菅政権の地方重視 美辞麗句では動かぬ 早稲田大学大学院教授 片山善博
2021年01月25日

片山善博氏
菅義偉首相は就任時に、自分が「雪深い秋田の農家」の生まれであることを強調した。それもあったのか、マスコミも世間も、今度の首相は農村出身だから地方を重視する、農業にもこれまで以上に力を入れると予想したり、期待したりした。
その予想や期待が当たっているかどうかを判定するリトマス試験紙ともいえる貴重な機会が、先の通常国会における首相の施政方針演説だった。かく言う筆者は岡山の兼業農家の生まれである。雪こそ降らないがイノシシなどの有害鳥獣に悩まされる地域だ。また、農業を主要産業とする鳥取県で知事を務めたこともあるので、地方や農業に対する首相の姿勢はどんなものかと、興味と関心を持って施政方針演説を聞いた。
残念ながら、演説を聞く限り、先の予測や期待は外れという他ない。まず農業についての言及は、分量がとても少ない上に、内容が至って貧弱である。触れていることのほとんどは農産品の輸出に関することだ。
このところ農産品の輸出額が増えている。これをさらに伸ばして2030年には5兆円の目標を達成させたい。そのため牛肉やイチゴなどの重点品目を選定し、産地を支援するという。農業政策についての具体的な内容はほぼこれに尽きる。
確かに農産品の輸出は重要なことである。筆者も鳥取県知事時代に梨「二十世紀」などの輸出促進と販路拡大に取り組んだ。その経験を通じて、農産品の輸出が日本の農業の一つの可能性を開くものであることは理解している。
ただ、わが国の農業の現実は、農産品輸出の明るい話題で語り尽くされるほど単純でもなければ容易でもない。それぐらいのことは農業や農村のことを真剣に考えている人には分かり切ったことである。
また、農業についての最後のくだりで「美しく豊かな農山漁村を守ります」と述べていた。もとよりそれに異存はない。肝心なことは、ではそれをどうやって実現するのかということなのだが、その説明がないのは単に美辞麗句を添えただけとしか思えない。一体どれほどの人がこの言葉に共感を覚えただろうか。
地方に関しては、観光立国の一環として登場するぐらいの小さな扱いでしかない。それ以外には、テレワークの環境を整えることによって、地方への人の流れを生み出す。地方への移住を希望する人には支援するなど、個別断片的な施策の紹介はあるものの、視野の広い地方政策は見当たらない。
菅政権は安倍政権を引き継いだという。ただ、それにしては前政権から始まった地方創生について一言も触れられていないことが気に掛かる。以上、どうやら施政方針演説の内容と「雪深い秋田の農家」の生まれとの間にはほとんど関係がなさそうだというのが筆者の見立てである。
かたやま・よしひろ 1951年岡山市生まれ。東京大学法学部卒、自治省に入省し、固定資産税課長などを経て鳥取県知事、総務大臣を歴任。慶応義塾大学教授を経て2017年4月から現職。著書『知事の真贋』(文春新書)。
内容乏しい演説
その予想や期待が当たっているかどうかを判定するリトマス試験紙ともいえる貴重な機会が、先の通常国会における首相の施政方針演説だった。かく言う筆者は岡山の兼業農家の生まれである。雪こそ降らないがイノシシなどの有害鳥獣に悩まされる地域だ。また、農業を主要産業とする鳥取県で知事を務めたこともあるので、地方や農業に対する首相の姿勢はどんなものかと、興味と関心を持って施政方針演説を聞いた。
残念ながら、演説を聞く限り、先の予測や期待は外れという他ない。まず農業についての言及は、分量がとても少ない上に、内容が至って貧弱である。触れていることのほとんどは農産品の輸出に関することだ。
輸出拡大一辺倒
このところ農産品の輸出額が増えている。これをさらに伸ばして2030年には5兆円の目標を達成させたい。そのため牛肉やイチゴなどの重点品目を選定し、産地を支援するという。農業政策についての具体的な内容はほぼこれに尽きる。
確かに農産品の輸出は重要なことである。筆者も鳥取県知事時代に梨「二十世紀」などの輸出促進と販路拡大に取り組んだ。その経験を通じて、農産品の輸出が日本の農業の一つの可能性を開くものであることは理解している。
ただ、わが国の農業の現実は、農産品輸出の明るい話題で語り尽くされるほど単純でもなければ容易でもない。それぐらいのことは農業や農村のことを真剣に考えている人には分かり切ったことである。
また、農業についての最後のくだりで「美しく豊かな農山漁村を守ります」と述べていた。もとよりそれに異存はない。肝心なことは、ではそれをどうやって実現するのかということなのだが、その説明がないのは単に美辞麗句を添えただけとしか思えない。一体どれほどの人がこの言葉に共感を覚えただろうか。
地方に関しては、観光立国の一環として登場するぐらいの小さな扱いでしかない。それ以外には、テレワークの環境を整えることによって、地方への人の流れを生み出す。地方への移住を希望する人には支援するなど、個別断片的な施策の紹介はあるものの、視野の広い地方政策は見当たらない。
菅政権は安倍政権を引き継いだという。ただ、それにしては前政権から始まった地方創生について一言も触れられていないことが気に掛かる。以上、どうやら施政方針演説の内容と「雪深い秋田の農家」の生まれとの間にはほとんど関係がなさそうだというのが筆者の見立てである。
かたやま・よしひろ 1951年岡山市生まれ。東京大学法学部卒、自治省に入省し、固定資産税課長などを経て鳥取県知事、総務大臣を歴任。慶応義塾大学教授を経て2017年4月から現職。著書『知事の真贋』(文春新書)。
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100歳プロジェクト 支え合う地域づくりを
JA全中は、健康寿命100歳プロジェクトの一層の推進に向けて報告書をまとめた。健康を軸に、組合員・地域住民・JAのつながりを深める。誰もが住み慣れた場所で、できるだけ長く、生き生きと暮らせる地域づくりに生かしたい。JAの組織基盤強化にも結び付けよう。
プロジェクトは、2020年度で開始から10年。健康寿命を伸ばすため「健診・介護」「運動」「食事」を3本柱に、JA介護予防運動やウオーキング、乳和食などさまざまなメニューを提供してきた。今回、内容を改善し、地域活性化に貢献する具体策を検討、報告書をまとめた。
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10年間を振り返ると、①取り組みにJA間、県間の格差がある②活動が助けあい組織や女性組織、担当部署にとどまっている③行政との連携が不足している――といった課題も見えてきた。健康を軸に地域づくりを進めるには、事業や部署の枠を超え、JAが一丸となる必要がある。
報告書では、農を軸とした健康に結び付く取り組み(アグリ・サイズ)を新たなメニューとして開発、農作業の準備運動、整理運動やフレイル(虚弱)対策となる料理レシピ紹介などを提案する。いずれも共済連や厚生連などの事業連との連携が期待できる。
団塊ジュニア世代が65歳以上となり、高齢化が加速する「2040年問題」も見据える。国の推計では、40年時点で65歳の人のうち、男性は4割が90歳まで、女性は2割が100歳まで生きるとされ、“人生100年時代”が視野に入る。一方で、少子化などで現役世代は急減する。
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組合員・住民の健康を守り、誰もが安心して長く暮らせる地域づくりはJAの役割である。行政などと連携し、推進しよう。
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2021年04月10日

地域と移住者を橋渡し 各地で協力隊“卒業生”の組織設立
元・地域おこし協力隊員の組織化の動きが、各地で広がっている。地方への移住希望者と受け入れ側とのミスマッチ予防に活躍する。元隊員は、隊員の募集要項の見直しを助言し初の採用に貢献、また経験を生かして移住希望者の不安に寄り添うなどの活動を展開。政府が2024年度までに隊員数を8000人にする目標を掲げる中、“先輩移住者”として隊員の受け入れや定着を後押ししている。(丸草慶人)
「隊員」初採用導く 募集要項の見直しも
総務省によると元隊員らの組織数は、15年度の1団体から、20年度末までに19団体に増えている。隊員数が増える中、身近な相談窓口として同省は19年度、組織化を後押しする事業をスタート。都道府県単位の組織を設ける場合、150万円を上限に助成する。20年度までに10団体を採択。21年度も事業は継続する。
「自治体は隊員にあれもこれも多くを求めがち。隊員はスーパーマンではない」。佐賀県地域おこし協力隊ネットワーク代表の門脇恵さん(35)はこう指摘する。佐賀県で19年11月、元隊員らが同ネットワークを設立した。20年度、4市町の募集要項や活動内容の見直しを手伝った。
門脇さんの助言で神埼市は、活動項目を7から1に絞り込んだ。「イベントの開催と誘致」に限定し、仕事内容をイメージしやすくした。このことで、隊員の募集開始から4年目で初の採用につなげることができた。同市初の隊員となった福岡県出身の吉富友梨奈さん(31)は「移住希望者にとって、活動内容の分かりやすさは重要。サポートが充実していて安心できた」と話す。
悩みに共感心ケア 相談窓口を担当
元隊員は、移住希望者の不安にしっかり寄り添えることも強みだ。19年度の移住者が1909人と過去最高を記録した愛媛県。移住相談窓口を「えひめ暮らしネットワーク」が担う。
ここでは8人の元隊員が松山市の事務所に常駐。移住希望者が現地を視察する場合、ネットワークの元隊員が現地隊員の同行を手配している。
元隊員の組織化によって、隊員や自治体の情報が集まりやすくなった。このことを生かし移住希望者に適した地域や活動内容を助言し、ミスマッチの防止を目指す。不定期で訪れる移住相談にも臨機に対応でき、着実な移住につなげている。代表の板垣義男さん(46)は「希望者の悩みに共感して、視察先のありのままを答えることができる」と胸を張る。
持続可能な地域社会総合研究所・藤山浩所長の話
地方回帰を進める上で、地域おこし協力隊は重要な存在だ。地域実態に合った活性化の戦略を練り上げるには、隊員としての経験と知見が頼りになる。元隊員らが組織化することで、ノウハウを共有して学び合える。地域の意見と移住者のやりたいことを調整して導くことができ、受け皿となることにも期待できる。
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2021年04月09日
野菜需給調整 補填引き上げ 平均価格の7割 農家負担は軽減
農水省は2021年度、主要野菜の緊急需給調整事業を大幅に見直した。市場価格が大幅に下落した場合、出荷調整に取り組む生産者への補填(ほてん)水準を市場平均価格の7割に引き上げた。国と折半で造成してきた資金の負担割合も2割に軽減。生産者に手厚い内容で活用しやすくし、野菜相場の安定につなげる。
事業はダイコン、ニンジン、キャベツ、レタス、ハクサイ、タマネギの6品目が対象。……
2021年04月08日
満蒙開拓と感染症 災禍の中教訓考えよう
国策で農業移民として旧満州(中国東北部)に送られ、多くの犠牲者を出した満蒙(まんもう)開拓団。テレビの取材を通し、ソ連侵攻後の避難先の大都市で18万人が飢えや寒さ、感染症で亡くなった事実に光が当たった。新型コロナウイルス禍の中、今につながる教訓を考えたい。
18万人は、満州最大の都市・奉天(現瀋陽)などの大都市で亡くなった。ソ連侵攻による満州での日本人死者は6万人で、その3倍に当たる。
日本農業新聞は、3月27日掲載の「都市で死者18万人なぜ 満蒙開拓団『見過ごされた事実』から迫る」で、番組を企画したディレクター矢島良彰さんの取材の内容や視点を紹介した。日本社会の今の問題につながると考えたからだ。番組は翌日、NHK―BS1「満州 難民感染都市」のタイトルで放送された。
記事掲載と番組放送の後に読者から声が寄せられた。その中から、今の問題との類似性への指摘に着目したい。
番組では、国に見放され命からがら避難した開拓団員が「避難先の奉天でぜいたくをしている」とデマを流された事実を紹介した。東日本大震災の被災地支援を続ける人は「真っ先に思い出したのは、東京電力福島第1原子力発電所の事故で避難した人が『賠償金でぜいたくをしている』と誹謗(ひぼう)中傷された事実。お互い犠牲者なのに差別が起きてしまう構図がまったく同じだ」とみる。
難民収容所で発疹チフス、ペスト、コレラといった感染症が拡大、都市居留民は避難民を差別し、避難民には不信が募った。それが助け合いを阻む「見えない壁」となり、結果、居留民も感染者になった。新型コロナの感染者や医療従事者への差別と重なる。
こうした事実を矢島さんが知ったきっかけは、奉天で日本人居留民会が発行した難民救済事業要覧。大量死の直接の要因を「資金難による3カ月の救済遅れ」と記す。
「国民の命を守る」という責務を国が放棄した後、取り残され、苦難を強いられた人々。今に目を移せば、コロナ禍の中での解雇・雇い止めの拡大、貧困の深刻化、自殺者の増加……。国は責務を十分果たしていると言えるのか。国民は注視し、問題があれば声を上げなければならない。
矢島さんは日中両国の20人ほどから証言を得た。そこから、厳しい暮らしの中で現地の人が、日本人が帰国できるよう寄付を集めたり、孤児を育てたりするなど国を超えた助け合いの事実も分かった。
「さまざまな立場の人の話を突き合わせ、悲劇性だけに目を奪われないように」と矢島さん。今起こっていることを一人一人が冷静に、多角的に見る目を養おう。それが、助け合える社会につながる。
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2021年04月11日

和子牛せり 名簿にゲノム育種価 能力判断の新指標 群馬・渋川市場
和牛子牛を取引する群馬県の渋川家畜市場で9日、せり名簿への「ゲノミック育種価」の表記が始まった。血統や体格などに加え、子牛の能力を判断する新たな指標として提示し、評価向上や取引の活性化につなげる。分析を担う家畜改良事業団によると、ゲノミック育種価をせり名簿に記載するのは全国初の試み。(斯波希)
ゲノミック育種価は、和牛の能力をゲノム(遺伝子)の違いで評価する。
2021年04月10日
論点の新着記事

10年の教訓 被災の痛み自分事に ノンフィクション作家 島村菜津
東日本大震災と福島第1原子力発電所事故から10年が過ぎた。昨年の秋、久しぶりに三陸海岸を訪れた。途中、海岸線沿いの物々しい防潮堤工事を目の当たりにし、復興などまだまだ遠いことを実感した。
浜支えるワカメ
案内してくれたのは、「浜とまちをつなぐ十三浜わかめクラブ」(2020年発足)の代表、小山厚子さんだ。震災直後、宮城県十三浜の物資支援に始まり、13年からは新物ワカメや昆布を直接購入し、浜の暮らしを支えてきた。雑誌「婦人之友」の読者から成る「友の会」約180団体が賛同。小山さんによれば、「友の会」の女性たちの家計簿には公共費の欄があり、いざというときに出せるよう普段からストックしている。だから10年たって他の多くの支援が途絶える中でも自分たちは続けられるという。
いざというときの社会活動のために日々、ためておく。それが体にも心にも効くワカメに化ける。こんな良い話はない。
十三浜は、宮城県北上町に点在する13の集落だ。その一つ大室の漁師・佐藤徳義さんは津波で船も家も流された。2~4月に刈り取ったワカメは、すぐ浜で湯通しして、一度、冷やして濃い塩水に漬け込む。葉と硬い中芯を分ける芯抜きも根気と経験が要る。丁寧なものづくりだ。
「塩蔵ワカメの自給率は25%ほど。それをしっかり伝えてほしい」と徳義さんはいう。外食産業や加工業者の多くが安い輸入品を選ぶため、漁師たちは買いたたかれ、苦戦しているのだ。
再建した住宅で1人暮らしをする元漁師の佐藤清吾さんは、震災直後、宮城県漁協十三浜支所の運営委員長としてワカメ養殖による復興の指揮を執った人だ。「北上山系から真水が注ぎ、沖で親潮と黒潮が交わる。このリアスの浜で育つワカメは肉厚で格別においしい。出荷まで3年のホヤやホタテと違い、ワカメは短期で収益になる。迷いはありませんでした」
変わらない行政
漁師を励まし、復興に尽力した清吾さんは、本家に避難した妻と孫、兄たちを津波で失った。その清吾さんが、かつて万里の長城とまでいわれ、1200億円を投じた岩手県の田老地区の防潮堤が跡形もなく破壊されたのだという。もう一度、同じ過ちを繰り返す行政への憤りを静かに語る。
一方で、この20年で漁師は25万人から18万人、農家も260万人から168万人に減少した。
震災から10年、農山漁村に日々の食卓やエネルギーを託している大都市の私たちは、果たしてその声に本気で耳を傾けたのだろうか。災害はどこにでも起こる。彼らの痛みを自分事として受け止めることができたのだろうか。
しまむら・なつ 1963年福岡県生まれ。東京芸術大学卒。ノンフィクション作家、イタリアのスローフード運動を日本に紹介した先駆者。「スローフードな人生」「スローな未来へ」など著書多数。
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2021年04月05日

脱はんこに見る本質 霞が関に改革一里塚 ノンフィクション作家 大下英治
2020年9月16日、菅義偉内閣が発足した。組閣の前日、河野太郎の携帯電話が鳴った。菅首相からの着信だ。
「規制改革をやってくれ。一丁目一番地だから、しっかり頼むぞ」
菅首相のせっかちな性格は河野もよく心得ている。
「とにかく、スピード感を持ってやれ」
河野太郎は行政改革担当大臣、国家公務員制度担当大臣として入閣した。
12月の記者会見で、河野は自身の働きぶりについて胸を張った。
「100点満点で、100点です」
「脱はんこ」に象徴されるデジタル化、行政改革にひた走った3カ月だった。
“1・5万件”にメス
1万4992。これまで行政手続きではんこを必要とした事例の数だ。河野はここにもメスを入れた。まず決めたのは「認印は認めない」という原則だ。専門店だけでなく、文具店や100円ショップで三文判を買ってくれば、認印は誰にでも押せる。これでは認証の意味はない。「はんこがない」と、慌てて買いに走った経験は誰にでもあるだろう。
河野は思う。
〈何の意味もないことを延々続けてきたわけだ。ずいぶんと無駄を積み重ねてきたものだ。驚くしかないな〉
膨大なはんこが必要な環境を維持したままでオンライン化を進めることはできない。
「どうしても必要なものだけ、言ってこい」
河野が役所に命じた結果、なんとわずか83種類だけを残すことになった。1万4900以上はやめることになったのだ。
住民票の写しの請求や転入・転出届、婚姻届などから押印がなくなる。残るのは、登録した実印によるごく一部の手続きだけだ。
河野はファクスの見直しも求めている。これも書類のやり取りをできるだけ減らしたい考えからだ。
人事掌握の強み
官僚は権益を守り、前例踏襲主義を続ける中、複雑な手続きや押印を長年続けてきた。それが変わるかもしれないのは、各府省の幹部人事を握る菅首相の手法によるところが大きい。これまでも政府の政策に反対する官僚にはこう言い渡してきた。
「異動してもらう」
この点では河野も一致している。ネット放送に関する規制改革を巡っては文化庁の担当者にこう迫ったという話もある。
「やる気がないなら、担当部署を変える」
読売新聞が21年3月に実施した全国世論調査によると、「自民党の政治家の中で、次の首相には誰がふさわしいと思いますか」との質問で、1位は、河野太郎行政改革担当大臣だった…。
おおした・えいじ 1944年広島県生まれ。広島大学文学部卒業。週刊文春の記者を経て、作家として独立。政財官界から芸能、犯罪など幅広いジャンルで創作活動を続けている。近著に「内閣官房長官」「自民党幹事長 二階俊博伝」など。
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2021年03月29日

コロナと農業経営 際立つ小農の堅実さ 木之内農園会長 木之内均
1年半前には、新型コロナウイルスで世界中がこんなに振り回されると誰が予想できただろう。
農業の世界は自然相手のため、一般的な産業よりもリスクが多いことは日頃から意識しており、それなりのリスクヘッジはしているつもりであった。しかし、私はコロナで自らの農園もこんなにダメージを受けるとは予想もしていなかった。
考えてみれば、畜産の世界では鳥インフルエンザ、豚熱、口蹄疫(こうていえき)など、すぐ身近で起きていることであり、これが人で起きた時のことを考えていなかったのだと、改めて考えさせられた。
いち早く6次化
私の農園では6次産業化が騒がれるはるか前から農産加工や観光農園に着手していた。そのため、天候や農産物相場による経営の不安定要因はかなり解決し、農業法人としても安定した状況になっていた。5年前の熊本地震の時も多くのボランティアの方々や行政支援のおかげでなんとか立て直し、さらなる創造的再建の道に乗ったばかりだった。
農業は、人にとって最も重要な社会の基盤産業のため、大もうけもできない代わりにつぶれにくい特徴がある。しかし、世の中がお金中心になり、生活もゆとりが出てきた現代、単なる食料生産では利益率が低く、規模拡大や後継者が確保できる持続可能な夢のある経営に発展しにくいため、多くの篤農家や農業法人が6次化を目指してきた。加工を伴った供給の安定化や通年での計画出荷による収入の平準化、流通の工夫による高級ブランド化や利益率の向上など、6次化で得られるメリットも多い。
規模拡大に伴い、外国人実習生に頼ってきた雇用も各地で影響が出ているようだ。私の農園も6次化にはいち早く取り組んで法人化につなげ、規模拡大してきたことで安定させてきた。
多角経営に逆風
ただ、今回ばかりはこのことが裏目に出た。観光農園は緊急事態宣言により直接影響を受けたと同時に、近年インバウンド(訪日外国人)の獲得を中心に営業戦略を組んでいたことが全く止まってしまったのだ。
加えて、地域から指定管理で直売所やレストラン経営を担い、観光農園との連携を模索することで地震後のV字回復を狙った経営戦略はまともに裏目となり、指定管理も諦めざるを得ない状況となり、地域に多大な迷惑をかけてしまった。
このような状況の中、周りを眺めると本来の農業としての生産に軸足を置き、着実に進めてきた経営体か、むしろ家族経営の影響が少なく力強く生き残っているように見える。
6次化や大規模化は担い手不足と高齢化に悩む日本農業としては決して間違った方向ではないと感じるが、中山間地のような条件不利地域で小規模でも必死に努力を続ける家族経営も、この変化の速い想定外のことが連発する時代の中では重要であると改めて考えさせられた気がする。
きのうち・ひとし 1961年神奈川県生まれ。九州東海大学農学部卒業後、熊本・阿蘇で新規参入。(有)木之内農園、(株)花の海の経営の傍ら、東海大学教授、熊本県教育委員を務め若手育成に力を入れる。著書に「大地への夢」。
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2021年03月22日

コロナで揺れる五輪 日本の構造再点検を 思想家・武道家 内田樹
先日、日米欧6カ国を対象に行われた世論調査で、東京五輪開催に反対する回答が日英独3カ国で過半数を占めた。日本では「反対」が56%、6カ国中最多だった。米国だけが賛否とも33%で意見が割れたが、それ以外の5カ国では開催反対が賛成を上回った。開催の可否はワクチン接種の進展次第であるが、日本でのワクチン接種の遅れぶりを見る限り、国際世論が「五輪中止」を選択するのはもう時間の問題である。
相次ぐトラブル
東京五輪はそれにしてもトラブルがあまりに多かった。猪瀬直樹都知事(肩書は当時)のイスラム差別発言、安倍晋三首相の「アンダーコントロール」発言、ザハ・ハディド氏設計の競技場計画のキャンセル、国際オリンピック委員会(IOC)委員買収疑惑、シンガポールのダミー会社への送金、フランス司法当局の取り調べを受けての日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長退任、そして森喜朗会長の性差別発言による辞任……。一つのスポーツイベントでこれほど大量の失敗や不祥事が発生した事例を私は過去に知らない。たまたま不運が続いたのだろうか。
私は違うと思う。これは構造的なものだ。日本のあらゆるシステムが「制度疲労」を起こして、そこかしこで崩れ始めているのだ。
わずか30年で…
少し前まで、日本はこんな無能な国ではなかった。イベント一つでこれほどのへまをやらかすような国ではなかった。1989年、日本経済がその絶頂にあった時、1人当たり国内総生産(GDP)は世界2位、株式時価総額で世界のトップ50社のうち32社が日本企業だった。その年、三菱地所がマンハッタンの摩天楼を買い、ソニーがコロンビア映画を買った。90年の映画「ゴースト」で主人公の銀行員の喫緊の課題はビジネスに必須の日本語の習得であった。今、日本の1人当たりGDPは世界25位、世界トップ50社に名前が残っているのは1社だけである。日本語を必死で勉強している金融マンをニューヨークで見つけることは困難だろう。
わずか30年間で日本がここまで没落したことに世界はずいぶん驚いていると思う。内戦があったわけでもないし、テロが頻発したわけでもないし、恐慌に襲われたわけでもない。確かに「バブル崩壊」と2度の震災は日本社会に深い傷を残したが、それでも2010年に中国にその地位を譲るまで日本は42年間にわたって米国に次ぐ「世界第2位の経済大国」だったのである。その間に「蓄積」したはずのさまざまな知恵と技術はいったいどこへ行ってしまったのか。
日本の没落が止まらないのは「没落している」という事実を多くの国民が直視しようとしないからである。具合が悪いのに「絶好調」だと言い張っていれば、治る病気も治らない。今は五輪中止を奇貨として日本のシステムを土台から再点検する時である。
うちだ・たつる 1950年東京生まれ。思想家・武道家。神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。専門はフランス現代思想など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞。近著に『日本戦後史論』(共著)、『街場の戦争論』。
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2021年03月08日

穀物需給に異変 コロナで争奪戦 拍車 資源・食糧問題研究所代表 柴田明夫
新型コロナウイルスの感染拡大からはや1年たつが、いまだに終息の形は見えない。この間、コロナ禍は、底流にあった日本の医療体制の脆弱(ぜいじゃく)性を一気にあぶり出した。危惧するのは、食と農の分野でも同じことが起こりかねないということだ。
「ショック・ドクトリン」(惨事便乗型資本主義)という言葉がある。未曽有の危機を利用して、大規模な規制緩和や民営化導入を一気に進めようとする動きは、農業分野でも確認することができる。昨年3月に通常国会に提出され、折からのコロナ禍で継続審議となっていた種苗法改正法案が、12月に成立したことだ。多国籍アグリバイオ企業の市場参入を促し、彼らが開発した種子の権利をさらに強化する狙いがあるようだ。
供給潤沢でも・・・
コロナ禍によって国内の食と農への不安が高まる中、国際穀物価格は年明け以降、一段と騰勢を強めている。シカゴ穀物価格は、2月末時点で大豆が1ブッシェル=14ドルを突破した。小麦も6ドル台後半、トウモロコシ5ドル台半ばと、いずれも約7年半ぶりの高値水準にある。
米農務省(USDA)が2月9日に発表した需給報告によれば、2020/21年度(20年後半~21年前半)の世界穀物生産量は27億トンを超え、5年連続史上最高を更新する。期末在庫も4年連続で8億トンを超える。世界の穀物供給は潤沢だ。にもかかわらず、価格が高騰する例は過去にない。
中国の「爆買い」
主な理由は中国の「爆買い」だ。旺盛な穀物輸入には構造的な背景が横たわっている。連動して米国の穀物在庫が急減しており、穀物価格の高騰は長期化する公算が大きい。
USDAによると、20/21年度の米国産大豆、トウモロコシの輸出量は各6124万トン、6600万トンで、前年度比各33・7%、46・2%増える見通しで、増えた分の大半は中国向けだ。これに伴い、大豆の期末在庫率は昨年の13・3%から過去最低の2・6%となり、夏場には底を突く恐れが出てきた。
主要国でいち早く経済を回復させた中国は、実需が急回復する中、一昨年夏に発症したASF(アフリカ豚熱)の教訓もあり、大規模な経営管理の下で行う企業養豚への転換を進めている。
企業養豚は、配合飼料の原料である良質かつ大量の大豆ミールを安定的に供給する。こうしたことから中国の大豆輸入量は1億トンに達している。また、これまで自給政策で毎年500万トン前後に抑えられてきたトウモロコシ輸入も昨年から急増。今年度の予想輸入量は2400万トンと、メキシコ、日本を抜き世界最大のトウモロコシ輸入国となる見込みだ。
今年、共産党創設100周年を迎える中国は、食料安全保障の面から将来の食料危機に備えて農政転換を進め、食料の国内増産にとどまらず、輸入拡大にかじを切っている。USDAは、米国の大豆およびトウモロコシの中国向け輸出拡大は今後も継続し、期末在庫も歴史的低水準からの積み増しが困難であるとの見方を示している。
日本の農政は、生産基盤を縮小する一方で国内向けから輸出向けへの生産シフトを進めようとしている。この点で中国とは対照的だ。
しばた・あきお 1951年栃木県生まれ。東京大学農学部卒業後、丸紅に入社。丸紅経済研究所の所長、代表などを歴任。2011年10月、資源・食糧問題研究所を開設し、代表に就任。著書に『食糧争奪』『食糧危機が日本を襲う!』など。
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2021年03月01日

農業・農村政策の新基調 人材育成の具体策を 明治大学農学部教授 小田切徳美
第2期地方創生が昨年4月からスタートした。筆者の理解では、新対策には「人口から人材へ」というシフトがある。地方創生の契機になったのが、増田寛也氏らによる「地方消滅論」だったため、第1期対策では人口減少に歯止めをかけることが、特に強調された。
しかし、地方創生の正式な名称である「まち・ひと・しごと創生」の「ひと」は「人材」を指しており、根拠法である地方創生法にはそのことが明記されている。ある程度の人口減少は進むものとして、それにもかかわらず地域の持続的発展を支えるような人材を社会全体でじっくりとつくり出していくことが、本来の地方創生の趣旨であろう。地域の消滅危機をあおり、短兵急な対応を現場にも自治体にも求めた地方創生は変わりつつある。
高校教育に期待
そこには、二つの象徴的な対象がある。一つは関係人口の創造である。人口に着目した場合、移住者数ばかりに目を奪われるが、特定の地域への関心と関与を持つ人々の全体像を見れば、より多数の多様な人々の存在が見えてくる。これは、地域の担い手を幅広く捉えようとする発想から生まれたものであろう。
もう一つは、「ふるさと教育」をはじめとする高校魅力化の推進である。小・中学校では、地域学習が進んでいるが、高校時代にはリセットされ、地域に無関心になりがちである。しかし、高校でも「ふるさと教育」が行われれば、例えば農業を含めた地域産業の状況とさまざまな可能性が視野に入り、挑戦できる具体的課題が高校生にも認識できる。さらに、卒業後、一度は大都市部に出たとしても、Uターンしたい時に、どこに相談すれば良いのか分かるという効果もある。従来は、そこに足掛かりさえなく、Uターンを呼び掛けても無理があった。このように高校魅力化は、人材の成長プロセスを意識した取り組みと言える。中央教育審議会は、高校の普通科に地域探求学科(仮称)の設置を提言しており、その実現も近い。
新基本計画にも
本欄において、あえてこのことを指摘したのは、昨年策定された食料・農業・農村基本計画にも、同様の傾向が埋め込まれているからである。それは、形式にも現れている。今回の計画では、「人材」という用語が57回登場しているが(目次を除く)、前回(2015年)の26回から倍増している。他方で、「担い手」という用語は、57回から33回に減少し、この二つの言葉の登場頻度は、新計画では逆転している。また、計画内で「人材」は、「育成」「確保」「裾野の拡大」「多様な」という言葉とセットで使われていることが多い。もちろん、「担い手」を「人材」に置き換えただけで、政策の前進があるわけではない。求められているのは人材育成の具体的施策であり、その点を注視したい。
このように、人口減少下では、できるだけ幅広く人材を捉え、その丁寧で具体的な形成プロセスを重視すべきである。そんな発想が地方創生と農政の双方において進行している。それは日本社会全体にも求められていることでもあろう。
おだぎり・とくみ 1959年生まれ。博士(農学)、東京大学農学部助教授などを経て、2006年から現職。現在、大学院農学研究科長。専門は農政学、農村政策論。日本地域政策学会会長。『農山村は消滅しない』『農村政策の変貌』(近刊)など著書多数。
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2021年02月22日

協同へのまなざし 地域連携鍵握るJA 摂南大学農学部教授 北川太一
今から20年以上前のことであるが、当時、西日本の農山村地域で広がりつつあった「集落型農業法人」に関する調査を行ったことがある。
それは、集落農場型生産法人など地域によってさまざまな名称で呼ばれていたが、1集落もしくは複数集落を範囲として、集落営農やむらづくりの活動が基盤となって、地域に住む人たちの合意によって設立された法人であり、構成メンバーの多くが、出資や運営に関与し法人が行う事業に従事するものであった。
住民主体が基礎
事業の内容は、地域が抱える課題解決を目指しながら、法人ごとにさまざまな活動が展開されていた。農地の利用調整や農機の共同利用など、通常の集落営農組織が取り組む活動にとどまらず、農産物の加工・販売、住民向けの生活支援や福祉、資源や環境の保全、都市住民との交流、日用生活品の販売(小店舗の運営)などである。
2007年産から国によって開始された品目横断的経営安定対策(後に、経営所得安定対策)を契機として、「担い手」の要件を満たすための集落営農組織の設立とその法人化が急ピッチで進められた。
しかし、集落型農業法人は、その多くが、国の政策が始まる前に設立されたものであり、政策対応型の集落営農組織とは内容がやや異なる。自治体や団体などの支援を受けながらも、その大部分が地域農業の維持、農地の保全、さらには地域における暮らしの防衛や都市との交流を目指したむらづくりなど、住民による自律的な動きがベースにあった。
労協新法と合致
さて、昨年12月に労働者協同組合法が成立した。本紙(20年12月5日付「論説」など)でも解説されているように、労働者協同組合は、「組合員が出資し、それぞれの意見を反映して組合の事業が行われ、及び組合員自らが事業に従事することを基本原理とする組織」(第1条)と規定されている。働く仲間たち自らが出資し、意見を述べ合いながら運営し、自らの事業に従事する。まさに、集落型農業法人の特徴とほぼ合致する。また、労働者協同組合法では、届け出制で比較的容易に組合をつくることができるとともに、組合と組合員とが労働契約を締結することで労働法規が順守される。
協同組合であるJAは、組合員の利益増進を目的とした経済組織である。と同時に、地域に開かれた存在でなければならない。事業の効率化や、経営の合理化だけに力を注ぐだけでは、いずれ一般企業との差異はなくなってしまうであろう。
集落型農業法人に限らず、地域においては、さまざまな有形・無形の資源を活用する活動が存在している。そこでは、人と人とがつながる関係が重視されている。JAが、こうした地域の活動とそこに関与する人たちに向き合い、新しい協同の仕組みを創出するためにも、労働者協同組合に関心を持って、それを生かしていくことが重要である。
きたがわ・たいち 1959年、兵庫県生まれ。鳥取大学、京都府立大学、福井県立大学の勤務を経て、2020年4月より現職。福井県立大学名誉教授。放送大学客員教授を務める。主な著書に『新時代の地域協同組合』『協同組合の源流と未来』など。
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2021年02月08日

日米通商交渉 譲歩迫る遺産 次代も 経済評論家 内橋克人
米国第45代大統領・ドナルド・トランプ氏は去り、冬のホワイトハウスは新たなあるじを迎えた。安倍晋三前首相とは互いに「ドナルド」「シンゾー」と呼び合い、蜜月時代を演じた。その主役2人は今、急ぎ足で後景へと退く。「仮面の蜜月」は何を遺しただろうか。
すれ違う「認識」
「かくも長期間、アメリカをだまし続けることができたなんて信じられない。日本の政治家たちはそう言ってほくそ笑んでいるに違いない。だが、そんな日々はもう終わりだ」。トランプ氏は去っても、日本に発せられた「トランプ節」は、ブラフ(脅し)として今も記憶に生々しい。巨額の対日貿易赤字を糾弾した翌日、すなわち2018年3月23日に突如、トランプ政権は鉄鋼、アルミニウムの関税引き上げを発表した。
「蜜月」を真に受けていた日本政府と日本人は「狙いは中国。日本は適用除外」と思い込む。だが、期待は見事に裏切られた。除外されたのは欧州連合(EU)その他7カ国と地域に過ぎなかった。
トランプ氏が環太平洋連携協定(TPP)からの離脱を宣言して以降も日本は懸命に復帰を呼び掛け続けた。だが、日本の望みはあっけなくソデにされている。トランプ政権から投げ返されたのは「日米2国間の通商交渉」つまり、日米FTAという超速球の変化球だった。
FTAとは金融、投資、流通、サービスなどを含む包括的な自由貿易協定のことであり、筆者は「覇権型交易」と呼んできた。一方、日本政府は物品に限って関税引き下げを話し合う貿易協定(TAG)である、と説明していた。だが、TAGとは日本政府が国内向けにひねり出した「造語」であって、米国内はもとより世界に通用しない。
トランプ政権で米通商代表部(USTR)は精力的に公聴会を開いた。公聴会に出席した業界団体は44団体を超え、「全国牛乳生産者連盟」などは明確に「TPPを超える水準の市場開放」を日本に求めている。日本側の牛肉関税もテーマとなり、TPPでは現在の38・5%を最終的に9%にまで引き下げることになっている。日本政府は対米交渉でこの水準より低くしない、と表明してきたが、米側は納得しないのではないだろうか。
標的は日本農業
ホワイトハウスのあるじは代替わりしても、米政権は本命の農業分野で日本の譲歩をさらに引き出そうとするだろう。バイデン新政権の「対日通商交渉」戦略を甘く見ることはできない。
バイデン氏もまた、日米間に横たわる深い「認識格差」においてトランプ遺産、すなわち「現在地」から出発する。2国間交渉にこだわったトランプ前大統領が遺した「レガシー」が消えることはない。
「食料自給できない国を想像できるか。それは国際的圧力と危険にさらされている国だ」「食料を他国に依存するような国に真の独立国はない」。かつて父ブッシュ大統領の発した言葉をかみ締める時が来ている。
うちはし・かつと 1932年神戸市生まれ。新聞記者を経て経済評論家。日本放送協会・放送文化賞など受賞。2012年国際協同組合年全国実行委員会代表。『匠(たくみ)の時代』『共生の大地』『共生経済が始まる』など著書多数。
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2021年02月01日

菅政権の地方重視 美辞麗句では動かぬ 早稲田大学大学院教授 片山善博
菅義偉首相は就任時に、自分が「雪深い秋田の農家」の生まれであることを強調した。それもあったのか、マスコミも世間も、今度の首相は農村出身だから地方を重視する、農業にもこれまで以上に力を入れると予想したり、期待したりした。
内容乏しい演説
その予想や期待が当たっているかどうかを判定するリトマス試験紙ともいえる貴重な機会が、先の通常国会における首相の施政方針演説だった。かく言う筆者は岡山の兼業農家の生まれである。雪こそ降らないがイノシシなどの有害鳥獣に悩まされる地域だ。また、農業を主要産業とする鳥取県で知事を務めたこともあるので、地方や農業に対する首相の姿勢はどんなものかと、興味と関心を持って施政方針演説を聞いた。
残念ながら、演説を聞く限り、先の予測や期待は外れという他ない。まず農業についての言及は、分量がとても少ない上に、内容が至って貧弱である。触れていることのほとんどは農産品の輸出に関することだ。
輸出拡大一辺倒
このところ農産品の輸出額が増えている。これをさらに伸ばして2030年には5兆円の目標を達成させたい。そのため牛肉やイチゴなどの重点品目を選定し、産地を支援するという。農業政策についての具体的な内容はほぼこれに尽きる。
確かに農産品の輸出は重要なことである。筆者も鳥取県知事時代に梨「二十世紀」などの輸出促進と販路拡大に取り組んだ。その経験を通じて、農産品の輸出が日本の農業の一つの可能性を開くものであることは理解している。
ただ、わが国の農業の現実は、農産品輸出の明るい話題で語り尽くされるほど単純でもなければ容易でもない。それぐらいのことは農業や農村のことを真剣に考えている人には分かり切ったことである。
また、農業についての最後のくだりで「美しく豊かな農山漁村を守ります」と述べていた。もとよりそれに異存はない。肝心なことは、ではそれをどうやって実現するのかということなのだが、その説明がないのは単に美辞麗句を添えただけとしか思えない。一体どれほどの人がこの言葉に共感を覚えただろうか。
地方に関しては、観光立国の一環として登場するぐらいの小さな扱いでしかない。それ以外には、テレワークの環境を整えることによって、地方への人の流れを生み出す。地方への移住を希望する人には支援するなど、個別断片的な施策の紹介はあるものの、視野の広い地方政策は見当たらない。
菅政権は安倍政権を引き継いだという。ただ、それにしては前政権から始まった地方創生について一言も触れられていないことが気に掛かる。以上、どうやら施政方針演説の内容と「雪深い秋田の農家」の生まれとの間にはほとんど関係がなさそうだというのが筆者の見立てである。
かたやま・よしひろ 1951年岡山市生まれ。東京大学法学部卒、自治省に入省し、固定資産税課長などを経て鳥取県知事、総務大臣を歴任。慶応義塾大学教授を経て2017年4月から現職。著書『知事の真贋』(文春新書)。
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2021年01月25日

コロナ禍の表裏 恐れず好機見いだせ 日本総合研究所主席研究員 藻谷浩介
久しぶりに台風が上陸しなかった昨年。洪水や土砂崩れの被害は、8月以降は避けることができた。しかし、3シーズンぶりに雪が多いこの冬、今度は雪害が心配だ。
とはいえ、この降水量の多さこそ日本の緑と実りが世界の中でも特に豊かな理由でもある。例えば、豪州では、日本の20倍の面積に日本の5分の1の人口しか住んでいないが、慢性的に水が不足している。地下水を過剰にくみ上げて行われる同国の農業も、いつまで安価大量生産を続けられるか疑問だ。
過剰反応は禁物
このように、利点と弱点は表裏一体だ。引き続くコロナ禍に関しても、同じことが言える。前提として、このウイルスは根絶できないことを理解したい。
この冬、インフルエンザの感染者はほぼゼロだが、インフルエンザウイルスがこれで根絶されたりはしない。仮に新型コロナの感染が収束しても同じことだ。これまで見事に感染を抑えてきた国・地域、例えば台湾、インドシナ諸国、ニュージーランドなどでは、免疫ができていない分、油断すればいつでも感染爆発が起きかねない。それに対し、感染抑止に失敗した米欧の多くの国で、危機感の高さから副作用を辞さずワクチン接種が進めば、事態が先に好転する可能性もある。
前回(2020年6月)寄稿した「論点」で筆者は、いったん感染が収まっていたことを背景に「コロナ禍はパンデミックではなくインフォデミック(恐怖心の感染)だ」と書いた。その後2度にわたって感染の再拡大が起きているが、「東京の今日の感染者は〇〇人」とあおるテレビを見て、皆さんはどうお感じだろうか。多くの地方、特に農山漁村においては、生活の実態に特に変化はないままなのではないか。
日本における死者数は、前回寄稿時の4倍以上に増えたが、人口当たりの水準では米国の37分の1、欧州連合(EU)諸国の30分の1だ。絶対数でいえば、年間の交通事故死者数と同レベルで、19年のインフルエンザによる死者数(関連死含む)の半分弱、がんによる死亡者の100分の1強である。しかもその3分の2が首都圏と愛知県と京阪神の8都府県の在住者で、農山漁村のほとんどで死者は出ていない。
交通事故は極めて重大な問題で、一件でも減らす努力が必要だが、かといって通勤通学を禁止し経済を止めるべきではない。新型コロナの脅威にも、交通事故と同じレベルで用心し対処すべきだ。具体的にはマスクを外しての他人同士の会話・会食は当面避けるべきだが、怖がって家に閉じこもることもない。
人手不足解消へ
コロナの農業への影響で本当に深刻なのは、外国人技能実習制度の機能不全化だろう。であれば今年は、飲食店などで職を失った都会の若者を試用するチャンスではないだろうか。少子化は中韓台でも急速に進んでおり、農業の人手不足は今後とも深刻化する一方だ。
日本人の人件費を払える事業体に変化しなければ、どのみち生き残れない時代が来る。農協あるいは農業法人の協議体が、集団で取り組んではいかがだろう。
もたに・こうすけ 1964年山口県出身。米国コロンビア大学ビジネススクール留学。2012年から現職。平成大合併前の全市町村や海外90カ国を自費訪問し、地域振興や人口成熟問題を研究。近著に『進化する里山資本主義』など。
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2021年01月18日