荻原浩さん(作家) 好み変わるも原点はご飯

荻原浩さん

 僕は1956(昭和31)年の生まれなので、父親と母親は戦争を体験しています。子どもの頃はよく「今の人間は幸せだ、食べるものがあって」「昔は芋しかなかった」と言われました。それで「周りに飢えている人はいないし、幸せなんだなあ」と思ったわけです。でも、その頃は感じなかっただけで、今と比べれば結構貧しかったですよね。

 うちは父親がサラリーマンで、普通の中流家庭でした。おかずといえば、魚ばかりでした。たまに肉の料理があっても、牛肉ではありません。よく食べていたのは鯨です。すき焼きも豚でした。焼き肉というのは、自宅で羊肉を焼いて食べるものでした。牛のステーキは、父親が何かの折り詰めで持ってきて食べたのを覚えているくらいです。
 

米があれば十分


 米ばかり食べていた記憶がありますね。親は、米さえあれば十分だろうという世代でしたし。実際、口いっぱいに詰め込んだご飯は、とてもおいしかった。たくあんが2切れ、あるいはのりが2枚あれば、ご飯1杯食べられました。

 僕が10代の半ばに、日本の食が変わっていきました。カップヌードルが発売されましたし(71年)、ファストフード店が進出してきたんです。ケンタッキーフライドチキン(日本1号店開店は70年)、マクドナルド(同71年)、ピザのシェーキーズ(同73年)。サーティワンのアイスクリームも登場しました(同74年)。

 僕は1浪した後、東京の大学に入りました。ちょうど日本の食の近代化と東京での大学生活スタートが、重なっていたんですよね。東京で初めてファストフードを食べ、世の中にはこんなにうまいものがあるんだと驚きました。アジの干物とたくあんでご飯をたっぷり食べていた生活が、一気に変わったわけです。

 その頃の思い出の味といえば、喫茶店のナポリタン。粉チーズをドバドバ掛けて。横にある小さな瓶がなんだか分からなくて先輩に聞くと「埼玉の人間には分からないだろうけど、これはタバスコというものだ。掛けてみろ」と。ちょっとずつ覚えていきました。

 僕ら、洋食でご飯を食べる時には、ナイフを使ってフォークの背にご飯をのせて食べるのが正式マナーだと思っていました。みんなそうやっていたんですけど、ある日、東京生まれのちょっとお坊ちゃん風のやつと食べに行った時、彼はフォークだけでばくばくとご飯を食べたんです。その場にいた2、3人が「これでいいんだ」と早速まねをしました。

 最初の「美食」がファストフードだったせいか、僕はいまだに子ども口です。小説家になってしばらくしてから、編集者の方にごちそうしてもらうようになりました。立派な懐石料理のお店とかで。でも苦手なんですよね。懐石の場合、チマチマと料理が出てきます。一皿一皿それぞれおいしいんですけど、全部まとめて出してほしい。
 

高級料理は苦手


 それにご飯は最後に出てくるでしょう。あれも嫌です。お酒を飲みながら料理を楽しむという趣向なんでしょうけど、僕は酒を飲む時は食べたくないんです。酒のあては漬物でいいから、せっかくの料理はご飯で食べたい。

 僕は焼き肉屋に行っても、ビールを飲みながら肉とご飯を食べるんです。やっぱりご飯から逃れられないんでしょうか。僕の食べ物の好みには、戦後の日本史が関わっているようです。(聞き手・写真=菊地武顕)

 おぎわら・ひろし 1956年埼玉県生まれ。コピーライターを経て、97年に『オロロ畑でつかまえて』で小説すばる新人賞を受賞し、小説家に。『明日の記憶』(2004年)で山本周五郎賞、『海の見える理髪店』(16年)で直木賞を受賞。今年、『人生がそんなにも美しいのなら』(集英社)を上梓し、漫画家デビュー。
 

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