石川啄木は新聞社を転々とした

 石川啄木は新聞社を転々とした▼〈かの年のかの新聞の/初雪の記事を書きしは/我なりしかな〉〈京橋の滝山町の/新聞社/灯(ひ)ともる頃のいそがしさかな〉〈みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ、/誤植ひろへり。/今朝のかなしみ。〉。啄木は、函館日日新聞、北門新報、小樽日報、釧路新聞を経て、東京朝日新聞の校正係となる▼岩手県渋民村の小学校を首席で卒業した俊英は、16歳で盛岡中学校を中退。26歳で早世するまでの10年間は、まさに生活苦でじっと手を見る日々。石をもて郷里を追われた「天才詩人」は、生活破綻者であり、社会からのつまはじき者であった▼朝日時代の月給は25円で借金は1300円。今なら25万円の給料に対し1300万円もの借財か。友人知人に無心しては放蕩(ほうとう)を繰り返した。働けど働けど楽になるはずがない。一番の支援者にして被害者は言語学者の金田一京助。金田一家では「石川五右衛門」呼ばわりされた▼啄木の歌に「道を踏みはずした人間のやるせない直情」を見るのは作家の嵐山光三郎氏。その哀切が人の心をつかむ。肺結核で死の間際、心は愛憎半ばする故郷へ向かった。〈今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば、/ふるさとに行きて死なむと思ふ。〉。きょうの啄木忌に望郷の思いを重ねる人も多かろう。

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