松島トモ子さん(女優・歌手) 豪華な宴 締めは母の鶏飯

松島トモ子さん

 食べ物についての思い出と言えば、子どもの頃に母が自宅で開いたパーティーのことですね。私が世話になっていた番組の関係者、多いときには100人くらいもの方々を招いて、料理や酒を楽しんでいただきました。
 

自宅に100人招き


 母は、自分の母、私にとっての祖母が海外で開いたパーティーを見ていたから、自宅にお客さまを招くことを楽しみにしていたんだと思います。

 母方の祖父は三井物産に勤め、海外を転々としていました。その頃の三井物産は最盛期で、それはもう豪華な海外生活。現地の家には4面のテニスコートがあり、香港在住の時なら中華、和食、洋食とそれぞれ専門のコックを雇っていたそうです。

 祖母はパーティーが開かれるたびに陣頭指揮を執り、何十人、何百人ものお客さまのために世話をしたと聞いています。

 私の父も三井物産に勤めており、私が生まれたのは、満州国の奉天市です。

 戦時中、父は招集を受けました。奉天に帰ってくることなく、昭和20(1945)年の敗戦の後に母と乳飲み子の私だけで日本に引き上げ、東京にある母の実家に住み始めました。

 父が抑留先のシベリアで亡くなったことを知らされたのが、昭和24年のことです。戦友の方が訪ねていらして「埋めて来ました」と報告してくださいました。

 昭和24年といえば、私が芸能界に入った年です。私は3歳からバレエを習い、ニュース映画で「小さな豆バレリーナ」と紹介されたんです。そのニュースを見た阪妻(阪東妻三郎)さんにスカウトされ、すぐに子役として映画に出演するようになりました。

 私は祖父母の立派な家で不自由なく暮らせましたが、敗戦後の日本はとても貧しかったわけです。娯楽といえば映画くらいしかないんですが、その入場料を払うのは大変でした。「お金をためて、トモ子ちゃんの映画を見に行くからね」と声を掛けられることも多く、私は子ども心にも「皆さんを元気にしたい」という使命感に燃えました。次から次へと映画の企画が持ち込まれ、いつも5、6冊の台本を持ち歩いていました。
 

お茶漬けいかが


 テレビの時代に入った頃ですから、昭和30年代ですね。母が自宅でパーティーを開き、お世話になっているテレビ局のスタッフをお招きするようになりました。

 メインの料理は「お茶漬け」。スタッフの方に「お茶漬けを食べにいらっしゃいませんか」と声を掛けますと、「え、お茶漬け?」と、変な顔をされました。

 でも実際は、祖父母が海外で行ったのと同じように豪華なパーティーなんですよ。母は何日も前から入念な準備をしました。料理は、一流の洋食店や中華料理店から運んだり、コックを招いて作っていただいたり。母はというと、にこやかに皆さんに酒をお渡ししていました。

 その最後に母が手作りした鶏飯が出るんです。奄美大島の郷土料理をアレンジしたもので、じっくりと時間をかけて鶏を煮込んで作ったスープを、ご飯の上に掛けて召し上がっていただくんです。母が皆さんに取り分けました。

 母は料理が上手なんですが、私にいろいろと作ってくれるようになったのは、祖母が亡くなってからです。それまでは、手伝いが作る料理を食べていました。それだけに子どもの頃にパーティーで出た鶏飯は、私には忘れられないものなのです。(聞き手=菊地武顕)
 
 まつしま・ともこ 1945年、満州国奉天市生まれ。49年に銀幕デビューし、「獅子の罠」「鞍馬天狗」「丹下左善」「サザエさん」などに出演。「村の駅長さん」「風にゆれるレイの花」など童謡歌手としても活躍した。11月下旬、飛鳥新社より介護に関する書籍を出版。12月20日に東京・成城ホールでコンサートを開く。
 

おすすめ記事

食の履歴書の新着記事

検索

e農サーチ e農サーチとは