高嶋弘之さん(音楽プロデューサー) 止まらぬ食欲 戦争のせい

高嶋弘之さん

 インスリンを打つほどではありませんが、長い間糖尿を患っています。暴食を繰り返しましたからね。私にとっては、腹いっぱい食べるということが一番のごちそう。料理を残すなんてできなかったし、人が残したものまで喜んで食べていました。

 というのも戦中戦後に苦しい思いをしたからです。終戦を迎えたのが11歳の時。食べ盛りの時に食べ物がありませんでした。母親が着物を持って農家を回っても、交換できたのは種芋でした。

 小学校の屋上で、サツマイモを作っていました。僕たち児童は、便所から「肥」を担いで持って行かされました。階段を上る途中で滑って、それをかぶってしまうばか野郎もいましたねえ。給食のコッペパンは大きさがまちまちで、皆で少しでも大きいのを取り合っていました。
 

試合よりコーラ


 1949年にアメリカのマイナーリーグの球団、サンフランシスコ・シールズが来日。甲子園球場での日本チームとの試合を見に行きました。三塁は藤村富美男、キャッチャーは土井垣武でしたね。

 試合のことより、球場で売っていたホットドッグとコカ・コーラを鮮烈に覚えています。シールズの試合に合わせて、日本で初めて販売されたと聞きました。世の中にこんなおいしいものがあるのかと感動。こんなものを普通に食べ、飲んでいる国に戦争して勝てるわけがない。そう感じたものです。

 大学に入るため上京したのが、53年。兄貴(俳優の故・高島忠夫さん)はその前の年にデビューしていました。兄貴に連れられて有楽町でヒレカツを食べた時のおいしさもよく覚えています。

 大学時代に帰省のため大阪で降りて、初めて食べたソフトクリームの甘さにも感動しました。
 

バイキング通い


 僕が入社したレコード会社の東芝音工は、当時、有楽町にありました。会社近くにニユートーキヨーというビアホールのビルがあり、そこの7階に中華料理屋があったんです。その店がバイキングをしていたのでよく通いました。僕と小柄だったがよく太った社員、大柄でよく太った社員の3人で。

 この3人が行くと、店の支配人が嫌な顔をしましてねえ。店をつぶそうぜってくらい食ったから。

 帝国ホテルのバイキングは洋食でした。僕は洋食の雰囲気というのが大好きなのでそちらの方が良かったけど、確かニユートーキヨーの倍くらいの料金だったからね。なかなか行けない。

 兄貴がうちの会社に世話になったからといって、うちの宣伝部員と僕とを誘って帝国ホテルでごちそうしてくれたんです。うれしくってねえ。あそこはバイキングで一通り食べ終わった頃合いに、コーヒーが出されるんです。

 コーヒーを飲んだ後で、「さあもういっぺん行こう」と立ち上がりかけたら、兄貴に「俺も顔があるんだから。よそで食わせてやるから」と止められました。

 仕事柄、アメリカ西海岸やヨーロッパに行くことが多かったんですけど、それぞれの街のホテルで食べる朝食が好きでしたね。ゆっくりと時間をかけてたっぷりの量をいただきました。

 この歳になると若い頃のような量は食べられません。でも甘いものはごちそう。糖尿病にもかかわらず、干し芋、干し柿、干しイチジクが大好きなんです。北海道鹿追町の方が「甘姫」という干し芋を送ってくださって、それがおいしくてね。食べ始めると止まらない。それもこれも戦争のせいなんですよ。(聞き手・写真=菊地武顕)

 たかしま・ひろゆき 1934年兵庫県生まれ。レコード会社の東芝音工(当時)で、ディレクターとしてビートルズを担当した。バイオリン奏者・高嶋ちさ子さんの父で、兄は俳優の故・高島忠夫さん。自身の経営する高嶋音楽事務所所属の双子のソプラノ歌手・山田姉妹のアルバム「私のお父さん」が好評発売中。
 

おすすめ記事

食の履歴書の新着記事

検索

e農サーチ e農サーチとは