技術では捉え切れぬ自然 何を気付けるだろう 百姓・思想家 宇根 豊

宇根豊

 私たちの行動や感覚は、いつも意識されているわけではない。例えば駐車場を離れ、ふと、車の鍵はかけてきたろうか、と不安になり戻ってみると、ちゃんと施錠している。無意識にかけたのである。

 百姓仕事でも、身体は無意識に動くときが多い。手で田植えをしているときは、苗を挿す右手はかなり意識するが、苗をさばいて送る左手の指は意識しない。ところがけがをしていると、時々気になる。

 無意識にやっているときは気付かないから無意識という。ところがそれに気付くときがある。その時に「ああそうか。無意識にやっていたのか」とはじめて自覚する。無意識とは、いつも意識の周りにあって、意識化され(気付かされ)て、現れる。
 

とある私の発見


 実は、農が天地自然を守っているのは、無意識に行われているのではないか、というのが私の発見である。そのきっかけになったのは、もう数年前のことだ。田んぼの水を切らして、お玉杓子(たまじゃくし)を全滅させてしまった。「すまなかった、ごめんな。」とわびた。私たち百姓はお玉杓子のために、田んぼに水をためているのではない。稲のためだという意識である(草を抑えるためでもある)。しかし、お玉杓子が死んではじめて、お玉杓子のためにも、無意識にためていたことに気付いた。どうしてこんなに大切なことを、普段は意識しないのだろうか。

 技術の定義としては、武谷三男氏の「技術とは生産過程における、科学的な(合理的な)法則性の意識的適応である」というものが最もよくできている。つまり、技術はどこまでも意識の世界にあるのだ。

 しかし、百姓は「合理的な法則性を適応させよう」として身体を動かしているだろうか。もしそうなら、百姓仕事の最中に、時を忘れ、経済も忘れ、我も忘れて、天地自然に抱かれることはできない。無意識に身体を動かしている時が、つまり仕事に没頭しているときが、百姓にとっては一番の幸せだろう。それは無意識の世界だから、いいのではないか。

 しかし、それに気付くことが、時々ある。そのきっかけは、①思い出すとき②他人から教えられたとき③異常な事態になったとき――である。

 食べ過ぎた場合には、普段は意識していない胃という内臓を意識する。

 食料の生産は、技術によって意識する。ところが、自然環境(多面的機能)を支える行為は、百姓仕事の無意識の部分によって、行われているのである。だからこそ、無意識にお玉杓子を育ててもいるが、殺してもいるかもしれない。
 

無意識は無責任


 この無意識に天地自然を支えている仕事に、時々は気付くべきだ、と私は言いたいのだ。「多面的機能」という言葉で、責任を回避するのではなく、自分の仕事がどのように生きものの生を守り、あるいは殺しているのかを意識しようではないか。

 そうすれば、これまでにない農の深い世界を家族や世間に伝えることができる。さて、あなたは何を気付くだろうか。
 
<プロフィル> うね・ゆたか

 1950年長崎県生まれ。農業改良普及員時代の78年から減農薬運動を提唱。「農と自然の研究所」代表。農本主義三部作『農本主義が未来を耕す』『愛国心と愛郷心』『農本主義のすすめ』を出版。

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