五木寛之さん(作家) 空腹抱えていた青年期 幸せ感じ料理に不平なし

五木寛之さん

 は昭和7(1932)年、福岡に生まれました。その前年には満州事変があって、風雲急を告げる時代でした。

 生後しばらくして両親が今の韓国に渡りました。私が物心ついた時は、日本人は交番の巡査くらいしかいない寒村で教師をしていました。子守をする韓国人の娘さんに連れられて、市場でチヂミを買ってもらって食べたことを覚えています。

 植民地では、そこに持って行った日本の伝統的な食事と現地の食生活が混合して、非常に面白い形になりますよね。母はキムチを漬けていました。大きなかめの中にハクサイだけでなくエビやメンタイなどたくさんのタンパク質も入れるんです。それを土に埋めて冬になると取り出して食べる。片方ではたくあんとか奈良漬もありました。

 中学1年で敗戦を迎えた時には、平壌にいました。ソ連兵が来て抑留されてからの生活は大変で、私もありとあらゆる仕事をしました。ベースキャンプで将校のもとで働くと、帰りに黒パンをもらえました。働けない子どもは、塀の外から将校の奥さんに叫ぶんですよ。「パパ、ニエット。ママ、ニエット。ラボート、ニエット。フレーブダバイ!」。お父さんもお母さんも亡くなり、仕事もない。パンを恵んでちょうだい、と。

 そんな生活の後、命からがら引き揚げて来たのです。途中、どんどん仲間が死んでいきました。無事に日本に戻れたのは半分くらいでしょうか。

 き揚げ後、両親の里、筑後地方の山村で暮らし始めました。山を分け入った奥の奥。農家なのに米穀通帳(米の配給を受けるために発行された通帳)を持ち、配給を受けている家もありましたね。集落に水田は少なく、段々畑でミカンや八女茶を作っていました。

 タケノコの季節になると朝から晩までタケノコを食べていました。ミツマタという植物の皮をはいで和紙の原料にしたり、カタクリで粉を作ったり、和ロウの原料になるハゼの実を集めたり、いろいろでした。やがて町へ出てからもお米がないときは豆腐屋さんでおからを買って、ダイコンを混ぜてしょうゆをかけて食べたりしましたね。

 高校卒業後、私は東京に行きたいと思ったんですが、父が反対したんです。

 父親は頑張って教師になったんですが、敗戦で挫折しました。それで学歴に信用を置かなくなったらしい。近くに家具作りが盛んな大川という町がありました。「これからは手に職を持っている人間が強いんだから、お前はそこで家具職人になれ」と。店に面接にも行きました。でも私は、どうしても大学に進みたくて、「ぜんぶ自分でやっていくから」と言って早稲田大学に入りました。

 送りはなく、バイトで賄う学生生活。文学部の建物の地下の生協で、コッペパンが10円で売ってたんです。バターやジャムを塗ると15円。この5円の違いは大きかった。絶対にいつかバターやジャムを塗ってやると思っていました(笑)。

 バイトは肉体労働が多く、雨が続くと仕事がない。もうどうしようもないという時には製薬会社に行きました。売血ですね。普通は200ミリリットルなんだけど、ダブルといって400ミリリットル抜けば、1週間から10日は食えました。でもそれも続かなくなって、大学は中退したんです。

 こういう経験をしましたから、基本的に食べられればいいんですね。これは今考えると幸せかもしれません。その頃と比較できるから、どんな料理が出てきても一切不平を感じることがない。ありがたくいただいています。(聞き手・菊地武顕)

 

<プロフィル> いつき・ひろゆき


 1932年、福岡県生まれ。編集者、放送作家などを経て66年に『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。翌年の『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。近刊に、灘高生、早大生との対話『七○歳年下の君たちへ』(新潮社)、廣松渉との共著『哲学に何ができるか(抄)』(世界書院)。

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