輪島功一さん(元プロボクシング世界王者) 王座で味わった最高の肉
2019年11月30日

輪島功一さん
私は樺太で生まれたんですけど、ソ連が来たから両親は兄と私を連れて北海道に逃げたんですよ。3歳の時のことです。
北海道では厳しい暮らしが待っていました。おやじはクマザサをバリバリッと切って、馬を使って荒れ地を開拓しました。山の方なので米は取れず、ジャガイモと小麦を育てていました。本当に貧しく、私は落ちているものは何でも拾って食べました。ドングリをゆでるとおいしかったなあ。
小学校6年生の時、久遠村(現・せたな町)で漁師をしているおやじの兄のところに養子に出されました。「もっといい生活ができる」と思い、うれしかったですね。
実際に行ってみて分かったんですが、伯父は労働力が欲しかったんです。山に木を切りに行かされました。中学生なのに大人と同じだけの荷物を背負わされて歩きました。私が、がに股になったのは、その時の木材運びのためです。
夜はイカ釣り漁船で働かされました。朝まで釣って、大人たちはその後で眠るんですけど、私はそのまま学校に行かないといけない。授業中に居眠りをして、先生に「この野郎」と殴られました。
私は船酔いがひどくて、船の上で必ず戻してしまいました。だから私のところには、イカがたくさん寄って来たんです。
慣れれば良くなると思っていたんですが、いつまでたっても駄目。三半規管が弱かったからなんですね。それが分かって漁師は向かないと思い、実家に逃げ帰りました。伯父の家では商売にならないような魚を料理してもらうことがあったから、食事は実家より良かったんだけど、それでもね。
実家に戻ってから1年くらい働いて、そのお金を全部両親に渡して、上京しました。新聞配達や牛乳配達など、いろんな仕事をしました。東京に出て初めて、肉を食べました。こんなうまいものがあるのかと、たらふく食いました。
仕事で一番長かったのが、建設現場。羽田空港の滑走路は私たちが作ったんですよ。高度経済成長期。景気が良かったのでお金はたくさんもらいましたが、変なことに使いたくはなかったんです。会社の寮のそばに、ボクシングジムがありました。このジムで汗を流せば悪い誘惑に乗ることもないだろうと考えて、入門しました。
私は当時24歳。ボクサーとしては引退間際の年齢です。ジムの方も「金を払うならいい」という態度。で、なにくそと思ったんです。今に見てろ、と頑張ったね。
私はファイティング原田と同じ年なんです。原田が引退した69年に新人王になりました。チャンピオンになって、ぜいたくな暮らしをする。うまいものをたらふく食ってやる。そういうハングリー精神を持つのが普通ですが、私はそんなことはなかった。ジムの人を見返す。故郷の同級生で大学を卒業して「いい会社」に入った連中に負けたくない。その思いで練習しました。
69年に日本チャンピオンになりました。建設会社の社長は大のボクシング好き。私のことをとてもかわいがってくれて、「会社員としての給料は払うけど、会社に顔を出すだけで仕事はしなくていい。ボクシングに専念して頑張れ」と言ってくれました。その上よく瀬里奈(東京・六本木の高級料理店)に連れて行ってくれました。
ぜいたくをするために練習に励んだわけではありませんが、その成果で食べた瀬里奈の肉は本当においしく、今でも覚えています。(聞き手・写真=菊地武顕)
わじま・こういち 1943年、樺太生まれ。71年、世界ボクシング協会(WBA)・世界ボクシング評議会(WBC)世界ウェルター級チャンピオンに。かえる跳びなどの変則ボクシングで相手を翻弄(ほんろう)した。WBAで3度、WBCで2度王座に就いた。現在は輪島功一スポーツジムで後進を育成している。
開拓一家で育ち
北海道では厳しい暮らしが待っていました。おやじはクマザサをバリバリッと切って、馬を使って荒れ地を開拓しました。山の方なので米は取れず、ジャガイモと小麦を育てていました。本当に貧しく、私は落ちているものは何でも拾って食べました。ドングリをゆでるとおいしかったなあ。
小学校6年生の時、久遠村(現・せたな町)で漁師をしているおやじの兄のところに養子に出されました。「もっといい生活ができる」と思い、うれしかったですね。
実際に行ってみて分かったんですが、伯父は労働力が欲しかったんです。山に木を切りに行かされました。中学生なのに大人と同じだけの荷物を背負わされて歩きました。私が、がに股になったのは、その時の木材運びのためです。
夜はイカ釣り漁船で働かされました。朝まで釣って、大人たちはその後で眠るんですけど、私はそのまま学校に行かないといけない。授業中に居眠りをして、先生に「この野郎」と殴られました。
私は船酔いがひどくて、船の上で必ず戻してしまいました。だから私のところには、イカがたくさん寄って来たんです。
慣れれば良くなると思っていたんですが、いつまでたっても駄目。三半規管が弱かったからなんですね。それが分かって漁師は向かないと思い、実家に逃げ帰りました。伯父の家では商売にならないような魚を料理してもらうことがあったから、食事は実家より良かったんだけど、それでもね。
実家に戻ってから1年くらい働いて、そのお金を全部両親に渡して、上京しました。新聞配達や牛乳配達など、いろんな仕事をしました。東京に出て初めて、肉を食べました。こんなうまいものがあるのかと、たらふく食いました。
仕事で一番長かったのが、建設現場。羽田空港の滑走路は私たちが作ったんですよ。高度経済成長期。景気が良かったのでお金はたくさんもらいましたが、変なことに使いたくはなかったんです。会社の寮のそばに、ボクシングジムがありました。このジムで汗を流せば悪い誘惑に乗ることもないだろうと考えて、入門しました。
私は当時24歳。ボクサーとしては引退間際の年齢です。ジムの方も「金を払うならいい」という態度。で、なにくそと思ったんです。今に見てろ、と頑張ったね。
恩人との出会い
私はファイティング原田と同じ年なんです。原田が引退した69年に新人王になりました。チャンピオンになって、ぜいたくな暮らしをする。うまいものをたらふく食ってやる。そういうハングリー精神を持つのが普通ですが、私はそんなことはなかった。ジムの人を見返す。故郷の同級生で大学を卒業して「いい会社」に入った連中に負けたくない。その思いで練習しました。
69年に日本チャンピオンになりました。建設会社の社長は大のボクシング好き。私のことをとてもかわいがってくれて、「会社員としての給料は払うけど、会社に顔を出すだけで仕事はしなくていい。ボクシングに専念して頑張れ」と言ってくれました。その上よく瀬里奈(東京・六本木の高級料理店)に連れて行ってくれました。
ぜいたくをするために練習に励んだわけではありませんが、その成果で食べた瀬里奈の肉は本当においしく、今でも覚えています。(聞き手・写真=菊地武顕)
わじま・こういち 1943年、樺太生まれ。71年、世界ボクシング協会(WBA)・世界ボクシング評議会(WBC)世界ウェルター級チャンピオンに。かえる跳びなどの変則ボクシングで相手を翻弄(ほんろう)した。WBAで3度、WBCで2度王座に就いた。現在は輪島功一スポーツジムで後進を育成している。
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気候非常事態 長野県が宣言 都道府県で初
長野県は6日、世界的な気候変動への危機感と地球温暖化対策への決意を示す「気候非常事態宣言」を都道府県として初めて発表した。2050年までに県内の二酸化炭素(CO2)排出量を実質的にゼロにすることを目指す。
県議会が同日、台風19号被害やスペインでの国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議(COP25)開催などを背景に、宣言を出すよう県に求める決議を全会一致で採択。これを受けて県が宣言を発表した。宣言では、国内で頻発する気象災害と世界的な異常気象、気候変動に触れ、「この非常事態を座視すれば、未来を担う世代に持続可能な社会を引き継ぐことはできない」と強い危機感を示した。
県は、太陽光発電や小水力発電といった再生可能エネルギーの拡大、省エネ対策の強化などで、CO2排出量の実質ゼロを実現したい考え。阿部守一知事は会見で「広く県民一丸となって気候変動対策を進めていきたい」と強調した。インターネット中継で阿部知事と会談した小泉進次郎環境相は「台風で大きな被害を受けた長野県が宣言したことは象徴的。来週参加するCOP25で発信したい」とエールを送った。
宣言は、地球温暖化対策を加速させようと欧米諸国を中心に広がっている。欧州連合(EU)の欧州議会が11月に採択した他、国内では長崎県壱岐市、長野県白馬村などが宣言している。
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2019年12月07日

地元でもやりたいことできる “Uターン組”食で催し 新潟県糸魚川市
新潟県糸魚川市にUターンした若者らが、「つなぐKitchen Project(キッチンプロジェクト)」のメンバーとして、食を題材にしたイベントを企画・開催している。プロジェクトを通して、糸魚川を離れた若い世代に「糸魚川でも自分たちのやりたいことができる」ということを伝えていく。
メンバーは市役所職員の杉本晴一さん(26)、イタリアンシェフの渡辺光実さん(28)、米や果実などを栽培する生産者の横井藍さん(28)と、JAひすい営農指導員の小野岬さん(24)。
市の広報紙の取材で若手Uターン経験者として杉本さん、渡辺さん、横井さんが集まり、3人で意見を交わす中で「それぞれのやりたいことが3人ならできる」と意気投合し活動を始めた。
その後、女子メンバーが欲しいという横井さんの希望で、巡回で来ていたJAの小野さんが仲間に加わった。プロジェクトチームの名前には「糸魚川のいろいろなところで人・物・事をキッチンでつなぐ」という願いを込めた。
職種の異なるメンバーが、それぞれの得意分野を生かしながら活動。7月には「ハヤカワ夏のピザまつり」を開いた。親子連れ30人が参加し、夏野菜をトッピングしてピザを作った。11月には「ハヤカワ秋のイモまつり」を開いて親子20人が焼き芋などを楽しんだ。
補助金を頼りにせず、全てを参加費で賄えるよう工夫して企画・運営している。メンバーは7月のイベントに合わせて動画投稿サイト「ユーチューブ」を参考にピザ窯を手作りし、11月のイベントでも大活躍だった。
横井さんは「畑で作られた野菜を味わって土に触れる感動を子どもたちに伝え、食を通して農を知ってもらえるような活動をしたい」と意欲を見せた。今後は小学校で取り組む「キャリア教育」などを通して農業の現場と教育の現場をつなぐとともに、イベント依頼などに積極的に対応していく。
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2019年12月07日

ハトムギで健康長寿に “お墨付き”チョコ商品化 知名度アップ狙う 栃木県小山市
栃木県小山市で、特産のハトムギを使ったチョコレートが開発され、11月から市内の「道の駅思川」で販売が始まった。生活習慣病の予防など、市はハトムギの摂取によって市民の健康長寿を目指しており、新たなスイーツで消費拡大を目指す。ハトムギの生産量も増えていて、農家は「栽培の追い風になる」と期待する。(中村元則)
全国ハトムギ生産技術協議会によると、2018年の全国のハトムギの生産面積は1122ヘクタール、生産量は1541トン。茶などで使われ、生産面積は年々、増加傾向にあるという。同市は水田転作の一環で、1991年に農家2戸で栽培がスタート。18年時点で、約10戸が作付面積80ヘクタールで188トンを生産し、国内有数の産地だという。
同市のハトムギは、内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)で「次世代農林水産業創造技術」の開発研究に選定された。そこで市などは18年、ハトムギの摂取が人間の体に与える影響を調べる実証実験を行った。
20~64歳の健康な市民114人にハトムギ茶や麦茶を500ミリリットル、8週間、毎日飲んでもらい血液や尿を検査した。その結果「ハトムギには動脈硬化などの生活習慣病の予防効果が示唆された」(市農政課)という。
市はハトムギの摂取を進めようと、新商品の開発を促す「アグリビジネス創出事業」を実施。ハトムギのチョコレートは、食品加工品を販売する、ラモニーヘルス(同市)が同事業を活用して、半年前から商品開発を手掛けた。
同社の篠原裕枝代表は「ハトムギを高齢者も若い人も、誰もが食べやすいものにしようと考えた時、チョコレートを思い付いた」と話す。
同社は11月中旬の2日間、東京都墨田区の商業施設「東京ソラマチ」の中にある栃木県のアンテナショップ「とちまるショップ」で試験販売をした。その後、11月下旬から道の駅思川で本格販売を始めた。
商品は「はとむぎチョコ マンディアン」と名付けられ、ハトムギを3%配合したノンシュガーのチョコレート生地に、無添加ドライフルーツを載せている。チョコレートの優しい味わいとともに、かめばかむほどハトムギの香ばしい香りが広がるのが特徴だ。
市農政課は「来年2月のバレンタインデーに健康食品として参戦する」と強調。チョコに期待を掛けている。他にもハトムギを使った商品は、ふりかけなども開発され、多様化している。
相次ぐ商品化に栽培農家も期待。ハトムギを4ヘクタールで栽培する小山はとむぎ生産組合の福田浩一組合長は「小山のハトムギの知名度が増す良い機会になる。これを契機に新規就農者を増やし、生産量を増やしたい」と意気込む。
「はとむぎチョコ マンディアン」は、ビターとミルクの2種類あり、どちらも1箱3個入り(100グラム)で1500円。
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2019年12月06日

渋野プロ地場産で応援 JAグループ岡山
JAグループ岡山は6日、岡山市で岡山県出身のプロゴルファー・渋野日向子選手に、同県産米「きぬむすめ」120キロと県産農産物を贈呈した。今年8月にAIG全英女子オープンで優勝し、日本人42年ぶりのメジャー制覇を成し遂げた渋野選手の快挙を祝い、来シーズンの一層の活躍を応援した。
「きぬむすめ」は、JAグループ岡山が新たなブランド米として生産拡大する瀬戸内海のカキ殻を使った資材で栽培する「里海米」。この他、県産ブドウ「紫苑」2房と、梨「愛宕」2玉、黄ニラ10束、ナス「千両」2キロなどを贈った。
渋野選手の父親は、JA岡山の正組合員で実家に畑があり、渋野選手は小さい頃から農作業を手伝っていたという。渋野さんは「農業には親近感がある。これからも、岡山の米や農産物を元気にモリモリ食べて、頑張りたい」と笑顔を見せた。
JA岡山中央会の青江伯夫会長は「岡山県人に勇気をくれたことに感謝したい。JAグループ岡山で、おいしいお米や野菜を作り、食べてもらい、さらに、パワーアップしてほしい」とエールを送った。
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2019年12月07日
多面的機能の維持 中山間守る国民論議を
食料・農業・農村基本計画の見直し検討が進んでいる。生産基盤の再建に向け、政府は担い手の農地集積や規模拡大に力を入れる。平場より生産性は劣るが、中山間地域の総土地面積は7割で農業産出額や農家数の割合は4割。同地域をどう守るか、国民的な議論を深めるべきだ。
日本農業新聞は10月、企画「ゆらぐ基(もとい)~危機のシグナル」と題し生産基盤の実態を追った。日本棚田百選に選ばれる宮崎県の集落が、棚田オーナー制度などで集落外の住民との交流に力を入れるものの存続の危機に直面している事例や、農地の受け皿となってきた集落営農組織が解散に追い込まれたことなどを取り上げた。
厳しい状況は数字からも読み取れる。農水省が行う2018年度の中山間地域等直接支払いの交付面積は約66万4000ヘクタール。14年度に過去最大の約68万7000ヘクタールに達したが、伸び悩んでいる。農業・農村を支えてきた団塊世代の高齢化や人口減少の中で、国民全体で守る仕組み作りは待ったなしの課題だ。
農水省は、農業・農村の多面的機能や棚田に対する国民の意向調査をまとめた。同機能で重要な役割を複数回答で聞いたところ、「雨水を一時的にためて洪水を防ぐ」(57%)「作物や水田にためられた水が土砂の流出を防ぐ」(37%)「日々の作業を通じて土砂崩れを防ぐ」(36%)といった治水・治山機能の評価が高い。また「棚田を将来に残したいか」を尋ねたところ、8割が残したいと答えた。理由は「澄んだ空気や水、四季の変化などが癒やしと安らぎをもたらす」「農地や農作物などがきれいな景色を作る」がいずれも37%と最も多かった。
一方で、「棚田の維持や保全のために何かしたいか」との問いに「したいと思わない」が34%。また「棚田を残したいか」について「荒れてしまうのは仕方がない」(19%)、「棚田がすべてなくなっても構わない」(6%)という回答もあった。
治水・治山や癒やしなどの多面的機能は国民にこそ多くの恩恵をもたらしている。農業・農村の役割と魅力について、国民理解をもっと広げる必要がある。
現行の基本計画は、担い手を中心とした産業政策と地域政策を車の両輪と位置付け、魅力ある農村づくりの取り組みには、規模や経営形態の異なる農業者、地域住民、農村外の人材などの幅広い参画が重要だと指摘する。しかし、農村の疲弊を訴える現場の声は強まっている。
最初の基本計画は20世紀最後の年に策定された。10年間を見通した同計画の5年ごとの見直しは「食料や農業・農村について消費者や自治体を含め、さまざまな階層が参加して議論する場で、20世紀農政から受け取った宝物」(小田切徳美明治大学教授)と言える。基本計画見直し検討への幅広い層の参画により、外部人材も含めた多様な担い手で農業・農村を支える実効ある政策を作る必要がある。
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2019年12月04日
食の履歴書の新着記事

輪島功一さん(元プロボクシング世界王者) 王座で味わった最高の肉
私は樺太で生まれたんですけど、ソ連が来たから両親は兄と私を連れて北海道に逃げたんですよ。3歳の時のことです。
開拓一家で育ち
北海道では厳しい暮らしが待っていました。おやじはクマザサをバリバリッと切って、馬を使って荒れ地を開拓しました。山の方なので米は取れず、ジャガイモと小麦を育てていました。本当に貧しく、私は落ちているものは何でも拾って食べました。ドングリをゆでるとおいしかったなあ。
小学校6年生の時、久遠村(現・せたな町)で漁師をしているおやじの兄のところに養子に出されました。「もっといい生活ができる」と思い、うれしかったですね。
実際に行ってみて分かったんですが、伯父は労働力が欲しかったんです。山に木を切りに行かされました。中学生なのに大人と同じだけの荷物を背負わされて歩きました。私が、がに股になったのは、その時の木材運びのためです。
夜はイカ釣り漁船で働かされました。朝まで釣って、大人たちはその後で眠るんですけど、私はそのまま学校に行かないといけない。授業中に居眠りをして、先生に「この野郎」と殴られました。
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慣れれば良くなると思っていたんですが、いつまでたっても駄目。三半規管が弱かったからなんですね。それが分かって漁師は向かないと思い、実家に逃げ帰りました。伯父の家では商売にならないような魚を料理してもらうことがあったから、食事は実家より良かったんだけど、それでもね。
実家に戻ってから1年くらい働いて、そのお金を全部両親に渡して、上京しました。新聞配達や牛乳配達など、いろんな仕事をしました。東京に出て初めて、肉を食べました。こんなうまいものがあるのかと、たらふく食いました。
仕事で一番長かったのが、建設現場。羽田空港の滑走路は私たちが作ったんですよ。高度経済成長期。景気が良かったのでお金はたくさんもらいましたが、変なことに使いたくはなかったんです。会社の寮のそばに、ボクシングジムがありました。このジムで汗を流せば悪い誘惑に乗ることもないだろうと考えて、入門しました。
私は当時24歳。ボクサーとしては引退間際の年齢です。ジムの方も「金を払うならいい」という態度。で、なにくそと思ったんです。今に見てろ、と頑張ったね。
恩人との出会い
私はファイティング原田と同じ年なんです。原田が引退した69年に新人王になりました。チャンピオンになって、ぜいたくな暮らしをする。うまいものをたらふく食ってやる。そういうハングリー精神を持つのが普通ですが、私はそんなことはなかった。ジムの人を見返す。故郷の同級生で大学を卒業して「いい会社」に入った連中に負けたくない。その思いで練習しました。
69年に日本チャンピオンになりました。建設会社の社長は大のボクシング好き。私のことをとてもかわいがってくれて、「会社員としての給料は払うけど、会社に顔を出すだけで仕事はしなくていい。ボクシングに専念して頑張れ」と言ってくれました。その上よく瀬里奈(東京・六本木の高級料理店)に連れて行ってくれました。
ぜいたくをするために練習に励んだわけではありませんが、その成果で食べた瀬里奈の肉は本当においしく、今でも覚えています。(聞き手・写真=菊地武顕)
わじま・こういち 1943年、樺太生まれ。71年、世界ボクシング協会(WBA)・世界ボクシング評議会(WBC)世界ウェルター級チャンピオンに。かえる跳びなどの変則ボクシングで相手を翻弄(ほんろう)した。WBAで3度、WBCで2度王座に就いた。現在は輪島功一スポーツジムで後進を育成している。
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2019年11月30日

アグネス・チャンさん(歌手) 食事通じて家族の絆育む
幼い頃に私の母は「医食同源だから」と食事の重要性を教えてくれました。「先祖さまからいただいた体を生かすのも壊すのも、自分次第。効能良く食べなさい」とよくいわれました。
その教えを思い出して、自分が子どもを育てる時には、手料理を中心にしたんです。コンビニには行かない、インスタント食品や冷凍食品は使わないと決め、食材は信用できる質の高いものを取り寄せるようにしました。
男の子を台所に
仕事もあってすごく忙しかったんですけど、毎朝早く起きて朝ご飯を用意し、子どもたちのお弁当を作りました。夜は7時前に仕事を終わらせて大急ぎで帰り、まず炊飯器のスイッチを押して、ご飯ができるまでにスープとおかずを少なくても4品作りました。子どもたちが、まるでひながアーンと口を開けて親鳥からの餌を待っているように見えたから、急がないといけないと思って。
お菓子もほとんど手作りでした。誕生日のケーキは自分で焼きましたし、ハロウィーンのパンプキンパイもたくさん作りました。
年間を通じた行事での料理は手作りし、それを頂くことで行事の意味を皆で考えました。サンクスギビング(感謝祭)では七面鳥を焼き、収穫や家族全員の健康に感謝の気持ちを持ちました。
3人の子どもは全員男でしたが、台所に立たせ、一緒に料理することで成長を促しました。切ったり炒めたりする時に油断をするとけがをしますから、それを避けるため集中力が付きます。やり通すことの大切さも学べます。失敗を経験することも大事ですし、だからこそ成功した時の喜びも感じられます。一緒に食べてる人と喜びを分かち合えることの素晴らしさを教えました。
私は子どもが1人で食べることがないように気を使いました。1人で食べることは、精神的によくないと思うからです。3人の子のうち2人が友達と約束があるので出掛け、1人だけが家に残る日もあります。そんな日にたまたま夫も私も仕事で一緒に食べられないという時は、1人残る子どものため、事務所のスタッフに一緒に食事してもらったこともあります。
共食で愛伝える
3番目の子が中学の時のことです。2人の兄はもう家を出ていました。夫は仕事で外食をする、息子は友達と約束して夜に出掛け、私1人だけ家で夕飯を食べるという日があったんです。
そろそろ夕飯を食べようかという時、息子が帰ってきました。「ママ、夕飯食べよう」って。私に1人で食事をさせないために、いったん戻ってきたというんです。私、あまりにうれしくて泣きそうになりました。急いでご飯を食べ終え、息子を玄関まで見送ったことを鮮明に覚えています。
わが家の味を覚えた子は、必ず家に戻ってきます。その味を食べた時に、自分は親から愛されているんだという安心感を得るからだと思います。
子どもはもう33、30、23歳になり、全員アメリカに住んでいますけど、家に帰ってきた時には喜んで私の料理を食べてくれます。
スペアリブ、栗と鶏の煮込み、カレー味の春巻き、野菜の中華風の炒め物など。子どもの頃に好きだった料理を並べ、楽しく会話をしながらいただきます。
食事というのは、親が子どもに愛情を伝える一番早い方法だと思います。子育てをしている若いお母さんには、食事を通じて良い思い出を作ってあげてほしいですね。(聞き手・写真=菊地武顕)
アグネス・チャン 1955年、香港生まれ。72年、「ひなげしの花」で日本で歌手デビュー。「草原の輝き」「小さな恋の物語」などのヒット曲を出した。ボランティア活動にも注力し、2016年、国連児童基金(ユニセフ)・アジア親善大使に就任。18年に旭日小綬章を受章した。「未知に勝つ子育て:AI時代への準備」など教育本を多数出版。
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2019年11月25日

宮川俊二さん(フリーアナウンサー) オンリーワンの味楽しむ
実家は愛媛県宇和島のかんきつ農家でした。父親はとても研究熱心で、自分でミカンの品種改良もやっていました。標高が高くなると気温が低くなる点を利用して、山の上の方で桃や梨も植えていました。
父はミカン農家
家の周りはブドウ園で、自家用に栽培していました。父はブドウを一升瓶に詰め、水を加えて、発酵させて飲んでいました。私も発酵前の渋いジュースを飲んでいました。
うちは7人きょうだいです。亡くなった兄は東大の農学部を出て、長野県の試験場で「ふじ」などリンゴの育種に携わりました。
今から50年も前の話です。兄によれば、ミカンは暖かい所ならどこでも作れるので産地の優位性が出しにくい。それに対してリンゴは、寒い地域でしかできなくて適地も限られるので、これからも有望だと言っていました。
あとは姉が5人いました。一番下が私です。両親は土地や山を切り売りしつつ、私たち全員、大学を出させてくれたんです。
研究熱心な父の作るミカンは、酸味と甘味のバランスが絶妙で、他のミカンとは深みが違いました。街の果物屋さんも「宮川さんのはいい」と言ってくれていました。でも誰も家業を継がなかったので、父は最終的には自宅の周り1・5ヘクタールくらいの畑でミカンを栽培し、80歳で亡くなりました。
東京の大学に入り、就職して、自然と農業から退いていった私ですが、子どもができてからは、父は何を考えて農業をやっていたのだろうと考えるようになり、何か農家の役に立てないかという気持ちが強くなってきました。
私は大学で教壇に立ち「他の誰にもない自分だけのもの」を大事にしろと言い続けてきました。では、取材や食べ歩きを通じて多くの生産者やシェフとつながりがあり、情報発信力もある私だからこそ、できることは何か?
生消の懸け橋に
徳島県の湯浅さんという方が、とても小さなシイタケを持って来てくれました。剣山の標高600メートルほどの高地で採集した菌を培養したもので、作っているのは湯浅さんだけ。まさに「他の誰にもない自分だけのもの」ですよね。うま味が凝縮されているのに、あまりシイタケ臭くないんです。そこで洋食にも合うんじゃないかと思い、恵比寿「ジョエル・ロブション」の渡辺雄一郎シェフのところに持って行きました。渡辺さんもとても気に入り、シャンパンのイベントの時に湯浅さんのシイタケを使った料理を提供したんです。私はその様子をブログで伝えました。すると他のシェフたちも「渡辺さんが使っているのなら」と興味を持ってくれたんです。
これだ! 以来、生産者とシェフや消費者をつなぐことで、農業の手伝いをするようになりました。シェフは気になる食材があれば、生産現場を訪ねて質問を繰り返しますし、消費者の嗜好(しこう)を教えてくれます。おかげで農家の方も、モチベーションが上がるわけです。
昔、父は酒を飲みながら、「俺がこんなに頑張って作っても、あんまり熱心じゃない人のミカンと一緒にされてしまうんだよな」とブツブツ言ってました。
たしかに当時の生産者は作るだけで、その先のことは分からないままでした。でも今なら、消費者とつながることができます。各地の農家の皆さんが作る「他の誰にもない自分だけのもの」を楽しみに食べたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
みやがわ・しゅんじ 1947年、愛媛県生まれ。70年にNHKに入局。93年に退職後、ベトナムで日本語講師として活動。帰国後はフジテレビ「ニュースJAPAN」などさまざまなニュース番組でキャスターを務める。2008年から早稲田大学非常勤講師を務めた。ワインに造詣が深く、名誉ソムリエの称号も持つ。
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2019年11月05日

松島トモ子さん(女優・歌手) 豪華な宴 締めは母の鶏飯
食べ物についての思い出と言えば、子どもの頃に母が自宅で開いたパーティーのことですね。私が世話になっていた番組の関係者、多いときには100人くらいもの方々を招いて、料理や酒を楽しんでいただきました。
自宅に100人招き
母は、自分の母、私にとっての祖母が海外で開いたパーティーを見ていたから、自宅にお客さまを招くことを楽しみにしていたんだと思います。
母方の祖父は三井物産に勤め、海外を転々としていました。その頃の三井物産は最盛期で、それはもう豪華な海外生活。現地の家には4面のテニスコートがあり、香港在住の時なら中華、和食、洋食とそれぞれ専門のコックを雇っていたそうです。
祖母はパーティーが開かれるたびに陣頭指揮を執り、何十人、何百人ものお客さまのために世話をしたと聞いています。
私の父も三井物産に勤めており、私が生まれたのは、満州国の奉天市です。
戦時中、父は招集を受けました。奉天に帰ってくることなく、昭和20(1945)年の敗戦の後に母と乳飲み子の私だけで日本に引き上げ、東京にある母の実家に住み始めました。
父が抑留先のシベリアで亡くなったことを知らされたのが、昭和24年のことです。戦友の方が訪ねていらして「埋めて来ました」と報告してくださいました。
昭和24年といえば、私が芸能界に入った年です。私は3歳からバレエを習い、ニュース映画で「小さな豆バレリーナ」と紹介されたんです。そのニュースを見た阪妻(阪東妻三郎)さんにスカウトされ、すぐに子役として映画に出演するようになりました。
私は祖父母の立派な家で不自由なく暮らせましたが、敗戦後の日本はとても貧しかったわけです。娯楽といえば映画くらいしかないんですが、その入場料を払うのは大変でした。「お金をためて、トモ子ちゃんの映画を見に行くからね」と声を掛けられることも多く、私は子ども心にも「皆さんを元気にしたい」という使命感に燃えました。次から次へと映画の企画が持ち込まれ、いつも5、6冊の台本を持ち歩いていました。
お茶漬けいかが
テレビの時代に入った頃ですから、昭和30年代ですね。母が自宅でパーティーを開き、お世話になっているテレビ局のスタッフをお招きするようになりました。
メインの料理は「お茶漬け」。スタッフの方に「お茶漬けを食べにいらっしゃいませんか」と声を掛けますと、「え、お茶漬け?」と、変な顔をされました。
でも実際は、祖父母が海外で行ったのと同じように豪華なパーティーなんですよ。母は何日も前から入念な準備をしました。料理は、一流の洋食店や中華料理店から運んだり、コックを招いて作っていただいたり。母はというと、にこやかに皆さんに酒をお渡ししていました。
その最後に母が手作りした鶏飯が出るんです。奄美大島の郷土料理をアレンジしたもので、じっくりと時間をかけて鶏を煮込んで作ったスープを、ご飯の上に掛けて召し上がっていただくんです。母が皆さんに取り分けました。
母は料理が上手なんですが、私にいろいろと作ってくれるようになったのは、祖母が亡くなってからです。それまでは、手伝いが作る料理を食べていました。それだけに子どもの頃にパーティーで出た鶏飯は、私には忘れられないものなのです。(聞き手=菊地武顕)
まつしま・ともこ 1945年、満州国奉天市生まれ。49年に銀幕デビューし、「獅子の罠」「鞍馬天狗」「丹下左善」「サザエさん」などに出演。「村の駅長さん」「風にゆれるレイの花」など童謡歌手としても活躍した。11月下旬、飛鳥新社より介護に関する書籍を出版。12月20日に東京・成城ホールでコンサートを開く。
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2019年10月29日

六角精児さん(俳優) 野菜嫌い変えた妻の料理
劇団員というのは、それ自体が収入になるような「職業」ではないんですね。「活動」と言った方がいいようなもので、そのため20代、30代の頃は生活がままならなかったわけです。
その頃は食事と言えば、どうしても炭水化物を取ることが多かったです。家でインスタントラーメンを食べた上、外食でもラーメンとか。すごく偏った生活を20年くらいしていました。
それでも大きな病気をしなかったのは、子どもの頃に食べていた母親の料理のおかげだと思うんです。母親は外食を許してくれませんでした。マクドナルドに行ったことはなかったし、吉野家の牛丼も知らなかったくらいです。
母親の作るものはおいしいんですよ。でも中学生、高校生の頃って、外で食べたいじゃないですか。大学に入って自由な時間が持てるようになり、反動が出た。抑圧されていたものが解放されたと言うんでしょうか。取り付かれたように外食をしました。世の中にこんなうまいものがあったのか、と。
もともと僕の味覚はずぼらで、化学調味料が好きでした。中華料理店で丸い大きなお玉で化学調味料を入れたチャーハンとか、ものすごくおいしく感じたんです。
不摂生の結果…
このような反動や経済的な問題で偏った食生活を続けた結果、40代になって痛風の発作が出たんです。慌てて病院に行って血液検査をしてみたら、尿酸値だけでなく中性脂肪などいろんな数値がひどい状態でした。その上、尿路結石にもなってしまって。
これはいけないと薬を飲み、歩くようにしました。薬は今でも飲んでますが、運動はそんなに続かなかった。でもちょうどそのタイミングで結婚をして食生活が大きく変わったので、それが良かったんではないかと感じています。
常に台所に緑黄色野菜、きのこ、豆腐や納豆がある生活が始まりました。嫁さんは栄養バランスとかカロリーが書かれたものを冷蔵庫に貼って、毎朝、野菜中心の料理を出してくれるんです。
大切さ体で実感
昔は野菜嫌いだったんですよ。野菜なんて味がしないと思ってました。化学調味料が好きだったわけですからね。でも嫁さんの作ってくれる料理を食べ続けていくうちに、おいしく感じられるようになっていきました。
50歳になって一回りして落ち着いたわけです。食の大切さを体で知る年齢になったと言うんですかね。体に良いものがおいしく感じられるようになりました。
それまであまり食べなかったオクラやモロヘイヤが好きになったし、グラタンに入れたブロッコリーがおいしく感じられるようになりました。焼いたレンコンも好物で、昨日も朝食に出たので喜んでいただきました。この間食べた万願寺とうがらしもおいしかったし、ネギの甘さを楽しむようになりました。最近気に入っているのはミョウガですね。
若い頃は「なんだ、野菜か」と思っていたのに、今では「この野菜はどんな味かな」と興味を持ち、野菜たっぷりの弁当を選ぶようになりました。北海道の北見に行った時に、タマネギ畑が広がっているのを見て、うまいんだろうなあとオニオンスライスを連想したくらいです。
野菜をおいしく感じられるようになると、それを作ってくれる方々の苦労にも思いをはせるようになりますね。食べ物の間口が広がったわけですから、人間の間口も広がればいいんだけど。(聞き手=菊地武顕)
ろっかく・せいじ 1962年、兵庫県生まれ。善人会議(後に劇団扉座)の旗揚げに参加し演劇活動を続けながら、映像作品にも出演。ドラマ・映画「相棒」シリーズの鑑識官・米沢守役、2005年のドラマ「電車男」で人気を博す。熱心な鉄道ファンとしても知られる。主演映画「くらやみ祭の小川さん」が25日に公開。
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2019年10月19日

市毛良枝さん(女優) 豪華さより「心の満足度」
今年の夏は十数年ぶりにベランダで、ナスとキュウリとトマトを作りました。
前は毎年作っていたんですが、親の介護がありましたから、長いこと休んでいました。今年、断捨離でいろいろなものを整理していたところ、昔使っていた土が出てきましてね。東京だから土も買わないといけないでしょう。せっかく買った土を捨てるのもなんだかと思って、作ってみたんです。天候が良くなかったのであまり収穫はありませんでしたが、久しぶりに楽しめました。
実家で父が家庭菜園をしていたので、私も東京に出てきてから見よう見まねで始めたんです。
母は父が作った野菜をぬか床に漬けていました。あまり料理が得意な方ではないんですが、父はよく「母さんの何の変哲もないみそ汁と漬物、卵焼き……。そんなのがいいね」と話していました。夫婦ってよくしたもんだ、男の人は妻の味にほっとするんだと思った記憶があります。
私は文化も料理も洋風なものが好きでして、米があまり得意じゃない時期がありました。でも30年くらい前に米の組合さんの宣伝を担当させていただいて、そこの食品研究所の方が炊くご飯のおいしさに驚き、目覚めたんです。
登山で“米派”自覚
それに加えて5000メートルを超える高い山に登るようになって、自分にはやっぱり米なんだと実感するようになりました。
私は外国に行くと、現地の料理をおいしくいただきます。行った先のものを食べたい方です。登山の時でも、ある程度の高さまでは現地の食事を全然平気で食べられるんですが、キリマンジャロやエベレストのベースキャンプまで登ると現地の食を食べられなくなるんです。平地でならパン好きなのに高地だとパンはパサパサしていて喉を通りません。最後はやっぱりご飯。湯を注いだアルファ米とみそ汁に、つくだ煮の缶詰。酸素の薄いぎりぎりの所では、自分が食べてきた最もなじみのあるものしか、食べられなくなるんですね。
キリマンジャロでは高山病にかかってしまいました。食欲はありませんが、栄養を取らないといけません。その時は日本の食材をあまり持って行かなかったので、現地の方が作ってくれたジャガイモを煮た料理をひたすら食べました。高山では、野菜といえばジャガイモしかないんですね。
朝は野菜中心に
日常生活では、朝に自宅で野菜をたくさん取るようにしています。朝にきちんと食べないと、その日一日調子が良くないですね。それに自宅で作って食べるというのが大事だと感じます。いくら豪華な料理でも、外食ばかりが続くと、心の満足度はいまひとつ。
食事をしながら会話を楽しむというのも大事で、心の満足度を満たしてくれます。私は3カ月に1度、3人の友だちと持ち寄りパーティーを続けています。とても楽しいイベントですね。
このたび出演した映画「駅までの道をおしえて」では、久しぶりに塩見三省さんと夫婦役で共演しました。塩見さんは脳疾患の後、リハビリをされて復帰したそうです。その病院が、私の母が世話になった病院と同じということもあって、「リハビリは大事よね」と話し合いました。
ロケ先の食事は弁当ではなくケータリングで、野菜もたっぷり入った出来たてのアジア料理でした。温かい食事をいただきながら、塩見さんと久しぶりにおしゃべりができてうれしかったです。(聞き手・写真=菊地武顕)
いちげ・よしえ 1950年、静岡県生まれ。71年に「冬の華」でドラマデビュー。「小さくとも命の花は」(77年)などライオン奥様劇場に連続出演した。映画では「地雷を踏んだらサヨウナラ」「ベルナのしっぽ」など。趣味は登山で、日本トレッキング協会理事を務める。映画「駅までの道をおしえて」が18日公開。
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2019年10月12日

マルシアさん(歌手・女優) 食卓に並んだ二つの文化
父方の祖父母は静岡県から、母方の祖父母は高知県から、移民としてブラジルに渡りました。私はブラジルで日系3世として、祖父母や両親から日本の文化、食や音楽に触れる形で育てられました。
父方の祖父は日本で農業を学び、その技術を用いて作物を作るという夢を抱いてブラジルに渡り、サンパウロ州の町に住みました。特に実家が茶畑をやっていたので、日本茶を作りたかったんです。
柿を広めた祖父
でも日本とは土地も水も気候も全く違います。お茶はもちろん、米、ジャガイモ……何を作ってもうまくいきませんでした。全てが失敗の7年間。ついに食べ物がなくなるくらいになってしまって、私の父が生まれて3カ月の時に、別の町に移りました。私が生まれ育ったモジ・ダス・クルーゼスという町です。
祖父はそこで、新たな勝負をしました。今度はフルーツ。ポンカンや柿、ビワなどに挑戦したんです。
するとそれが大当たりしたんです。大成功した祖父は日本のフルーツを広めていったので、ブラジルでも根付きました。日本と同じくポンカン、柿という言葉で呼ばれています。
母方の祖父母も農家。ニンジンやレタスなど野菜を作っていました。祖母は必ずこんにゃくを持って私の家を訪ねたので、私は常に食べていました。祖母が作ったものです。芋から作ったのかどうかまでは分かりませんけど。
そのように日本の食と文化を大切にした祖父母のおかげで、食卓には必ずみそ汁がありました。私は苦手でしたが、祖父は納豆が好きでよく食べていました。
正月には家族全員が集まり、かまぼこや栗きんとんなどが入ったお節を何日も続けて食べました。他には刺し身、のり巻きが並び、餅も。私は餅には砂糖としょうゆを付けて食べていました。
ブラジルにはブラジルの食文化があります。野菜とフルーツが豊富な国です。レストランは基本的にビュッフェ方式で、サラダ用だけでも何十種類もの野菜が並びます。マンゴー、アボカドは、日本で作られるものの何倍も大きいんです。アボカドは真ん中から切って種を取り、そこに砂糖とレモンを垂らしてつぶしていただくんです。それにビタミーナと呼ばれるジュースにも使います。アボカド、牛乳、砂糖とコンデンスミルクをミキサーにかけて飲むんです。ほとんど毎朝いただきました。
ご飯も食べ分け
うちの食卓には、日本とブラジルの両方の食文化を取り入れた料理が並びました。
ご飯は、日本のような粘りのあるお米を炊いたものと、向こうの長粒米をガーリックで炒めたものを、時と場合で食べ分けました。
みそ汁と一緒に、フェイジョンというブラジルの豆のスープも出ました。汁物は必ず両方がテーブルに出るんです。ブラジル式の肉料理やサラダと一緒に、筑前煮や魚の南蛮漬けが並んだりしていました。二つの文化が、私の体をつくってくれたんです。
日本に来たことで日本の良さを深く知ることができたり、逆にブラジルの良さを改めて感じたりすることができました。今年でデビュー30周年を迎え、アルバムを出しました。その中の1曲は日本語の他に、私が歌詞を翻訳したポルトガル語バージョンも入れています。故郷への思いを届けたいと考えたからです。二つの国の人々と文化に感謝しています。(聞き手、写真=菊地武顕)
マルシア 1969年、ブラジル・サンパウロ州生まれ。86年に開かれた歌謡選手権で作曲家の猪俣公章氏の目に留まり来日し、89年に「ふりむけばヨコハマ」でデビュー。今年9月、自らポルトガル語で作詞した楽曲も収録したアルバム「真夜中のささやき」を発売。10月26日に浜松で、11月17日にビルボードライブ東京でライブを開催。
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2019年10月05日

川平慈英さん(俳優) 忘れられない母のケーキ
僕は沖縄で生まれ育ち、1972年の本土復帰の時に父の仕事の関係で東京に出てきました。
そんな僕のソウルフードは、沖縄で祖母が作ってくれた油みそです。みそにラフテー(豚の角煮)を加えたもので、ご飯に載っけて食べると絶品でした。
祖母は一緒に住んでいたわけではなかったんですが、僕たちが日曜に教会から家に帰ると、「また作ってきたよ」と油みそを持ってきて待っているんです。祖母はいつも香り袋を持っているから、玄関を開けたとたんに来ているのが分かるんですよ。「あ、油みそが来た」って。
沖縄独特の料理だと思っていましたが、実は全国に同じようなものがあるんですね。でもあちこちで食べましたけど、おばあちゃんの味にはかないません。とっても濃厚で、優しさにあふれていて。愛が詰まった味でした。
米国で農業体験
もう一つ忘れられない味は、母が作ってくれたキャロットケーキ。うちではキャロットブレットと言ってました。
母はアメリカ人で、カンザス州のヘストンという人口2000人くらいの農村の出身。実家は農家で、主に小麦と綿を栽培し、豚と羊も飼っていました。うちは男3人の兄弟ですが、川平家のしきたりとして、子どもたちは小学4年生になるとヘストンの伯父の農場に1年間ホームステイして、農作業の手伝いをさせられるんです。子どもであっても、戦力としてしっかり働かないといけません。
毎朝5時に起きて羊のわら替えをしました。コンバインやトラクターの運転も覚えさせられました。まだ小学4年生ですけど、交通のない私道で乗る分には問題ないというので。子どもの僕が、ジョンディアという緑色の大きなトラクターを運転したんです。
余談ですけど、おかげで18歳になって東京で運転免許を取る時、初日から半クラッチも坂道発進も縦列駐車も楽々できました。教官に驚かれましたね。
共演者にも好評
そういう農家に生まれ育ったわけですから、母のキャロットケーキは、たっぷり入ったニンジンの味が効いてました。ニンジンをすりおろすのは、僕たち子どもの役目。大きなボウルにたくさんすりました。生地はしっとり。レーズンが入っていて、酸味と甘味のバランスが良かったですよ。
母は去年の1月に亡くなりましたけど、それまで僕の舞台に必ずこれを差し入れしてくれたんです。あまりにおいしいので、共演の皆さんの間でも好評で、心待ちにされていたんです。「ジェイのお母さんのキャロットケーキ、今度は、いつ来るの?」と。それを母に言うと、満面の笑みで「え、そんなに有名なの?」と言って、作ってくれたものです。
4年前に突然、伯母が三線(沖縄の伝統楽器)を送ってくれました。「もう私はやらないから」と。僕は自分のルーツに強い興味を持ち始めていたので、練習を始めてみました。
半年後。東京に出てきている親戚らが集まる、恒例のクリスマスパーティーがありました。みんなチャンプルーなど沖縄料理を持ち寄り、母はキャロットケーキを作り、おいしく食べ、歓談しました。
そこで僕は三線で「てぃんさぐぬ花」を弾きました。このサプライズに、両親が号泣したんです。僕も演奏しながらもらい泣きをしてしまいました。母が亡くなる前に三線を披露できたのは、本当によかったと感じています。(聞き手=菊地武顕)
かびら・じえい 1962年、沖縄県生まれ。上智大学在学中からミュージカルに出演。97年、「雨に唄えば」で読売演劇大賞男優賞受賞。読売サッカークラブユースなどでの選手経験を基に、サッカー中継ナビゲーターとしても活躍。11月1日から東京・シアタークリエでのミュージカル「ビッグ・フィッシュ」で主演。
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2019年09月28日

ヒロシさん(お笑い芸人) おいしいご飯あれば幸せ
最近、海外に行く仕事が多いんです。外国で気に入った食堂を探して入って食べるという番組も、やらせていただいています。
海外での食事って、一食いただく分にはいいんですよ。でもそれがずっと続くと……。長い時は9日間で18食のリポートをします。僕はピザが好きでイタリアに行った時にピザを食べたのですが、なんておいしいんだと感じましたね。でも2食目、3食目になっていくと、感動は薄くなっていきます。ピザ以外の料理を食べても、基本的な味付けが似てるからどうしても飽きてくるんです。
海外にも米持参
やっぱり日本が一番うまいと感じます。日本の米が大好きで米なしでは生きていけませんよ。
僕、お酒を飲めないので食事をするといったらとにかくご飯を注文します。時々定食屋で、あんまり炊き方がうまくないなと感じることがありますけど、それでもやっぱりおいしいんです。
僕が日本人でなじみがあるから日本の米をおいしく感じるんでしょうけど、では外国人が食べたらどう感じるんでしょうね? 抵抗感や違和感があるのかな。最初はそうでも、やがておいしいと感じるんでしょうか。僕は海外の米を食べ続けても、おいしく感じない自信がありますけど……。
この間、フィンランドでキャンプをしてきました。ご存じの方も多いかもしれませんが、僕はキャンプが大好きで。
ホテルで2泊、キャンプで3泊という日程。米を持って行くことにしました。本当は毎食、ご飯を食べたかったんですが、飛行機に積む荷物の重量に規制もあり、米は2食分、2合しか持って行けませんでした。キャンプ道具など結構な荷物がありますからね。
この米をいつ炊いて食べるか。ずいぶんと考えましたね。結局、旅の3分の1と3分の2のタイミングで食べました。
1食目は、向こうで買った牛肉を焼いておかずにしました。2食目は、日本から持って行ったインスタントみそ汁とふりかけで。これが染みましたねぇ。ずっと現地の食事を続けた中、キャンプ地でご飯を炊いて食べる。インスタントみそ汁とふりかけしかなくても、心に染みて来たんです。
炊き方に一工夫
僕は、おかずにはこだわりがありません。ちょっとしょっぱい何かがあれば、それだけでご飯をおいしく食べることができます。
好きな米は、出身地・熊本の「くまさんの輝き」です。CMをやらせていただいているので宣伝臭くなっちゃいますが、本当においしいんです。フィンランドに持って行ったのもこれです。
家では、こんろを使ってダッチオーブンで炊いています。炊飯ジャーもあったんですけど、釜で炊くご飯の方が格段にうまいのでやめました。米を研ぐのは、ざーっと3回。炊く前によく水を吸わせるのが重要ですね。それに炊き上がり後はしっかり蒸らす。「赤子泣いてもふた取るな」といわれますけど、ふたを取らないとタイミングが分からず焦げてしまいますから、僕は取って確認します。
小さい頃、祖母の家に住んでいた時期があり、祖母は山から切って来たまきを使い、かまどでご飯を炊いていました。かまども祖母が作ったという話です。そういう家で育ったので、こんろで炊くことを楽しみに感じています。
おいしいご飯さえあれば幸せです。無人島に何か一つだけ持って行っていいというのなら、もちろん米を持って行きます。(聞き手=菊地武顕)
ヒロシ 1972年、熊本県生まれ。2000年代「ヒロシです」のネタで一世を風靡(ふうび)。近年は趣味のキャンプの様子などを伝える「ヒロシちゃんねる」を配信し、ユーチューバーとしても活躍する。「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」(BS朝日)レギュラー。近著に『働き方1・9 君も好きなことだけして生きていける』(講談社)。
2019年09月21日

黒沢年雄さん(俳優) “最後の晩餐”は おにぎり
僕は昭和19(1944)年の生まれ。横浜ですから周りには田んぼや畑がなく、農家は一軒もないんです。しかも二つ違いずつ、弟が3人もいた。生活は大変だったはずですが、振り返ってみると僕はその状況を楽しんでいました。
外で遊んで「おなかすいた」と帰ってくると、まきで炊いたご飯ができている。おこげがあってね。おふくろが握ってくれたおにぎりはうまかったなあ。塩を付けたり、しょうゆだったり、みそだったり。肉なんて食べたことがない。ごちそうといえばコロッケ。そういえば野菜もなかったような気がします。ネギだけはあったようだけど。
初めてのバナナ
僕が病気をした時に、おふくろがバナナを買ってきて食べさせてくれました。栄養があるというので。当時のバナナといえば、1本100円の高級品です。世の中にこんなにうまいものがあるのかと思いました。
ある日、今度はおふくろが病気になって寝込んだんです。僕は小学校低学年。どうしようかと考えた時に思いついたのが、2羽の鶏。卵を産むと思って夜店でひよこを買ったのに、大きくなっても産まなかった。売っているのは雄だけだなんて知らなかったんです。コッコと呼んでかわいがっていましたけど、商店街の肉屋さんに持って行きました。
2羽で220円で売れたのでバナナを2本買い、病床のおふくろに渡しました。「どうしたの?」「コッコを売って来た」と。おふくろは喜んで、泣いて僕のことを抱き締めましたね。
当時は悪い誘惑もいっぱいありました。薬局でヒロポンが普通に売られてました。ちょっと年上の兄さんたちはみんなやってましたよ。「年ちゃんもやらない?」と誘われたけど、いつも断った。おふくろのことを思ったら、そんなことはできませんでした。
なんとかおふくろを幸せにしたいと思って、プロ野球選手を目指したんですけど駄目で。幸い、後に俳優として成功はできましたけど、その前、僕が16歳の時におふくろは亡くなりました。
家事はきちんと
おふくろのように家事をしっかりやった上、愛情を持って子どもを育てる。それが大事だと思うから、僕は結婚前に女房に言いました。「女はミシン、セーター編み、縫い物ができないと駄目。魚を下ろし、おしんこを漬けられなければ駄目。それができる人としか結婚しない」と。彼女はモデルですが、僕はきちんと家事をすることを求めました。
女性を蔑視しているわけではありません。逆に僕は男として、女房に金の心配はさせないし、決して暴力は振るわない。何かあったら命懸けで彼女を守ります。
徹底的に話し合い、お互いに納得の上で結婚し、2人で子どもに愛情を注ぎました。
僕は25年ほど前にガンの手術を受けました。75歳となった今は、その時とは生きることについての考えが変わってきました。80歳を過ぎたらもう大きな手術はしないと決めています。そのまま静かに去っていきたいんです。これはあくまで僕の生き方、ポリシーで、他の人が選ぶ道についてどうこう言うつもりはありません。僕は既に生前葬も済ませ、位牌(いはい)も寺に置いてもらっています。
最後の晩餐(ばんさん)ですか?おにぎりですよ。塩、しょうゆ、みそ。どれがいいか悩みますね。うーん、小さいのを3個食べたいです。(聞き手・写真=菊地武顕)
くろさわ・としお 1944年、神奈川県生まれ。高校を中退し、キャバレーのボーイ、車のセールスマンなどを経て、64年に東宝のオーディションに合格。数々の映画、ドラマに出演する他、大ヒット曲「時には娼婦のように」(66年)など歌でも活躍。1月に発売した新曲「ゆかいなじいちゃん」で、全国を公演中。
2019年09月14日