を売っているんです。結構買ってしまいます。
素材自体に敏感
年を取ってくると、素材そのもののおいしさに敏感になります。仕事で全国を回り、その土地その土地の野菜を食べる機会に恵まれるのがうれしくて。コンサートが終わり、土産として地元の野菜を頂くこともあります。
先日も立派なキュウリを頂きました。皆、ピーンと真っすぐに伸びて美しいんです。量が多く、生のままではもたないと思い、漬物にしました。「きゅうりのキューちゃん」に似せた味で、「キュウリのカズちゃん」と呼んでいます。仕事のたびにこれをたくさん持って行き、弁当の時間に皆にお分けします。おいしい野菜があるだけで、味気ないロケ弁がガラリと変わるんですよ。野菜の力ってすごいなと感心しています。(聞き手=菊地武顕)
まつむら・かずこ 北海道生まれ。1980年、ロングヘアーで津軽三味線を操りながら歌う「帰ってこいよ」でデビュー。日本有線大賞最優秀新人賞など多くの賞に輝く。翌年に紅白歌合戦出場。「お加代ちゃん」「面影しぐれ」「出世船」などヒット曲多数。歌手40周年記念作「望郷ながれ歌/明日咲く」好評発売中。
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2020年09月12日

秋吉久美子さん(女優) 「旬をおいしく」日本の文化
私は、母の故郷である静岡県の白糸村(現富士宮市)で生まれました。その後父の転勤のため、一家で四国に行き、6歳の時から福島県のいわき市で育ったんです。
里帰りとして母に連れられて、よく富士宮に行きました。実家は農家で、トウモロコシ畑があって。祖父はすごく寡黙な人でしたが、いつもニコニコしていたんです。3時のおやつの時間になると、朝に取れたトウモロコシをバケツいっぱいにゆでてくれました。それがおいしくって。おかげで今でもトウモロコシは好物です。
白糸の滝周辺は、昔はお米が取れる限界地だったそうです。そこよりも高地では米が取れず、代わりにトウモロコシを作っていたそうです。実家の周辺でもトウモロコシ作りが盛んで、その粉を練って団子にして、いろりで焼いて食べたことを思い出します。
幼少の好み今も
米国でもロサンゼルスやサンフランシスコではメキシコ料理が普及しています。そちらに行ったら、私は朝昼晩とタコス(トウモロコシの粉で作ったパンにさまざまな具を挟んだもの)を食べ続けます。それほど好きなのは、子どもの頃の影響でしょう。
6歳から過ごしたのは、いわき市の小名浜というエリアで漁港の街です。大きなトラックの荷台いっぱいに、取れたてのサンマを積んで運んでいました。
昔は道が舗装されていなくてボコボコしていました。トラックは急カーブを曲がる時に、荷台のサンマを落としていったんですよ。そうすると主婦たちが、バケツを持って拾いに行く。良い“漁場”でした(笑)。そのサンマがわが家の夕飯になりました。
今でこそイワシやサンマの握りを生で出すすし屋がありますが、昔は青魚は足が早いから、酢で締めたものしかありませんでしたよね。でも小名浜では当時から、サンマを生で食べていました。母は、うちから200メートルほどの“漁場”で拾ったサンマをさばいてお刺し身にしてくれました。
青魚が大好きに
こうして青魚が大好きになった私は、今でもおすし屋さんに行ったら必ず青魚をいただきます。
もちろん高級なレストランも大好きですよ。そのような料理は、まさに味覚・視覚の芸術として食べるもの。それとは別に、全国各地で取れた旬の食材の良さを引き出した素朴な料理にも魅かれます。白糸の親戚が作ってくれたワラビのぬか漬けやフキのきゃらぶきを食べた時、こんなにおいしいものがあるのかと思っちゃいました。こういう料理は別格ですよね。
大学院に通っていた時、仲間に川崎の地主がいたんですよ。それで早稲田都市農地研究会というのを作って、その土地でジャガイモを育てました。私、くわを使って畝を作るのがめちゃくちゃうまかったんです。体力がないからこつをつかむまで大変でしたが、切り込んで、持ち上げて、畝の上に載せるというリズムをつかんでからは上手にできるようになり、皆から感心されました。
ジャガイモは好きな食材です。カレーやシチューを作る時は、「男爵薯」と「メークイン」の両方を入れます。「男爵薯」は崩れてルーにだしを加えてくれます。「メークイン」は形として残し、具としていただきます。
もう一つ、「インカのめざめ」も大好き。こちらはそのままゆでて、ほくほくの味わいを楽しみます。
各地で作られた食材を、一番おいしい方法でいただく。これこそ、自然豊かな日本の食文化だと感じています。(聞き手=菊地武顕)
あきよし・くみこ 1954年静岡県生まれ。72年に「旅の重さ」でデビュー。74年、「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」でゴールデンアロー映画新人賞。他に代表作として「あにいもうと」「深い河」など。自身の出演作について、樋口尚文氏と語った『秋吉久美子 調書』(筑摩書房)が18日刊行。
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2020年09月05日
食の履歴書アクセスランキング
1
新沼謙治さん(歌手) 大所帯支えてくれた野菜
僕が生まれ育ったのは、岩手県の大船渡。大家族だった上、子どもの頃は家族以外の人も僕の家に寝泊りしていたんですよ。少ない時で12人、多い時は16人くらいが一緒に住んでいました。
2升炊きの釜が二つもあって、それでご飯を炊いていました。母親と祖母は毎朝早く起きて、おかずをテーブルいっぱいに並べていました。料理の種類は少なくて、量だけがものすごく多かったように覚えています。
それだけの人数のおかずを作るため、畑を借りて野菜を作っていました。祖父と母がせっせと畑をやっていましたね。つまり母は働き詰めだったわけです。
僕も手伝わされました。畑に行くと、母が「メロン、食うか?」と声を掛けてくれました。実際はウリだったんですけど。
食卓では、よくキュウリを食べた記憶があります。でっかいボウルにたっぷりと水を入れて、その中に畑で取ったキュウリを斜めに切って入れていました。皆の前に小皿があり、キュウリにみそをつけて食べていました。
思い出のサンマ
大船渡には漁港がありますから、肉よりも魚です。サンマとイワシが多かったですね。
僕が好きだったのは、サンマの塩炊き。鍋に1センチくらい水を入れて、千切りにしたダイコンを大量に入れるんです。その上に、ブツ切りにしたサンマを載せて、さらにダイコンを載せて煮ます。調味料は塩だけ。サンマは頭や尻尾、はらわたを取らずに、5センチくらいに切りました。サンマがおいしいだけでなく、魚の匂いと味が染み込んだダイコンもおいしかったなあ。
子どもの頃はよく釣りに行きました。学校から帰ると、友達と一緒に自転車で海に。魚市場ではいろんな魚が水揚げされ、商売にならないのは海に捨てるんですよね。その魚を食べに、魚が寄って来る。岸壁のそばにサバが集まる場所があり、そこにさおを入れるとまさに入れ食い状態。サバを釣っているところに、カツオ漁の漁船が帰ってきたりします。漁船に乗ってる意気の良いお兄さんはサバを釣って喜んでいる僕たちを見て、「おーい、おめだち。持って行ってくれー」と、カツオを投げてくるんですよ。大量のサバと丸々1匹のカツオを持って家に帰りました。
好き嫌いがなく育ち、大人になってからもガツガツと食べていました。僕は早食いです。というのも僕は歌手になる前、左官屋で働いていました。昼飯をゆっくりと食べていると、親方に叱られました。「いつまでも食ってるんじゃない」「早く食って、壁塗りの練習をしろ」と。見習いだった僕は、皆が食べている間に練習をしないと駄目だったんです。
若い頃は体調のことなど考えずに、食べたいものを食べていればよかったんですが、50歳を超えた頃から変わりました。
良い喉に不可欠
最近は野菜をたくさん取るように心掛けています。レタス、トマト、アボカドは毎日食べます。外出の時は、野菜を持ち歩いています。ゴルフの合間に食べ、ロケ弁を食べる時にも取り出して食べる。というのも、野菜を食べると喉の調子がいいんです。野菜の水分のおかげで、喉が潤います。
喉の調子を良くしておくと、伸び伸び声が出るので気持ちがいい。そういう日はお客さんの盛り上がり方も違うんです。ステージから見てて、すぐ分かります。新型コロナウイルスの影響で歌う機会が減りましたが、喉の調子は整えておきたいので、野菜は欠かせません。(聞き手=菊地武顕)
にいぬま・けんじ 1956年岩手県生まれ。オーディション番組「スター誕生」出場をきっかけに、76年に「おもいで岬」でデビュー。続く「嫁に来ないか」が大ヒットし、新人賞を総なめにした。その後も「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」とヒット曲を出し続ける。「地図のない旅」好評発売中。
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2020年10月10日

2
古村比呂さん(女優) 闘病で知ったありがたみ
私は子宮頸がんの手術をしました。再発後には抗がん剤での治療を受けました。食べ物についての一番の思い出は、その2回の闘病時に感じたことです。
最初は2012年の摘出手術の時です。
術後3日目に、初めて重湯が出ました。それまでずっと点滴でしたから、久しぶりに口から食べ物を入れたわけです。
口で味わう感動
一口目をいただいたら、汗が出てきたんです。全身の毛穴から汗が。そんな経験は初めてだったので、とても驚きました。口から物を入れるということのすごさをまじまじと知ったんですね。細胞が動き出した、細胞が喜んでいる。そのように感じました。
2回目は、5年後。再発したので、抗がん治療を始めました。
そうしたら、食べるということに喜びを得られなくなってしまったんです。料理の味が感じられない。そのため、気分がなえてしまいました。食事というよりも餌を食べているような感覚になってしまったんです。
そんな時期に、息子が玄米かゆを作ってくれました。それがすごくおいしくって。
それまで料理なんて作らなかった息子が作ってくれた。それに対するありがたさもあるんでしょうけど、すごくおいしかったことが忘れられません。
息子も必死だったんでしょうね。けっこう手の込んだかゆで、まるで白い汁のようでした。息子は、私がそれを飲む様子を見ていませんが、「おいしかったよ」と伝えたら「よかった」とものすごくホッとしたように答えました。
抗がん治療を終え、今では普通になんでもおいしく食べられるようになりました。
この二つの経験の後では、食べ物をいただくということに対する感覚が全然違いますね。口から物を食べられるありがたさを知り、食べ物で体ができているんだということを実感したので、感謝の気持ちが強くなりました。
食べ物は、嗜好(しこう)品になりがちのところもあるじゃないですか。欲しいときにすぐに手に入るものだし、好き嫌いを言って構わないものだと。私も病気になる前は、ありがたみを感じずに食べていたと思います。
粗末にできない
今では食べ物を粗末にするのはとても失礼だと感じます。食べ物でいろんな人たちとつながっている。そういう思いが出てきましたね。生産や流通に関わる皆さんのおかげで、私の体がつくられているんだ、と。皆さんはどういう思いで頑張ってくれているんだろうと、バックグラウンドやドラマを想像しながらいただきます。
私は北海道の過疎地で育ちました。同居していた祖父母は、最初はその土地で自給自足のような生活をしていたそうです。私が育った頃でも野菜を作っていましたし、毎朝、近くの農家さんから牛乳を買っていました。
20歳になる年に上京して、芸能活動を始めました。
田舎者としては、東京の食べ物が珍しくて、外食ばかりしていたんです。そうしたら1週間で調子が悪くなったんです。体に発疹が出ました。きっと体がびっくりしたんでしょうね。いったい何を食べているんだ、と。
そこで、自分で作るようにしました。最初に作ったのは、肉じゃがと豚汁。それを食べた時のほっとした感覚を覚えています。やっぱり食べ物が、私たちの体をつくっているんですよね。(聞き手=菊地武顕)
こむら・ひろ 1965年北海道生まれ。85年の映画「童貞物語」の主演でデビュー。87年のNHK朝の連ドラ「チョッちゃん」でヒロインを務めて、人気女優に。子宮頸がん、リンパ浮腫との闘病を経験。同じように病気で苦しむ女性たちを支援する「HIRAKU」プロジェクトを展開している。
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2021年02月20日

3
青木愛さん(元シンクロナイズドスイミング日本代表) 引退で知った食べる喜び
食の連載コーナーでいうのもなんですが、現役時代は食べることが嫌でした。
私は体質的に痩せやすくて、もっと太らないといけないと指導されたんです。「食べるのもトレーニングだ」と言われました。
シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)では、脂肪がないと浮かずに沈んでしまうからです。また、見栄えの問題もあります。海外の選手は背が高く体もガッシリしています。体が貧相だといけない、もっと体を大きくしなさい、と言われ続けました。
そのため特に日本代表に入ってからは、味わって食べる時間もないし、味わっていたら量は入らない。急いでかき込む、流し込むといった感じでした。
つらかった合宿
1チームに8人の選手がいるんですが、痩せないといけない人、現状維持でいい人、太らないといけない人がいて。合宿で、痩せないといけない人と同じ部屋になったときは、お互いつらかったです。私はおにぎりや餅を寝るまで食べ続けないといけない。向こうはものすごくおなかがすいているのに、それを見ないといけない。
毎日、4500キロカロリーを取るように言われました。
それを全部揚げ物で取るんだったら、簡単だと思います。でも選手ですから、バランスよく食べないといけません。
炭水化物、脂質、タンパク質の三つを取った上で、カルシウムやビタミンも。自分で計算しながら、いろいろな食材を取って4500キロカロリー以上にするのは大変でした。
母は料理がすごく上手で、子どもの頃はご飯が楽しみだったんです。でもなにせ小学2年生の頃からシンクロを始めたので。
母もちゃんと競技をやるのなら食事から変えないといけないと考えて、私の好きなものや量を食べやすいように工夫して料理してくれたんですが、小学校の頃から量を食べないといけない生活だったんです。
ほっとする実家
代表の合宿が終わると、いったん実家に戻ります。母の料理を食べると「ああ、家はいいなあ」と実感します。ささ身を揚げたのが大好きで。母はささ身の中に梅やシソの葉を入れて巻いてくれるんです。さっぱりとした味なので、量を食べられる。エビフライやハンバーグ、コロッケといったベタな食べ物が好きなので、それも作ってくれます。もちろん脂質ばかりにならないように、他の栄養素も取りながら。
私の目標体重は59キロ。でもどんなに頑張っても56、57キロをうろうろしていました。実家で過ごすと、あっという間に53、54キロまで落ちてしまいます。次の合宿の前日は必死になって食べました。
食べることの楽しさに気付いたのは、23歳で引退してからです。好きな人と好きな時間に好きなものを好きな量だけ食べるのが、こんなにも楽しいだなんて。
私は、夜に友達と食事をすることが多いんですよね。その時に、ものすごい量を食べます。胃が大きくなってしまったんでしょう。朝起きてもおなかがすいてなくて、夜までの間に、おやつを食べるくらいで間に合います。間食はお菓子ではなく、梅干し、納豆、豆腐、漬物などです。
もともとおばあちゃんが好むようなものが好きだったんです。ポテトチップスよりも酢昆布が好きな子どもでした。好きなものを食べられる生活に感謝しています。(聞き手=菊地武顕)
あおき・あい 1985年京都府生まれ。中学2年から井村雅代氏に師事する。2005年の世界水泳で日本代表に初選出されたが、肩のけがで離脱。翌年のワールドカップに出場し、チーム種目で銀メダル。08年の北京五輪ではチーム種目で5位入賞。五輪後に引退し、メディア出演を通じてスポーツ振興に取り組んでいる。
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2021年01月09日

4
黒川伊保子さん(脳科学者・エッセイスト) 山の恵みで「母の味」再現
食のこだわりといえば、私には二つ。信州みそと、九州のぬか漬けです。父が信州は伊那谷の出身で、母は福岡県伊田町(現・田川市)で育ちました。私の名の「伊」は二人の出身地から名付けられました。
幼いころ食べていた祖母の手作りのみそが忘れられずにいたら、大学時代のルームメートが松本に嫁ぎ、姑と手作りしたみそを分けてくれるようになりました。それが、思い出の味そのままで。大豆は家の前の畑で作るのだとか。やはり、土地の味というのがあるのだなと痛感しました。20年ほど幻だった味を、毎日のように食べています。
私にとって、もう一つの幻の味が、母の作るぬか漬けでした。母は腰を悪くしてから、20年ほどぬか床を養生しておらず、私は、時折、母のぬか漬けがどうしても食べたくなり、「高級糠床」なるものを買ってはみるのですが、母のような味はどこにもありませんでした。
ぬか床は家の宝
母の出身地は、ぬか床を大切にする土地柄です。母の実家のぬか床も100年以上続いたものだったといいます。この家のぬか床は、昆布などのだしと、さんしょうをザクザクと入れるのが特徴。母も伯母も、ぬか床をなめて味の確認をしていました。ぬかみそは、臭くなんかなかったです。実際、福岡県の中部・北部では、ぬかみそを使ってイワシなどを煮て食べます。みそと同じ調味料感覚なんです。
私は断然キュウリですが、母が好きなのはナス。ナスにはこだわりがあって、小ナスを漬けるんですが、小さ過ぎると硬過ぎる。漬けるのにちょうどいい大きさというのがあるわけです。
母の里ではぬか漬けにピッタリの大きさのナスが市場に出ていたそうです。私を育ててくれた栃木では、その大きさのナスがなかった。それで自分で種を植えて育てていました。どうもうまくいかなかったようですが。
昭和40年代くらいでは、今のように流通が発達していませんから、それぞれの土地によって食材が違っていました。
私自身は、何度もぬか床作りに挑戦してはいるのですが、どうにも母の味に近づけず、結局、仕事にかまけて駄目にしたりして、とうとう還暦まで来てしまいました。
ところが、その還暦の年、母の味が再現できたんです。息子のおかげ。息子が日光・足尾の山の一角を買ったのですが、その斜面一帯に、サンショウが鈴なりになっていたんです。大粒の、辛いだけではなくうま味を感じさせる極上のサンショウでした。そういえば、母も、サンショウにはこだわっていましたね。
今のぬか床を作り始めたのは、息子の妻のためなんです。彼女は腸が弱いんですね。母も私も便通で悩んだことはないから、母のぬか漬けのおかげで腸内細菌が整ったのかもと。人生最後の挑戦のつもりでぬか床を作ったら、思いもよらぬ山の恵みのおかげで、長年の「幻の味」がよみがえりました。みそもぬか床も、土地の力をいただく営み。いとしいですね。
小言もまた幸せ
母は今年90歳になります。台所に立つこともありません。私のやることについても、何も言わなくなりました。でも私の作ったイワシのぬかみそ煮に「ご飯のおかずにはいいけど、酒のさかなにはちょっとしょっぱいかな」などと、駄目出しをします。それがうれしくて。母に小言を言われながら一緒に食べることが今はとても幸せです。(聞き手=菊地武顕)
くろかわ・いほこ 1959年長野県生まれ、栃木県育ち。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、メーカーで人工知能研究開発に従事。コンサルタント会社勤務などを経て、感性リサーチを設立。『恋愛脳』『夫婦脳』などを執筆。『妻のトリセツ』はベストセラーに。最新刊は『息子のトリセツ』(扶桑社新書)。
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2021年02月13日

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若村麻由美さん(女優) 食への感謝いつも忘れず
私は20歳の時に、ドラマ「はっさい先生」でデビューしました。NHK大阪の制作でしたので、9カ月間を大阪で過ごしました。
東京出身の私は、関東と関西の味の違いに驚かされました。大阪の味を一番強く感じたのは、きつねうどん。しょうゆベースの濃い色のうどんで育ってきましたから、見た瞬間に「透明なんだけど、味は付いているのかしら?」と思ったんです。でも食べてみたら、おだしがしっかりと出ていて。なんておいしいんだろうと。
だしの違い驚き
今でこそ東京でも関西風のうどんを出すお店はたくさんありますが、私は大阪で初めて食べたわけです。今ほど東西の交流が盛んではなかったんですね。
今度の映画「みをつくし料理帖」でも、関東と関西の違い、当時の言い方をすれば江戸と上方の味わい方の違いが描かれています。上方から江戸に移ってきた主人公・澪の料理は、最初は評判がよくありませんでした。それで悩んだ末、上方の料理を江戸の人たちに受け入れてもらえるような工夫を凝らします。
映画の中では、食材へのこだわりも描かれています。昆布一つ取っても3種類を取り寄せておだしを取ります。私が演じる芳は夫の形見のかんざしを売り、それで得たお金で、良いかつお節を買います。みりんも最良のものを求めます。私はそのみりんを一口味見するシーンがありますが、本当に味も香りも良い。そのみりんと出合ったからこそ誕生した料理が出てきます。
丹精して作られた食材が、日本料理をおいしくしてくれているんだと感じさせられました。
それで思い出したのが、山にいた時のこと。私は小学5、6年生の2年間、山村留学といって、信州の山の中の農家にホームステイをしました。住民票を移して、向こうの小学校に通ったんです。
その家にはすごく立派な栗の木がありました。落ちたイガを、子どもながらに靴で開いて栗を取り出して、皮を小刀でむいたんです。火を通すのが待ちきれなくて、朝、拾ってすぐに生で食べました。
「食べ過ぎては駄目。口に草が生えるよ」と言われました。それで1粒か2粒だけ。栗って結構あくがあるので、甘味とともにほのかな青臭さを感じました。
野菜やお米を作る手伝いもしました。私たち山村留学の子どものために用意された田んぼもありました。その田んぼでは、全部手作業なんです。田植えをしてからずっと大事に育てた稲を、鎌で刈っていき、千歯こきでもみを外してから選別して、木臼でもみ殻を取りました。
信州ですからソバ畑もありまして、昔ながらに手刈りして棒でたたいて実を外しました。
思い出残るそば
ホームステイ先のお父さんは山にキジを撃ちに行き、お母さんはそば粉を打ってそばを作ってくれました。稲刈りが終わった後の田んぼで収穫祭をする時、キジのだしでおそばを食べたんです。夕日を見ながら。汗水たらした稲刈りの後だから、余計においしかったんでしょう。今でもあの味を超えるそばに出合えていません。
そういう経験をしたことで、自給自足できるようになりたいと思い、農法もいろいろ調べました。
気が付けば、この年まで何もしないで、知識だけ。せいぜいハーブを育てて料理に使うくらいです。でも食に携わる農家の方々への感謝だけは、いくつになっても忘れません。(聞き手=菊地武顕)
わかむら・まゆみ 東京都生まれ。1987年、NHK連続テレビ小説「はっさい先生」でデビュー。近年は舞台での活躍も顕著で、2017年度と19年度に読売演劇大賞優秀女優賞、18年度に菊田一夫演劇賞。主演映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」公開中。「みをつくし料理帖」10月16日公開。朝ドラ「おちょやん」に出演予定。
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2020年09月19日

6
西川りゅうじんさん(マーケティングコンサルタント) いただきます 日本の神髄
子どもの頃、休みになると母方の伯父の家によく遊びに行きました。伯父は大学で教壇に立ちながら、代々受け継いできた田畑で米や野菜を作っていたんです。
一緒に草むしりしながら、いろいろなことを教わりました。
小学校で農という漢字を習ったときに不思議に感じ、聞いてみたんです。
「農という字は、曲がるに辰(たつ)と書くよね。曲がったことをすると、辰が出てくるってこと」
「面白い見方だな。実は、曲は田を、辰は石で作った農具を表しているんだ。田畑を農具を使って耕すという意味だよ」
命の尊さ教わる
伯父は無農薬で作っていて、野菜には時々虫が付くことがありました。私も種をまき水をやっていましたから、チョウの幼虫に食べられたりすると悔しいわけですよ。
憎たらしいからつぶそうとすると、伯父に「それはそれで育ててあげたらいいんだよ」と言われ、幼虫を自分の家に持ち帰りました。やがて、かわいいモンシロチョウに育ち、命の尊さを知りました。
私の家では、食事の前に必ず手を合わせて「いただきます」と唱えてから食べていました。この言葉こそ日本の食文化の神髄を表していると思います。動・植物の命、農家の皆さんの耕作の成果を賜って生かしていただいているわけですから。
食べ物を粗末にすると両親は許しませんでした。出されたものは、全て食べるのが当たり前。
小学校の低学年のある日。キャベツとシソを刻んだサラダが出ました。シソが苦くて、両親が食べ終わった後も一人で食べ続けましたが、食べ残して自分の部屋に行って寝ました。すると翌朝から3食全てそのサラダだけ。
それで、伯父の家に行かされるようになったのかもしれません。自分で野菜を作って、その苦労を知れば、好き嫌いなく、おいしく食べられるようになるだろうという、両親の食育だったのでしょう。
食事は一汁三菜が基本でした。母が漬けた漬物が、朝夕、食卓に彩りを添えていたのを覚えています。
1960年代には、既に家でぬか漬けを漬けるのは臭いし面倒だと敬遠されていました。
今でこそ和食が見直されていますが、当時は食でも何でも欧米化が正しいという風潮でした。朝はパンとベーコンとコーヒーが豊かさと健康をもたらすという幻想が支配していた時代です。
欧米化とは無縁
その頃から、カブトムシはデパートで、漬物はスーパーで売っているモノになり果てたのです。祖母から受け継いだ臭いぬか床を母親が自分の手でかき混ぜ、自宅で漬物を作っていたわが家は戦前の食文化の化石でした。
父方の祖父母の家に泊まりに行った時の思い出も、まるで「ふるさと」の歌のようによみがえってきます。
春の河辺でみんなでツクシを取り、あく抜きして、おひたしや卵とじにして食べました。ヨモギを摘み、すり鉢ですって、よもぎ餅を作りました。
今も「春の七草」は全部言えますよ。一方、「秋の七草」は知りません。だって食べずに鑑賞するものですからね。でもこの歳になって、そんな風流もやっと分かってきた気がします。
幼き日に心と体でいただいた農と食の実体験はかけがえのない人生の宝物です。文字通り、「有り難い」ことですね。ありがとうございます。(聞き手=菊地武顕)
にしかわ・りゅうじん 1960年兵庫県生まれ。「愛・地球博」のモリゾーとキッコロや「平城遷都祭」のせんとくんの選定・PR、「つくばエクスプレス」沿線の街づくり、全国的な焼酎の人気作りに携わる。JAや日本食鳥協会で講師を務め、農産物のブランド化と大都市部でのチャンネル開発に手腕を発揮している。
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2021年02月06日

7
和田秀樹さん(精神科医) 一番おいしい方法を探求
私の好きな食べ物は、エビとカニ。新型コロナ禍のため、今はよく弁当を買うんですけど、エビフライとかカニクリームコロッケが入ったものを選んでしまいます。最近はエビカツが好きになりました。
格別だったエビ
エビ好きに関しては、母親の兄のおかげです。伯父は特攻隊に行くはずで死を覚悟しましたが、結局、行かなかったそうです。戦後、精神的に不安定な時期もありましたが立ち直り、魚の卸売市場の親方に気に入られて、私が子どもの頃は店を任されていました。
伯父はよく私の母親に「持ってけ」といって、氷付けになっているエビを1箱くれたんですよ。クルマエビくらいの大きさでした。
当時は流通や冷凍技術の関係で、どんな魚を食べても生臭かったんです。でも伯父からもらったエビは臭みがなくおいしかった。
エビが本当に高い時代でしたからね。友達がうらやましがるのを横目に食べたんです。豊かさの象徴のように感じられました。
カニについては、父が京都府の丹後出身で、冬場に父の実家に帰ると大量のカニを食べました。
カニというと福井と鳥取が有名ですが、今、東京で最も高額で取引されているのは、生きたまま空輸される間人(たいざ)のカニ。丹後半島で捕れるものです。私は知らずに、雌とはいえ最高のブランドカニを食べていたわけです。
30代のはじめ、米国のカンザスに留学していました。向こうでもエビやカニはスーパーにあるので不自由はなかったんですが、唯一困ったのがカニクリームコロッケ。ずっと飢えていました。
学会出席のため、ニューヨークに行った時。日本の商社や銀行、日本食レストランが並んでいる一角に、居酒屋を見つけたんです、入ってみたら、メニューの中にカニクリームコロッケがあって。すごくおいしくいただきました。
食べ物については、もう一つ思い出があります。やはり米国でのことです。私は基本的に日本食派ですが、世界三大珍味の一つ、白トリュフは大好きなんです。
これをパスタや肉の上に削りかけると値段がグンと上がるわけですが、それほどの価値があるのか疑問に感じていました。
白トリュフの謎
15年くらい前、白トリュフの謎が解けたんです。精神分析の師匠を訪ねて米国に行った時、サンタモニカの高級イタリアンレストランに入ったんですよ。そこは冬場に、世界一高い白トリュフを出すというんです。
白トリュフのカルパッチョがあり、ものすごく高い値段でしたが観光気分で頼んでみました。
これは生まれてこの方、食べた料理で、一番おいしかったです。
何が違うかというと、肉の上から掛けるんではなく、肉を白トリュフの漬けにしたんです。白トリュフを絡めたオイルに、生肉を漬けた料理だったんですね。
一口食べて発見しました。「これは世界一高いかつお節だ」と。かつお節も、上から掛けるよりも、だしにして食材に味を染み込ませる方がうまいじゃないですか。それと同じことを白トリュフでやっていたわけです。
それで感じたのが、食材には一番おいしい食べ方があるということ。カニクリームコロッケにしても白トリュフ漬けにしても、最高においしく食べるための工夫なんです。こうした工夫のおかげでよりおいしく食べられれば、食材を作った方への感謝の気持ちも一段と強くなると思っています。(聞き手=菊地武顕)
わだ・ひでき 1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒後、同付属病院精神神経科、老人科、神経内科で研修。現在は国際医療福祉大学赤坂心理学科教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長などを務める。心理学や受験指導に関する書籍を多数執筆。近著は『感情的にならない心の整理術』(プレジデントムック)。
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2021年02月27日

8
朝井リョウさん(作家) 離れて知った母の偉大さ
私が生まれ育った岐阜は、海のない県。川魚を食べる文化があります。夏の間はヤナという、河原に竹を組んで畳のようにした所で、アユを食べさせてくれる店が出ます。塩焼きだったり甘露煮だったり、いろんな食べ方を楽しめるんです。そこに両親に連れて行ってもらい、アユを食べたことをよく覚えています。魚があまり得意ではなかったんですが、その経験もあって今では大好きです。上京してからは、アユをはじめとする川魚に出合う機会が少なくて、ヤナに出掛けたのはすごく貴重な体験だったんだなと思います。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
朝の電車に恐怖
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
絶品焼き鮎醤油
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
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2020年12月19日

9
迫田さおりさん(元バレーボール日本代表) 引退後に知る郷土の特産
出身は鹿児島で、高校を出てから滋賀が拠点の東レアローズに入りました。
私は2010年に初めて日本代表に選んでいただいたのですが、当時代表は鹿児島で合宿を行っていたのです。合宿先でみそ汁を飲んだ時、「ああ、帰ってきた」と懐かしく感じました。
具がどうのこうのではないんですね。懐かしさを感じたのは、みそです。鹿児島は麦みそを使います。滋賀では白みそでした。
合宿の癒やしに
代表での合宿はすごく気が張り、ピリピリしていました。そんな中にあって、食事はゆっくりとくつろげる癒やしの時間。地元の味に触れられて、心が和みました。
合宿中には、さつま揚げや地元の菓子を差し入れていただきました。これもまたおいしく、懐かしく感じたんです。
さつま揚げといえば、子どものころ、父と魚屋さんに買いに行った時のことを思い出します。さつま揚げを買って車の中に置いて、別の用事で出たんです。戻って来たら、車の窓をちゃんと閉めていなかったので、猫が入ってきて全部食べられちゃったんですよ。「やられたあ」と父は悔しがり、私は笑い話のネタにしました。
菓子といえば、明石屋の軽羹(かるかん)と蒸氣屋のかすたどん。軽羹はすり下ろした山芋を使ったふんわりとした菓子。かすたどんは、カスタードクリームを軟らかいスポンジで包んで蒸したものです。
軽羹には餡(あん)入りのものと入っていないものがあり、どちらが好きかと意見が分かれます。私は餡の入っていない方が好きですね。これに急須で入れた知覧茶があれば、バッチリです。
蜂楽饅頭(まんじゅう)という大判焼きみたいな菓子も名物で、これには黒餡入りと白餡入りがあります。高校時代、部活帰りに寄って買ったんですが、お小遣いが少ないから1個しか買えません。「今日はどっちにしよう」と悩んだことを思い出します。
眞鍋(政義)監督時代は、代表は毎年鹿児島で合宿をしたので、そのたびに私は心が和みましたし、他の選手に鹿児島の食の魅力を伝えたりしました。
私は滋賀で11年プレーをして、現役を引退。今は鹿児島と東京を往復する生活をしています。
楽しい食べ歩き
高校時代までは何気なく食べていただけで、鹿児島特産のおいしい物のありがたみを分かりませんでした。代表の合宿で過ごしたとはいっても、年に1、2週間くらいの短い期間ですし、食べ歩きをするわけにはいきません。鹿児島の本当の食の魅力を知ったのは、引退してからです。
私は小さいころからオクラが大好き。細かく刻んでしょうゆと混ぜて食べると最高です。鹿児島県は、オクラの生産量が日本一だということを知りました。
サツマイモも、取れる地域で味が違うことを知りました。頴娃町(南九州市の一部)の「えいもちゃん」をいただいた時は、あまりのおいしさにびっくりしました。種子島の「安納芋」も好きですが、それとは違ったおいしさ。ホクホクとした食感で食べやすいんです。
先日は鹿児島ラーメン王決定戦で2度も優勝している指宿のTAKETORAに初めて行き、とんこつラーメンを食べました。今度は仙巌園に行って、名物のぢゃんぼ餅を初めて食べるつもりです。
今まで知らなかった鹿児島のおいしい物を食べることで、郷土の魅力を知り、人に伝えていけれればと思っています。(聞き手=菊地武顕)
さこだ・さおり 1987年鹿児島県生まれ。県立鹿児島西高を卒業後、2006年に東レアローズに入団。10年4月に日本代表メンバーとなり、12年のロンドン五輪で女子バレー28年ぶりのメダル獲得の立役者となった。16年のリオ五輪では5位入賞。17年に引退後は、主要大会の解説やバレーボールクリニックなどで活躍。
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2020年10月03日

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麻丘めぐみさん(歌手・女優) 故郷で知った「旬の魅力」
生まれたのは大分県の別府ですが、父の仕事の都合で半年で大阪に移りました。別府生まれの大阪育ちで、一番長く住んでいるのが東京ということになります。
大阪での食の記憶といえば、牛肉ですね。安かったんですよ。日常の食卓に、優しいお値段で並べることができました。しょっちゅうすき焼きをしていましたね。たこ焼き鉄板があって、昼とかは自分でたこ焼きを作ったり、お好み焼きを作ったりして食べました。
あまり外食というのはしませんでしたね。時々、何かごほうびとして、デパートの一番上の食堂に連れて行ってもらいました。私は大丸百貨店のちらしのモデルをしていたんです。大人のモデルが藤純子さん(当時)、子どものモデルが私。大丸の食堂で、その頃に出始めたナポリタンを食べるのが、子ども心にうれしかったです。
大分の良さ実感
10年以上前、母が故郷の別府に戻ったんです。それを機に、私も年に何回か行くようになりました。赤ちゃんの頃しか住んでいませんから、別府のことは何も覚えていませんでした。母に会いに行くようになって、大分県はなんて素晴らしい所だろうと知りました。
食べ物についても、海の幸、山の幸に恵まれています。
海なら関サバ、関アジ。瀬戸内海と太平洋の境界の激流を泳ぐので、筋肉が鍛えられてよく締まっているんです。しっかりとした魚の味がしてうれしいですよね。ただし九州の甘いしょうゆは苦手なので、店の人に関東風の辛口しょうゆをお願いしたり、塩で食べたりしています。
フグもおいしいですよね。旬の時期にだけ出るお店があって、肝まで食べられるんです。それがおいしくって。関サバ、関アジにしてもフグにしても、旬って大切だと感じています。
肉なら豊後牛。うちの親戚に頼まれ、豊後牛を作る過程を紹介するビデオに出演したんですよ。それで、農家がどれだけ苦労をして育てているのかを知りました。豊後牛って東京ではめったに見かけませんよね。あまりに手間暇がかかるので生産量が多くなく、ほとんどが県内で消費されてしまうのだそうです。私たちはただ「おいしい」と食べるだけですが、その裏にはどれだけの苦労があるのか。研究と努力があるのか。感謝の気持ちでいっぱいです。
野菜の味に違い
大分県は、野菜と果物もおいしいですよ。東京のスーパーで買うのとは、味がまったく違うんです。私たちが子どもの頃に味わった臭いと味がします。葉っぱ類なら、本当に葉っぱらしい青臭さ、土臭さ。ピーマンも、いかにも子どもが嫌うような強烈な臭い。
母に会いに行っているのか、食べもの目当てなのか、分からなくなってしまったほどです。
別府に通うようになったおかげで、旬の時期に取った新鮮な野菜と果物のおいしさを知りました。それで普段、東京にいる時でも、なるべく良いものを食べたいと思っています。幸い、近くにとても良い八百屋さんがあるので、そこで買うように心掛けています。
地方に旅した時は、道の駅に行くのが楽しみになりました。農家の顔写真が貼ってあるじゃないですか。それを見ると、信頼して買いますよね。
母をみとった後も別府に通い、親戚とおいしいものを食べたり温泉に入ったりして楽しんでいます。別府のおかげで、生活がとても豊かになった気がします。(聞き手=菊地武顕)
あさおか・めぐみ 1955年大分県生まれ。72年に「芽生え」で歌手デビュー。翌年の「わたしの彼は左きき」でトップアイドルに。結婚を機に引退したが、83年に復帰し女優業を中心に活動。今年、自選ベストアルバム「Premium BEST」を発売。29年ぶりの新曲「フォーエバースマイル」をリリース。
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2020年12月05日
