荻原次晴さん(スポーツキャスター) 作って感じた農家の苦労
2021年01月23日

荻原次晴さん
子どもの頃の食べ物の思い出といえば、なんといってもおふくろのみそ汁ですね。
学校が終わってからスキー場に行って、トレーニングをしていたんですよ。午後4時くらいになるとすっかり暗くなる。そんな中、鼻水を垂らしながらジャンプとクロスカントリーの練習をしました。標高は1200メートルくらいありますし、本当に寒いんです。終わって家に帰って飲む、ダイコンの入ったあつあつのみそ汁。これほどうまいものはありません。
うちは、きょうだいが5人なんです。姉が3人と、健司(双子の兄)。健司と2人で競うように釜の飯を食べました。肉、肉、肉、飯、飯、飯……といった勢いで。食卓は戦場でした。
金物屋をやっていた親父が仕事を終えるころには、ご飯がなくなってしまって。おふくろが「また健司と次晴が、全部食べてしまいましたよ」と言い、おやじは「またか」とつぶやいても、けっして叱ることはありませんでした。
海外遠征をするようになってからおいしいと思ったのは、イタリアの食事です。宿の厨房(ちゅうぼう)に入って、レシピを教えてもらい、それを作ってみたりしました。
とはいってもそんな裕福なものではありません。各国を回って感じたのは、日本人が一番いいものを食べているということですね。
欧州での食事は質素でしたよ。選手の家にホームステイさせてもらったこともありましたが、朝食はパンにバターかジャムを塗って、コーヒーか紅茶を飲む程度。昼ご飯で肉や魚を食べますけど、夜はパンとハムとチーズくらい。それでも強い選手は強い。驚かされました。
僕らが滞在するのは、スキー場ばかり。パリやローマとは違い、おしゃれなブティックもありません。ごく普通の田舎町です。
宿に着くと、スーパー巡りをするのが楽しみでした。特に野菜や肉の売り場を見るのが。日本では見掛けないカラフルな野菜があったり、日本のものとは比べ物にならないくらいとてつもなく大きなキュウリやピーマンがあったり。サラミやチーズの種類も豊富。この国の人たちはこうした食材を使って、どういう料理を作って食べているんだろう。この国の選手はこうした食文化で育ち、この山でトレーニングを積んできたんだなあ。そういった文化を知るのが楽しかったですね。
引退してしばらくして結婚しました。トマトが大好きな女性です。「おいしいトマトを、毎日買ってきます」
そう言って結婚してもらったんです。幸い4人の子どもに恵まれ、妻は必ずトマトなどの野菜を食卓に並べます。
おかげで子どもも野菜が好きなんですが、食べるだけではなく、どういうふうに作られるのかも知ってほしいと思いました。
そこで都内に畑を借りて野菜を作ってみたんです。子どもと一緒に育てて収穫する喜び、それを料理して食べる楽しさを、初めて経験できました。
それはとても良かったんですが。それと同じくらい良かったのは、野菜作りの難しさを学んだことです。ちょっと見ない間に、雑草が生えてしまう。都内なのにすぐに虫が来て食べてしまう。わずか2畳ほどの畑なのに、その大変さに驚きました。改めて農家の苦労を知りましたね。これまで以上に感謝の気持ちを持って、食べるようになりました。(聞き手=菊地武顕)
おぎわら・つぎはる 1969年群馬県生まれ。兄・健司とともにスキー・ノルディック複合選手として活躍。95年の世界選手権で団体金メダル。98年の長野五輪で個人6位、団体5位入賞。引退後はキャスターとして活躍するなどスポーツの普及に尽力し、2017年に日本オリンピック委員会特別貢献賞を兄弟で受賞した。
学校が終わってからスキー場に行って、トレーニングをしていたんですよ。午後4時くらいになるとすっかり暗くなる。そんな中、鼻水を垂らしながらジャンプとクロスカントリーの練習をしました。標高は1200メートルくらいありますし、本当に寒いんです。終わって家に帰って飲む、ダイコンの入ったあつあつのみそ汁。これほどうまいものはありません。
食卓まるで戦場
うちは、きょうだいが5人なんです。姉が3人と、健司(双子の兄)。健司と2人で競うように釜の飯を食べました。肉、肉、肉、飯、飯、飯……といった勢いで。食卓は戦場でした。
金物屋をやっていた親父が仕事を終えるころには、ご飯がなくなってしまって。おふくろが「また健司と次晴が、全部食べてしまいましたよ」と言い、おやじは「またか」とつぶやいても、けっして叱ることはありませんでした。
海外遠征をするようになってからおいしいと思ったのは、イタリアの食事です。宿の厨房(ちゅうぼう)に入って、レシピを教えてもらい、それを作ってみたりしました。
とはいってもそんな裕福なものではありません。各国を回って感じたのは、日本人が一番いいものを食べているということですね。
欧州での食事は質素でしたよ。選手の家にホームステイさせてもらったこともありましたが、朝食はパンにバターかジャムを塗って、コーヒーか紅茶を飲む程度。昼ご飯で肉や魚を食べますけど、夜はパンとハムとチーズくらい。それでも強い選手は強い。驚かされました。
僕らが滞在するのは、スキー場ばかり。パリやローマとは違い、おしゃれなブティックもありません。ごく普通の田舎町です。
宿に着くと、スーパー巡りをするのが楽しみでした。特に野菜や肉の売り場を見るのが。日本では見掛けないカラフルな野菜があったり、日本のものとは比べ物にならないくらいとてつもなく大きなキュウリやピーマンがあったり。サラミやチーズの種類も豊富。この国の人たちはこうした食材を使って、どういう料理を作って食べているんだろう。この国の選手はこうした食文化で育ち、この山でトレーニングを積んできたんだなあ。そういった文化を知るのが楽しかったですね。
引退してしばらくして結婚しました。トマトが大好きな女性です。「おいしいトマトを、毎日買ってきます」
そう言って結婚してもらったんです。幸い4人の子どもに恵まれ、妻は必ずトマトなどの野菜を食卓に並べます。
おかげで子どもも野菜が好きなんですが、食べるだけではなく、どういうふうに作られるのかも知ってほしいと思いました。
野菜育てる喜び
そこで都内に畑を借りて野菜を作ってみたんです。子どもと一緒に育てて収穫する喜び、それを料理して食べる楽しさを、初めて経験できました。
それはとても良かったんですが。それと同じくらい良かったのは、野菜作りの難しさを学んだことです。ちょっと見ない間に、雑草が生えてしまう。都内なのにすぐに虫が来て食べてしまう。わずか2畳ほどの畑なのに、その大変さに驚きました。改めて農家の苦労を知りましたね。これまで以上に感謝の気持ちを持って、食べるようになりました。(聞き手=菊地武顕)
おぎわら・つぎはる 1969年群馬県生まれ。兄・健司とともにスキー・ノルディック複合選手として活躍。95年の世界選手権で団体金メダル。98年の長野五輪で個人6位、団体5位入賞。引退後はキャスターとして活躍するなどスポーツの普及に尽力し、2017年に日本オリンピック委員会特別貢献賞を兄弟で受賞した。
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民間建物 木造化促す 促進法改正へ自民が骨子 党派超え 今国会成立めざす
自民党は、議員立法による「公共建築物木材利用促進法」改正案の骨子をまとめた。現行法では公共建築物に限って木材の利用を促しているが、この対象を民間の建物にも拡大することが柱。利用期を迎えている国内の人工林の需要確保につなげる。野党にも賛同を呼び掛け、超党派の議員立法として今国会で成立させたい考えだ。
同法は2010年に成立、施行され、国が整備する建築物などへの木材利用を促している。日本の森林は、戦後に植えた人工林を中心に主伐、利用の時期を迎えていることから、民間の建物の木造化も促し、国産材の利用につなげるべきだと判断した。
改正案では、国・地方自治体と事業者が、建物への木材利用の推進に関する協定を締結する。協定の内容は公表し、事業者が着実に実施することを求める。国や地方公共団体は、協定に基づいて木材を利用する事業者に対し、財政支援などで後押しする。
世界貿易機関(WTO)協定の内外無差別の原則を踏まえ、国産材の利用を法律で義務付けることはできない。国産材の利用を推進する場合は、自治体と事業者が合意して協定を結ぶことで対応する。
木材利用について国民の関心や理解を深めるため、木材利用促進の日や促進月間を創設することや、農水省に省庁横断の「木材利用促進本部」を設けることも盛り込んだ。同本部では建築物への木材利用に関する国の基本方針を定め、施策の司令塔ともなる。農相、総務相、国土交通相など関係閣僚で構成し、農相が本部長を務める。
50年に「脱炭素社会」の実現を目指す政府方針を受け、法律の目的に、その実現への貢献を加えた。法律名も「脱炭素社会の実現に資するための建築物等における木材の利用の促進に関する法律」に改称する。同党は今後、野党にも呼び掛け、超党派での法案策定を進める方針。通常国会での成立を目指す。
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2021年02月28日
米作付け意向 28都道府県 前年並み 農相「一層の転換必要」
農水省は26日、2021年産主食用米の作付け意向の第1回調査結果を発表した。1月末現在で28都道府県が前年並み傾向、19府県が減少傾向を見込み、増加傾向の県はなかった。21年産米の需給均衡には過去最大規模の転作拡大が必要だが、一部の米主産地は前年並み傾向。野上浩太郎農相は同日の閣議後記者会見で「需要に応じた生産の実現には、より一層の作付け転換の推進が必要な状況だ」と訴えた。
20年の作付面積との比較で、同省が都道府県や地域の農業再生協議会に聞き取ってまとめた。……
2021年02月27日
営農技術アイデア大賞 黒壁さん(北海道)に栄冠
日本農業新聞は24日、「営農技術アイデア大賞2020」の審査会をオンラインで開き、大賞に北海道新篠津村の黒壁聡さん(64)が考案した、水稲育苗箱の運搬器具「はこらく」を選んだ。自作した金属の枠で3、4枚重ねた育苗箱を挟み込み、まとめて持ち運ぶ仕組み。機械化できていなかった育苗箱の運搬に、効率化の道を開いた点が評価された。
黒壁さんは水稲農家でシーズンには約8000枚の育苗箱を使う。……
2021年02月25日
営農指導全国大会 伝える技能を高めよう
JA全中主催の営農指導実践全国大会が、オンラインで初めて開かれた。活動と成果の発表は事前収録の動画を配信。発表内容だけではなく、動画の出来具合が視聴者の理解に影響することが改めて確認された。営農指導でオンラインや動画の活用が広がることも想定され、伝える技能の向上が求められる。
5回目の今回、最優秀賞に輝いた山形県JAおきたま営農経済部、柴田啓人士さんの発表は特に素晴らしかった。活動と成果、構成が優れていたことに加え、カメラを前にした話しぶりや目線、スライドの内容、映像の明るさなど細部にまで心配りされていた。「地域のために」は全ての発表に共通する目的だ。加えて柴田さんの発表動画は「どうしたらよく伝わるか」をより意識したように感じた。
洗練された動画はなぜできたのか、発表内容から垣間見える。日本一のブドウ「デラウェア」産地として統一規格の作成や集出荷の効率化、オリジナル商品の開発を展開。西洋梨やリンゴ、桃を合わせた4品目で販売価格を6~26%高めた。こうした成果を上げ、自信を持って収録に臨んだこともあろう。
そのための苦労も多かった。集出荷施設の再編を巡って、2年間に100回行ったという説明会。地域のシンボルでもある選果場がなくなることに組合員から「クビをかけられるのか」と詰め寄られるなど、難しい合意形成を求められた。しかし丁寧な説明を続けたことで「産地を維持するための選択」との理解が広がり、成果につながった。
審査講評ではいくつかの発表について音声の乱れが指摘された。大きなホールでの発表に適した腹から出す声も、狭い部屋での収録では聞き取りにくい場合がある。発表者が体を動かしてマイクとの距離が少し変わるだけでも同様で、発表内容が視聴者の頭に入りにくくなる。
新型コロナウイルス下では、視察も含めて研修会や会議のオンライン開催、動画の利用などが進むだろう。コロナが収束しても、離れたところからも参加できることや、動画での情報提供の分かりやすさ、利便性などから継続すると考えられる。
対面でもオンラインでも重要なのは情報の内容と理解を得ることへの熱意だ。その上で受け取る側が分かるように心を配ることが大切で、オンラインや動画では機器の使い方や撮影の仕方、話し方など新たな技能が必要になる。技術革新で映像や音声など情報量が増えるに従い、より高い技能も求められよう。
全国大会で発表した8人には、副賞として金の営農指導員バッジが贈られた。通常は白、上位資格として導入された地域営農マネージャーは銀。各地の予選を勝ち抜いたこの8人は、それほど優れた活動で高い成果を上げたということである。発表動画はJAグループ公式ホームページで公開する予定だ。発表内容と動画の質の両方から経験を学びたい。
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2021年02月26日

花店 金融 一体店舗オープン 大学がデザイン協力 新ビジネスモデル挑戦 大阪・JA北河内
大阪府のJA北河内は、花の販売と金融の機能を一体化させた全国でも珍しい新店舗を門真市にオープンさせた。店舗デザインは連携協定を結ぶ大学に依頼。従来のJAが持つ機能やサービスの在り方を見直すことで、より多くの人が集まり、地域の拠点として親しまれる店舗を目指す。
コンセプトは「花屋の中に金融機能を持つ店舗」。……
2021年02月24日
食の履歴書の新着記事

古村比呂さん(女優) 闘病で知ったありがたみ
私は子宮頸がんの手術をしました。再発後には抗がん剤での治療を受けました。食べ物についての一番の思い出は、その2回の闘病時に感じたことです。
最初は2012年の摘出手術の時です。
術後3日目に、初めて重湯が出ました。それまでずっと点滴でしたから、久しぶりに口から食べ物を入れたわけです。
口で味わう感動
一口目をいただいたら、汗が出てきたんです。全身の毛穴から汗が。そんな経験は初めてだったので、とても驚きました。口から物を入れるということのすごさをまじまじと知ったんですね。細胞が動き出した、細胞が喜んでいる。そのように感じました。
2回目は、5年後。再発したので、抗がん治療を始めました。
そうしたら、食べるということに喜びを得られなくなってしまったんです。料理の味が感じられない。そのため、気分がなえてしまいました。食事というよりも餌を食べているような感覚になってしまったんです。
そんな時期に、息子が玄米かゆを作ってくれました。それがすごくおいしくって。
それまで料理なんて作らなかった息子が作ってくれた。それに対するありがたさもあるんでしょうけど、すごくおいしかったことが忘れられません。
息子も必死だったんでしょうね。けっこう手の込んだかゆで、まるで白い汁のようでした。息子は、私がそれを飲む様子を見ていませんが、「おいしかったよ」と伝えたら「よかった」とものすごくホッとしたように答えました。
抗がん治療を終え、今では普通になんでもおいしく食べられるようになりました。
この二つの経験の後では、食べ物をいただくということに対する感覚が全然違いますね。口から物を食べられるありがたさを知り、食べ物で体ができているんだということを実感したので、感謝の気持ちが強くなりました。
食べ物は、嗜好(しこう)品になりがちのところもあるじゃないですか。欲しいときにすぐに手に入るものだし、好き嫌いを言って構わないものだと。私も病気になる前は、ありがたみを感じずに食べていたと思います。
粗末にできない
今では食べ物を粗末にするのはとても失礼だと感じます。食べ物でいろんな人たちとつながっている。そういう思いが出てきましたね。生産や流通に関わる皆さんのおかげで、私の体がつくられているんだ、と。皆さんはどういう思いで頑張ってくれているんだろうと、バックグラウンドやドラマを想像しながらいただきます。
私は北海道の過疎地で育ちました。同居していた祖父母は、最初はその土地で自給自足のような生活をしていたそうです。私が育った頃でも野菜を作っていましたし、毎朝、近くの農家さんから牛乳を買っていました。
20歳になる年に上京して、芸能活動を始めました。
田舎者としては、東京の食べ物が珍しくて、外食ばかりしていたんです。そうしたら1週間で調子が悪くなったんです。体に発疹が出ました。きっと体がびっくりしたんでしょうね。いったい何を食べているんだ、と。
そこで、自分で作るようにしました。最初に作ったのは、肉じゃがと豚汁。それを食べた時のほっとした感覚を覚えています。やっぱり食べ物が、私たちの体をつくっているんですよね。(聞き手=菊地武顕)
こむら・ひろ 1965年北海道生まれ。85年の映画「童貞物語」の主演でデビュー。87年のNHK朝の連ドラ「チョッちゃん」でヒロインを務めて、人気女優に。子宮頸がん、リンパ浮腫との闘病を経験。同じように病気で苦しむ女性たちを支援する「HIRAKU」プロジェクトを展開している。
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2021年02月20日

黒川伊保子さん(脳科学者・エッセイスト) 山の恵みで「母の味」再現
食のこだわりといえば、私には二つ。信州みそと、九州のぬか漬けです。父が信州は伊那谷の出身で、母は福岡県伊田町(現・田川市)で育ちました。私の名の「伊」は二人の出身地から名付けられました。
幼いころ食べていた祖母の手作りのみそが忘れられずにいたら、大学時代のルームメートが松本に嫁ぎ、姑と手作りしたみそを分けてくれるようになりました。それが、思い出の味そのままで。大豆は家の前の畑で作るのだとか。やはり、土地の味というのがあるのだなと痛感しました。20年ほど幻だった味を、毎日のように食べています。
私にとって、もう一つの幻の味が、母の作るぬか漬けでした。母は腰を悪くしてから、20年ほどぬか床を養生しておらず、私は、時折、母のぬか漬けがどうしても食べたくなり、「高級糠床」なるものを買ってはみるのですが、母のような味はどこにもありませんでした。
ぬか床は家の宝
母の出身地は、ぬか床を大切にする土地柄です。母の実家のぬか床も100年以上続いたものだったといいます。この家のぬか床は、昆布などのだしと、さんしょうをザクザクと入れるのが特徴。母も伯母も、ぬか床をなめて味の確認をしていました。ぬかみそは、臭くなんかなかったです。実際、福岡県の中部・北部では、ぬかみそを使ってイワシなどを煮て食べます。みそと同じ調味料感覚なんです。
私は断然キュウリですが、母が好きなのはナス。ナスにはこだわりがあって、小ナスを漬けるんですが、小さ過ぎると硬過ぎる。漬けるのにちょうどいい大きさというのがあるわけです。
母の里ではぬか漬けにピッタリの大きさのナスが市場に出ていたそうです。私を育ててくれた栃木では、その大きさのナスがなかった。それで自分で種を植えて育てていました。どうもうまくいかなかったようですが。
昭和40年代くらいでは、今のように流通が発達していませんから、それぞれの土地によって食材が違っていました。
私自身は、何度もぬか床作りに挑戦してはいるのですが、どうにも母の味に近づけず、結局、仕事にかまけて駄目にしたりして、とうとう還暦まで来てしまいました。
ところが、その還暦の年、母の味が再現できたんです。息子のおかげ。息子が日光・足尾の山の一角を買ったのですが、その斜面一帯に、サンショウが鈴なりになっていたんです。大粒の、辛いだけではなくうま味を感じさせる極上のサンショウでした。そういえば、母も、サンショウにはこだわっていましたね。
今のぬか床を作り始めたのは、息子の妻のためなんです。彼女は腸が弱いんですね。母も私も便通で悩んだことはないから、母のぬか漬けのおかげで腸内細菌が整ったのかもと。人生最後の挑戦のつもりでぬか床を作ったら、思いもよらぬ山の恵みのおかげで、長年の「幻の味」がよみがえりました。みそもぬか床も、土地の力をいただく営み。いとしいですね。
小言もまた幸せ
母は今年90歳になります。台所に立つこともありません。私のやることについても、何も言わなくなりました。でも私の作ったイワシのぬかみそ煮に「ご飯のおかずにはいいけど、酒のさかなにはちょっとしょっぱいかな」などと、駄目出しをします。それがうれしくて。母に小言を言われながら一緒に食べることが今はとても幸せです。(聞き手=菊地武顕)
くろかわ・いほこ 1959年長野県生まれ、栃木県育ち。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、メーカーで人工知能研究開発に従事。コンサルタント会社勤務などを経て、感性リサーチを設立。『恋愛脳』『夫婦脳』などを執筆。『妻のトリセツ』はベストセラーに。最新刊は『息子のトリセツ』(扶桑社新書)。
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2021年02月13日

西川りゅうじんさん(マーケティングコンサルタント) いただきます 日本の神髄
子どもの頃、休みになると母方の伯父の家によく遊びに行きました。伯父は大学で教壇に立ちながら、代々受け継いできた田畑で米や野菜を作っていたんです。
一緒に草むしりしながら、いろいろなことを教わりました。
小学校で農という漢字を習ったときに不思議に感じ、聞いてみたんです。
「農という字は、曲がるに辰(たつ)と書くよね。曲がったことをすると、辰が出てくるってこと」
「面白い見方だな。実は、曲は田を、辰は石で作った農具を表しているんだ。田畑を農具を使って耕すという意味だよ」
命の尊さ教わる
伯父は無農薬で作っていて、野菜には時々虫が付くことがありました。私も種をまき水をやっていましたから、チョウの幼虫に食べられたりすると悔しいわけですよ。
憎たらしいからつぶそうとすると、伯父に「それはそれで育ててあげたらいいんだよ」と言われ、幼虫を自分の家に持ち帰りました。やがて、かわいいモンシロチョウに育ち、命の尊さを知りました。
私の家では、食事の前に必ず手を合わせて「いただきます」と唱えてから食べていました。この言葉こそ日本の食文化の神髄を表していると思います。動・植物の命、農家の皆さんの耕作の成果を賜って生かしていただいているわけですから。
食べ物を粗末にすると両親は許しませんでした。出されたものは、全て食べるのが当たり前。
小学校の低学年のある日。キャベツとシソを刻んだサラダが出ました。シソが苦くて、両親が食べ終わった後も一人で食べ続けましたが、食べ残して自分の部屋に行って寝ました。すると翌朝から3食全てそのサラダだけ。
それで、伯父の家に行かされるようになったのかもしれません。自分で野菜を作って、その苦労を知れば、好き嫌いなく、おいしく食べられるようになるだろうという、両親の食育だったのでしょう。
食事は一汁三菜が基本でした。母が漬けた漬物が、朝夕、食卓に彩りを添えていたのを覚えています。
1960年代には、既に家でぬか漬けを漬けるのは臭いし面倒だと敬遠されていました。
今でこそ和食が見直されていますが、当時は食でも何でも欧米化が正しいという風潮でした。朝はパンとベーコンとコーヒーが豊かさと健康をもたらすという幻想が支配していた時代です。
欧米化とは無縁
その頃から、カブトムシはデパートで、漬物はスーパーで売っているモノになり果てたのです。祖母から受け継いだ臭いぬか床を母親が自分の手でかき混ぜ、自宅で漬物を作っていたわが家は戦前の食文化の化石でした。
父方の祖父母の家に泊まりに行った時の思い出も、まるで「ふるさと」の歌のようによみがえってきます。
春の河辺でみんなでツクシを取り、あく抜きして、おひたしや卵とじにして食べました。ヨモギを摘み、すり鉢ですって、よもぎ餅を作りました。
今も「春の七草」は全部言えますよ。一方、「秋の七草」は知りません。だって食べずに鑑賞するものですからね。でもこの歳になって、そんな風流もやっと分かってきた気がします。
幼き日に心と体でいただいた農と食の実体験はかけがえのない人生の宝物です。文字通り、「有り難い」ことですね。ありがとうございます。(聞き手=菊地武顕)
にしかわ・りゅうじん 1960年兵庫県生まれ。「愛・地球博」のモリゾーとキッコロや「平城遷都祭」のせんとくんの選定・PR、「つくばエクスプレス」沿線の街づくり、全国的な焼酎の人気作りに携わる。JAや日本食鳥協会で講師を務め、農産物のブランド化と大都市部でのチャンネル開発に手腕を発揮している。
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2021年02月06日

高嶋哲夫さん(作家) “年中行事”の再開を祈願
神戸に住みだして35、36年になります。
この街は、2月の下旬から3月にかけて独特の匂いに包まれます。イカナゴのくぎ煮の匂いです。イカナゴはスズキの一種。その稚魚を、しょうゆ、さらめ、みりん、ショウガなどで炊き上げるのです。この匂いが漂いだすと、春が来たと感じます。
春を感じる匂い
僕も20年くらい前に作ってみました。その頃はイカナゴは庶民的な魚で、1キロ600円か700円程度でした。それを10キロほど買ってきて、作ってみたんです。
翌年も、その翌年も作ってみました。大きな鍋を買ってきて、それで炊くんです。
スーパーに行くと、くぎ煮のレシピが置いてあります。でもレシピ通りに作っても、売っているものとは味も見た目も全然違うんですね。売り物の方は、もっとつくだ煮に近い感じでした。
友達に、実家が魚屋という人がいたんですよ。彼のところでは毎年、何百キロだったか何トンだったか、ものすごい量を作っているんです。年に何回かは、彼と会っていました。その時にどうやって作るんだと聞いたんですが、絶対に教えてくれない。
ところがある日、ぽろっと言ったことがあるんです。それは一般に出回っているレシピとはまるっきり違うものでした。その通りにやってみたら、均一に失敗なく作れたんです。
このエピソードを地元の新聞のエッセーに書いたことがあります。すると新聞社に、作り方を教えろという問い合わせがあったそうです。次の掲載の時に、これは魚屋さんが何十年もかけて作り上げた特許みたいなものなので、申し訳ないが教えられない。そう書いた覚えがあります。
自分で炊く量がだんだん増えていって、50キロ以上もの稚魚を買って炊くようになりました。お世話になっている全国の方々に贈ることが楽しみになったからです。
そのうち、まるで強迫観念のようになってきたんですよ。もう今年は止めようと思っても、時期が来て、街に漂う匂いをかいだり、イカナゴを買う列を見ると、つい買ってしまう。
価格高騰で断念
その習慣が、ついに去年、途絶えました。コロナ禍でしたし、漁期が非常に短かったということもあって値段が高騰したんです。近年、値段がどんどん上がってきました。それでも買って作っていたのですが、去年はついに1キロで5000円と言われてしまって。
僕の年中行事はもう一つあります。こちらも去年はできなかったんですが……。
友だちに丹波の農家がいて、年に何回か訪ねることを楽しみにしてきました。僕のためにジャガイモを植えてくれていて、それを掘るのが楽しみで。孫を連れて農業体験をさせたこともあります。
友人はエダマメも作っています。それを取ってビールのおつまみにすると、最高においしい。
エダマメは放っておくと黒豆になるんですよ。その時期になったら、また丹波に遊びに行きます。
エダマメと黒豆の間くらいに、赤シソができます。シソも大量に頂いて、大鍋でクエン酸と砂糖と一緒に煮詰めて、しそジュースを作ります。これを世話になった方に贈るのが、夏の年中行事になったわけです。
今年の夏はまた丹波に行き、友達とエダマメを食べながらビールを飲んで語らい、シソのジュースも作れればと願っています。(聞き手=菊地武顕)
たかしま・てつお 1949年岡山県生まれ。日本原子力研究所研究員を経て、アメリカ留学。90年に『帰国』で北日本文学賞、99年、『イントゥルーダー』でサントリーミステリー大賞。昨年、『首都感染』(2010年)が、新型コロナウイルス感染を予言していると話題に。近著に『「首都感染」後の日本』(宝島社新書)
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2021年01月30日

荻原次晴さん(スポーツキャスター) 作って感じた農家の苦労
子どもの頃の食べ物の思い出といえば、なんといってもおふくろのみそ汁ですね。
学校が終わってからスキー場に行って、トレーニングをしていたんですよ。午後4時くらいになるとすっかり暗くなる。そんな中、鼻水を垂らしながらジャンプとクロスカントリーの練習をしました。標高は1200メートルくらいありますし、本当に寒いんです。終わって家に帰って飲む、ダイコンの入ったあつあつのみそ汁。これほどうまいものはありません。
食卓まるで戦場
うちは、きょうだいが5人なんです。姉が3人と、健司(双子の兄)。健司と2人で競うように釜の飯を食べました。肉、肉、肉、飯、飯、飯……といった勢いで。食卓は戦場でした。
金物屋をやっていた親父が仕事を終えるころには、ご飯がなくなってしまって。おふくろが「また健司と次晴が、全部食べてしまいましたよ」と言い、おやじは「またか」とつぶやいても、けっして叱ることはありませんでした。
海外遠征をするようになってからおいしいと思ったのは、イタリアの食事です。宿の厨房(ちゅうぼう)に入って、レシピを教えてもらい、それを作ってみたりしました。
とはいってもそんな裕福なものではありません。各国を回って感じたのは、日本人が一番いいものを食べているということですね。
欧州での食事は質素でしたよ。選手の家にホームステイさせてもらったこともありましたが、朝食はパンにバターかジャムを塗って、コーヒーか紅茶を飲む程度。昼ご飯で肉や魚を食べますけど、夜はパンとハムとチーズくらい。それでも強い選手は強い。驚かされました。
僕らが滞在するのは、スキー場ばかり。パリやローマとは違い、おしゃれなブティックもありません。ごく普通の田舎町です。
宿に着くと、スーパー巡りをするのが楽しみでした。特に野菜や肉の売り場を見るのが。日本では見掛けないカラフルな野菜があったり、日本のものとは比べ物にならないくらいとてつもなく大きなキュウリやピーマンがあったり。サラミやチーズの種類も豊富。この国の人たちはこうした食材を使って、どういう料理を作って食べているんだろう。この国の選手はこうした食文化で育ち、この山でトレーニングを積んできたんだなあ。そういった文化を知るのが楽しかったですね。
引退してしばらくして結婚しました。トマトが大好きな女性です。「おいしいトマトを、毎日買ってきます」
そう言って結婚してもらったんです。幸い4人の子どもに恵まれ、妻は必ずトマトなどの野菜を食卓に並べます。
おかげで子どもも野菜が好きなんですが、食べるだけではなく、どういうふうに作られるのかも知ってほしいと思いました。
野菜育てる喜び
そこで都内に畑を借りて野菜を作ってみたんです。子どもと一緒に育てて収穫する喜び、それを料理して食べる楽しさを、初めて経験できました。
それはとても良かったんですが。それと同じくらい良かったのは、野菜作りの難しさを学んだことです。ちょっと見ない間に、雑草が生えてしまう。都内なのにすぐに虫が来て食べてしまう。わずか2畳ほどの畑なのに、その大変さに驚きました。改めて農家の苦労を知りましたね。これまで以上に感謝の気持ちを持って、食べるようになりました。(聞き手=菊地武顕)
おぎわら・つぎはる 1969年群馬県生まれ。兄・健司とともにスキー・ノルディック複合選手として活躍。95年の世界選手権で団体金メダル。98年の長野五輪で個人6位、団体5位入賞。引退後はキャスターとして活躍するなどスポーツの普及に尽力し、2017年に日本オリンピック委員会特別貢献賞を兄弟で受賞した。
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2021年01月23日

金原亭世之介さん(落語家) おいしい野菜こそが大切
6、7年ほど前に「原田氏病」という免疫の病気にかかりました。100万人に数人という割合の珍しい病気です。
まず視力がほとんどゼロになり、次いで聴力も落ちてきました。そこで、ステロイドを体に限界まで入れるという療法を取ったのです。病状は少しずつ良くなったのですが、副作用がひどくて。
突然の難病発症
私はもともと糖尿病の予備軍だったのですが、そんな体でステロイド療法をやったせいで完全な糖尿病に。インスリン注射を打ち続けないといけない生活になったんです。どうにかならないかと医者に相談しても、無理だとしか言われませんでした。
そこで自分なりに勉強して、どうやら野菜がいいらしいと分かりました。もともと野菜は大好きだったので、大量に食べるようにしたんです。まるで芋虫になったみたいに。
野菜は食事の最初に食べるのがいいというので、まずはカレーライスの皿に山盛りにしたサラダを食べるようにしました。夏なら大量のレタスがメイン。春や秋には代わりにキャベツを。レタスとキャベツを中心にして、キュウリ、ブロッコリー、カリフラワーなどをしっかり食べる習慣をつけました。海藻類もいいそうなので、ノリで野菜を巻いて食べるんです。
大盛りサラダを平らげてから、肉や魚を食べて、ご飯をちょっといただくんですが、その時にもインゲンのおひたしや、マイタケを食べるようにしました。
調子が良くなってきたんですが、今度は心臓に問題が起きて。発作で倒れてしまい、救急車で運ばれたんです。
心臓に良いものを食べないといけない。調べたら、梅干しが良いという。塩分が強いので良くないイメージがあったんですが、精製食塩は悪いが、昔ながらの海水を天日干しする製法の塩なら体に悪くないという。そういう塩を使った梅干しを食べてみたら、これがおいしいんですね。酸味とうま味を感じたんです。
同時に、塩自体のおいしさにも気づかされました。例えば宮古島産の雪塩。雪のように細やかな塩で、なめてもうまいんですよ。
それまでサラダにはドレッシングを掛けていましたが、梅干しをつぶしてエゴマ油であえて、掛けるようにしました。
そのような食生活を続けたところ、一時は500もあった血糖値が120くらいまで下がったんです。医者から、インスリン注射を打つと危険だから錠剤に切り替えるように指示されました。今では錠剤を飲む必要もなくなったほどです。
医者も驚く全快
私は全て野菜のおかげだと思っています。医者には「特異体質なんでしょう。まれな例なので、他の人には勧めないでください」とくぎを刺されましたが。
このような食事を続けましたら、舌が敏感になってきました。濃い味つけから、薄い味付けに変わり、食材の味そのものを楽しめるようになったんです。
同じスーパーで買っても、レタスがおいしい時とそうでない時がある。それが分かってきました。私はかみさんと一緒にスーパーに買いに行くんですけど、やがてどういうレタスがおいしいか、どういうキャベツがおいしいかも分かるようになってきて、きちんと見て判断して買っています。
病気のおかげという言い方はなんですが、今は質の良い野菜をおいしく食べられて幸せです。(聞き手=菊地武顕)
きんげんてい・よのすけ 1957年東京都生まれ。76年、金原亭馬生に入門。80年に二つ目昇進。「笑ってる場合ですよ」などのバラエティー番組で女優・宮崎美子の顔面模写をして人気を博す。90年、NHK新人演芸大賞受賞。92年に真打昇進。●角子(さいかち)の俳号を持つ俳人であり、大正大学客員教授も務める。
編注=●は白の下に七
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2021年01月16日

青木愛さん(元シンクロナイズドスイミング日本代表) 引退で知った食べる喜び
食の連載コーナーでいうのもなんですが、現役時代は食べることが嫌でした。
私は体質的に痩せやすくて、もっと太らないといけないと指導されたんです。「食べるのもトレーニングだ」と言われました。
シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)では、脂肪がないと浮かずに沈んでしまうからです。また、見栄えの問題もあります。海外の選手は背が高く体もガッシリしています。体が貧相だといけない、もっと体を大きくしなさい、と言われ続けました。
そのため特に日本代表に入ってからは、味わって食べる時間もないし、味わっていたら量は入らない。急いでかき込む、流し込むといった感じでした。
つらかった合宿
1チームに8人の選手がいるんですが、痩せないといけない人、現状維持でいい人、太らないといけない人がいて。合宿で、痩せないといけない人と同じ部屋になったときは、お互いつらかったです。私はおにぎりや餅を寝るまで食べ続けないといけない。向こうはものすごくおなかがすいているのに、それを見ないといけない。
毎日、4500キロカロリーを取るように言われました。
それを全部揚げ物で取るんだったら、簡単だと思います。でも選手ですから、バランスよく食べないといけません。
炭水化物、脂質、タンパク質の三つを取った上で、カルシウムやビタミンも。自分で計算しながら、いろいろな食材を取って4500キロカロリー以上にするのは大変でした。
母は料理がすごく上手で、子どもの頃はご飯が楽しみだったんです。でもなにせ小学2年生の頃からシンクロを始めたので。
母もちゃんと競技をやるのなら食事から変えないといけないと考えて、私の好きなものや量を食べやすいように工夫して料理してくれたんですが、小学校の頃から量を食べないといけない生活だったんです。
ほっとする実家
代表の合宿が終わると、いったん実家に戻ります。母の料理を食べると「ああ、家はいいなあ」と実感します。ささ身を揚げたのが大好きで。母はささ身の中に梅やシソの葉を入れて巻いてくれるんです。さっぱりとした味なので、量を食べられる。エビフライやハンバーグ、コロッケといったベタな食べ物が好きなので、それも作ってくれます。もちろん脂質ばかりにならないように、他の栄養素も取りながら。
私の目標体重は59キロ。でもどんなに頑張っても56、57キロをうろうろしていました。実家で過ごすと、あっという間に53、54キロまで落ちてしまいます。次の合宿の前日は必死になって食べました。
食べることの楽しさに気付いたのは、23歳で引退してからです。好きな人と好きな時間に好きなものを好きな量だけ食べるのが、こんなにも楽しいだなんて。
私は、夜に友達と食事をすることが多いんですよね。その時に、ものすごい量を食べます。胃が大きくなってしまったんでしょう。朝起きてもおなかがすいてなくて、夜までの間に、おやつを食べるくらいで間に合います。間食はお菓子ではなく、梅干し、納豆、豆腐、漬物などです。
もともとおばあちゃんが好むようなものが好きだったんです。ポテトチップスよりも酢昆布が好きな子どもでした。好きなものを食べられる生活に感謝しています。(聞き手=菊地武顕)
あおき・あい 1985年京都府生まれ。中学2年から井村雅代氏に師事する。2005年の世界水泳で日本代表に初選出されたが、肩のけがで離脱。翌年のワールドカップに出場し、チーム種目で銀メダル。08年の北京五輪ではチーム種目で5位入賞。五輪後に引退し、メディア出演を通じてスポーツ振興に取り組んでいる。
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2021年01月09日

大河内志保さん(タレント) おいしく、楽しくが大切
祖母がとても料理上手だったんです。会社を経営していた祖父は、大病を患いました。社長ですから取引先の方々を接待しないといけませんが、それを全部、自宅でやったんです。祖母はまるで料亭の懐石料理のように、次々に小皿で料理を出していました。
普段の料理も、祖父の健康を考えて、手間暇をかけて作っていました。大きな木のたるで、何十個ものハクサイを漬けていました。イカの塩辛もユズ風味のものを、たんまり手作り。カレーは無水鍋を使って、水を入れずに野菜の水分だけで作っていました。食材も、無添加、無農薬のもの。祖父が体を悪くする前は銀座の「やす幸」が好きだったので、祖母は店に通って勉強し、同じ味のおでんを作って祖父に出したり。どこで知ったのか、サラダにツブ貝をのせ、めんたいことマヨネーズをあえたドレッシングを掛けたり。
母は料理は得意ではありませんが、家族の健康を考えてくれていました。ファストフードや市販のジュースは禁止。インスタント食品も嫌っていました。
子どもだけで親戚の家に遊びに行くときは、叔母に根回しまでしていたんです。真夏に大阪に行ったとき。炎天下で「今日はお母さんがいないからジュースを飲める」と思っていたら、ちゃんとお茶の水筒が用意されていてがっかり。
高校生になって自分でアルバイトをしました。そのお金を使って、母に注意されることもなく好きなものを食べる。それがうれしかったですね。
祖母と母が先生
でも母のおかげで、病気らしい病気にかからずに済んだんだと思います。1人暮らしをするようになってからも、体に良くないものは取らないというのが、自分の中で常識になっていましたから。私の前の夫はスポーツ選手でしたので、私は調理師免許を取って本格的に健康を意識した調理をするようになりました。その基礎となったのが、祖母や母の教えだと感じています。
私は外食が大好きです。おいしい料理を食べながら、楽しく会話をするというのが。でも外食だと、おいしいだけにいっぱい食べ、カロリーオーバーしてしまいます。
その調整のため、家ではおいしいけど太らない食事をするように工夫しています。例えばタイカレーを作るときは、ココナツミルクの代わりに豆乳を使うとか。外食と家でプラスマイナスゼロになるようにする。そうすれば安心して楽しく外食できますから。
体に良くておいしく食べられる料理、楽しく食べられる料理が大事です。ダイエットをしているからサラダばっかりという、まるでウサギのような食事をしている人がいます。何の楽しみも感じない食事では、餌みたいじゃないですか。食彩が豊かでかみ応えもある、五感で味わう献立が理想です。
弱火で簡単料理
私が編み出したメソッドは、弱火料理。鍋に少量の油をひき、少々塩を振るんです。そこに野菜、キャベツでもタマネギでもピーマンでもいいんですが、それを敷いてふたをして火をつけます。弱火です。ふたが汗をかきだしたら火を止める。そうすると余熱でじんわりと火が通るんです。
これが野菜を一番おいしく食べる方法。野菜の上に豚肉の薄切りをのせたり、とろけるチーズをのせたり、いろいろ応用もききます。簡単だし、光熱費も安く済み、洗い物も楽。健康にうるさい母に教えたら、この方法ばかりやっていますよ。(聞き手=菊地武顕)
おおこうち・しほ 1971年東京都生まれ。90年、日本航空キャンペーンガールに。タレント活動と並行して食や健康について学び、日本とイタリアでの調理師免許、イタリアソムリエ、介護士2級などの資格を持つ。先月、『人を輝かせる覚悟 「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を上梓。
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2020年12月26日

朝井リョウさん(作家) 離れて知った母の偉大さ
私が生まれ育った岐阜は、海のない県。川魚を食べる文化があります。夏の間はヤナという、河原に竹を組んで畳のようにした所で、アユを食べさせてくれる店が出ます。塩焼きだったり甘露煮だったり、いろんな食べ方を楽しめるんです。そこに両親に連れて行ってもらい、アユを食べたことをよく覚えています。魚があまり得意ではなかったんですが、その経験もあって今では大好きです。上京してからは、アユをはじめとする川魚に出合う機会が少なくて、ヤナに出掛けたのはすごく貴重な体験だったんだなと思います。
母親はすごく料理が上手で、本当に手間をかけて食事を用意してくれていました。例えば春巻きを作るときは、甘いもの好きな私のために、リンゴとシナモンを入れて作ってくれたり。パートもしていたのに、家にいる時は朝から晩までずっとキッチンで何かを作ってくれていたと思います。
私は小学校3年の時に一気に視力が落ちたのですが、その時も母は台所に立ちました。視力回復に良いとされているプルーンをどうにか私に食べさせようと、プルーンを細かく砕いてクッキーの中に混ぜ込んでくれたんです。
朝の電車に恐怖
高校生になり、電車通学が始まると、過敏性腸症候群になりました。胃腸が動きやすい朝、トイレがない場所に一定時間閉じ込められることが本当に負担で、今でも治っていません。当時は、朝食を取ったら胃腸が動きだしてしまうという恐怖心から、朝、何も食べられなくなってしまいました。
そんなときも母は、リゾットなど喉を通りやすい朝食を工夫して作ってくれました。父親と姉には普通の食事。弁当も作らないといけない中、種類の違う食事を用意してくれたんです。1人暮らしを始めた時にやっとその大変さに気付き、改めて感謝しています。
今では作家の方々と食卓を共にすることもあり、全て大切な思い出になっています。窪美澄さんはよくご自宅で料理を振る舞ってくれます。余ったご飯で握ったおにぎりを帰り際に持たせてくれた時、実家みたい、と勝手にほんわかしてしまいました。窪さんの家に大阪出身の柴崎友香さんが来た時、見事にたこ焼きを作ってくれました。柚木麻子さんが買ってきてくれたおでんの素(もと)が大活躍した日もありました。
柚木さんといえば山本周五郎賞を受賞された時、岐阜で評判の「明宝トマトケチャップ」を差し上げたんです。地元の取れたてトマトで作られたケチャップで、これを掛ければ本当に何でもおいしく食べられます。水で溶いたらトマトジュースとして飲めるくらい。
その後、また柚木さんにめでたいことがあったので「お祝いは何がいいですか」と尋ねたら、「あの時のケチャップがいいな」と。気に入っていただけたこと、岐阜出身の人間としてとてもうれしく感じました。
絶品焼き鮎醤油
私は6年前からぎふメディアコスモスという図書館でイベントをしています。昨年、担当から土産としてアユが1匹漬け込まれているしょうゆをいただきました。「焼き鮎醤油(やきあゆじょうゆ)」というもので、これが本当においしくて。しょうゆを全部使い切り、最後にアユだけが残るんです。そのアユを取り出してお茶漬けにして食べました。小説家を夢見ていた頃、よく地元の図書館に通っていました。アユもその頃の好物です。また巡り合えた幸福を大切にかみしめています。(聞き手=菊地武顕)
あさい・りょう 1989年岐阜県生まれ。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年に『何者』で直木賞。同賞史上初の平成生まれの受賞者となった。同年、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞。近著は『スター』(朝日新聞出版)。来春、『正欲』(新潮社)を刊行予定。
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2020年12月19日

秋元順子さん(歌手) ツアーで楽しむ各地の味
12年前にリリースした「愛のままで…」がヒットしたおかげで、紅白歌合戦に2回ほど出場させていただきました。
最初の出場の後に、全国ツアーをスタートさせたんですね。その年に80公演、翌年、翌々年を合わせると200公演くらい。各地を旅することができました。
その時に、おいしい料理に出合えて。終演後にメンバーやスタッフさんと一緒にいただくわけですから、ことさらにおいしく感じることができました。
感動してばかり
中でも感動したのは、まず北海道の魚介類。そして野菜と果物。ジャガイモ、アスパラガス、トマト、ナガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロン……。驚いたのはリンゴですね。北海道のリンゴってこんなにおいしいんだと初めて知りました。
もっと驚いたのは、オホーツク海に面した紋別でいただいたステーキ。北海道って、肉もこんなにおいしいんだと、目からうろこが落ちました。
和歌山で食べたカワハギの肝も忘れられません。東京では、新鮮な肝はまだ出してもらえない頃でした。産地ならではの取れたての味をいただいたわけです。それとノドグロにも心を奪われました。これは半身を刺し身で、半身を塩焼きにしていただきました。
高知では、塩タタキにびっくり。それまで私は、カツオのタタキはポン酢でいただいていたんです。塩で食べるとこんなにおいしいだなんて。聞けば、その塩は高知の海水から作ったものだそうです。土地のもの同士、合うんですね。
熊本では、桜肉専門店で馬刺しを。私が生まれ育った東京都江東区には、有名な桜鍋店があります。小学校に入る前から父に連れられて行っていたので、桜肉には親しみがあります。熊本の馬刺しもおいしかったですね。桜肉は、生で食べると喉にとてもいいんです。そういうこともあって、たくさんいただきました。
もし「愛のままで…」がなかったなら味わうことのなかったもの。それをたくさん食べられたわけです。改めて、曲に携わってくださった方々に感謝の気持ちを抱いたツアーでした。
取り寄せで幸せ
食いしん坊の私は、各地で出合ったおいしいものは、自宅に取り寄せられるかどうか必ずチェックします。もちろん現地で食べる方がおいしいのは承知ですが、家にいる時も少しでもおいしいものを家族と食べられれば幸せです。
また各地を回ることで、友人・知人にも恵まれました。
米は、新潟県や富山県から送ってもらっています。友人の家の近くにある米屋さんが、東京では買えない米を扱っているとのことで、それをいただきました。参りました。完全にはまりました。
私はご飯が残ると、すぐにおにぎりにします。中身は梅干しでもサケでもいいし、何も入れずに塩だけでもいい。冷めたらそれを冷蔵庫に入れて、食べたいときに電子レンジで温めます。
大好きな北海道の野菜を送ってくれる方がいます。おかげで常においしい野菜に恵まれています。
私はサラダのように冷たい野菜は消化しにくいので、蒸したり、煮たりしていただいています。根のもの、茎のもの、葉のもの、実のもの。これらをバランスよく食べるように心掛けています。
食べるものが、体と人格をつくると聞いたことがあります。質の高い食材をいただいているおかげで、今も元気に歌っています。(聞き手=菊地武顕)
あきもと・じゅんこ 1947年東京都生まれ。2004年、インディーズで出した「マディソン郡の恋」が有線で人気を博し、異例のヒットとなった。翌年にメジャーデビュー。3曲目の「愛のままで…」で紅白歌合戦に出場。61歳での初出場は、女性歌手として歴代最高齢。今年、北海道紋別市PR大使に就任。
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2020年12月12日