「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第13回「魂の教育者と夭折の開拓者」~神田日勝も学んだ酪農学校

NHK連続テレビ小説「なつぞら」場面写真 (C)NHK

 「なつぞら」で、奥原なつが吹雪で遭難するところを、阿川弥市郎(中原丈雄)と娘の砂良(北乃きい)に助けられるシーンがありました。

 阿川は東京で教師をしていましたが、子供たちに軍国主義を叩き込んだ反省から終戦後、北海道にやってきて、森の中に住んでいるという設定です。自分の魂と向き合って木彫りに打ち込む弥市郎に、北海道農業教育界の巨人・川村秀雄がダブって見えます。

 川村は、1897(明治30)年に岩見沢市で生まれ、小学校を卒業後15歳で小学校の教員になり、1923(大正12)年十勝農業学校(勝農、現帯広農業高校)教諭、41(昭和16)年から終戦まで同校校長を務めました。

 勝農は、なつが通った農業高校のモデルと目されます。伝統と実力があり、川村が校長時代の卒業生には「北海のヒグマ」と呼ばれ首相候補になった中川一郎、町村農場二代目の町村末吉など多くの優秀な人材を輩出しました。

 一方、この時代は戦争真っただ中で、生徒は勤労奉仕に明け暮れ、出征して戦死する先生もいました。42(昭和17)年、文部省は農業学校の生徒400名と引率教員25名の「興亜学生勤労奉仕隊」を編成し、川村がその隊長として満州国に渡り、100日間、開拓の指揮を執りました。

 終戦後、川村は生徒を戦場に送った教育者の責任として、「われ、散るべき時に散る」と、一生教育の道から消えることを決意。青空を眺めて食えるだけの農地を求め、農家になる準備を進めていました。これを知った野幌機農学校(後に野幌機農高等学校)校長の黒澤酉蔵は、「三顧の礼」で川村を説得し、後任校長として迎え入れました。
 
通信教育の募集記事
通信教育の生徒募集記事

 川村は戦後の機農学校の改革と発展に尽力、なかでも圧巻は48(昭和23)年、新制度に基づく野幌機農高等学校の設置と、わが国初の働きながら学ぶ酪農家のための通信教育高等酪農学校の開設です。

 酪農学校は89(平成元)年に閉じるまで9万人の卒業生を輩出しました。山田天陽のモデルとされる神田日勝は58(昭和33)年の卒業生です。

 神田一家は国の「拓北農兵隊」募集に応じ、東京から十勝にやってきました。これは黒澤酉蔵の建議によって実行された計画でした。多くの脱落者が出る中、神田一家は歯を食いしばり営農を続けます。
 
酪農学校で使われた教材2つ
酪農学校で使われた教材2つ

 日勝は中学を卒業すると高校に進学せず農業に従事、18歳で通信教育課程に入学します。働きながら絵を描き、さらに学ぶのは極めて過酷であったと想像されます。実際、2年在学のところ3年かかって卒業しています。

 戦災者の集団就農を計画、政府に建議した黒澤は当時、興農公社社長で衆議院議員でした。同志で公社副社長の深澤吉平以下役員に手紙を書き、農兵団事務当局に対する憤慨と、公社役員に全面協力の依頼をしています。
黒澤酉蔵から深澤吉平副社長ら役員に宛てた手紙
黒澤酉蔵から深澤吉平副社長ら役員に宛てた手紙


 戦後、黒澤は公職追放に遭い、計画を支援した興農公社も解体され、拓北農兵隊は成功を見ることがありませんでした。このため、日勝は辛酸をなめます。

 しかし、黒澤の生涯の師・田中正造翁の言葉「辛酸、佳境に入る」を借りれば、日勝は自らの努力により、これを佳境としたのではないでしょうか。

 黒澤と川村には生前の日勝に会ってほしかったとつくづく思います。
(酪農学園大学名誉教授 安宅一夫)

 
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