[新たな日常](中) 県外アルバイター雇用

温州ミカンを摘果する喜孝さん(右)と息子の壽毅さん。傾斜のきつい園地が「おいしいミカン」を育ててきた(愛媛県八幡浜市で)

重なるバブル崩壊後


 海にそのまま落ち込む山の斜面に、温州ミカンの畑が広がる愛媛県八幡浜市真穴地区。親子3代のミカン農家、松浦有毅さん(80)、喜孝さん(51)、壽毅さん(23)が、8月半ばの強烈な西日を受けながら、直径5センチほどの緑色の実を摘んでいた。秋の収穫に向け実を育てるためだ。

 県最大の温州ミカン産地は今年、収穫や選果を支える県外からのアルバイター約400人にPCR検査を行った上で農家が直接雇用する。この前例のない取り組みは、全国からの出荷要請に応えるための選択だった。

 八幡浜でアルバイターの受け入れが始まったのはバブル経済崩壊直後の27年前だった。都市を中心に「就職氷河期」が深刻化した時代だ。産地や地域の未来、都市と地方の関係を考え、若者を雇い入れようと動いたのが有毅さんだった。

 温州ミカンは全国の生産量が360万トンとピークを迎えた1970年代以降、生産量や価格が乱高下し、農家の所得が不安定になった。そこに追い打ちを掛けたのがガット(関税貿易一般協定)・ウルグアイラウンドだった。92年にオレンジ果汁の輸入が自由化され、農家の経営を下支えしていた果汁原料の価格が暴落。果実の価格低迷も続き、農家の廃業が起きた。

 地方から都市へ若者が流れ、農村は高齢化が進み、寂れた。八幡浜も例外ではなく、有毅さんの下で働いてもらっていた繁忙期が異なる近隣町の農家も、高齢で手伝いに来られなくなった。

 都市に住む若者も働き口を失っており、「現代のコロナ禍と同じようだった」と有毅さんは言う。有毅さんが当時、そんな若者に八幡浜で働いてもらおうと大阪や東京で面接を重ねたのは、自分が病に倒れたことで高校卒業と同時に家業に入った喜孝さんのため「地域の未来をより良くしなければ」と思ったからだった。
 

産地ノウハウ共有を

 

JA支所に張り出された「100年の歩み」。江戸時代からの歴史が手書きでつづられている(愛媛県八幡浜市で)
 しかし、地域では当初、県外からアルバイターを受け入れることに反対する人も少なくなかった。雇われた人たちが無職だったことで冷たい視線を浴びることもあった。有毅さんは「産地を成長させてゆくには働き手がたくさん必要になる」と説得し続ける一方、不真面目なアルバイターには厳しく相対した。

 有毅さんの姿勢と高齢化が進む現実が、一人また一人とアルバイターを受け入れる農家を増やし、八幡浜は産地として成長した。有毅さん一家の栽培面積も4ヘクタールと、八幡浜の平均面積より3倍近く広がった。離農や死亡する農家の園地を引き継ぐなどしたためだが、他の農家も同様に面積を広げ、昨年は真穴地区だけで過去最多の92戸が239人を受け入れた。アルバイターは産地を支える要になっていた。

 コロナ禍はそんな産地に新たな試練を与え、産地はPCR検査という前例のない取り組みで応じた。有毅さんが言った。「アルバイターとの交流が続いてほっとした。でも、うれしかったのは、都市と地方との共生関係が守られたことかな」

 PCR検査の重要性を八幡浜市に提案したJAにしうわの農業振興部主任、河野晃範さん(39)は、都市で職を失った若者が地方の産地へ働きに来る流れが続くとみる。「八幡浜の取り組みが全国に広がれば、都市と地方が安心して手を携えられる」と「ウィズコロナ時代」の新しい産地の在り方を提案し、「感染を防ぐ農家を支える私たちのノウハウを他の地域とも共有したい」と語る。

 就職氷河期のただ中だった四半世紀前、アルバイターとして有毅さんの畑で働いた関東在住の女性から、毎年のように「温州ミカンが欲しい」と便りが届く。昨年は「変わりなくお過ごしですか。子どもが大きくなりました」と記されていた。

 地域と家族への思いから懸命に働いた有毅さん。一時は病気で倒れたとは思えないほど元気で、喜孝さんは「だまされた」と笑う。そんな祖父と父を見て育った壽毅さんは「これからの農業には企業経営が必要」と大阪の大学で経営学を学び、八幡浜へ戻ってきた。一家の歩みが産地の未来を照らす。(丸草慶人)

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