なつぞら関連
2019年4月1日から9月28日まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」は、酪農が重要なモチーフです。ここでは、ドラマの展開に合わせて、北海道酪農や登場人物にまつわるエピソードを紹介します。

朝ドラで話題 FFJの歌 農高生「歌い継ぐ」 作詞者・故吉澤義之さんの地元 栃木県
NHKの連続テレビ小説「なつぞら」で、広瀬すずさんが演じる「なつ」たちが歌い話題となった日本学校農業クラブ連盟(FFJ)の連盟歌「FFJの歌」。その作詞者が栃木県の出身者であることが再認識され、県内の農高生は今後もしっかり歌い継いでいく決意を固めている。
作詞した吉澤義之さんはさくら市(旧喜連川町)の農家の出身。県外に就職し電気機器メーカーで働く傍ら、趣味の作詞に取り組み、出身校の金鹿小学校や上江川中学校の校歌も手掛けた。
1951年、「FFJの歌」の募集に応募して採用された。当時の資料には、「作詞者のことば」として「土を愛し土に生きる若人の情熱、クラブ活動の基となる自主独立の意欲、智行合一の精神、明日の農村を背負って立つクラブ員の理想と希望」などを織り込んだと記されている。
サラリーマン生活後、故郷に戻った吉澤さんは、今年2月、90歳で亡くなった。農業を継いだ、おいの吉澤健男さん(65)は、宇都宮農業高校(現宇都宮白楊高校)の卒業生。「FFJの歌は校内でいつも歌われており、おじさんをとても誇らしく思った」という。
農高生のなつが歌うシーンを見て、「おじが詩に込めた思いが伝わっているのだと感激した」と健男さん。「もう少し長生きしてくれていたら、自分が書いた歌が全国に広がっている様子を見ることができたのに」と残念がる。
20日には同校で、県内農業高校の現役の農業クラブ役員が集まる研修会があった。同校の橋本智農場長が約70年間全国の農高生に歌い継がれてきたことを紹介。出席者全員で歌う練習をした。生徒は「ふるさとの先輩が作ってくれた歌をしっかり歌い継いでいきたい」と話した。(とちぎ)
1700人歌でつなぐMV動画好評
NHK札幌放送局が作成した「FFJの歌」の歌唱動画をつなぎ合わせたミュージックビデオ(MV)「みんなでつくるFFJの歌」が好評だ。MVには主人公を演じる広瀬すずさんも登場する。
「なつぞら」でFFJの歌が披露されると全国から「懐かしい」、「歌を通じて農業に興味を持った」といった声が相次ぎ反響が大きかったことから、MVを作成。応募した全国の自治体や農高生、FFJ関係者ら1707人が参加した。
MVはNHK札幌放送局の特設サイトで10月まで視聴可能だ。NHKは「酪農家や農業を頑張る人の熱い思いが伝わってほしい」と話す。
2019年09月26日

本紙インタビューNHK「なつぞら」 広瀬すずさん 農業「身近な存在に」
NHKの連続テレビ小説「なつぞら」が終盤を迎え、主人公の奥原なつを演じる広瀬すずさんが、日本農業新聞などのインタビューに応じた。物語の舞台の一つである、北海道・十勝地方での撮影を通じ「遠い存在だと思っていた農業が、すごく近い存在になった」と語った。
広瀬さんは、農業の印象について「ドラマのテーマには開拓精神がある。自分の道をつくるのは、すごいと感じる」と強調。今後の農業を担う農業高校生らに対し「農家は自分で開拓していき、体力的にも大変。でもその粘り強さが何歳になっても必要で、ときに自分を変えてくれるものだと思う。ぜひ続けてほしい」とエールを送った。
主人公のなつを演じる前と後での変化について「野菜を大きいまま、食べるのが好きになった」と、話す。食事をする時に「これも『ああやって取ったのか』と、自然と感じるようになった」と、語った。
「なつぞら」は、NHK連続テレビ小説100作目。物語前半は第2次世界大戦終戦後、北海道・十勝地方の酪農家に引き取られた主人公が、開拓精神を学び、農業高校の仲間とともに成長していく姿を描いた。
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2019年09月19日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第21回(最終回) 「太田寛一の挑戦」(下)~危機を乗り越えブランド確立
欧州の乳業事情視察から帰国した太田寛一(士幌町農協組合長)は1966(昭和41)年、秘密裏に十勝8農協(士幌町、鹿追町、音更町、上士幌町、川西、幕別町、豊頃町、中札内村)に農民工場建設を呼びかけました。
欧州の乳製品工場は、多くを協同組合が運営し、酪農経営の安定に貢献していました。日本ではこの年、値段の安いバターや脱脂粉乳向けの生乳を価格補てんする不足払い制度がスタートしましたが、まだまだ酪農家は貧しく、北海道でさえ1戸あたり乳牛飼養頭数は数頭の規模。今日的な酪農専業経営にほど遠い状況でした。
太田は、欧州をモデルに、酪農家自らが乳業経営を行うことで、酪農経営の長期安定を図ろうと考えました。ところが、国や大手乳業は太田の考えに反対でした。雪印乳業、明治乳業、森永乳業の大手3社は十勝管内ですでに5工場を稼働させており、新たに農民工場が加われば3社の集乳地盤が侵されることになります。
当時、太田が構想した工場予定地の音更町では、乳業工場の建設は道知事に届け出るだけで可能でした。これは同町が「高度集約酪農地域」外だったからです。集約酪農地域に指定されると、国の濃密な支援が得られる一方、工場などの建設には知事の認可が必要になります。十勝管内では大樹、清水、浦幌の3町のみが集約酪農地域で、残る市町村は指定外でした。この「集約酪農地域」の問題は「なつぞら」でも取り上げられました。
こうした中、1967(昭和42)年2月3日、十勝全市町村長宛に「集約酪農地域について意見を聞きたい」と、道からの親展速達が届きました。十勝全域を集約酪農地域に指定する意図で送付されたものであり、返答は2日後の2月5日という極めて性急な内容でした。
太田は翌4日、十勝農協組合長会議を緊急開催し、この日のうちに工場新設を十勝支庁に届け出ることを決めました。4日は土曜日でしたが、届け出はぎりぎりで受理され、農民工場が日の目をみることになったのです。
太田は新会社の社長に就任したものの、乳製品工場の建設運営に携わったことはありません。そこで、ホクレンや全国酪農業協同組合連合会に専門家の派遣を要請、全面的な協力を得ることに成功します。
北海道協同乳業の工場予定地(よつ葉乳業提供)
くわ入れする太田寛一(よつ葉乳業提供)
こうして北海道協同乳業は建設届け出から3カ月後に着工、わずか6カ月の工期で完工し、この年の11月9日にバター3トンと脱脂粉乳15トンを初出荷することができました。
ところが創業2年目の1968(昭和43)年、乳製品の需給緩和で過剰在庫を抱え、倒産寸前に追い込まれました。窮地を救ったのはホクレンや十勝8農協です。増資など強力な支援を行い、危機を脱した北海道協同乳業は全国に先駆け、紙パックによる市乳の販売、第二乳製品工場の建設など、次代を見据えた積極策を次々に打ち出し、農民工場としての基盤を固めていきました。
同社はその後、北海道農協乳業を経て社名をブランド名の「よつ葉乳業」に変更、今日に至っています。いまでは日本一の農協系乳業として盤石な経営基盤を築きあげました。
その基は創業者・太田寛一がつくった「適正乳価の形成」「酪農経営の長期安定」の社是にあります。全役職員がこれを脈々と受け継ぎ、いまも前進を続けているのです。
(農政ジャーナリスト・神奈川透)
*「北の酪農ヒストリー」は今回で終了します。
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2019年08月31日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第20回 「太田寛一の挑戦」(上)~極秘に乳業会社設立に奔走
「なつぞら」では、農民資本の「十勝協同乳業」の設立が描かれました。協同組合の団結を正面から取り上げたドラマは稀有といえるでしょう。
国の妨害に遭いながら、音問別農協の田辺政人(宇梶剛士)組合長と柴田剛男(藤木直人)専務らは、農協出資の乳業会社設立で十勝の農協組合長を一つにまとめ上げます。そして、十勝支庁に乗り込み、支庁長から賛意を取り付けました。
田辺らが農協資本の乳業会社設立に奔走するのは、大手乳業に隷属的な関係を強いられ低乳価に苦しむ酪農家を救うためです。これは絵空事ではなく、実際にあった話を基にしています。
太田寛一社長(よつ葉乳業提供)
田辺は太田寛一・士幌町農協組合長(後にホクレン会長、全農会長)、十勝協同乳業は北海道協同乳業(よつ葉乳業の前身)がモデルと思われます。
太田は1915(大正4)年、十勝の川西村(いまの帯広市川西町)に生まれました。小学校卒業時に十勝支庁長から表彰されるほど学業がずば抜けていました。しかし、家が貧しく進学を断念し、地元の産業組合(今の農協)に就職します。後に士幌村産業組合(士幌町農協の前身)にスカウトされました。
ここで知り合った獣医師の秋間勇や飯島房芳(後の士幌町長)らと共に、太田は「産業組合運動で農村を豊かにしよう」と、精力的に仕事に励みました。太平洋戦争後、士幌村農協が設立されると常務に、1953(昭和28)年には37歳の若さで組合長に就任します。
1956(昭和31)年9月、村内の全酪農家(323戸)に呼び掛け、全会一致で士幌村酪農振興協議会を設立、この組織を起爆剤に農協は生乳の「一元集荷多元販売」に踏み出します。今日の指定生乳生産者団体制度のモデルともいうべき試みで、画期的なものでした。
当時、士幌村では雪印乳業、明治乳業、森永乳業、宝乳業などによる激烈な集乳競争が行われていました。親子で生乳の出荷先が違ったり、農家ごとに乳価差があったり、一家で複数の乳業に生乳を出荷するなど、混乱を極めていました。
太田は、このいびつな生乳販売の問題を解決しなければ酪農発展はないと、酪農家の団結を促したのです。この結果、乳業と対等な取引が実現し、生乳検査も自ら行うようになり、乳業による検査のカラクリをつかむなど、大きな成果を挙げました。
こうした協同に基づく事業展開の延長線上にあるのが、1967(昭和42)年の北海道協同乳業の設立です。
太田は1966(昭和41)年、欧州の乳業事情を視察し、農民自ら乳製品工場を経営していることに驚きます。帰国後、極秘裏に十勝8農協による乳製品工場建設を進めます。ことが公になると、大手乳業の猛反対に遭うからです。
乳業工場建設の実現までには、大きな障害がいくつも立ちはだかっていました。(続く)
(農政ジャーナリスト・神奈川透)
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2019年08月24日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第19回「健土健民と黒澤酉蔵」〜循環農業で国民豊かに
「なつぞら」は、戦災孤児のなつが十勝の柴田牧場に引き取られ、酪農の仕事を手伝うシーンから始まりました。
なつは、1日でも早く仕事を覚えるため必死に働きます。牛と仲良くなることが大切だと教わり、牛たちに声を掛けながら仕事をします。放牧に出す時には「いってらっしゃーい! 元気いっぱい草を食べてね。いっぱいふんをしてね」、放牧から帰ってくると、「お帰りなさい! いっぱい草食べた? いっぱいふんした?」と、元気のよい言葉を発します。
初めて酪農の仕事をした9歳のなつの言葉に驚かされます。牛の生産物は牛乳ですが、ふんや尿も大事な生産物であることを知っていたからです。
牛は主食の草(牧草やトウモロコシサイレージ)をたくさん食べるほど牛乳をたくさん出します。ふんと尿を合計すると牛乳の倍くらいになります。
当時の柴田牧場の乳牛は、1日1頭当たり牛乳を約20キロ、ふんを約30キロ、尿を約10キロ生産していたと思われます。酪農で生産されるふんと尿が土地を肥沃にすることはよく知られています。まさに、牛のふんと尿が十勝を酪農王国、農業王国に導いたのです。
黒澤酉蔵
牛のふんと尿が肥料として重要であり、土をよくすることを北海道で最初に説いたのは札幌農学校のクラーク博士です。それ以前の日本の農業では人ぷんが肥料として用いられていました。
このころは酪農という言葉はなく、牛を野草地に放牧し、刈り取った生草や干し草に糟糠類(糠やフスマなど)を少量給与して牛乳を搾る、文字通り牛乳搾取業でした。
明治後半に米国帰りの宇都宮仙太郎が酪農という言葉を使い始め、1917(大正6)年に宇都宮と黒澤酉蔵らは日本で最初に酪農という冠の付いた日本最初の牛乳出荷組合、札幌酪農組合(後にサツラク農業協同組合)を立ち上げました。
また、宇都宮と黒澤らは、1925(大正14)年、酪農民による乳製品の加工販売組合、北海道製酪販売組合(後に酪連。雪印乳業)を設立、さらに1941(昭和16)年、黒澤は酪連、森永、明治を統合した巨大乳業会社、北海道興農公社の社長になりました。
黒澤の書いた「健土健民」
黒澤には二人の恩師がいます。足尾鉱毒事件で農民救済に生涯を捧げた田中正造と、北海道酪農の父・宇都宮仙太郎です。田中から国土愛、宇都宮から酪農の本質を学び、健康な土が健康な国民をつくるという「健土健民」思想を体得しました。
酪農によってこそ健土健民を実現できると力説し、酪農乳業の発展に尽くした黒澤は、まさに魂の酪農乳業の母と言えるでしょう。
(酪農学園大学名誉教授・安宅一夫)
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2019年08月17日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第18回「搾乳技術の変遷」~手搾りからロボットへ
専用の機械のない時代、酪農経営において大切な作業である搾乳は手搾りでした。「なつぞら」に登場する柴田牧場は、当初から手搾りです。
乳牛の2つの乳頭の根元に両手の親指を当てて、向こう側の人差し指、中指、薬指、小指を順次握り込んで、左右交互に根元から牛乳を搾り出すのが手搾りの実際です。これを立ったりしゃがんだりしながら頭数分行うわけですから、大変な作業であることが想像できます。
やがて飼養頭数が増えてきた経営では手搾りでは間に合わなくなり、搾乳機械(ミルカー)が導入されます。最初は、搾った牛乳を持ち運ぶ方式のバケットミルカーでした。輸入品でしたが、なつが上京2年目の1957(昭和32)年には国産の搾乳機が開発されます。
さらに多頭化が進むと、牛舎にガラス管を設置して自動で送乳するパイプラインミルカーが登場します。経産牛30頭以上に多頭化した経営では1970年以降、補助事業などの支援もあり全国に拡大し定着しました。
1963(昭和38)年をピークに、酪農家戸数は減少をたどる一方で飼養規模の拡大はさらに進みました。100頭を超えてくると乳牛管理の考え方が個体から群管理に変化し、これに伴い搾乳方法も変化します。
ロータリー式ミルキングパーラーによる搾乳風景(北海道)
牛舎は乳牛が自由に歩き回ることができるフリーストール施設となり、搾乳も牛が自ら搾乳場に移動するミルキングパーラー方式になります。一度に搾乳できる頭数は、小規模なものから大型のロータリー式のものまで、その形式により様々ですが、効率が大きく向上しました。
個体管理を重視する従来からのつなぎ牛舎でも技術革新が進みます。牛舎内に敷設されたレールを搾乳ユニットが自動で移動するキャリロボと呼ばれるシステムが開発され、懸案であった作業者の肉体的負担を大きく軽減しています。
技術革新はとどまることを知らず、平成時代前半にはついに、重労働である搾乳作業を自動化した搾乳ロボットが開発されます。その後改良を積み重ねて完成度を高め、今日全国でおよそ700台もの搾乳ロボットが導入されています。これらのロボットも、やがてAI技術などとも融合し、さらに高度なシステムに発展することになるでしょう。
このように搾乳機器は進化を重ね作業は軽減されましたが、一方で搾乳ロボットの価格は1台2500~3000万円と高価であり、機械コストは著しく上がっています。特に若い人が新規で酪農に就農する場合に、膨大となる初期費用への対応は現実的ではありません。新規就農においては、パイプラインなど、従来システムも上手に活用してゆくことが必要です。
(東北森永乳業常務取締役・百木薫)
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2019年08月10日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第17回「天陽のベニヤ絵を読み解く」~昭和の牧場風景は宇都宮の遺産
「なつぞら」の前半で、菓子店「雪月」の壁に飾られていた美しい牧場の絵を覚えているでしょうか。
これは山田天陽(吉沢亮)がベニヤ板に描いた絵を雪月の店主小畑雪之助(安田顕)が気に入り、天陽から譲り受けたものです。
雪月でこの絵を見た十勝農業高校演劇部顧問の倉田隆一(柄本佑)は心を揺さぶられ、戯曲『白蛇伝説』の背景画を天陽に依頼します。倉田は「十勝の土に生きる人間の魂を見事に表現している」と絶賛しました。
宇都宮仙太郎
確かにこの絵は、昭和時代の牧場の風景がよく描かれています。絵にあるように昭和時代の酪農のシンボルは、キング式牛舎(二階建て腰折れ屋根)と塔型サイロ、そしてホルスタインの放牧です。この風景は北海道酪農の父・宇都宮仙太郎によってもたらされたといっても過言ではありません。
米国における近代酪農乳業は1880年代後半に著しく発展しましたが、ウィスコンシン大学の研究が大きく貢献しました。宇都宮は最初の渡米中(1887~90)、ウィスコンシン大学でヘンリー教授、バブコック教授、キング教授の薫陶を受け、世界最先端の技術を持ち帰りました。
家畜飼料学の権威ヘンリー教授の下では、当時世界で最初に建設された本格的塔型サイロを用いて行った最初のサイレージの研究を手伝ったといわれています。それまでサイロは、地下のトレンチ(堀)サイロが主流でしたが、地上塔型サイロが登場した時期でした。
宇都宮は帰国後、満を持して1902(明治35)年、札幌白石に開いた牧場で我が国最初の地上塔型サイロを建設します。さらに1906(明治39)年、吉田善助(後に競走馬の社台ファーム創業)とともに渡米し、ホルスタイン種乳牛五十数頭購入して帰国、ホルスタイン時代の道を開きました。そして1911(明治44)年に2回目の渡米で持ち帰ったと思われるバブコックの乳脂肪検定器を用いて乳脂肪率を測定し、我が国最初の牛乳検定を行いました。
キング式牛舎と塔型サイロから成る宇都宮牧場(北海道大学附属図書館所蔵)
この年、宇都宮は石造塔型サイロを建設、その翌年には米国・ジェームス社設計の本格的キング式牛舎を我が国で最初に建設しました。赤い壁で緑の屋根の牛舎と塔型サイロ、そして緑の草をはむホルスタインの美しい牧場風景は周囲を圧倒したそうです。
キング式牛舎は、キング教授が1889年に発表した画期的換気方式の牛舎で、1877年にクラーク博士が遺した札幌農学校のモデルバーンにとって代わったのです。天陽の絵にみられるウィスコンシンモデルは、ウィスコンシン大学で学んだ宇都宮仙太郎から塩野谷平蔵、町村敬貴によって北海道に定着、発展しました。
現在、北海道平均の牛の飼養頭数は絵にある4頭から100頭を超えました。サイロはバンカーサイロやロールベールラップサイロに変わり、牛舎は平屋のフリーストール牛舎となり、牛舎の外で牛を見かけることが無くなりました。酪農の技術は日進月歩ですが、昭和生まれの筆者には天陽の絵が懐かしい。
宇都宮仙太郎は、酪農乳業という新しい産業を開拓し、美しい文化をも遺してくれました。
(酪農学園大学名誉教授・安宅一夫)
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2019年08月03日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第16回「十勝開拓の祖・依田勉三」~今日の食料基地の礎築く
戦争孤児のなつが引き取られた先の牧場主・柴田泰樹(草刈正雄)は、1902(明治35)年に富山県から入植したという設定です。その入植を19年さかのぼる1883(明治16)年、泰樹の尊敬する依田勉三が人跡未踏の帯広で開拓を始めました。「十勝開拓の祖」と今でも地元で敬われる人物です。
勉三は1853(嘉永6)年5月、伊豆の大沢村(今の静岡県松崎町)の豪農の家に生まれました。東京の英語塾を経て慶應義塾に入りますが、胃を病み学業半ばで帰郷します。勉三が北海道開拓の志を立てたのは慶応時代といわれ、道内踏査を経て開墾会社・晩成社を設立したのは1882(明治15)年1月でした。社名は、開拓は短期間で成就しないと考え、大器晩成からとりました。
翌年春、勉三は13戸27人とともに5月20日、下帯広村オベリベリ(現在の帯広市東9条南5丁目付近)で開墾に着手しました。ところが野火、ひでり、夏には蚊やブヨで作業ができない日が続きました。「ここは人が住むところではない」と、3戸4人が脱走した3日後の8月4日、南の空が見る間に真っ黒になりました。イナゴの大群です。イナゴは大地を埋め尽くし、農作物はすべて食い尽くされました。
晩成社は当初、15年間で1万ヘクタールを開墾する目標を立てましたが、開拓は初年度からつまずき、食料にも事欠くありさまでした。勉三は入植4年目に当縁村オイカマナイ(現在の大樹町生花苗)で農牧場を開き、乳牛を飼い、バターを作りました。「マルセイバタ」です。しかし、これも長くは続かず中止のやむなきに至りました。
晩成社の事業は多くが不首尾に終わり、会社は1932(昭和7)年に伊豆で解散しました。しかし、十勝が今日、日本の食料基地として大発展したのは勉三率いる晩成社が艱難(かんなん)辛苦をものともせず、先駆的役割を果たしたからです。「十勝の産業の源流を探るならば、そのほとんどが晩成社に発している」(帯広市史)とされます。
勉三は1925(大正14)年12月に亡くなりました。その功績を後世に残そうと、運動したのが中島武市です。
帯広市内の中島公園にある依田勉三の銅像
武市は岐阜県出身で大正時代に来道。帯広で古着商で成功し、後に帯広商工会議所会頭、帯広市議会議長などを務めます。1941(昭和16)年、帯広神社向かいに勉三の銅像を建てますが、立像は1910(明治43)年の途別水田50町歩完成記念写真を基に作製されました。帯広市長は武市の篤志に応え、ここを中島公園と命名しました。
勉三の銅像は戦時中、金属応召で姿を消しましたが、武市は1951(昭和26)年、元の場所に銅像再建を果たし、除幕式も行いました。
ちなみに、武市の孫は名前を「美雪」といい、長じて我が国を代表するシンガソングライターとなる中島みゆきさんです。
(農業ジャーナリスト・神奈川透)
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2019年07月27日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第15回「北海道興農公社 秘話」~統合話を受け入れた森永社長
「なつぞら」牧場篇の1955(昭和30)年、柴田泰樹(草刈正雄)が高校生だったなつ(広瀬すず)の演劇を見て感動し、懸案となっていた生乳の出荷先を乳業メーカー直接搬入から農協経由に変更するという場面がありました。序盤のハイライトの一つで記憶に残る視聴者の方も多いでしょう。
この背景には、メーカーと生産者の間にしばしば生じた取引条件をめぐる対立があります。
1923(大正12)年から、酪農が盛んになり始めた北海道へ本州から練乳会社が進出を始めました。目的は菓子の原料や赤ちゃん哺育用ミルクの確保です。しかし、同じ年に発生した関東大震災の救援物資として、海外から大量の練乳や粉ミルクが無税で入ってきたため、経営が苦しくなった練乳会社は生乳の買い入れを制限して、生産者を苦しめました。
この時、北海道酪農の父といわれる宇都宮仙太郎らが、メーカーの都合で生産者が悪影響を受けないよう、農協組織としてバター製造に特化した北海道製酪販売組合連合会(酪連)を立ち上げたのは、すでにこの欄で紹介した通りです。
酪連は生産者から一括して生乳を買い上げ、メーカーに販売する「一元集荷多元販売」の体制を整え、生産者の負担を軽減しました。このような経過の中で、農協組織と乳業メーカーが相対する関係が生まれ、その後も続いたのです。
1941(昭和16)年、戦時下の北海道でも穀物飼料の不足などが生じ、酪連もメーカーも思うように原料乳が確保できず、各地で競合が激しくなりました。その状況を心配した北海道酪農の先駆者で江別市の町村農場の創業者・町村敬貴は、酪連を主体とした道内乳業メーカーの統合について、北海道長官(今の知事)・戸塚九一郎に相談を持ちかけ、賛同を得るのです。
課題はメーカー側の理解でした。当時、練乳会社の明治も森永も、北海道での事業量が過半を占めていました。話に乗れば事業の大半を失うことになります。
ところが、町村が最初に会って話をした森永煉乳・松崎半三郎社長は「この時局において循環農業としてのあるべき酪農実践につながるなら賛成する」との意向を示し、町村を驚かせました。松崎半三郎は、現・首相夫人・安倍昭恵氏の曽祖父に当たります。
これをきっかけに明治社も承諾し、統合された巨大農業振興事業組織・北海道興農公社が誕生します。その背景には、北海道の酪農業の健全な発展を願う乳業メーカーの思いがあったのです。公社は生乳の加工だけではなく、種苗事業や牛皮革の加工、土壌改良資材製造などの事業にも併せて取り組みました。
練乳会社の工場14か所を吸収して酪連の基盤を主体に発足した公社は、非常時の北海道農業の振興に一定の役割を果たしました。しかし、戦後はその大きさからGHQ(連合国軍総司令部)の指令に基づく過度集中排除法の指定を受け、会社は分割されます。
その際に練乳会社に返還されたのは、明治に今金工場、森永に遠軽工場の二つだけでした。分割された公社は雪印乳業と改称し、昭和33年には生乳加工部門を再統合し、改めて北海道への進出を図る明治、森永としのぎを削ることになるのです。
1957(昭和32)年から、道庁の指導により北海道全域で牛乳出荷共販体制として一元集荷多元販売が計画され、各地の単協によって進められたとの記録があります。
上京したなつがアニメーターとして活躍を始めた頃は、各地で発足した農協が、酪連に代わって一元集荷多元販売を担いました。
(東北森永乳業常務取締役・百木薫)
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2019年07月20日

「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第14回「牛乳の脂肪検定取引」~米国帰りの佐藤貢が発案
「なつぞら」では戦後の酪農の様子がテンポよく、描かれています。
20話で天陽(吉沢亮)の山田家が農協の世話で乳牛を導入しましたが、乳業メーカーの検査で牛乳の乳脂肪が低く、乳価が安く格付けされました。農協に勤める柴田剛男(藤木直人)は、小さな弱い酪農家が不利を被らないよう、酪農家を守る組織が必要だと訴えます。
ところで、当時の乳価は乳脂肪率によって決定されました。その嚆矢(こうし)は1925(大正14)年、北海道製酪販売組合工場長・佐藤貢の発案にあります。それ以前のわが国の乳業会社の牛乳買入れは1升(1.8リットル)いくらの「升目買い」でしたが、乳脂肪率や乳質等級で買う「脂肪買い」を導入しました。画期的なことで他の会社も追従しました。
その時、米国帰りの佐藤は弱冠27歳。50ポンド用手回しバターチャーンを一人で回し、バターづくりを始めました。
本格的な工場建設のため、「今は金がないが、できたら必ず送る。私を信用して500ポンド電動バターチャーン、冷凍機、脂肪検定機等1式を送ってくれと」と、米国留学時代の知人で機械商ランドルフ・アンソニーに手紙を書きます。すると返事の手紙と同じころに1式が届いたという感激の逸話がありました。
バブコック教授(左)と北海道長沼町の宇都宮牧場が所有するバブコック脂肪検定器(右)
牛乳の脂肪検定法にはバブコック法とゲルベル法が長く用いられています。バブコック法は1890年、米国ウィスコンシン大学のバブコック教授によって迅速単純な方法として開発され、1892年には米国において乳脂肪に基づく牛乳取引が実施されました。この年、スイスの化学者ゲルベルがゲルベル法を発表しました。
宇都宮牧場三代目の潤、喜美夫妻
バブコック教授はノーベル賞の候補になり、米国と日本、とくに北海道では高く評価されましたが、対抗心からかヨーロッパからは相手にされなかったようです。
酪農の父・宇都宮仙太郎はバブコック法が開発される時期に直接教授に師事する幸運に恵まれ、バブコック法の技術を世界に先駆け持ち帰りました。長沼町の宇都宮牧場の玄関には、わが国では最も古いバブコックの脂肪検定器が飾られています。
これまでバブコック法のわが国への導入開始時期は明らかでないとされていますが、本コラムが参考になれば幸いです。
(酪農学園大学名誉教授 安宅一夫)
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2019年07月13日