「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第3回「開拓民の神田日勝」~絵も農業も全力で

NHK連続テレビ小説「なつぞら」の場面写真(C)NHK

 「なつぞら」の第5話で、初めて小学校に行ったなつが、ノートに鉛筆で馬の絵を描く山田天陽君に会うシーンがあった。天陽君はなつに、老いた農耕馬を飼っていたが死んでしまったと話す。

 天陽君の描く絵は、北海道鹿追町にある神田日勝記念美術館で見た馬の絵の印象とぴったり重なった。私は改めて日勝の絵を見たくなり、同美術館に行ってきた。

 神田日勝は1937(昭和12)年、東京に生まれた。 日本の敗戦が色濃くなった45(昭和20)年8月、一家は拓北農兵隊(戦災者集団帰農計画)に応募し、終戦の前日に十勝の鹿追町に着いた。全く農業の経験のない拓北農兵隊の人たちが、厳しい開墾作業に耐えられずに脱落していく中で、神田一家は歯を食いしばり鹿追に定着したという。
 
 「なつぞら」の第3週の放送では、大木の根を抜くところから始めなければならない痩せた土地を与えられたことが描かれていた。それはまさに日勝の経験そのものだったのだろう。

 日勝は中学を卒業すると農業を継ぐが、東京芸大に進学した兄の影響を受け、本格的に油絵制作に取り組み、絵の具を塗り重ねる独特の画法を切り開いていく。

 「画家である。農家である」と言って、開拓農民であることと、画家であることのどちらにも決して手を抜かなかった日勝。その生き方を支えたのは、62(昭和37)年に結婚したミサ子さんだった。

 「なつぞら」第3週で、天陽の家に農協から貸し出された牛がやって来た。モデルとなった神田家では、乳を搾るのはもっぱらミサ子さんだったと、日勝の長女で町職員の絵里子さんが教えてくれた。

 ミサ子さんは、搾乳で収入を得ることによって、日勝に絵を描く時間をつくってあげたいと思っていたのだという。また、トラクターが普及し始めた60年代にも馬耕にこだわったのは、子どもに借金を負わせたくないという日勝の強い意志だったようだ。

 ミサ子さんの愛に支えられて、創作に打ち込んだ日勝は、70(昭和45)年に腎盂(じんう)炎による敗血症により、32歳の若さで亡くなった。これからの「なつぞら」で、天陽君の人生がなつにどのような影響を与えるかがとても楽しみだ。

 鹿追町長の吉田弘志氏は日勝の2歳下だが、家が近かったこともあり、日勝が中学時代にはすでに優れた作品を描いていたことを覚えているという。日勝が亡くなった後、町職員である吉田氏は、遺作展を開催するために、町内外に所蔵されている作品を集めたり、帯広にポスターを張りに行って宣伝したり、準備に奔走した。  
 
神田日勝の絶筆「馬」(未完)(1970年、神田日勝記念美術館蔵)
神田日勝の絶筆「馬」(未完)(1970年、神田日勝記念美術館蔵)

 遺作展の会場に訪れた妻ミサ子さんや二人の子どもと、ベニヤ板に描かれた迫力ある日勝の作品を鑑賞する町民たちの姿は、72(昭和47)年のNHKテレビ番組「明るい農村」につぶさに描かれている。(作家・森久美子)

>>神田日勝記念美術館(北海道河東郡鹿追町)の詳細はこちら

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