さとう珠緒さん(タレント) “祖母”の味身に付けたい
2019年07月01日

さとう珠緒さん
一人暮らしを始めた20代の時、仕事が忙しかったので、時短と言ってカップ麺ばかり食べていたんです。グラビアの仕事もやっていたので太っちゃ駄目だと思っていましたし、食は二の次、三の次って感じで過ごしていました。
そうしたら体調を崩し倒れて、仕事に穴を空けてしまったんです。ものすごく迷惑をかけてしまいました。
子どもの頃は、おばあちゃんがいろいろと料理を作ってくれました。戦争を経験しているので、孫にいっぱいご飯と手料理を食べさせようという思いがあったみたい。そのため私は、ご飯や手料理はあるのが当たり前という感覚だったんですね。ありがたみに気付けなかったんです。小さい頃に「何を食べたい?」と聞かれると、いつも「タン塩とカニ」と答えたらしいんです。
病気で倒れて初めて食の大切さを知りました。医食同源という言葉の重みを感じ、心を入れ替えようと思いつつ……ついポテトチップスを食べてしまう。たまたま今日、ポテチを食べる前に卵などタンパク質を取るとよいと聞き、そうしたいと思います。
なるべく料理をするようにしています。例えば簡単サムゲタン。冷凍庫に鶏手羽、ナツメ、クコの実、ネギ、ショウガなどを用意しておいて、食べる分だけ炊飯器に入れて水を加えて炊くんです。これで体があったまります。今の時期なら、ゴーヤー料理をたくさん作ります。青汁の元のケールも料理によく使います。私、苦い物が体に合っているようで、食べると調子が良くなるんです。
野菜は大切ですよね。昼は生野菜、夜は温野菜を取るのがいいと本で読んで。私、すぐに影響されるから、そのようにしています。市販のドレッシングは砂糖などが多く含まれているので、なるべくオリーブオイルとバルサミコ酢でいただくのがよいとアドバイスをもらいました。夜によく食べるのがラタトゥイユ。ズッキーニ、タマネギ、きのこ、ナスやピーマンをトマトで煮込んで、3日間くらい作り置きして食べます。
それが6日間くらい持たないかなと、期待してるんですよ。冷蔵庫を買い替えたんです。前のは20年くらい使っていました。新しいのに替えたら、食品の鮮度が保たれ、傷まないんです。超感動。これまでは傷んだ食材を捨てることがあって、そのたびに罪悪感を感じていました。おばあちゃんに「もったいない」と怒られるだろうな、と思いながら。
ご飯もパンも好きですけど、どちらかというとご飯派かな。でもちゃんと和食を作ろうと思うと、大変ですよね。だしを取るのも、避けたりしがちです。でもコンブのだしが、むくみに効くと聞いたんです。梅雨はむくみの時期ですよね。体に水がたまりやすい、天敵の時期です。これからコンブだしの料理を作って食べ、水や毒を出す! 今ここで宣言します。
最近、ぬか床で漬物を作るようになりました。人生3度目のぬか床ですから、今度こそ大事にするぞ、と。菌活、腸活を大切にしたいと思っています。定番のキュウリ、ちょっと硬めのアボカドやゴーヤーを漬けるといいですよ。
おばあちゃんが作っていたような料理を習いたい、作りたいですね。おばあちゃん料理を極めたい。そう思います。なんか願望と抱負ばかりですけど、これでもずいぶんとやるようになったんですよ、若い頃に比べて。(聞き手・写真=菊地武顕)
さとう・たまお 1973年、千葉県生まれ。95年に「超力戦隊オーレンジャー」のオーピンク役でドラマデビュー。以後、ドラマやバラエティーで活躍。2013年公開の映画「蠢動」で時代劇に挑戦し新境地を開いた。公開中の映画「武蔵―むさし―」にも出演している
そうしたら体調を崩し倒れて、仕事に穴を空けてしまったんです。ものすごく迷惑をかけてしまいました。
子どもの頃は、おばあちゃんがいろいろと料理を作ってくれました。戦争を経験しているので、孫にいっぱいご飯と手料理を食べさせようという思いがあったみたい。そのため私は、ご飯や手料理はあるのが当たり前という感覚だったんですね。ありがたみに気付けなかったんです。小さい頃に「何を食べたい?」と聞かれると、いつも「タン塩とカニ」と答えたらしいんです。
病気で倒れて初めて食の大切さを知りました。医食同源という言葉の重みを感じ、心を入れ替えようと思いつつ……ついポテトチップスを食べてしまう。たまたま今日、ポテチを食べる前に卵などタンパク質を取るとよいと聞き、そうしたいと思います。
できるだけ自炊
なるべく料理をするようにしています。例えば簡単サムゲタン。冷凍庫に鶏手羽、ナツメ、クコの実、ネギ、ショウガなどを用意しておいて、食べる分だけ炊飯器に入れて水を加えて炊くんです。これで体があったまります。今の時期なら、ゴーヤー料理をたくさん作ります。青汁の元のケールも料理によく使います。私、苦い物が体に合っているようで、食べると調子が良くなるんです。
野菜は大切ですよね。昼は生野菜、夜は温野菜を取るのがいいと本で読んで。私、すぐに影響されるから、そのようにしています。市販のドレッシングは砂糖などが多く含まれているので、なるべくオリーブオイルとバルサミコ酢でいただくのがよいとアドバイスをもらいました。夜によく食べるのがラタトゥイユ。ズッキーニ、タマネギ、きのこ、ナスやピーマンをトマトで煮込んで、3日間くらい作り置きして食べます。
それが6日間くらい持たないかなと、期待してるんですよ。冷蔵庫を買い替えたんです。前のは20年くらい使っていました。新しいのに替えたら、食品の鮮度が保たれ、傷まないんです。超感動。これまでは傷んだ食材を捨てることがあって、そのたびに罪悪感を感じていました。おばあちゃんに「もったいない」と怒られるだろうな、と思いながら。
ご飯もパンも好きですけど、どちらかというとご飯派かな。でもちゃんと和食を作ろうと思うと、大変ですよね。だしを取るのも、避けたりしがちです。でもコンブのだしが、むくみに効くと聞いたんです。梅雨はむくみの時期ですよね。体に水がたまりやすい、天敵の時期です。これからコンブだしの料理を作って食べ、水や毒を出す! 今ここで宣言します。
3度目のぬか床
最近、ぬか床で漬物を作るようになりました。人生3度目のぬか床ですから、今度こそ大事にするぞ、と。菌活、腸活を大切にしたいと思っています。定番のキュウリ、ちょっと硬めのアボカドやゴーヤーを漬けるといいですよ。
おばあちゃんが作っていたような料理を習いたい、作りたいですね。おばあちゃん料理を極めたい。そう思います。なんか願望と抱負ばかりですけど、これでもずいぶんとやるようになったんですよ、若い頃に比べて。(聞き手・写真=菊地武顕)
さとう・たまお 1973年、千葉県生まれ。95年に「超力戦隊オーレンジャー」のオーピンク役でドラマデビュー。以後、ドラマやバラエティーで活躍。2013年公開の映画「蠢動」で時代劇に挑戦し新境地を開いた。公開中の映画「武蔵―むさし―」にも出演している
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無洗米「SAKURA RICE」世界に 業務向けで高評価 全農子会社
農畜産物を輸出するJA全農の子会社、JA全農インターナショナルは、業務需要に開発したブレンドの無洗米「SAKURA RICE」(サクラライス)の輸出に乗り出した。世界で日本食の注目が高まる中、業務用を開拓、輸出拡大を狙う。日本産や無洗米による調理作業の効率化が売り。日本食店が多くあるシンガポールで今年から、複数のチェーン店が同ブランドの扱いを始め、手応えを得ている。
これまで同社の輸出米は家庭用主体だったが、業務需要に応えるブランドとして「サクラライス」を企画した。同社によると①国産のブランド価値②品質③無洗米による作業性の効率化──を売りに営業している。品質が一定化し、多くの用途に使えるようにブレンド米とした。東南アジア数カ国で販売している。
シンガポールの海鮮丼チェーン店「哲平食堂」では、現地法人の全農インターナショナルアジアの提案を受け、全7店舗で10月からサクラライスを使う。量は毎月約1トン。山下哲平オーナーシェフは「粒がしっかりして時間がたっても冷えてもおいしい」と強調する。山下シェフが展開するうなぎの専門店など、他店舗でも今後使っていく予定だ。
哲平食堂のフランチャイズを手掛けるYCPダイニングシンガポールのショーン・タン代表は「在住日本人も当地の客も満足している。無洗米は店員の作業が楽で、現地で手に入れにくいので助かる」と評価する。
シンガポールでは哲平食堂の他、日本式の焼き肉レストラン「牛角」9店舗でも、サクラライスの使用が始まった。
全農インターナショナルは「米の輸出を増やすには業務需要を取り込むことが有効。全農のルートを生かし、青果など他品目とセットで販売拡大も期待できる」とサクラライスを起爆剤に、輸出拡大につなげる考えだ。
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2019年12月12日

[岡山・JA岡山西移動編集局] 受託田の水管理住民がサポート
JA岡山西は、JAの作業受託組織を住民が支援する「稲作りサポーター」制度を導入し、JAと地域住民で農地を守る体制を整えた。条件不利地や飛び地などの農地は受託が難しいが、日常的に必要な水管理をサポーターが担うことで、受託能力を高める。2019年は7人が、サポーターとして約5ヘクタール分の管理を担う。
サポーター制度を取り入れたのはJAの子会社として13年に設立した岡山西アグリサポート。19年度は水稲24ヘクタール、タマネギ1ヘクタールを栽培する。
倉敷市を中心に農地中間管理機構(農地バンク)を通じて、高齢で農作業が難しい生産者らから農地を預かるが、受託地は170カ所に分散され、面積拡大にも限界が出ていた。対策として16年から、地元農家から「稲作りサポーター」を募集。水管理の委託を始めた。
赤木稔さん(76)は、同市で水稲80アールを栽培しながらサポーターとして80アールの水管理を請け負う。6月の田植え時期が最も忙しく、地区によってはポンプで水路から水をくみ上げる水田も多く、機械を運搬するため体力もいる。赤木さんは「耕作放棄地を見るのは残念。みんなで助け合い農地を守りたい。体力が続く限り稲作りサポーターを続ける」と話す。
同社の阿部晃治生産部長は「サポーターのおかげでよく水管理ができ、草も生えにくいため、米の品質が上がった。協力して地域農業を守っていきたい」と頼りにする。
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2019年12月07日

花の水揚げ正確に 絵文字17種配送ラベルに印字 オークネット・アグリビジネスが開発
インターネットによる花き取引事業を展開するオークネット・アグリビジネスは、切り花の特性に適した水揚げ方法を示すピクトグラム(絵文字)を開発した。同社によると、花き業界では初の試み。商品の配送ラベルに印字し、ひと目で理解できるようにする。知識や経験を問わず、小売店の従業員が誰でも正しい水揚げができるようにし、消費者への長持ちする花の提供につなげる。
切り花に水を吸わせる水揚げは、品質維持に欠かせない工程。水や湯を使う、茎を割る・たたく・焼くなど、さまざまな方法がある。品目や品種、スプレイ咲きかスタンダード咲きかなど、商品ごとに方法も異なる。
同社は、衣服の洗濯表示マークに着想を得て、絵文字開発に着手。尾崎進社長は「正しい方法を分かりやすく伝えれば、誤った方法による商品ロスや、店員の教育負担も減る」と、ニーズを語る。
ひと目で方法を連想できる絵文字を、17種類作った。同社が扱う約140商品を対象とし、商品配送ラベルに印字する。同じく印字した2次元コード(QRコード)を読み取れば、湯揚げにかける時間、水揚げ後の水管理など、より詳しい情報を得られる。
千葉県の生花店「U・BIG花倶楽部(くらぶ)」は、絵文字を参考にブバルディアで水揚げを実験。従来は空切りしていたが、茎を焼いた上で湯に漬ける方法に変えた。「水の含み具合に差が出たためか、葉に張りが出た」と効果を実感する。
開発に当たり、札幌市で生花店「フルーロン花佳」を経営し、各地で品質管理の講習を開く薄木建友氏が監修を務めた。薄木氏は「農家も小売り側の水揚げの仕方が分かれば、出荷時の管理の参考になる」と、産地にも有益な情報となることを期待する。
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2019年12月13日
問題 次の文はある国会議員の雑誌への寄稿である
問題 次の文はある国会議員の雑誌への寄稿である。Aは誰か。「政府答弁のうちでも、総じてA首相の答弁が不親切で、しかも抽象的である。歴代首相でこれくらい答弁に誠意を欠き~」▼答えは吉田茂。議員は河野一郎である。寄稿では、衆院予算委員会での質問にまともに答えようとしなかった吉田を批判。経緯はこう。1953年7月、河野は、米国への日本の貸金約200億円がいつまでも返済されないことを「(政府の)怠慢」と非難した。お金は、米国が朝鮮に送った物資の代金。日本が立て替えた。吉田は交渉中だと反論し、詳しい説明を避けた。『忘れられない国会論戦』(中公新書)で知った▼「無い無い尽くし」のまま臨時国会が9日、閉幕した。日米貿易協定は、野党が求めた資料は出ず熟議もなしで承認。「桜問題」は名簿がなく、政権に疑惑を晴らす気もなく持ち越した。安倍首相は一問一答の委員会から雲隠れした▼河野は寄稿にこうも記した。「最高審議機関である国会が、茶番的な論議や政府のごまかし答弁ですむようなことは(中略)国政が腐敗するもと」▼河野は当時、鳩山一郎と共に吉田と凄(すさ)まじい権力闘争中だった。とはいえ、農相や副総理を歴任した自民党の大先輩。その言葉を首相はどう受け止めるか。
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2019年12月10日
笑顔がはじけた
笑顔がはじけた。そして誇らしい。きのうの〈桜の戦士〉凱旋(がいせん)パレードは、多くの人の祝福と共にあった▼まず印象的だったのは、〈ぐーくん〉こと韓国出身の具智元選手の全身から伝わる喜び。大仕事を終えた充実感だろう。巨漢を生かしスクラムの最前線で戦い、強豪チームを相手に一歩も引かない。日本代表は外国人が半分近い。日韓関係が最悪の中で、具選手への温かな拍手と声援に、スポーツを通した友好復活の芽を見た▼ラグビーは体の大きさもさまざま。多様性こそこの競技の素晴らしさの一つ。小柄なだけに逆に目立ったのが、スクラムハーフを担った田中史朗と流大の2選手。攻守逆転を何度も演じ、ベスト8につながる。共に166センチと一般人と変わらない体格だが、パスの達人で敬称の〈小さな巨人〉に納得する▼感極まったのは、やはりリーチ・マイケル主将の勇姿である。ピンチを何度も救った切れ味鋭いタックルに多くの勇気をもらう。高速ウイングで〈ダブル・フェラーリ〉の異名を持つ福岡堅樹と松島幸太朗の両選手は華やかそのもの。俊足は“チータ”に例えられる▼合言葉はワンチーム。先日の会見で中家徹JA全中会長も連帯や多様性など「協同組合にも通じるものがある」と。〈桜の戦士〉よ、感動をありがとう。
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2019年12月12日
食の履歴書の新着記事

片岡礼子さん(女優) 家族つなぐ 愛の手料理
住んでいる時は当たり前と思っていたんですが、故郷を離れて初めて分かることってたくさんあるんですよね。私は愛媛県松前町の出身で、本当に美しい稲穂に挟まれた道を登校していたんです。遊ぶのも田んぼ。わらを崩して怒られるのも田んぼ。東京に出てから、それが当たり前というわけではないと知りました。
父の実家は新居浜市の山奥、別子銅山の方でした。私も小さい頃、よく祖父母の家に遊びに行きました。夏休みにまるっと1カ月間、そちらで過ごしたものです。
家の裏には栗山、柿山、ビワ山があって、祖父と一緒に山に行き、川で丸一日石投げをして遊んでいました。畑で祖父と一緒に芋を掘ったりもしました。家の周りではウコッケイが自由に歩き回っていたんです。祖母が、要らない野菜の葉っぱを刻んで卵の殻とかと混ぜた餌を与えると、鶏は走って寄ってきました。
祖母はみそを手造りしていました。6畳だったか8畳だったかの座敷を二つ使って毎年大量に造っては、親戚中に配っていたんです。
おそらく自給自足に近い生活だったんでしょう。祖父母をもっと手伝って、食べ物の作り方を学べばよかったと感じています。
肉嫌いの私に…
小さい頃に大好きだった「おふくろの味」は、ささ身のフライです。私は肉が苦手な子でした。肉料理が出ると、親の目を盗んで妹の皿に載せていたくらいです。そんな私でも唯一食べられたのが、鶏肉。それを知った母が、手を替え品を替えて頑張ってくれた末にヒットしたのが、ささ身のフライ。母の愛情がこもった、大切な味なんです。
東京で1人暮らしを始めたら、その味を食べたくなって。帰省したら必ず「お母さん、ささ身のフライを作って」と言ってました。
東京での私の食生活は、褒められたものではなかったですね。コンビニ1軒あれば足りる、という感じでしたから。
和食で体調良く
20代になって良い仕事がたくさん続いたのでうれしくて、がむしゃらに頑張りました。思いっ切りダイエットをして、体も絞ったんです。そのため妊娠・出産するに当たって、助産師さんに「そんな食べ方では駄目です」と言われました。「きちんと日本の伝統的な食事を取るように心掛けなさい」と。
20代での食生活が影響したんでしょうか。私は30歳の時に脳出血で倒れてしまいました。
長い期間、リハビリを続けながら、食事の大切さについて考えました。和食をいただくようにしたこともあって体調は良くなり、大好きな女優の仕事もできるようになりました。
この5年くらいは、友達に教わった方法で、みそを手造りしています。祖母がやっていたような大掛かりで本格的なものではありません。ごく簡単な方法ですけど。その友人は赴任先のアメリカで、みそ造りを先輩から教わったそうです。大豆とこうじ、塩しか使わないので、健康的だと思います。
今年になって母の体調が優れなくなりました。父はそれまで料理をしてきませんでしたが、「お父さん、昔ながらの和食がいいよ。作れる?」「うん、やってみる」と。夜のうちにだしを取って、毎朝みそ汁を作っているそうです。最近は「こんな料理を作ってみた」と写真を送ってくれるようになりました。きちんと副菜まで作っているんです。父の愛情がこもった料理で、母の体調が良くなることを祈っています。(聞き手・写真=菊地武顕)
かたおか・れいこ 1971年、愛媛県生まれ。93年に映画デビュー。95年「愛の新世界」「KAMIKAZE TAXI」でヨコハマ映画祭最優秀新人賞。2001年「ハッシュ!」でキネマ旬報、ブルーリボン両賞の最優秀主演女優賞。映画「楽園」「閉鎖―それぞれの朝―」公開中。映画「Red」「タイトル、拒絶」が来年公開予定。
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2019年12月07日

輪島功一さん(元プロボクシング世界王者) 王座で味わった最高の肉
私は樺太で生まれたんですけど、ソ連が来たから両親は兄と私を連れて北海道に逃げたんですよ。3歳の時のことです。
開拓一家で育ち
北海道では厳しい暮らしが待っていました。おやじはクマザサをバリバリッと切って、馬を使って荒れ地を開拓しました。山の方なので米は取れず、ジャガイモと小麦を育てていました。本当に貧しく、私は落ちているものは何でも拾って食べました。ドングリをゆでるとおいしかったなあ。
小学校6年生の時、久遠村(現・せたな町)で漁師をしているおやじの兄のところに養子に出されました。「もっといい生活ができる」と思い、うれしかったですね。
実際に行ってみて分かったんですが、伯父は労働力が欲しかったんです。山に木を切りに行かされました。中学生なのに大人と同じだけの荷物を背負わされて歩きました。私が、がに股になったのは、その時の木材運びのためです。
夜はイカ釣り漁船で働かされました。朝まで釣って、大人たちはその後で眠るんですけど、私はそのまま学校に行かないといけない。授業中に居眠りをして、先生に「この野郎」と殴られました。
私は船酔いがひどくて、船の上で必ず戻してしまいました。だから私のところには、イカがたくさん寄って来たんです。
慣れれば良くなると思っていたんですが、いつまでたっても駄目。三半規管が弱かったからなんですね。それが分かって漁師は向かないと思い、実家に逃げ帰りました。伯父の家では商売にならないような魚を料理してもらうことがあったから、食事は実家より良かったんだけど、それでもね。
実家に戻ってから1年くらい働いて、そのお金を全部両親に渡して、上京しました。新聞配達や牛乳配達など、いろんな仕事をしました。東京に出て初めて、肉を食べました。こんなうまいものがあるのかと、たらふく食いました。
仕事で一番長かったのが、建設現場。羽田空港の滑走路は私たちが作ったんですよ。高度経済成長期。景気が良かったのでお金はたくさんもらいましたが、変なことに使いたくはなかったんです。会社の寮のそばに、ボクシングジムがありました。このジムで汗を流せば悪い誘惑に乗ることもないだろうと考えて、入門しました。
私は当時24歳。ボクサーとしては引退間際の年齢です。ジムの方も「金を払うならいい」という態度。で、なにくそと思ったんです。今に見てろ、と頑張ったね。
恩人との出会い
私はファイティング原田と同じ年なんです。原田が引退した69年に新人王になりました。チャンピオンになって、ぜいたくな暮らしをする。うまいものをたらふく食ってやる。そういうハングリー精神を持つのが普通ですが、私はそんなことはなかった。ジムの人を見返す。故郷の同級生で大学を卒業して「いい会社」に入った連中に負けたくない。その思いで練習しました。
69年に日本チャンピオンになりました。建設会社の社長は大のボクシング好き。私のことをとてもかわいがってくれて、「会社員としての給料は払うけど、会社に顔を出すだけで仕事はしなくていい。ボクシングに専念して頑張れ」と言ってくれました。その上よく瀬里奈(東京・六本木の高級料理店)に連れて行ってくれました。
ぜいたくをするために練習に励んだわけではありませんが、その成果で食べた瀬里奈の肉は本当においしく、今でも覚えています。(聞き手・写真=菊地武顕)
わじま・こういち 1943年、樺太生まれ。71年、世界ボクシング協会(WBA)・世界ボクシング評議会(WBC)世界ウェルター級チャンピオンに。かえる跳びなどの変則ボクシングで相手を翻弄(ほんろう)した。WBAで3度、WBCで2度王座に就いた。現在は輪島功一スポーツジムで後進を育成している。
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2019年11月30日

アグネス・チャンさん(歌手) 食事通じて家族の絆育む
幼い頃に私の母は「医食同源だから」と食事の重要性を教えてくれました。「先祖さまからいただいた体を生かすのも壊すのも、自分次第。効能良く食べなさい」とよくいわれました。
その教えを思い出して、自分が子どもを育てる時には、手料理を中心にしたんです。コンビニには行かない、インスタント食品や冷凍食品は使わないと決め、食材は信用できる質の高いものを取り寄せるようにしました。
男の子を台所に
仕事もあってすごく忙しかったんですけど、毎朝早く起きて朝ご飯を用意し、子どもたちのお弁当を作りました。夜は7時前に仕事を終わらせて大急ぎで帰り、まず炊飯器のスイッチを押して、ご飯ができるまでにスープとおかずを少なくても4品作りました。子どもたちが、まるでひながアーンと口を開けて親鳥からの餌を待っているように見えたから、急がないといけないと思って。
お菓子もほとんど手作りでした。誕生日のケーキは自分で焼きましたし、ハロウィーンのパンプキンパイもたくさん作りました。
年間を通じた行事での料理は手作りし、それを頂くことで行事の意味を皆で考えました。サンクスギビング(感謝祭)では七面鳥を焼き、収穫や家族全員の健康に感謝の気持ちを持ちました。
3人の子どもは全員男でしたが、台所に立たせ、一緒に料理することで成長を促しました。切ったり炒めたりする時に油断をするとけがをしますから、それを避けるため集中力が付きます。やり通すことの大切さも学べます。失敗を経験することも大事ですし、だからこそ成功した時の喜びも感じられます。一緒に食べてる人と喜びを分かち合えることの素晴らしさを教えました。
私は子どもが1人で食べることがないように気を使いました。1人で食べることは、精神的によくないと思うからです。3人の子のうち2人が友達と約束があるので出掛け、1人だけが家に残る日もあります。そんな日にたまたま夫も私も仕事で一緒に食べられないという時は、1人残る子どものため、事務所のスタッフに一緒に食事してもらったこともあります。
共食で愛伝える
3番目の子が中学の時のことです。2人の兄はもう家を出ていました。夫は仕事で外食をする、息子は友達と約束して夜に出掛け、私1人だけ家で夕飯を食べるという日があったんです。
そろそろ夕飯を食べようかという時、息子が帰ってきました。「ママ、夕飯食べよう」って。私に1人で食事をさせないために、いったん戻ってきたというんです。私、あまりにうれしくて泣きそうになりました。急いでご飯を食べ終え、息子を玄関まで見送ったことを鮮明に覚えています。
わが家の味を覚えた子は、必ず家に戻ってきます。その味を食べた時に、自分は親から愛されているんだという安心感を得るからだと思います。
子どもはもう33、30、23歳になり、全員アメリカに住んでいますけど、家に帰ってきた時には喜んで私の料理を食べてくれます。
スペアリブ、栗と鶏の煮込み、カレー味の春巻き、野菜の中華風の炒め物など。子どもの頃に好きだった料理を並べ、楽しく会話をしながらいただきます。
食事というのは、親が子どもに愛情を伝える一番早い方法だと思います。子育てをしている若いお母さんには、食事を通じて良い思い出を作ってあげてほしいですね。(聞き手・写真=菊地武顕)
アグネス・チャン 1955年、香港生まれ。72年、「ひなげしの花」で日本で歌手デビュー。「草原の輝き」「小さな恋の物語」などのヒット曲を出した。ボランティア活動にも注力し、2016年、国連児童基金(ユニセフ)・アジア親善大使に就任。18年に旭日小綬章を受章した。「未知に勝つ子育て:AI時代への準備」など教育本を多数出版。
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2019年11月25日

宮川俊二さん(フリーアナウンサー) オンリーワンの味楽しむ
実家は愛媛県宇和島のかんきつ農家でした。父親はとても研究熱心で、自分でミカンの品種改良もやっていました。標高が高くなると気温が低くなる点を利用して、山の上の方で桃や梨も植えていました。
父はミカン農家
家の周りはブドウ園で、自家用に栽培していました。父はブドウを一升瓶に詰め、水を加えて、発酵させて飲んでいました。私も発酵前の渋いジュースを飲んでいました。
うちは7人きょうだいです。亡くなった兄は東大の農学部を出て、長野県の試験場で「ふじ」などリンゴの育種に携わりました。
今から50年も前の話です。兄によれば、ミカンは暖かい所ならどこでも作れるので産地の優位性が出しにくい。それに対してリンゴは、寒い地域でしかできなくて適地も限られるので、これからも有望だと言っていました。
あとは姉が5人いました。一番下が私です。両親は土地や山を切り売りしつつ、私たち全員、大学を出させてくれたんです。
研究熱心な父の作るミカンは、酸味と甘味のバランスが絶妙で、他のミカンとは深みが違いました。街の果物屋さんも「宮川さんのはいい」と言ってくれていました。でも誰も家業を継がなかったので、父は最終的には自宅の周り1・5ヘクタールくらいの畑でミカンを栽培し、80歳で亡くなりました。
東京の大学に入り、就職して、自然と農業から退いていった私ですが、子どもができてからは、父は何を考えて農業をやっていたのだろうと考えるようになり、何か農家の役に立てないかという気持ちが強くなってきました。
私は大学で教壇に立ち「他の誰にもない自分だけのもの」を大事にしろと言い続けてきました。では、取材や食べ歩きを通じて多くの生産者やシェフとつながりがあり、情報発信力もある私だからこそ、できることは何か?
生消の懸け橋に
徳島県の湯浅さんという方が、とても小さなシイタケを持って来てくれました。剣山の標高600メートルほどの高地で採集した菌を培養したもので、作っているのは湯浅さんだけ。まさに「他の誰にもない自分だけのもの」ですよね。うま味が凝縮されているのに、あまりシイタケ臭くないんです。そこで洋食にも合うんじゃないかと思い、恵比寿「ジョエル・ロブション」の渡辺雄一郎シェフのところに持って行きました。渡辺さんもとても気に入り、シャンパンのイベントの時に湯浅さんのシイタケを使った料理を提供したんです。私はその様子をブログで伝えました。すると他のシェフたちも「渡辺さんが使っているのなら」と興味を持ってくれたんです。
これだ! 以来、生産者とシェフや消費者をつなぐことで、農業の手伝いをするようになりました。シェフは気になる食材があれば、生産現場を訪ねて質問を繰り返しますし、消費者の嗜好(しこう)を教えてくれます。おかげで農家の方も、モチベーションが上がるわけです。
昔、父は酒を飲みながら、「俺がこんなに頑張って作っても、あんまり熱心じゃない人のミカンと一緒にされてしまうんだよな」とブツブツ言ってました。
たしかに当時の生産者は作るだけで、その先のことは分からないままでした。でも今なら、消費者とつながることができます。各地の農家の皆さんが作る「他の誰にもない自分だけのもの」を楽しみに食べたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
みやがわ・しゅんじ 1947年、愛媛県生まれ。70年にNHKに入局。93年に退職後、ベトナムで日本語講師として活動。帰国後はフジテレビ「ニュースJAPAN」などさまざまなニュース番組でキャスターを務める。2008年から早稲田大学非常勤講師を務めた。ワインに造詣が深く、名誉ソムリエの称号も持つ。
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2019年11月05日

松島トモ子さん(女優・歌手) 豪華な宴 締めは母の鶏飯
食べ物についての思い出と言えば、子どもの頃に母が自宅で開いたパーティーのことですね。私が世話になっていた番組の関係者、多いときには100人くらいもの方々を招いて、料理や酒を楽しんでいただきました。
自宅に100人招き
母は、自分の母、私にとっての祖母が海外で開いたパーティーを見ていたから、自宅にお客さまを招くことを楽しみにしていたんだと思います。
母方の祖父は三井物産に勤め、海外を転々としていました。その頃の三井物産は最盛期で、それはもう豪華な海外生活。現地の家には4面のテニスコートがあり、香港在住の時なら中華、和食、洋食とそれぞれ専門のコックを雇っていたそうです。
祖母はパーティーが開かれるたびに陣頭指揮を執り、何十人、何百人ものお客さまのために世話をしたと聞いています。
私の父も三井物産に勤めており、私が生まれたのは、満州国の奉天市です。
戦時中、父は招集を受けました。奉天に帰ってくることなく、昭和20(1945)年の敗戦の後に母と乳飲み子の私だけで日本に引き上げ、東京にある母の実家に住み始めました。
父が抑留先のシベリアで亡くなったことを知らされたのが、昭和24年のことです。戦友の方が訪ねていらして「埋めて来ました」と報告してくださいました。
昭和24年といえば、私が芸能界に入った年です。私は3歳からバレエを習い、ニュース映画で「小さな豆バレリーナ」と紹介されたんです。そのニュースを見た阪妻(阪東妻三郎)さんにスカウトされ、すぐに子役として映画に出演するようになりました。
私は祖父母の立派な家で不自由なく暮らせましたが、敗戦後の日本はとても貧しかったわけです。娯楽といえば映画くらいしかないんですが、その入場料を払うのは大変でした。「お金をためて、トモ子ちゃんの映画を見に行くからね」と声を掛けられることも多く、私は子ども心にも「皆さんを元気にしたい」という使命感に燃えました。次から次へと映画の企画が持ち込まれ、いつも5、6冊の台本を持ち歩いていました。
お茶漬けいかが
テレビの時代に入った頃ですから、昭和30年代ですね。母が自宅でパーティーを開き、お世話になっているテレビ局のスタッフをお招きするようになりました。
メインの料理は「お茶漬け」。スタッフの方に「お茶漬けを食べにいらっしゃいませんか」と声を掛けますと、「え、お茶漬け?」と、変な顔をされました。
でも実際は、祖父母が海外で行ったのと同じように豪華なパーティーなんですよ。母は何日も前から入念な準備をしました。料理は、一流の洋食店や中華料理店から運んだり、コックを招いて作っていただいたり。母はというと、にこやかに皆さんに酒をお渡ししていました。
その最後に母が手作りした鶏飯が出るんです。奄美大島の郷土料理をアレンジしたもので、じっくりと時間をかけて鶏を煮込んで作ったスープを、ご飯の上に掛けて召し上がっていただくんです。母が皆さんに取り分けました。
母は料理が上手なんですが、私にいろいろと作ってくれるようになったのは、祖母が亡くなってからです。それまでは、手伝いが作る料理を食べていました。それだけに子どもの頃にパーティーで出た鶏飯は、私には忘れられないものなのです。(聞き手=菊地武顕)
まつしま・ともこ 1945年、満州国奉天市生まれ。49年に銀幕デビューし、「獅子の罠」「鞍馬天狗」「丹下左善」「サザエさん」などに出演。「村の駅長さん」「風にゆれるレイの花」など童謡歌手としても活躍した。11月下旬、飛鳥新社より介護に関する書籍を出版。12月20日に東京・成城ホールでコンサートを開く。
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2019年10月29日

六角精児さん(俳優) 野菜嫌い変えた妻の料理
劇団員というのは、それ自体が収入になるような「職業」ではないんですね。「活動」と言った方がいいようなもので、そのため20代、30代の頃は生活がままならなかったわけです。
その頃は食事と言えば、どうしても炭水化物を取ることが多かったです。家でインスタントラーメンを食べた上、外食でもラーメンとか。すごく偏った生活を20年くらいしていました。
それでも大きな病気をしなかったのは、子どもの頃に食べていた母親の料理のおかげだと思うんです。母親は外食を許してくれませんでした。マクドナルドに行ったことはなかったし、吉野家の牛丼も知らなかったくらいです。
母親の作るものはおいしいんですよ。でも中学生、高校生の頃って、外で食べたいじゃないですか。大学に入って自由な時間が持てるようになり、反動が出た。抑圧されていたものが解放されたと言うんでしょうか。取り付かれたように外食をしました。世の中にこんなうまいものがあったのか、と。
もともと僕の味覚はずぼらで、化学調味料が好きでした。中華料理店で丸い大きなお玉で化学調味料を入れたチャーハンとか、ものすごくおいしく感じたんです。
不摂生の結果…
このような反動や経済的な問題で偏った食生活を続けた結果、40代になって痛風の発作が出たんです。慌てて病院に行って血液検査をしてみたら、尿酸値だけでなく中性脂肪などいろんな数値がひどい状態でした。その上、尿路結石にもなってしまって。
これはいけないと薬を飲み、歩くようにしました。薬は今でも飲んでますが、運動はそんなに続かなかった。でもちょうどそのタイミングで結婚をして食生活が大きく変わったので、それが良かったんではないかと感じています。
常に台所に緑黄色野菜、きのこ、豆腐や納豆がある生活が始まりました。嫁さんは栄養バランスとかカロリーが書かれたものを冷蔵庫に貼って、毎朝、野菜中心の料理を出してくれるんです。
大切さ体で実感
昔は野菜嫌いだったんですよ。野菜なんて味がしないと思ってました。化学調味料が好きだったわけですからね。でも嫁さんの作ってくれる料理を食べ続けていくうちに、おいしく感じられるようになっていきました。
50歳になって一回りして落ち着いたわけです。食の大切さを体で知る年齢になったと言うんですかね。体に良いものがおいしく感じられるようになりました。
それまであまり食べなかったオクラやモロヘイヤが好きになったし、グラタンに入れたブロッコリーがおいしく感じられるようになりました。焼いたレンコンも好物で、昨日も朝食に出たので喜んでいただきました。この間食べた万願寺とうがらしもおいしかったし、ネギの甘さを楽しむようになりました。最近気に入っているのはミョウガですね。
若い頃は「なんだ、野菜か」と思っていたのに、今では「この野菜はどんな味かな」と興味を持ち、野菜たっぷりの弁当を選ぶようになりました。北海道の北見に行った時に、タマネギ畑が広がっているのを見て、うまいんだろうなあとオニオンスライスを連想したくらいです。
野菜をおいしく感じられるようになると、それを作ってくれる方々の苦労にも思いをはせるようになりますね。食べ物の間口が広がったわけですから、人間の間口も広がればいいんだけど。(聞き手=菊地武顕)
ろっかく・せいじ 1962年、兵庫県生まれ。善人会議(後に劇団扉座)の旗揚げに参加し演劇活動を続けながら、映像作品にも出演。ドラマ・映画「相棒」シリーズの鑑識官・米沢守役、2005年のドラマ「電車男」で人気を博す。熱心な鉄道ファンとしても知られる。主演映画「くらやみ祭の小川さん」が25日に公開。
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2019年10月19日

市毛良枝さん(女優) 豪華さより「心の満足度」
今年の夏は十数年ぶりにベランダで、ナスとキュウリとトマトを作りました。
前は毎年作っていたんですが、親の介護がありましたから、長いこと休んでいました。今年、断捨離でいろいろなものを整理していたところ、昔使っていた土が出てきましてね。東京だから土も買わないといけないでしょう。せっかく買った土を捨てるのもなんだかと思って、作ってみたんです。天候が良くなかったのであまり収穫はありませんでしたが、久しぶりに楽しめました。
実家で父が家庭菜園をしていたので、私も東京に出てきてから見よう見まねで始めたんです。
母は父が作った野菜をぬか床に漬けていました。あまり料理が得意な方ではないんですが、父はよく「母さんの何の変哲もないみそ汁と漬物、卵焼き……。そんなのがいいね」と話していました。夫婦ってよくしたもんだ、男の人は妻の味にほっとするんだと思った記憶があります。
私は文化も料理も洋風なものが好きでして、米があまり得意じゃない時期がありました。でも30年くらい前に米の組合さんの宣伝を担当させていただいて、そこの食品研究所の方が炊くご飯のおいしさに驚き、目覚めたんです。
登山で“米派”自覚
それに加えて5000メートルを超える高い山に登るようになって、自分にはやっぱり米なんだと実感するようになりました。
私は外国に行くと、現地の料理をおいしくいただきます。行った先のものを食べたい方です。登山の時でも、ある程度の高さまでは現地の食事を全然平気で食べられるんですが、キリマンジャロやエベレストのベースキャンプまで登ると現地の食を食べられなくなるんです。平地でならパン好きなのに高地だとパンはパサパサしていて喉を通りません。最後はやっぱりご飯。湯を注いだアルファ米とみそ汁に、つくだ煮の缶詰。酸素の薄いぎりぎりの所では、自分が食べてきた最もなじみのあるものしか、食べられなくなるんですね。
キリマンジャロでは高山病にかかってしまいました。食欲はありませんが、栄養を取らないといけません。その時は日本の食材をあまり持って行かなかったので、現地の方が作ってくれたジャガイモを煮た料理をひたすら食べました。高山では、野菜といえばジャガイモしかないんですね。
朝は野菜中心に
日常生活では、朝に自宅で野菜をたくさん取るようにしています。朝にきちんと食べないと、その日一日調子が良くないですね。それに自宅で作って食べるというのが大事だと感じます。いくら豪華な料理でも、外食ばかりが続くと、心の満足度はいまひとつ。
食事をしながら会話を楽しむというのも大事で、心の満足度を満たしてくれます。私は3カ月に1度、3人の友だちと持ち寄りパーティーを続けています。とても楽しいイベントですね。
このたび出演した映画「駅までの道をおしえて」では、久しぶりに塩見三省さんと夫婦役で共演しました。塩見さんは脳疾患の後、リハビリをされて復帰したそうです。その病院が、私の母が世話になった病院と同じということもあって、「リハビリは大事よね」と話し合いました。
ロケ先の食事は弁当ではなくケータリングで、野菜もたっぷり入った出来たてのアジア料理でした。温かい食事をいただきながら、塩見さんと久しぶりにおしゃべりができてうれしかったです。(聞き手・写真=菊地武顕)
いちげ・よしえ 1950年、静岡県生まれ。71年に「冬の華」でドラマデビュー。「小さくとも命の花は」(77年)などライオン奥様劇場に連続出演した。映画では「地雷を踏んだらサヨウナラ」「ベルナのしっぽ」など。趣味は登山で、日本トレッキング協会理事を務める。映画「駅までの道をおしえて」が18日公開。
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2019年10月12日

マルシアさん(歌手・女優) 食卓に並んだ二つの文化
父方の祖父母は静岡県から、母方の祖父母は高知県から、移民としてブラジルに渡りました。私はブラジルで日系3世として、祖父母や両親から日本の文化、食や音楽に触れる形で育てられました。
父方の祖父は日本で農業を学び、その技術を用いて作物を作るという夢を抱いてブラジルに渡り、サンパウロ州の町に住みました。特に実家が茶畑をやっていたので、日本茶を作りたかったんです。
柿を広めた祖父
でも日本とは土地も水も気候も全く違います。お茶はもちろん、米、ジャガイモ……何を作ってもうまくいきませんでした。全てが失敗の7年間。ついに食べ物がなくなるくらいになってしまって、私の父が生まれて3カ月の時に、別の町に移りました。私が生まれ育ったモジ・ダス・クルーゼスという町です。
祖父はそこで、新たな勝負をしました。今度はフルーツ。ポンカンや柿、ビワなどに挑戦したんです。
するとそれが大当たりしたんです。大成功した祖父は日本のフルーツを広めていったので、ブラジルでも根付きました。日本と同じくポンカン、柿という言葉で呼ばれています。
母方の祖父母も農家。ニンジンやレタスなど野菜を作っていました。祖母は必ずこんにゃくを持って私の家を訪ねたので、私は常に食べていました。祖母が作ったものです。芋から作ったのかどうかまでは分かりませんけど。
そのように日本の食と文化を大切にした祖父母のおかげで、食卓には必ずみそ汁がありました。私は苦手でしたが、祖父は納豆が好きでよく食べていました。
正月には家族全員が集まり、かまぼこや栗きんとんなどが入ったお節を何日も続けて食べました。他には刺し身、のり巻きが並び、餅も。私は餅には砂糖としょうゆを付けて食べていました。
ブラジルにはブラジルの食文化があります。野菜とフルーツが豊富な国です。レストランは基本的にビュッフェ方式で、サラダ用だけでも何十種類もの野菜が並びます。マンゴー、アボカドは、日本で作られるものの何倍も大きいんです。アボカドは真ん中から切って種を取り、そこに砂糖とレモンを垂らしてつぶしていただくんです。それにビタミーナと呼ばれるジュースにも使います。アボカド、牛乳、砂糖とコンデンスミルクをミキサーにかけて飲むんです。ほとんど毎朝いただきました。
ご飯も食べ分け
うちの食卓には、日本とブラジルの両方の食文化を取り入れた料理が並びました。
ご飯は、日本のような粘りのあるお米を炊いたものと、向こうの長粒米をガーリックで炒めたものを、時と場合で食べ分けました。
みそ汁と一緒に、フェイジョンというブラジルの豆のスープも出ました。汁物は必ず両方がテーブルに出るんです。ブラジル式の肉料理やサラダと一緒に、筑前煮や魚の南蛮漬けが並んだりしていました。二つの文化が、私の体をつくってくれたんです。
日本に来たことで日本の良さを深く知ることができたり、逆にブラジルの良さを改めて感じたりすることができました。今年でデビュー30周年を迎え、アルバムを出しました。その中の1曲は日本語の他に、私が歌詞を翻訳したポルトガル語バージョンも入れています。故郷への思いを届けたいと考えたからです。二つの国の人々と文化に感謝しています。(聞き手、写真=菊地武顕)
マルシア 1969年、ブラジル・サンパウロ州生まれ。86年に開かれた歌謡選手権で作曲家の猪俣公章氏の目に留まり来日し、89年に「ふりむけばヨコハマ」でデビュー。今年9月、自らポルトガル語で作詞した楽曲も収録したアルバム「真夜中のささやき」を発売。10月26日に浜松で、11月17日にビルボードライブ東京でライブを開催。
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2019年10月05日

川平慈英さん(俳優) 忘れられない母のケーキ
僕は沖縄で生まれ育ち、1972年の本土復帰の時に父の仕事の関係で東京に出てきました。
そんな僕のソウルフードは、沖縄で祖母が作ってくれた油みそです。みそにラフテー(豚の角煮)を加えたもので、ご飯に載っけて食べると絶品でした。
祖母は一緒に住んでいたわけではなかったんですが、僕たちが日曜に教会から家に帰ると、「また作ってきたよ」と油みそを持ってきて待っているんです。祖母はいつも香り袋を持っているから、玄関を開けたとたんに来ているのが分かるんですよ。「あ、油みそが来た」って。
沖縄独特の料理だと思っていましたが、実は全国に同じようなものがあるんですね。でもあちこちで食べましたけど、おばあちゃんの味にはかないません。とっても濃厚で、優しさにあふれていて。愛が詰まった味でした。
米国で農業体験
もう一つ忘れられない味は、母が作ってくれたキャロットケーキ。うちではキャロットブレットと言ってました。
母はアメリカ人で、カンザス州のヘストンという人口2000人くらいの農村の出身。実家は農家で、主に小麦と綿を栽培し、豚と羊も飼っていました。うちは男3人の兄弟ですが、川平家のしきたりとして、子どもたちは小学4年生になるとヘストンの伯父の農場に1年間ホームステイして、農作業の手伝いをさせられるんです。子どもであっても、戦力としてしっかり働かないといけません。
毎朝5時に起きて羊のわら替えをしました。コンバインやトラクターの運転も覚えさせられました。まだ小学4年生ですけど、交通のない私道で乗る分には問題ないというので。子どもの僕が、ジョンディアという緑色の大きなトラクターを運転したんです。
余談ですけど、おかげで18歳になって東京で運転免許を取る時、初日から半クラッチも坂道発進も縦列駐車も楽々できました。教官に驚かれましたね。
共演者にも好評
そういう農家に生まれ育ったわけですから、母のキャロットケーキは、たっぷり入ったニンジンの味が効いてました。ニンジンをすりおろすのは、僕たち子どもの役目。大きなボウルにたくさんすりました。生地はしっとり。レーズンが入っていて、酸味と甘味のバランスが良かったですよ。
母は去年の1月に亡くなりましたけど、それまで僕の舞台に必ずこれを差し入れしてくれたんです。あまりにおいしいので、共演の皆さんの間でも好評で、心待ちにされていたんです。「ジェイのお母さんのキャロットケーキ、今度は、いつ来るの?」と。それを母に言うと、満面の笑みで「え、そんなに有名なの?」と言って、作ってくれたものです。
4年前に突然、伯母が三線(沖縄の伝統楽器)を送ってくれました。「もう私はやらないから」と。僕は自分のルーツに強い興味を持ち始めていたので、練習を始めてみました。
半年後。東京に出てきている親戚らが集まる、恒例のクリスマスパーティーがありました。みんなチャンプルーなど沖縄料理を持ち寄り、母はキャロットケーキを作り、おいしく食べ、歓談しました。
そこで僕は三線で「てぃんさぐぬ花」を弾きました。このサプライズに、両親が号泣したんです。僕も演奏しながらもらい泣きをしてしまいました。母が亡くなる前に三線を披露できたのは、本当によかったと感じています。(聞き手=菊地武顕)
かびら・じえい 1962年、沖縄県生まれ。上智大学在学中からミュージカルに出演。97年、「雨に唄えば」で読売演劇大賞男優賞受賞。読売サッカークラブユースなどでの選手経験を基に、サッカー中継ナビゲーターとしても活躍。11月1日から東京・シアタークリエでのミュージカル「ビッグ・フィッシュ」で主演。
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2019年09月28日

ヒロシさん(お笑い芸人) おいしいご飯あれば幸せ
最近、海外に行く仕事が多いんです。外国で気に入った食堂を探して入って食べるという番組も、やらせていただいています。
海外での食事って、一食いただく分にはいいんですよ。でもそれがずっと続くと……。長い時は9日間で18食のリポートをします。僕はピザが好きでイタリアに行った時にピザを食べたのですが、なんておいしいんだと感じましたね。でも2食目、3食目になっていくと、感動は薄くなっていきます。ピザ以外の料理を食べても、基本的な味付けが似てるからどうしても飽きてくるんです。
海外にも米持参
やっぱり日本が一番うまいと感じます。日本の米が大好きで米なしでは生きていけませんよ。
僕、お酒を飲めないので食事をするといったらとにかくご飯を注文します。時々定食屋で、あんまり炊き方がうまくないなと感じることがありますけど、それでもやっぱりおいしいんです。
僕が日本人でなじみがあるから日本の米をおいしく感じるんでしょうけど、では外国人が食べたらどう感じるんでしょうね? 抵抗感や違和感があるのかな。最初はそうでも、やがておいしいと感じるんでしょうか。僕は海外の米を食べ続けても、おいしく感じない自信がありますけど……。
この間、フィンランドでキャンプをしてきました。ご存じの方も多いかもしれませんが、僕はキャンプが大好きで。
ホテルで2泊、キャンプで3泊という日程。米を持って行くことにしました。本当は毎食、ご飯を食べたかったんですが、飛行機に積む荷物の重量に規制もあり、米は2食分、2合しか持って行けませんでした。キャンプ道具など結構な荷物がありますからね。
この米をいつ炊いて食べるか。ずいぶんと考えましたね。結局、旅の3分の1と3分の2のタイミングで食べました。
1食目は、向こうで買った牛肉を焼いておかずにしました。2食目は、日本から持って行ったインスタントみそ汁とふりかけで。これが染みましたねぇ。ずっと現地の食事を続けた中、キャンプ地でご飯を炊いて食べる。インスタントみそ汁とふりかけしかなくても、心に染みて来たんです。
炊き方に一工夫
僕は、おかずにはこだわりがありません。ちょっとしょっぱい何かがあれば、それだけでご飯をおいしく食べることができます。
好きな米は、出身地・熊本の「くまさんの輝き」です。CMをやらせていただいているので宣伝臭くなっちゃいますが、本当においしいんです。フィンランドに持って行ったのもこれです。
家では、こんろを使ってダッチオーブンで炊いています。炊飯ジャーもあったんですけど、釜で炊くご飯の方が格段にうまいのでやめました。米を研ぐのは、ざーっと3回。炊く前によく水を吸わせるのが重要ですね。それに炊き上がり後はしっかり蒸らす。「赤子泣いてもふた取るな」といわれますけど、ふたを取らないとタイミングが分からず焦げてしまいますから、僕は取って確認します。
小さい頃、祖母の家に住んでいた時期があり、祖母は山から切って来たまきを使い、かまどでご飯を炊いていました。かまども祖母が作ったという話です。そういう家で育ったので、こんろで炊くことを楽しみに感じています。
おいしいご飯さえあれば幸せです。無人島に何か一つだけ持って行っていいというのなら、もちろん米を持って行きます。(聞き手=菊地武顕)
ヒロシ 1972年、熊本県生まれ。2000年代「ヒロシです」のネタで一世を風靡(ふうび)。近年は趣味のキャンプの様子などを伝える「ヒロシちゃんねる」を配信し、ユーチューバーとしても活躍する。「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」(BS朝日)レギュラー。近著に『働き方1・9 君も好きなことだけして生きていける』(講談社)。
2019年09月21日