食べものは生きもの 「また会おう」の心で 百姓・思想家 宇根豊

宇根豊氏

 食事の前に「いただきます」と唱える習慣は、戦前の道徳教育から始まり、定着したのは、戦後の学校給食からだと知って驚いた。私は昭和25(1950)年生まれだが、家で「いただきます」と唱えたことは一度もなかった。小学校ではそのことを恥ずかしく思っていた。

 それまでは多くの家では、わが家同様、食事はまず神棚と仏壇に供えられていた。都会では、この習慣が廃れたので「いただきます」が提案されたそうだ。
 

何に感謝するか


 ところで、この「いただきます」は誰に、何に向かって、投げ掛けられているのだろうか。地元の小学生たちの答えを挙げてみよう。

 ①料理を作ってくれた人②料理の材料を買うために働いている人③お百姓さん④太陽などの自然⑤目の前の食べもの──。そこで、①~⑤の何に感謝するのか、と尋ねると、③以降はイメージが具体的に湧きにくくなる。

 確かにお経のように唱えているだけでいいという言い分も一理あるが、ここでは、⑤の食べものの何に感謝するかを、考えてみたい。

 まず、栄養価が浮かぶが、食べる時にでんぷん、タンパク、ビタミン、カロリーなどを意識したりはしない。

 次に、いのちの糧になっていることへの感謝がある。しかし、食べもののいのちを奪っておきながら、自分のいのちのためと言うのは人間本位に過ぎる。

 私たちは食事の時に、相手のいのちを奪っているという気持ちを持たない。全ての食べものは「生きもの」だったし、食べるのは、その生きものの死体だ。ところが、それを悩むどころか、楽しみで、うれしくて食卓に向かう。それが人間の本能だから、という説明で納得してはならない。

 ここには農業の最も深い救済がある。生きもの(食べもの)を殺すことを、悩まなくていいのは、農業が生み出した最高の宗教(文化)ではないだろうか。

 考えてもみよ。百姓ほど生きものを殺す職業はない。耕せば、草も虫も死ぬ。間引いた苗は捨てられる。草や虫は殺すために捕る。百姓に殺された生きものたちは、土に「かえって」いく。そして季節が巡り、また生まれてくる。もちろん死んだ個体と、生まれてくる個体は、同じ個体ではないが、百姓は「また今年も生まれてきたね」「また今年も会えたね」と感じる。「かえって」来たのである。
 

「かえる」の意味


 「かえる」という言葉は、とても深い言葉だ。死んでいく時だけに使われるのではない。ひなや虫たちが卵からふ化するのも「かえる」という。

 「よみがえる」とは、黄泉(よみ)の国から、この世にかえってくることを指している。身体は消滅しても、「いのち」はよみがえって、また生まれ、また会える。だからこそ、百姓は、百姓仕事による殺生を悩まなくてもいいのだ。

 食卓もこの延長にある。かつて私たちは食べものを、神や仏に感謝して食べていた。現代では、食べものが生きものであったことを思い浮かべるために「いただきます」と唱えてほしい。

 生きもののいのちに、かえって来てね、また会おうね、と思うのが、感謝なのではないか。

 うね・ゆたか 長崎県生まれ。農業改良普及員時代の78年から減農薬運動を提唱。「農と自然の研究所」代表。これまでの思索を7月に『日本人にとって自然とはなにか』(ちくまプリマ―新書)として出版。画期的な語り口が評判に。

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