田嶋陽子さん(女性学研究者) 食べたい物 自分の稼ぎで

田嶋陽子さん

 食べ物の思い出で一番強烈なのは、戦中戦後の「居候」生活でのことですよね。

 私は生後6カ月で、父の仕事で朝鮮に連れていかれました。でも2歳になる前に父は徴兵され、母の才覚で母と私は日本に戻りました。戦争に負けてからのいわゆる引き揚げとは違うので、ひどい目に合わずに済んだのですが、帰ってからが大変でした。
 

戦後の居候生活


 静岡県御殿場の父の実家に住むことになりました。そこですごく差別を受けたんですね。食卓のみんながお魚を食べてる時に、母と私だけはないとか。当時は食料がなかったので仕方のないことでしたが。私が「お魚を食べたい」と泣くと、母はピシャリと私の頬をたたきました。

 屈辱的な暮らしから母が感じたのが、「女も手に職を付けないといけない」ということでした。

 耐え切れなくなった母は、父の戦死の知らせを機に、私を連れて新潟の自分の実家に戻りました。でも実家とはいえ、出戻りみたいで肩身が狭いわけです。兄夫婦がいますし、弟たちもいたので。

 敗戦から半年くらいたったある日、死んだと言われていた父がひょっこり帰ってきました。

 ちょうど母が、よそに嫁がされるというタイミングでした。口減らしのために嫁がないといけない。そういうことが普通にあった時代です。父が帰って来て、母は本当に喜んでいました。

 それでいったんまた父の実家に世話になった後、静岡県の沼津に住むようになりました。

 食べ物といえば、代用食と言われたサツマイモとカボチャ。ほんのちょっとの配給米をサツマイモと一緒に炊くと、芋にご飯粒がくっつくんですね。私は一粒ずつ剥がしてまとめて、最初に芋だけ食べてから、一口分のお米のおいしさを味わいました。

 それと毎日のように湯豆腐を食べました。当時、豆腐は白い立方体の遺骨の箱に見立てて、戦争に人を送り出す時に食べさせたりと、あまり良いイメージのものではありませんでした。

 おいしく思ったのは配給の砂糖で、チビチビなめました。父は火鉢の上に金属の皿を置き、そこに砂糖を置いてカラメルを作ってくれました。それがなんともおいしかったこと、忘れられません。

 他には何も覚えていません。食べられるだけでありがたい。そんな子ども時代でした。
 

厳しい母の教え


 父が帰ってきて、母は弟を出産した後、病気になりました。脊椎カリエスといって、毎日、注射器で膿(うみ)を抜いているうちに、そこから欠けた背中の骨が出てくるというひどい病気でした。戦争中の苦労、まきを背負って歩いていて谷に落ちたのも原因かもしれません。私が小学校6年の時に薬が開発されたんですが、当時は治療法はありませんでした。

 平らで石みたいなコルセットに寝たきりの生活。死を意識した母は、それまで以上に私を厳しくしつけました。「女でも、自分の食いぶちは自分で稼ぐように」と。何かあるたび、ベッドに備えた二尺物差しでたたかれました。

 私は女だからということで、なりたい職業には就けませんでしたが、大学で教えてお給料を頂きました。母の教えの通り、自分で稼いだお金で好きな生活を送り、好きなものを食べています。

 私はお米が大好き。朝は必ずご飯。昼は麺を食べることが多く、夜はまたお米。いえ、お米のエキス=日本酒をいただいています。(聞き手=菊地武顕)

 たじま・ようこ 1941年岡山県生まれ。津田塾大学大学院博士課程修了。同大講師などを経て、76年から法政大学教授。参議院議員、タレントとしても活躍。近年は書アート、シャンソン歌手としての活動が顕著。長野・軽井沢のギャラリー花の妖精で、4月4~12日に書アート個展を、11日にコンサートを開催予定。
 

おすすめ記事

食の履歴書の新着記事

検索

e農サーチ e農サーチとは