大津美子さん(歌手) 戦渦でも工夫 両親に感謝
2020年11月07日

大津美子さん
古里の愛知県豊橋市は、昔から養鶏王国といわれていた所です。今でも愛知県養鶏協会は、豊橋に置かれているという話です。
私の父は神奈川県平塚市の出身で、東京で店をやっていましたが、鶏の卸をするために豊橋に来たと聞きました。
父は戦後、おいしい鶏料理を皆さんに食べてほしいと、鶏料理店を始めました。
子どもの頃、よく父が「鶏は足が早いからすぐに食べなさい」と言っていたことを思い出します。そんな環境で育ちましたので、鶏料理にはこだわりがあります。
母の実家が豊橋の少し北にある新城市にあります。戦時中には新城に疎開。母の実家近くに家を借りて過ごしました。
時には父が、歯応えのある鶏肉を子どもたちが食べやすいように細かく切って、煮込んでくれていました。母は煮魚が得意でした。
戦時中ですから食べ物に限りがあります。自給自足のような生活をするのが当たり前で、畑で野菜を作っていました。
私たちが畑で取った野菜などを使って、母はいろいろと味を工夫して食べさせてくれました。おかげで寂しい思いやひもじい思いをせずに済みました。豊橋の方を見ながら、友達や近所の人たち、知り合いは、何を食べているんだろうと思ったものです。
貧しい時代でしたが、父と母が、子どもたちのことをいろいろと考えてくれていたんだと、今は感謝しております。
私が歌を学び始めたのも、新城での疎開生活中でした。寺で歌を習ったのです。
終戦後は、赤十字のボランティアに参加しました。学校が終わるとボランティアとして、寂しくて泣いている子どもたちを元気づけるために、歌を歌ったり、一緒に遊んであげたりしたのです。この活動を通じて、自分自身いろいろと学びました。
その時に出していただいたスープの味が家の味に似ているので、どんな味付けなのか聞いたところ、鶏ガラを使っていると聞きました。懐かしくおいしかったことを今も覚えています。
他に豊橋と言えば、ちくわ、ウズラの卵の生産も盛んです。子どもの頃、母に「ちくわは焼いたり煮たりではなく、生で食べるのよ」と言われ、確かにおいしいとよく食べました。
また母は、みそにもこだわった上、いろいろな料理に使っていました。豊橋では赤みそを使います。みそ汁はもちろんのこと、赤みそを魚に付けて焼いたり、パンに付けたり、ご飯の上に載せたり。上京して食べたみそには、なかなかなじめませんでした。今も郷土の赤みそで料理しています。
1980年のある日、突然頭をバットで殴られたような激しい痛さに倒れました。
病名は「くも膜下出血」でした。もう私は駄目かもと思いましたが、奇跡的に回復。2年後にはカムバックできました。病気をして改めて、それまでの食習慣を見直しました。仕事で忙しかったこともあって、不規則な時間に偏ったものを食べてきたことに気付きました。それからは規則正しくバランスの良い食事をするようにしなくてはと思い、気を付けています。
おかげで歌手生活66年目を迎えた今も、歌い続けることができています。年を重ねた今だからこそ、皆さまの心の中に響くようにと歌い続けていきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
おおつ・よしこ 1938年、愛知県生まれ。55年、「千鳥のブルース」でデビュー。その2カ月後に出した「東京アンナ」が大ヒットし、翌年の紅白歌合戦出場。56年に出した同名映画の主題歌「ここに幸あり」は、国内のみならず、ハワイ、ブラジルなどの日系人の間で愛唱された。豊橋市のふるさと大使も務める。
私の父は神奈川県平塚市の出身で、東京で店をやっていましたが、鶏の卸をするために豊橋に来たと聞きました。
実家は鶏料理店
父は戦後、おいしい鶏料理を皆さんに食べてほしいと、鶏料理店を始めました。
子どもの頃、よく父が「鶏は足が早いからすぐに食べなさい」と言っていたことを思い出します。そんな環境で育ちましたので、鶏料理にはこだわりがあります。
母の実家が豊橋の少し北にある新城市にあります。戦時中には新城に疎開。母の実家近くに家を借りて過ごしました。
時には父が、歯応えのある鶏肉を子どもたちが食べやすいように細かく切って、煮込んでくれていました。母は煮魚が得意でした。
戦時中ですから食べ物に限りがあります。自給自足のような生活をするのが当たり前で、畑で野菜を作っていました。
私たちが畑で取った野菜などを使って、母はいろいろと味を工夫して食べさせてくれました。おかげで寂しい思いやひもじい思いをせずに済みました。豊橋の方を見ながら、友達や近所の人たち、知り合いは、何を食べているんだろうと思ったものです。
貧しい時代でしたが、父と母が、子どもたちのことをいろいろと考えてくれていたんだと、今は感謝しております。
私が歌を学び始めたのも、新城での疎開生活中でした。寺で歌を習ったのです。
終戦後は、赤十字のボランティアに参加しました。学校が終わるとボランティアとして、寂しくて泣いている子どもたちを元気づけるために、歌を歌ったり、一緒に遊んであげたりしたのです。この活動を通じて、自分自身いろいろと学びました。
その時に出していただいたスープの味が家の味に似ているので、どんな味付けなのか聞いたところ、鶏ガラを使っていると聞きました。懐かしくおいしかったことを今も覚えています。
他に豊橋と言えば、ちくわ、ウズラの卵の生産も盛んです。子どもの頃、母に「ちくわは焼いたり煮たりではなく、生で食べるのよ」と言われ、確かにおいしいとよく食べました。
また母は、みそにもこだわった上、いろいろな料理に使っていました。豊橋では赤みそを使います。みそ汁はもちろんのこと、赤みそを魚に付けて焼いたり、パンに付けたり、ご飯の上に載せたり。上京して食べたみそには、なかなかなじめませんでした。今も郷土の赤みそで料理しています。
病に倒れ気付き
1980年のある日、突然頭をバットで殴られたような激しい痛さに倒れました。
病名は「くも膜下出血」でした。もう私は駄目かもと思いましたが、奇跡的に回復。2年後にはカムバックできました。病気をして改めて、それまでの食習慣を見直しました。仕事で忙しかったこともあって、不規則な時間に偏ったものを食べてきたことに気付きました。それからは規則正しくバランスの良い食事をするようにしなくてはと思い、気を付けています。
おかげで歌手生活66年目を迎えた今も、歌い続けることができています。年を重ねた今だからこそ、皆さまの心の中に響くようにと歌い続けていきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
おおつ・よしこ 1938年、愛知県生まれ。55年、「千鳥のブルース」でデビュー。その2カ月後に出した「東京アンナ」が大ヒットし、翌年の紅白歌合戦出場。56年に出した同名映画の主題歌「ここに幸あり」は、国内のみならず、ハワイ、ブラジルなどの日系人の間で愛唱された。豊橋市のふるさと大使も務める。
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狩猟 動画で“体験”ふるさと納税返礼に 兵庫県養父市
ふるさと納税で狩猟体験はいかが──。兵庫県養父市は25日、ふるさと納税の返礼品として、リモート形式で狩猟を体験できるサービスを始めると発表した。地元猟師が遠隔操作型の囲いわなを使って鹿などを捕獲する様子を、動画で中継する。市によると、リモート形式で狩猟を体験できる返礼品は全国初。2月1日から募集を始める。
中山間地域を多く抱える同市は、県内でも野生鳥獣による農作物被害が多いのが特徴。毎年1200頭以上の鹿やイノシシが駆除されている。今回、市は「農作物被害の軽減に向けて活躍する猟師の活動を多くの人に知ってほしい」と、狩猟現場に触れられる返礼品を考案した。
同サービスでは、市内に設置された遠隔操作型の大型囲いわなを中継する。利用者はスマートフォンの専用アプリで、わなの様子をリアルタイムで見ることができる。わなにはセンサーが付いており、鹿やイノシシが入ると通知される仕組み。
動画を見ながら、チャット形式で猟師と自由にやりとりすることもできる。囲いわなを作動させる際には、事前に日時が伝えられ、捕獲時の様子を見ることができる。
寄付額は5万円。2月1日からの募集分(定員20人)では、4、5月の2カ月間、中継動画を楽しめる。終了後には鹿肉400グラムが手元に届く。市は「(返礼品を通して)猟師がどのように狩猟をしているのか、肉になるまでの一連の流れを知ってほしい」と話す。
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2021年01月26日
地域内外の知恵生かす 関係人口創出モデル報告会
鳥取県と長野県塩尻市は23日、「関係人口」の創出に向けた事業の報告会をオンラインで開いた。地域の住民や企業だけでなく外部の専門家らを巻き込みながら、関係人口を呼び込む企画を立案、実践する同市独自の手法を紹介。同市を参考に、農業分野の関係人口づくりを目指す鳥取県内の事例なども報告した。自治体職員や関係事業者ら約90人が参加した。
塩尻市は関係人口を呼び込む活動を企画立案し、実行するまでのプロセスを紹介。住民や企業が専門家の助言を受けて課題を整理し、活動の内容をまとめた「仕様書」を作成。実践に当たっては外部人材を募り、地域外の視点も入れながら進めているとした。
具体例として地場産ワインの消費拡大に向けて、広報の専門家の協力を受けてファン組織を設立。オンラインイベントも開いたことを報告した。
塩尻市の手法に注目した鳥取県は、関係人口の創出を目指す県内の自治体に情報を提供。実践に移している地域が内容を報告した。このうち大山町は、農業の担い手と労働力不足の解決を目指し、関係人口を呼び込む計画を発表した。鳥取県主催で「まちづくりワーケーションフォーラム」も開いた。休暇で訪問した先で働くワーケーションの将来像と関係人口の創出について、有識者らが意見を交わした。
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2021年01月24日
内閣支持が急落 コロナ対策で成果必要
日本農業新聞の農政モニター調査で菅義偉内閣の支持率が急落し、政権発足から3カ月余りで不支持率が上回った。新型コロナウイルス感染拡大防止対策と農業政策ともに評価が低いことが反映した。支持の回復には、感染防止と、農家を含む事業者の経営支援を最優先し、成果を上げることが不可欠だ。
農政モニター調査は昨年12月中下旬に行った。内閣支持率は44%で、発足直後の9月の前回調査から18ポイント下落し、不支持率は56%で同20ポイント上昇した。不支持は、首相の指導力のなさや信頼できないことなどが理由だ。新型コロナの感染拡大防止に向けた対応を「評価しない」との割合も高まり、7割になった。経済回復を重視し、感染防止対策が後手に回ったと国民から見られているといえそうだ。
農業政策でも「評価しない」(45%)が「評価する」(26%)を上回る。新型コロナ対策の経営支援も「評価しない」が6割で、評価するの2倍近い。
年が明けても感染拡大に歯止めがかからず、政府は11都府県に緊急事態宣言を再発令するに至った。飲食店の営業時間の短縮などで農畜産物の需要減少が心配され、すでに花きや高級果実は値を下げている。政権への信頼の低下が感染防止対策の不徹底につながり、感染者の増加が政権への不信感を生む。
こうした負の連鎖の中で農業経営も打撃を受けている。調査では、農業生産をしている人のうち、感染拡大の影響が続いているとの回答が5割を超えた。
負の連鎖を断ち切るには、時短営業を行う飲食店などへの十分な支援を含め感染防止対策に最優先で取り組み、併せて農畜産物の需要減少などで影響を受けた農家を徹底して支え、目に見える成果を出す必要がある。
首相肝いりの農林水産物・食品の輸出額5兆円目標の達成を巡っては「達成できない」と「過大だ」が4割を超え、やや懐疑的といえる。一方で「対策次第」が3分の1だった。輸出に農家が積極的になれるかどうかは、政策にかかっている。
日米貿易協定や環太平洋連携協定(TPP)、日欧経済連携協定(EPA)といった大型貿易協定については、程度に違いがあっても、9割近くが国内農業に「マイナスの影響がある」と予想する。影響の把握・分析をきめ細かく行い、必要に応じて対策を拡充・強化しなければ農政不信につながりかねない。
また、21年産主食用米の需給対策について「評価する」は1割強にとどまり、「課題があり見直しが必要」が4割近かった。米政策の改善では、転作推進のメリット拡充や生産費を補う所得政策の確立、生産資材の価格引き下げと米の消費喚起を求める声が強い。過去最大規模の6・7万ヘクタールの作付け転換を実現するには、米価下落への危機感の共有と対策の丁寧な説明で農家の理解を得ることが重要だ。併せて、農家視点での現行政策の検証も求められる。
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2021年01月21日

米輸出拡大 弁当から、香港に炊飯設備 全農
JA全農の米輸出拡大の一環で、全農インターナショナル香港は、現地企業に設備投資して国産米専用の炊飯設備を設置し、2月から販売を本格化する。おいしく炊く技術や設備を整え、米の輸出を加速する狙いだ。これを活用して日本食の弁当を製造し1日当たり約300食まで販売が拡大。今後は、飲食店や給食用への炊飯米も販売し、販路を広げる計画だ。
全農は輸出拡大に向けた政府の関係閣僚会議などで、海外の小売りなどとの関係構築が重要と訴えている。今回の連携は自らこれを実践する。
現地の食品会社、四洲集団の食品工場内に昨年、日本メーカー製のガス炊飯設備や洗米機器を設置した。費用約5000万円は、2社で出し合った。香港ではタイ米などの利用が多く、国産米をおいしく炊くには専用設備が有効と判断した。四洲集団も、日本と同じレベルのものを提供したいと意欲的という。
設備は1時間に2000食(1食200グラム)を炊く能力がある。全農子会社で給食事業を手掛ける全国農協食品が協力し技術指導や衛生管理、メニューの選定などを支援。全農グループのバックアップで、四洲集団が製造、販売する。
工場では昨年10月から製造体制の試験を兼ね、から揚げや焼き魚、筑前煮など和食を盛り込んだ「和(なごみ)弁当」を製造する。現地の宅配サービスを通じ、香港中心部のオフィス街などに販売し、売れ行きを伸ばしている。
2月以降、さらに販売を強化する計画だ。弁当だけでなく炊飯米を飲食店やスーパー向け、小・中学校の給食で使ってもらえるよう働き掛ける。地価の高い香港は調理場の狭い飲食店が多く、炊飯米は需要がある。全農側は四洲集団を通した米の販売拡大をきっかけに、現地で人気の日本の鶏卵、和牛や青果なども併せてPRしていく。
全農インターナショナル香港の金築道弘社長は「米の輸出拡大は極めて重要な課題。日本で食べたご飯のおいしさを褒める現地の人は多く、炊く技術を広げて米の輸出を盛り上げたい」と説明する。
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2021年01月23日
食料供給確保へ連携 気候変動にも対応 閣僚宣言を採択 ベルリン農相会合
世界の90の国・国際機関が参加したベルリン農相会合が22日夜、テレビ会議形式で開かれた。新型コロナウイルスの感染拡大や気候変動への対応が世界的な課題になる中、食料供給の確保に向けて連携を強化することで一致。食料価格の乱高下につながる輸出規制などの措置の制限、持続可能な農業生産に向けた国内農政の改革など、各国に求める行動をまとめた閣僚宣言を採択した。
同会合は、ドイツ政府主催で2009年以降、毎年開いている。今回のテーマは「パンデミック(世界的大流行)や気候変動の状況下で、いかに世界の食料供給を確保するか」。日本から出席した野上浩太郎農相は、人と家畜に共通する感染症を含めた「将来のパンデミック防止」の分科会で議長を務めた。
閣僚宣言では、新型コロナ禍の中で食料供給に努める農家らに「深い感謝」を表明。一部の国が食料の輸出を規制したことを念頭に、「貿易の不必要な障壁や、世界の食料供給網に混乱を生じさせてはならない」「食料価格の過剰な乱高下につながりかねない、いかなる措置も行われないよう注意する」などと明記した。
持続可能な食料供給と気候変動への対応の両立を重視する方針も打ち出した。地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」の目標達成に向けて、「市場と規制措置を含む国内政策を実施する」と表明。化石燃料の使用を削減する生産方法や作物の開拓を支援する。新たな技術は、特に小規模農家が導入しやすい価格にする必要性を強調した。
野上農相は、鳥インフルエンザなど越境性の動物疾病の感染拡大が食料安全保障のリスクを高めるとの考えから、人や動物の保健衛生を一体的に見る手法が重要と指摘。農林水産業の生産力向上と環境保全を両立するため、技術革新と投資を促す必要性を訴えた。こうした考え方も閣僚宣言に盛り込まれた。
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2021年01月24日
食の履歴書の新着記事

金原亭世之介さん(落語家) おいしい野菜こそが大切
6、7年ほど前に「原田氏病」という免疫の病気にかかりました。100万人に数人という割合の珍しい病気です。
まず視力がほとんどゼロになり、次いで聴力も落ちてきました。そこで、ステロイドを体に限界まで入れるという療法を取ったのです。病状は少しずつ良くなったのですが、副作用がひどくて。
突然の難病発症
私はもともと糖尿病の予備軍だったのですが、そんな体でステロイド療法をやったせいで完全な糖尿病に。インスリン注射を打ち続けないといけない生活になったんです。どうにかならないかと医者に相談しても、無理だとしか言われませんでした。
そこで自分なりに勉強して、どうやら野菜がいいらしいと分かりました。もともと野菜は大好きだったので、大量に食べるようにしたんです。まるで芋虫になったみたいに。
野菜は食事の最初に食べるのがいいというので、まずはカレーライスの皿に山盛りにしたサラダを食べるようにしました。夏なら大量のレタスがメイン。春や秋には代わりにキャベツを。レタスとキャベツを中心にして、キュウリ、ブロッコリー、カリフラワーなどをしっかり食べる習慣をつけました。海藻類もいいそうなので、ノリで野菜を巻いて食べるんです。
大盛りサラダを平らげてから、肉や魚を食べて、ご飯をちょっといただくんですが、その時にもインゲンのおひたしや、マイタケを食べるようにしました。
調子が良くなってきたんですが、今度は心臓に問題が起きて。発作で倒れてしまい、救急車で運ばれたんです。
心臓に良いものを食べないといけない。調べたら、梅干しが良いという。塩分が強いので良くないイメージがあったんですが、精製食塩は悪いが、昔ながらの海水を天日干しする製法の塩なら体に悪くないという。そういう塩を使った梅干しを食べてみたら、これがおいしいんですね。酸味とうま味を感じたんです。
同時に、塩自体のおいしさにも気づかされました。例えば宮古島産の雪塩。雪のように細やかな塩で、なめてもうまいんですよ。
それまでサラダにはドレッシングを掛けていましたが、梅干しをつぶしてエゴマ油であえて、掛けるようにしました。
そのような食生活を続けたところ、一時は500もあった血糖値が120くらいまで下がったんです。医者から、インスリン注射を打つと危険だから錠剤に切り替えるように指示されました。今では錠剤を飲む必要もなくなったほどです。
医者も驚く全快
私は全て野菜のおかげだと思っています。医者には「特異体質なんでしょう。まれな例なので、他の人には勧めないでください」とくぎを刺されましたが。
このような食事を続けましたら、舌が敏感になってきました。濃い味つけから、薄い味付けに変わり、食材の味そのものを楽しめるようになったんです。
同じスーパーで買っても、レタスがおいしい時とそうでない時がある。それが分かってきました。私はかみさんと一緒にスーパーに買いに行くんですけど、やがてどういうレタスがおいしいか、どういうキャベツがおいしいかも分かるようになってきて、きちんと見て判断して買っています。
病気のおかげという言い方はなんですが、今は質の良い野菜をおいしく食べられて幸せです。(聞き手=菊地武顕)
きんげんてい・よのすけ 1957年東京都生まれ。76年、金原亭馬生に入門。80年に二つ目昇進。「笑ってる場合ですよ」などのバラエティー番組で女優・宮崎美子の顔面模写をして人気を博す。90年、NHK新人演芸大賞受賞。92年に真打昇進。●角子(さいかち)の俳号を持つ俳人であり、大正大学客員教授も務める。
編注=●は白の下に七
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2021年01月16日

青木愛さん(元シンクロナイズドスイミング日本代表) 引退で知った食べる喜び
食の連載コーナーでいうのもなんですが、現役時代は食べることが嫌でした。
私は体質的に痩せやすくて、もっと太らないといけないと指導されたんです。「食べるのもトレーニングだ」と言われました。
シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)では、脂肪がないと浮かずに沈んでしまうからです。また、見栄えの問題もあります。海外の選手は背が高く体もガッシリしています。体が貧相だといけない、もっと体を大きくしなさい、と言われ続けました。
そのため特に日本代表に入ってからは、味わって食べる時間もないし、味わっていたら量は入らない。急いでかき込む、流し込むといった感じでした。
つらかった合宿
1チームに8人の選手がいるんですが、痩せないといけない人、現状維持でいい人、太らないといけない人がいて。合宿で、痩せないといけない人と同じ部屋になったときは、お互いつらかったです。私はおにぎりや餅を寝るまで食べ続けないといけない。向こうはものすごくおなかがすいているのに、それを見ないといけない。
毎日、4500キロカロリーを取るように言われました。
それを全部揚げ物で取るんだったら、簡単だと思います。でも選手ですから、バランスよく食べないといけません。
炭水化物、脂質、タンパク質の三つを取った上で、カルシウムやビタミンも。自分で計算しながら、いろいろな食材を取って4500キロカロリー以上にするのは大変でした。
母は料理がすごく上手で、子どもの頃はご飯が楽しみだったんです。でもなにせ小学2年生の頃からシンクロを始めたので。
母もちゃんと競技をやるのなら食事から変えないといけないと考えて、私の好きなものや量を食べやすいように工夫して料理してくれたんですが、小学校の頃から量を食べないといけない生活だったんです。
ほっとする実家
代表の合宿が終わると、いったん実家に戻ります。母の料理を食べると「ああ、家はいいなあ」と実感します。ささ身を揚げたのが大好きで。母はささ身の中に梅やシソの葉を入れて巻いてくれるんです。さっぱりとした味なので、量を食べられる。エビフライやハンバーグ、コロッケといったベタな食べ物が好きなので、それも作ってくれます。もちろん脂質ばかりにならないように、他の栄養素も取りながら。
私の目標体重は59キロ。でもどんなに頑張っても56、57キロをうろうろしていました。実家で過ごすと、あっという間に53、54キロまで落ちてしまいます。次の合宿の前日は必死になって食べました。
食べることの楽しさに気付いたのは、23歳で引退してからです。好きな人と好きな時間に好きなものを好きな量だけ食べるのが、こんなにも楽しいだなんて。
私は、夜に友達と食事をすることが多いんですよね。その時に、ものすごい量を食べます。胃が大きくなってしまったんでしょう。朝起きてもおなかがすいてなくて、夜までの間に、おやつを食べるくらいで間に合います。間食はお菓子ではなく、梅干し、納豆、豆腐、漬物などです。
もともとおばあちゃんが好むようなものが好きだったんです。ポテトチップスよりも酢昆布が好きな子どもでした。好きなものを食べられる生活に感謝しています。(聞き手=菊地武顕)
あおき・あい 1985年京都府生まれ。中学2年から井村雅代氏に師事する。2005年の世界水泳で日本代表に初選出されたが、肩のけがで離脱。翌年のワールドカップに出場し、チーム種目で銀メダル。08年の北京五輪ではチーム種目で5位入賞。五輪後に引退し、メディア出演を通じてスポーツ振興に取り組んでいる。
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2021年01月09日

大河内志保さん(タレント) おいしく、楽しくが大切
祖母がとても料理上手だったんです。会社を経営していた祖父は、大病を患いました。社長ですから取引先の方々を接待しないといけませんが、それを全部、自宅でやったんです。祖母はまるで料亭の懐石料理のように、次々に小皿で料理を出していました。
普段の料理も、祖父の健康を考えて、手間暇をかけて作っていました。大きな木のたるで、何十個ものハクサイを漬けていました。イカの塩辛もユズ風味のものを、たんまり手作り。カレーは無水鍋を使って、水を入れずに野菜の水分だけで作っていました。食材も、無添加、無農薬のもの。祖父が体を悪くする前は銀座の「やす幸」が好きだったので、祖母は店に通って勉強し、同じ味のおでんを作って祖父に出したり。どこで知ったのか、サラダにツブ貝をのせ、めんたいことマヨネーズをあえたドレッシングを掛けたり。
母は料理は得意ではありませんが、家族の健康を考えてくれていました。ファストフードや市販のジュースは禁止。インスタント食品も嫌っていました。
子どもだけで親戚の家に遊びに行くときは、叔母に根回しまでしていたんです。真夏に大阪に行ったとき。炎天下で「今日はお母さんがいないからジュースを飲める」と思っていたら、ちゃんとお茶の水筒が用意されていてがっかり。
高校生になって自分でアルバイトをしました。そのお金を使って、母に注意されることもなく好きなものを食べる。それがうれしかったですね。
祖母と母が先生
でも母のおかげで、病気らしい病気にかからずに済んだんだと思います。1人暮らしをするようになってからも、体に良くないものは取らないというのが、自分の中で常識になっていましたから。私の前の夫はスポーツ選手でしたので、私は調理師免許を取って本格的に健康を意識した調理をするようになりました。その基礎となったのが、祖母や母の教えだと感じています。
私は外食が大好きです。おいしい料理を食べながら、楽しく会話をするというのが。でも外食だと、おいしいだけにいっぱい食べ、カロリーオーバーしてしまいます。
その調整のため、家ではおいしいけど太らない食事をするように工夫しています。例えばタイカレーを作るときは、ココナツミルクの代わりに豆乳を使うとか。外食と家でプラスマイナスゼロになるようにする。そうすれば安心して楽しく外食できますから。
体に良くておいしく食べられる料理、楽しく食べられる料理が大事です。ダイエットをしているからサラダばっかりという、まるでウサギのような食事をしている人がいます。何の楽しみも感じない食事では、餌みたいじゃないですか。食彩が豊かでかみ応えもある、五感で味わう献立が理想です。
弱火で簡単料理
私が編み出したメソッドは、弱火料理。鍋に少量の油をひき、少々塩を振るんです。そこに野菜、キャベツでもタマネギでもピーマンでもいいんですが、それを敷いてふたをして火をつけます。弱火です。ふたが汗をかきだしたら火を止める。そうすると余熱でじんわりと火が通るんです。
これが野菜を一番おいしく食べる方法。野菜の上に豚肉の薄切りをのせたり、とろけるチーズをのせたり、いろいろ応用もききます。簡単だし、光熱費も安く済み、洗い物も楽。健康にうるさい母に教えたら、この方法ばかりやっていますよ。(聞き手=菊地武顕)
おおこうち・しほ 1971年東京都生まれ。90年、日本航空キャンペーンガールに。タレント活動と並行して食や健康について学び、日本とイタリアでの調理師免許、イタリアソムリエ、介護士2級などの資格を持つ。先月、『人を輝かせる覚悟 「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を上梓。
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2020年12月26日

朝井リョウさん(作家) 離れて知った母の偉大さ
私が生まれ育った岐阜は、海のない県。川魚を食べる文化があります。夏の間はヤナという、河原に竹を組んで畳のようにした所で、アユを食べさせてくれる店が出ます。塩焼きだったり甘露煮だったり、いろんな食べ方を楽しめるんです。そこに両親に連れて行ってもらい、アユを食べたことをよく覚えています。魚があまり得意ではなかったんですが、その経験もあって今では大好きです。上京してからは、アユをはじめとする川魚に出合う機会が少なくて、ヤナに出掛けたのはすごく貴重な体験だったんだなと思います。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
朝の電車に恐怖
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
絶品焼き鮎醤油
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
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2020年12月19日

秋元順子さん(歌手) ツアーで楽しむ各地の味
12年前にリリースした「愛のままで…」がヒットしたおかげで、紅白歌合戦に2回ほど出場させていただきました。
最初の出場の後に、全国ツアーをスタートさせたんですね。その年に80公演、翌年、翌々年を合わせると200公演くらい。各地を旅することができました。
その時に、おいしい料理に出合えて。終演後にメンバーやスタッフさんと一緒にいただくわけですから、ことさらにおいしく感じることができました。
感動してばかり
中でも感動したのは、まず北海道の魚介類。そして野菜と果物。ジャガイモ、アスパラガス、トマト、ナガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロン……。驚いたのはリンゴですね。北海道のリンゴってこんなにおいしいんだと初めて知りました。
もっと驚いたのは、オホーツク海に面した紋別でいただいたステーキ。北海道って、肉もこんなにおいしいんだと、目からうろこが落ちました。
和歌山で食べたカワハギの肝も忘れられません。東京では、新鮮な肝はまだ出してもらえない頃でした。産地ならではの取れたての味をいただいたわけです。それとノドグロにも心を奪われました。これは半身を刺し身で、半身を塩焼きにしていただきました。
高知では、塩タタキにびっくり。それまで私は、カツオのタタキはポン酢でいただいていたんです。塩で食べるとこんなにおいしいだなんて。聞けば、その塩は高知の海水から作ったものだそうです。土地のもの同士、合うんですね。
熊本では、桜肉専門店で馬刺しを。私が生まれ育った東京都江東区には、有名な桜鍋店があります。小学校に入る前から父に連れられて行っていたので、桜肉には親しみがあります。熊本の馬刺しもおいしかったですね。桜肉は、生で食べると喉にとてもいいんです。そういうこともあって、たくさんいただきました。
もし「愛のままで…」がなかったなら味わうことのなかったもの。それをたくさん食べられたわけです。改めて、曲に携わってくださった方々に感謝の気持ちを抱いたツアーでした。
取り寄せで幸せ
食いしん坊の私は、各地で出合ったおいしいものは、自宅に取り寄せられるかどうか必ずチェックします。もちろん現地で食べる方がおいしいのは承知ですが、家にいる時も少しでもおいしいものを家族と食べられれば幸せです。
また各地を回ることで、友人・知人にも恵まれました。
米は、新潟県や富山県から送ってもらっています。友人の家の近くにある米屋さんが、東京では買えない米を扱っているとのことで、それをいただきました。参りました。完全にはまりました。
私はご飯が残ると、すぐにおにぎりにします。中身は梅干しでもサケでもいいし、何も入れずに塩だけでもいい。冷めたらそれを冷蔵庫に入れて、食べたいときに電子レンジで温めます。
大好きな北海道の野菜を送ってくれる方がいます。おかげで常においしい野菜に恵まれています。
私はサラダのように冷たい野菜は消化しにくいので、蒸したり、煮たりしていただいています。根のもの、茎のもの、葉のもの、実のもの。これらをバランスよく食べるように心掛けています。
食べるものが、体と人格をつくると聞いたことがあります。質の高い食材をいただいているおかげで、今も元気に歌っています。(聞き手=菊地武顕)
あきもと・じゅんこ 1947年東京都生まれ。2004年、インディーズで出した「マディソン郡の恋」が有線で人気を博し、異例のヒットとなった。翌年にメジャーデビュー。3曲目の「愛のままで…」で紅白歌合戦に出場。61歳での初出場は、女性歌手として歴代最高齢。今年、北海道紋別市PR大使に就任。
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2020年12月12日

麻丘めぐみさん(歌手・女優) 故郷で知った「旬の魅力」
生まれたのは大分県の別府ですが、父の仕事の都合で半年で大阪に移りました。別府生まれの大阪育ちで、一番長く住んでいるのが東京ということになります。
大阪での食の記憶といえば、牛肉ですね。安かったんですよ。日常の食卓に、優しいお値段で並べることができました。しょっちゅうすき焼きをしていましたね。たこ焼き鉄板があって、昼とかは自分でたこ焼きを作ったり、お好み焼きを作ったりして食べました。
あまり外食というのはしませんでしたね。時々、何かごほうびとして、デパートの一番上の食堂に連れて行ってもらいました。私は大丸百貨店のちらしのモデルをしていたんです。大人のモデルが藤純子さん(当時)、子どものモデルが私。大丸の食堂で、その頃に出始めたナポリタンを食べるのが、子ども心にうれしかったです。
大分の良さ実感
10年以上前、母が故郷の別府に戻ったんです。それを機に、私も年に何回か行くようになりました。赤ちゃんの頃しか住んでいませんから、別府のことは何も覚えていませんでした。母に会いに行くようになって、大分県はなんて素晴らしい所だろうと知りました。
食べ物についても、海の幸、山の幸に恵まれています。
海なら関サバ、関アジ。瀬戸内海と太平洋の境界の激流を泳ぐので、筋肉が鍛えられてよく締まっているんです。しっかりとした魚の味がしてうれしいですよね。ただし九州の甘いしょうゆは苦手なので、店の人に関東風の辛口しょうゆをお願いしたり、塩で食べたりしています。
フグもおいしいですよね。旬の時期にだけ出るお店があって、肝まで食べられるんです。それがおいしくって。関サバ、関アジにしてもフグにしても、旬って大切だと感じています。
肉なら豊後牛。うちの親戚に頼まれ、豊後牛を作る過程を紹介するビデオに出演したんですよ。それで、農家がどれだけ苦労をして育てているのかを知りました。豊後牛って東京ではめったに見かけませんよね。あまりに手間暇がかかるので生産量が多くなく、ほとんどが県内で消費されてしまうのだそうです。私たちはただ「おいしい」と食べるだけですが、その裏にはどれだけの苦労があるのか。研究と努力があるのか。感謝の気持ちでいっぱいです。
野菜の味に違い
大分県は、野菜と果物もおいしいですよ。東京のスーパーで買うのとは、味がまったく違うんです。私たちが子どもの頃に味わった臭いと味がします。葉っぱ類なら、本当に葉っぱらしい青臭さ、土臭さ。ピーマンも、いかにも子どもが嫌うような強烈な臭い。
母に会いに行っているのか、食べもの目当てなのか、分からなくなってしまったほどです。
別府に通うようになったおかげで、旬の時期に取った新鮮な野菜と果物のおいしさを知りました。それで普段、東京にいる時でも、なるべく良いものを食べたいと思っています。幸い、近くにとても良い八百屋さんがあるので、そこで買うように心掛けています。
地方に旅した時は、道の駅に行くのが楽しみになりました。農家の顔写真が貼ってあるじゃないですか。それを見ると、信頼して買いますよね。
母をみとった後も別府に通い、親戚とおいしいものを食べたり温泉に入ったりして楽しんでいます。別府のおかげで、生活がとても豊かになった気がします。(聞き手=菊地武顕)
あさおか・めぐみ 1955年大分県生まれ。72年に「芽生え」で歌手デビュー。翌年の「わたしの彼は左きき」でトップアイドルに。結婚を機に引退したが、83年に復帰し女優業を中心に活動。今年、自選ベストアルバム「Premium BEST」を発売。29年ぶりの新曲「フォーエバースマイル」をリリース。
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2020年12月05日

倉田真由美さん(漫画家) 祭りで出合った奇跡の味
10年以上前のことでしょうか。私が福岡出身ということで、福岡県の山間部の村から講演の仕事を受けました。
ちょうどその時に祭りをやっていたので、行ってみたんです。小さな祭りでした。県外の人が観光で来るようなものではなく、村の中の人がたくさん集まって楽しむといった感じのものです。
出店もありましたが、的屋が来てやるのではなく、地元の人たちが、おにぎりや豚汁を出していました。そんな中に、イノシシのスペアリブを出す店があったんです。
その土地の猟師が捕ったイノシシを炭火で焼いて、ダイコンとニンジンのぬか漬けと一緒に出してくれていました。
これが、人生で食べた肉で一番おいしかった。もう、ミラクルにおいしかったんです。
私は昔、『課長島耕作』の弘兼憲史さんと一緒に、ものすごく高いレストランを食べ歩くという企画をやったことがあるんですよ。銀座の高級すしとか、マツタケで肉が見えなくなってしまうようなすき焼きとか、1人当たり5万円のステーキとか。
イノシシに感動
でもどんな料理だって、あそこでいただいたイノシシ肉にはかなわない。しかも添えのぬか漬けもおいしいの、なんの。よくぞこの肉にこのぬか漬けを合わせてくれました! と感動する組み合わせ。たぶん猟師の奥さんが漬けていらっしゃるんでしょうね。
この手の祭りでは、意外とおいしい豚汁やなかなかいい感じのカレーに出合うことはありますよね。でも人生の一番に出合うなんて。プラスチックの容器に割り箸で食べたんですけども。
私は普段、料理の写真は撮らないんですけど、その時だけは撮りました。忘れないように、と。
この祭りは、ほとんど告知していないんです。そんなこともあって、それ以来、行けてなくて。
行ったからといって、あの屋台が出ているとも限りません。また、野生動物は個体によってかなり味が違うそうです。私があの時にあの味に出合えたのは、本当に奇跡のようなものなんですよね。
私の出身は福岡でも海に近い方なので、素晴らしい魚を食べて育ちました。山間部ではあんなにもおいしいジビエ(野生鳥獣の肉)があると知り、福岡ってすごいと感じたものです。
祭りでいただいたぬか漬けがおいしかったので、自分でも作ってみようと決意。2年前に友だちから菌を譲ってもらったのを機に、自宅で漬けるようになりました。
ぬか漬けってカブがメジャーだと思いますが、私はあそこで食べた味の刷り込みがあるので、主にダイコンを漬けました。
ぬか床が駄目に
菌が育ってくれたおかげで、始めた頃よりもおいしくなってきて、とてもうれしく思っていたんですけど……。今年、コロナのためにぬか床が駄目になってしまいました。
福岡に仕事に行ったんですけど、移動制限で飛行機に乗れず、帰れなくなっちゃったんです。2カ月も閉じ込められてしまいました。ようやく家に帰って冷蔵庫の中のぬか床を見て……。
まだショックから立ち直れません。大事なペットを失ったのと似たような気持ちですね。乳酸菌は大事な生き物。それを死なせてしまったという気持ちが強くて。「じゃあ、また別のぬか床で」という気持ちにはなれません。ぬか漬け作りを始めるのには、まだまだ時間がかかりそうな気がします。(聞き手=菊地武顕)
くらた・まゆみ 1971年福岡県生まれ。一橋大学卒業後、自身の就職失敗を元にした作品でヤングマガジンギャグ大賞を受賞し、漫画家デビュー。2000年から「SPA!」で連載された「だめんず・うぉ~か~」でブレイクした。新聞・雑誌・テレビ・ラジオのコメンテーターとしても活躍。愛称は「くらたま」。
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2020年11月28日

あさのあつこさん(作家) 好きだった祖母の煮付け
私の食の原点というとおかしいかもしれませんが、昔、祖母がやっていた小さな食堂のことを思い出します。
うどんとそばを出していたんですが、定食もあって。私たちはハエと呼んでいた小さな川魚をあぶってから、甘辛く煮付けて、ご飯とみそ汁と漬物と一緒に出していました。
地元農家に人気
ハエは小さな魚で、大きいものでも10センチくらいです。それを一匹一匹、丁寧に内臓を取って、金串に刺してあぶったんですね。それから昆布の汁につけて、裏のかまどでまきでコトコト煮ていたのを覚えています。つくだ煮のちょっと手前くらいになるまで、骨も食べられるほど軟らかく煮ていました。
家は岡山県美作市の湯郷という温泉町だったんです。農閑期に近所の農家の方が、温泉に入ってから、祖母の食堂で定食を食べるのを楽しみにしていました。
酒のあてにも合うみたいで、魚と酒だけを注文する人もいましたね。
私もその魚がものすごく好きで。おなかがすいたら祖母の食堂に行き、丼ご飯の上にハエを載せてもらって食べていました。
祖母が亡くなった時、私はもう成人していたんですが、その魚をどうしても食べたくなりました。自分で作ってみたんですけど、全然違うんですよ。何が違うか分からないけど。
作り方を聞いておけばよかったという気持ちがすごく強く……。後悔があります。
私が大学生のときに祖母は店を閉めたんです。
「お祖母(ばあ)ちゃん、ハエの煮付けはどう作るの?」と聞いたときに、「砂糖としょうゆとみりんとショウガを入れて……」と教えてくれたんですけど、「それは何cc? 大さじ何杯?」と聞いても、「そんなの分からんわ。そんなもん、体が覚えてる」。
それでも祖母の料理は、味にむらがあったわけではありません。本当に体が覚えていたんでしょう。
ふと思い出す味
母に「あの味出せる?」と聞いてみたら、「私は計量カップを使わない料理はできない」と言われました。母は高校で栄養学を教えていて、「計量できる料理は作れるけど」と開き直っていました。
ただ母によると、祖母が使っていた食材は、昆布もしょうゆも最高級品。もとが取れるか取れないかくらいだったそうです。
そういえば、ハエは川漁師から取れたてを買っていました。ショウガも近所の農家から買っていたみたいです。
契約農家というほどではないんですが、家は野菜を近所の農家から買う約束をしていて、旬の取れたての野菜を持ってきてもらっていました。
家は田んぼを持っていました。両親とも外で働いていたので、米作りを人に頼んでいました。そのご飯もおいしかったですね。
春になると私はよく山菜採りに行かされました。私が採ったフキやワラビも、食堂の定食の付け合わせに使われたんです。
夏は川漁師がアユも持ってきましたし、秋になるとキノコを採りに行きました。季節季節でおいしい食材を利用していました。
普段はあの味は忘れています。でも時々、疲れたなあ、気分転換したいなあと温泉に入りに行くと、フッと思うんです。
やっぱりあのハエの煮付けは一生食べられないのかなあ、と。(聞き手=菊地武顕)
あさのあつこ 1954年岡山県生まれ。97年に「バッテリー」で野間児童文芸賞、2005年に「バッテリー」全6巻で小学館児童出版文化賞を受賞。延べ1000万部超の画期的ベストセラーとなる。児童文学のいくつもの佳作シリーズの他、島清恋愛文学賞受賞作「たまゆら」など幅広いジャンルの物語を生み出している。
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2020年11月21日

廣田遥さん(元トランポリン日本代表) 試合前白米パワー不可欠
トランポリンという競技では、体重が1キロでも増えると、技に大きな影響が出てしまいます。
献身的だった母
食事は、母が研究を重ねて作ってくれました。体重は増えないように、でも筋肉はちゃんと維持するように。これを両立させるのは大変だったと思います。
菓子は全て母の手作りでした。ケーキは、砂糖の量や脂肪分をきっちり計測して作ってくれました。ポテトチップスも、ジャガイモを薄くスライスして揚げて、塩をまぶしてくれました。油も、米油を使うなど工夫して。食材も、添加物の少ないものを選んでくれていました。
でも制限ばかりですと、ストレスで大変なことになります。それで、試合の終わった日だけは、好きなだけ甘い物を食べていいと決めていました。
父も母も魚が大好きなので、ご飯の時には魚がよく並びました。
後は鶏のムネ肉。低脂肪高タンパクな上に、疲労が取れるので。ささ身を食べていた時期もあったんですが、ムネ肉に疲労物質を取ってくれる成分が豊富に入っていると聞き、変えたんです。ありがたかったです。パサパサしているささ身より、ムネ肉の方がおいしいですから。それと、ビタミンB群を取るために豚肉も食べました。
食事の時は、まずボウルいっぱいの生野菜のサラダをいただきます。レタスとトマト、それに旬の野菜をたっぷり食べて、それからタンパク質、ご飯の順です。
海外遠征には、レトルトのご飯と乾燥みそ汁を持って行きました。
オリンピックでは、選手村で食事をいただきます。ご飯も用意されていましたが、パサパサとしていたんです。
私は日本の米が大好き。試合の前には白米を食べないと力が出ない、集中できない気がするんです。レトルトのご飯を温めておにぎりを作って食べました。
素材生かし切る
現役を引退してからも食材にはこだわっています。また、オーガニックフードマイスターの資格を取るため勉強した時に、農家の苦労を学び、野菜は「捨てる部分は何もない」という気持ちで料理をしています。
家の近くにJAの直売所があるんです。地元で取れた新鮮な野菜が手に入るので、とても助かっています。
私の夫の実家は、マグロの卸をやっています。夫は、大阪の中央卸売場でマグロ専門の仲卸業としての仕事を継ぎました。
それまでは食べる専門でしたが、結婚を機に、魚のことを学び魚料理アドバイザーやシーフードマイスターの資格を取りました。
マグロには鉄分をはじめとした栄養素がたくさんあります。夫はアメリカンフットボール選手でしたので、ワコールの陸上部や、京都大学、立命館大学のアメリカンフットボール部などに、低脂肪で高タンパク質な食材として提供しています。多くのアスリートや子どもらの健康的な体づくりのサポートに取り組んでいます。
魚市場に大きなマグロが並んでいるのを見て、食材の命をいただくありがたみを感じるようになりました。マグロの命を全部いただくという意味で、食べられない部分を乾燥粉砕して肥料にする試みを始めました。サステナブル(持続可能)な生活が唱えられていますよね。マグロを使った肥料で農家に野菜を作っていただければ、うれしいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
ひろた・はるか 1984年、大阪府生まれ。12歳から本格的にトランポリン競技を始める。高校2年だった2001年から、全日本選手権で10連覇を達成。04年アテネ五輪で7位入賞。08年北京五輪で12位。11年に引退後は、メディア出演、講演活動、トランポリン教室などで活躍。箕面トランポリン大使でもある。
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2020年11月14日

大津美子さん(歌手) 戦渦でも工夫 両親に感謝
古里の愛知県豊橋市は、昔から養鶏王国といわれていた所です。今でも愛知県養鶏協会は、豊橋に置かれているという話です。
私の父は神奈川県平塚市の出身で、東京で店をやっていましたが、鶏の卸をするために豊橋に来たと聞きました。
実家は鶏料理店
父は戦後、おいしい鶏料理を皆さんに食べてほしいと、鶏料理店を始めました。
子どもの頃、よく父が「鶏は足が早いからすぐに食べなさい」と言っていたことを思い出します。そんな環境で育ちましたので、鶏料理にはこだわりがあります。
母の実家が豊橋の少し北にある新城市にあります。戦時中には新城に疎開。母の実家近くに家を借りて過ごしました。
時には父が、歯応えのある鶏肉を子どもたちが食べやすいように細かく切って、煮込んでくれていました。母は煮魚が得意でした。
戦時中ですから食べ物に限りがあります。自給自足のような生活をするのが当たり前で、畑で野菜を作っていました。
私たちが畑で取った野菜などを使って、母はいろいろと味を工夫して食べさせてくれました。おかげで寂しい思いやひもじい思いをせずに済みました。豊橋の方を見ながら、友達や近所の人たち、知り合いは、何を食べているんだろうと思ったものです。
貧しい時代でしたが、父と母が、子どもたちのことをいろいろと考えてくれていたんだと、今は感謝しております。
私が歌を学び始めたのも、新城での疎開生活中でした。寺で歌を習ったのです。
終戦後は、赤十字のボランティアに参加しました。学校が終わるとボランティアとして、寂しくて泣いている子どもたちを元気づけるために、歌を歌ったり、一緒に遊んであげたりしたのです。この活動を通じて、自分自身いろいろと学びました。
その時に出していただいたスープの味が家の味に似ているので、どんな味付けなのか聞いたところ、鶏ガラを使っていると聞きました。懐かしくおいしかったことを今も覚えています。
他に豊橋と言えば、ちくわ、ウズラの卵の生産も盛んです。子どもの頃、母に「ちくわは焼いたり煮たりではなく、生で食べるのよ」と言われ、確かにおいしいとよく食べました。
また母は、みそにもこだわった上、いろいろな料理に使っていました。豊橋では赤みそを使います。みそ汁はもちろんのこと、赤みそを魚に付けて焼いたり、パンに付けたり、ご飯の上に載せたり。上京して食べたみそには、なかなかなじめませんでした。今も郷土の赤みそで料理しています。
病に倒れ気付き
1980年のある日、突然頭をバットで殴られたような激しい痛さに倒れました。
病名は「くも膜下出血」でした。もう私は駄目かもと思いましたが、奇跡的に回復。2年後にはカムバックできました。病気をして改めて、それまでの食習慣を見直しました。仕事で忙しかったこともあって、不規則な時間に偏ったものを食べてきたことに気付きました。それからは規則正しくバランスの良い食事をするようにしなくてはと思い、気を付けています。
おかげで歌手生活66年目を迎えた今も、歌い続けることができています。年を重ねた今だからこそ、皆さまの心の中に響くようにと歌い続けていきたいと思っています。(聞き手=菊地武顕)
おおつ・よしこ 1938年、愛知県生まれ。55年、「千鳥のブルース」でデビュー。その2カ月後に出した「東京アンナ」が大ヒットし、翌年の紅白歌合戦出場。56年に出した同名映画の主題歌「ここに幸あり」は、国内のみならず、ハワイ、ブラジルなどの日系人の間で愛唱された。豊橋市のふるさと大使も務める。
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2020年11月07日