なつぞら関連
2019年4月1日から9月28日まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」は、酪農が重要なモチーフです。ここでは、ドラマの展開に合わせて、北海道酪農や登場人物にまつわるエピソードを紹介します。

本紙インタビューNHK「なつぞら」 広瀬すずさん 農業「身近な存在に」
NHKの連続テレビ小説「なつぞら」が終盤を迎え、主人公の奥原なつを演じる広瀬すずさんが、日本農業新聞などのインタビューに応じた。物語の舞台の一つである、北海道・十勝地方での撮影を通じ「遠い存在だと思っていた農業が、すごく近い存在になった」と語った。
広瀬さんは、農業の印象について「ドラマのテーマには開拓精神がある。自分の道をつくるのは、すごいと感じる」と強調。今後の農業を担う農業高校生らに対し「農家は自分で開拓していき、体力的にも大変。でもその粘り強さが何歳になっても必要で、ときに自分を変えてくれるものだと思う。ぜひ続けてほしい」とエールを送った。
主人公のなつを演じる前と後での変化について「野菜を大きいまま、食べるのが好きになった」と、話す。食事をする時に「これも『ああやって取ったのか』と、自然と感じるようになった」と、語った。
「なつぞら」は、NHK連続テレビ小説100作目。物語前半は第2次世界大戦終戦後、北海道・十勝地方の酪農家に引き取られた主人公が、開拓精神を学び、農業高校の仲間とともに成長していく姿を描いた。
★農業高校生 応援プロジェクト『なつぞら』特設ページはこちら★
2019年09月19日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第21回(最終回) 「太田寛一の挑戦」(下)~危機を乗り越えブランド確立
欧州の乳業事情視察から帰国した太田寛一(士幌町農協組合長)は1966(昭和41)年、秘密裏に十勝8農協(士幌町、鹿追町、音更町、上士幌町、川西、幕別町、豊頃町、中札内村)に農民工場建設を呼びかけました。
欧州の乳製品工場は、多くを協同組合が運営し、酪農経営の安定に貢献していました。日本ではこの年、値段の安いバターや脱脂粉乳向けの生乳を価格補てんする不足払い制度がスタートしましたが、まだまだ酪農家は貧しく、北海道でさえ1戸あたり乳牛飼養頭数は数頭の規模。今日的な酪農専業経営にほど遠い状況でした。
太田は、欧州をモデルに、酪農家自らが乳業経営を行うことで、酪農経営の長期安定を図ろうと考えました。ところが、国や大手乳業は太田の考えに反対でした。雪印乳業、明治乳業、森永乳業の大手3社は十勝管内ですでに5工場を稼働させており、新たに農民工場が加われば3社の集乳地盤が侵されることになります。
当時、太田が構想した工場予定地の音更町では、乳業工場の建設は道知事に届け出るだけで可能でした。これは同町が「高度集約酪農地域」外だったからです。集約酪農地域に指定されると、国の濃密な支援が得られる一方、工場などの建設には知事の認可が必要になります。十勝管内では大樹、清水、浦幌の3町のみが集約酪農地域で、残る市町村は指定外でした。この「集約酪農地域」の問題は「なつぞら」でも取り上げられました。
こうした中、1967(昭和42)年2月3日、十勝全市町村長宛に「集約酪農地域について意見を聞きたい」と、道からの親展速達が届きました。十勝全域を集約酪農地域に指定する意図で送付されたものであり、返答は2日後の2月5日という極めて性急な内容でした。
太田は翌4日、十勝農協組合長会議を緊急開催し、この日のうちに工場新設を十勝支庁に届け出ることを決めました。4日は土曜日でしたが、届け出はぎりぎりで受理され、農民工場が日の目をみることになったのです。
太田は新会社の社長に就任したものの、乳製品工場の建設運営に携わったことはありません。そこで、ホクレンや全国酪農業協同組合連合会に専門家の派遣を要請、全面的な協力を得ることに成功します。
北海道協同乳業の工場予定地(よつ葉乳業提供)
くわ入れする太田寛一(よつ葉乳業提供)
こうして北海道協同乳業は建設届け出から3カ月後に着工、わずか6カ月の工期で完工し、この年の11月9日にバター3トンと脱脂粉乳15トンを初出荷することができました。
ところが創業2年目の1968(昭和43)年、乳製品の需給緩和で過剰在庫を抱え、倒産寸前に追い込まれました。窮地を救ったのはホクレンや十勝8農協です。増資など強力な支援を行い、危機を脱した北海道協同乳業は全国に先駆け、紙パックによる市乳の販売、第二乳製品工場の建設など、次代を見据えた積極策を次々に打ち出し、農民工場としての基盤を固めていきました。
同社はその後、北海道農協乳業を経て社名をブランド名の「よつ葉乳業」に変更、今日に至っています。いまでは日本一の農協系乳業として盤石な経営基盤を築きあげました。
その基は創業者・太田寛一がつくった「適正乳価の形成」「酪農経営の長期安定」の社是にあります。全役職員がこれを脈々と受け継ぎ、いまも前進を続けているのです。
(農政ジャーナリスト・神奈川透)
*「北の酪農ヒストリー」は今回で終了します。
★農業高校生 応援プロジェクト『なつぞら』特設ページはこちら★
2019年08月31日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第20回 「太田寛一の挑戦」(上)~極秘に乳業会社設立に奔走
「なつぞら」では、農民資本の「十勝協同乳業」の設立が描かれました。協同組合の団結を正面から取り上げたドラマは稀有といえるでしょう。
国の妨害に遭いながら、音問別農協の田辺政人(宇梶剛士)組合長と柴田剛男(藤木直人)専務らは、農協出資の乳業会社設立で十勝の農協組合長を一つにまとめ上げます。そして、十勝支庁に乗り込み、支庁長から賛意を取り付けました。
田辺らが農協資本の乳業会社設立に奔走するのは、大手乳業に隷属的な関係を強いられ低乳価に苦しむ酪農家を救うためです。これは絵空事ではなく、実際にあった話を基にしています。
太田寛一社長(よつ葉乳業提供)
田辺は太田寛一・士幌町農協組合長(後にホクレン会長、全農会長)、十勝協同乳業は北海道協同乳業(よつ葉乳業の前身)がモデルと思われます。
太田は1915(大正4)年、十勝の川西村(いまの帯広市川西町)に生まれました。小学校卒業時に十勝支庁長から表彰されるほど学業がずば抜けていました。しかし、家が貧しく進学を断念し、地元の産業組合(今の農協)に就職します。後に士幌村産業組合(士幌町農協の前身)にスカウトされました。
ここで知り合った獣医師の秋間勇や飯島房芳(後の士幌町長)らと共に、太田は「産業組合運動で農村を豊かにしよう」と、精力的に仕事に励みました。太平洋戦争後、士幌村農協が設立されると常務に、1953(昭和28)年には37歳の若さで組合長に就任します。
1956(昭和31)年9月、村内の全酪農家(323戸)に呼び掛け、全会一致で士幌村酪農振興協議会を設立、この組織を起爆剤に農協は生乳の「一元集荷多元販売」に踏み出します。今日の指定生乳生産者団体制度のモデルともいうべき試みで、画期的なものでした。
当時、士幌村では雪印乳業、明治乳業、森永乳業、宝乳業などによる激烈な集乳競争が行われていました。親子で生乳の出荷先が違ったり、農家ごとに乳価差があったり、一家で複数の乳業に生乳を出荷するなど、混乱を極めていました。
太田は、このいびつな生乳販売の問題を解決しなければ酪農発展はないと、酪農家の団結を促したのです。この結果、乳業と対等な取引が実現し、生乳検査も自ら行うようになり、乳業による検査のカラクリをつかむなど、大きな成果を挙げました。
こうした協同に基づく事業展開の延長線上にあるのが、1967(昭和42)年の北海道協同乳業の設立です。
太田は1966(昭和41)年、欧州の乳業事情を視察し、農民自ら乳製品工場を経営していることに驚きます。帰国後、極秘裏に十勝8農協による乳製品工場建設を進めます。ことが公になると、大手乳業の猛反対に遭うからです。
乳業工場建設の実現までには、大きな障害がいくつも立ちはだかっていました。(続く)
(農政ジャーナリスト・神奈川透)
★農業高校生 応援プロジェクト『なつぞら』特設ページはこちら★
2019年08月24日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第19回「健土健民と黒澤酉蔵」〜循環農業で国民豊かに
「なつぞら」は、戦災孤児のなつが十勝の柴田牧場に引き取られ、酪農の仕事を手伝うシーンから始まりました。
なつは、1日でも早く仕事を覚えるため必死に働きます。牛と仲良くなることが大切だと教わり、牛たちに声を掛けながら仕事をします。放牧に出す時には「いってらっしゃーい! 元気いっぱい草を食べてね。いっぱいふんをしてね」、放牧から帰ってくると、「お帰りなさい! いっぱい草食べた? いっぱいふんした?」と、元気のよい言葉を発します。
初めて酪農の仕事をした9歳のなつの言葉に驚かされます。牛の生産物は牛乳ですが、ふんや尿も大事な生産物であることを知っていたからです。
牛は主食の草(牧草やトウモロコシサイレージ)をたくさん食べるほど牛乳をたくさん出します。ふんと尿を合計すると牛乳の倍くらいになります。
当時の柴田牧場の乳牛は、1日1頭当たり牛乳を約20キロ、ふんを約30キロ、尿を約10キロ生産していたと思われます。酪農で生産されるふんと尿が土地を肥沃にすることはよく知られています。まさに、牛のふんと尿が十勝を酪農王国、農業王国に導いたのです。
黒澤酉蔵
牛のふんと尿が肥料として重要であり、土をよくすることを北海道で最初に説いたのは札幌農学校のクラーク博士です。それ以前の日本の農業では人ぷんが肥料として用いられていました。
このころは酪農という言葉はなく、牛を野草地に放牧し、刈り取った生草や干し草に糟糠類(糠やフスマなど)を少量給与して牛乳を搾る、文字通り牛乳搾取業でした。
明治後半に米国帰りの宇都宮仙太郎が酪農という言葉を使い始め、1917(大正6)年に宇都宮と黒澤酉蔵らは日本で最初に酪農という冠の付いた日本最初の牛乳出荷組合、札幌酪農組合(後にサツラク農業協同組合)を立ち上げました。
また、宇都宮と黒澤らは、1925(大正14)年、酪農民による乳製品の加工販売組合、北海道製酪販売組合(後に酪連。雪印乳業)を設立、さらに1941(昭和16)年、黒澤は酪連、森永、明治を統合した巨大乳業会社、北海道興農公社の社長になりました。
黒澤の書いた「健土健民」
黒澤には二人の恩師がいます。足尾鉱毒事件で農民救済に生涯を捧げた田中正造と、北海道酪農の父・宇都宮仙太郎です。田中から国土愛、宇都宮から酪農の本質を学び、健康な土が健康な国民をつくるという「健土健民」思想を体得しました。
酪農によってこそ健土健民を実現できると力説し、酪農乳業の発展に尽くした黒澤は、まさに魂の酪農乳業の母と言えるでしょう。
(酪農学園大学名誉教授・安宅一夫)
★農業高校生 応援プロジェクト『なつぞら』特設ページはこちら★
2019年08月17日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第17回「天陽のベニヤ絵を読み解く」~昭和の牧場風景は宇都宮の遺産
「なつぞら」の前半で、菓子店「雪月」の壁に飾られていた美しい牧場の絵を覚えているでしょうか。
これは山田天陽(吉沢亮)がベニヤ板に描いた絵を雪月の店主小畑雪之助(安田顕)が気に入り、天陽から譲り受けたものです。
雪月でこの絵を見た十勝農業高校演劇部顧問の倉田隆一(柄本佑)は心を揺さぶられ、戯曲『白蛇伝説』の背景画を天陽に依頼します。倉田は「十勝の土に生きる人間の魂を見事に表現している」と絶賛しました。
宇都宮仙太郎
確かにこの絵は、昭和時代の牧場の風景がよく描かれています。絵にあるように昭和時代の酪農のシンボルは、キング式牛舎(二階建て腰折れ屋根)と塔型サイロ、そしてホルスタインの放牧です。この風景は北海道酪農の父・宇都宮仙太郎によってもたらされたといっても過言ではありません。
米国における近代酪農乳業は1880年代後半に著しく発展しましたが、ウィスコンシン大学の研究が大きく貢献しました。宇都宮は最初の渡米中(1887~90)、ウィスコンシン大学でヘンリー教授、バブコック教授、キング教授の薫陶を受け、世界最先端の技術を持ち帰りました。
家畜飼料学の権威ヘンリー教授の下では、当時世界で最初に建設された本格的塔型サイロを用いて行った最初のサイレージの研究を手伝ったといわれています。それまでサイロは、地下のトレンチ(堀)サイロが主流でしたが、地上塔型サイロが登場した時期でした。
宇都宮は帰国後、満を持して1902(明治35)年、札幌白石に開いた牧場で我が国最初の地上塔型サイロを建設します。さらに1906(明治39)年、吉田善助(後に競走馬の社台ファーム創業)とともに渡米し、ホルスタイン種乳牛五十数頭購入して帰国、ホルスタイン時代の道を開きました。そして1911(明治44)年に2回目の渡米で持ち帰ったと思われるバブコックの乳脂肪検定器を用いて乳脂肪率を測定し、我が国最初の牛乳検定を行いました。
キング式牛舎と塔型サイロから成る宇都宮牧場(北海道大学附属図書館所蔵)
この年、宇都宮は石造塔型サイロを建設、その翌年には米国・ジェームス社設計の本格的キング式牛舎を我が国で最初に建設しました。赤い壁で緑の屋根の牛舎と塔型サイロ、そして緑の草をはむホルスタインの美しい牧場風景は周囲を圧倒したそうです。
キング式牛舎は、キング教授が1889年に発表した画期的換気方式の牛舎で、1877年にクラーク博士が遺した札幌農学校のモデルバーンにとって代わったのです。天陽の絵にみられるウィスコンシンモデルは、ウィスコンシン大学で学んだ宇都宮仙太郎から塩野谷平蔵、町村敬貴によって北海道に定着、発展しました。
現在、北海道平均の牛の飼養頭数は絵にある4頭から100頭を超えました。サイロはバンカーサイロやロールベールラップサイロに変わり、牛舎は平屋のフリーストール牛舎となり、牛舎の外で牛を見かけることが無くなりました。酪農の技術は日進月歩ですが、昭和生まれの筆者には天陽の絵が懐かしい。
宇都宮仙太郎は、酪農乳業という新しい産業を開拓し、美しい文化をも遺してくれました。
(酪農学園大学名誉教授・安宅一夫)
★農業高校生 応援プロジェクト『なつぞら』特設ページはこちら★
2019年08月03日