黒沢年雄さん(俳優) “最後の晩餐”は おにぎり

黒沢年雄さん

 僕は昭和19(1944)年の生まれ。横浜ですから周りには田んぼや畑がなく、農家は一軒もないんです。しかも二つ違いずつ、弟が3人もいた。生活は大変だったはずですが、振り返ってみると僕はその状況を楽しんでいました。

 外で遊んで「おなかすいた」と帰ってくると、まきで炊いたご飯ができている。おこげがあってね。おふくろが握ってくれたおにぎりはうまかったなあ。塩を付けたり、しょうゆだったり、みそだったり。肉なんて食べたことがない。ごちそうといえばコロッケ。そういえば野菜もなかったような気がします。ネギだけはあったようだけど。
 

初めてのバナナ


 僕が病気をした時に、おふくろがバナナを買ってきて食べさせてくれました。栄養があるというので。当時のバナナといえば、1本100円の高級品です。世の中にこんなにうまいものがあるのかと思いました。

 ある日、今度はおふくろが病気になって寝込んだんです。僕は小学校低学年。どうしようかと考えた時に思いついたのが、2羽の鶏。卵を産むと思って夜店でひよこを買ったのに、大きくなっても産まなかった。売っているのは雄だけだなんて知らなかったんです。コッコと呼んでかわいがっていましたけど、商店街の肉屋さんに持って行きました。

 2羽で220円で売れたのでバナナを2本買い、病床のおふくろに渡しました。「どうしたの?」「コッコを売って来た」と。おふくろは喜んで、泣いて僕のことを抱き締めましたね。

 当時は悪い誘惑もいっぱいありました。薬局でヒロポンが普通に売られてました。ちょっと年上の兄さんたちはみんなやってましたよ。「年ちゃんもやらない?」と誘われたけど、いつも断った。おふくろのことを思ったら、そんなことはできませんでした。

 なんとかおふくろを幸せにしたいと思って、プロ野球選手を目指したんですけど駄目で。幸い、後に俳優として成功はできましたけど、その前、僕が16歳の時におふくろは亡くなりました。
 

家事はきちんと


 おふくろのように家事をしっかりやった上、愛情を持って子どもを育てる。それが大事だと思うから、僕は結婚前に女房に言いました。「女はミシン、セーター編み、縫い物ができないと駄目。魚を下ろし、おしんこを漬けられなければ駄目。それができる人としか結婚しない」と。彼女はモデルですが、僕はきちんと家事をすることを求めました。

 女性を蔑視しているわけではありません。逆に僕は男として、女房に金の心配はさせないし、決して暴力は振るわない。何かあったら命懸けで彼女を守ります。

 徹底的に話し合い、お互いに納得の上で結婚し、2人で子どもに愛情を注ぎました。

 僕は25年ほど前にガンの手術を受けました。75歳となった今は、その時とは生きることについての考えが変わってきました。80歳を過ぎたらもう大きな手術はしないと決めています。そのまま静かに去っていきたいんです。これはあくまで僕の生き方、ポリシーで、他の人が選ぶ道についてどうこう言うつもりはありません。僕は既に生前葬も済ませ、位牌(いはい)も寺に置いてもらっています。

 最後の晩餐(ばんさん)ですか?おにぎりですよ。塩、しょうゆ、みそ。どれがいいか悩みますね。うーん、小さいのを3個食べたいです。(聞き手・写真=菊地武顕)

 くろさわ・としお 1944年、神奈川県生まれ。高校を中退し、キャバレーのボーイ、車のセールスマンなどを経て、64年に東宝のオーディションに合格。数々の映画、ドラマに出演する他、大ヒット曲「時には娼婦のように」(66年)など歌でも活躍。1月に発売した新曲「ゆかいなじいちゃん」で、全国を公演中。

おすすめ記事

食の履歴書の新着記事

検索

e農サーチ e農サーチとは