第60回迎えた天皇杯 「賞の中の賞」農家の誉れ 品評会など各地のトップから審査
農林水産祭だけ7個授与
天皇杯が最高の栄誉とされるのは「賞の中の賞」だからだ。過去1年間に全国で行われた表彰や共励会、品評会といった行事の「農林水産大臣賞」受賞者の中から審査する。
例年、行事数は「日本農業賞」など全国規模のものから県単位のものまで約300、受賞者数は約500組に及ぶ。農林水産祭への参加を申請すると、審査対象の行事になる。
天皇杯は、サッカーや柔道などの全国大会の優勝者にも贈られる。日本農林漁業振興会によると、その数は30個。農林水産祭以外は全てスポーツで、1団体1個に限られる。だが農林水産祭だけは、7分野を表彰するため7個与えられている。
受賞者は1年間、天皇杯を保有でき、2分の1サイズのレプリカも贈られる。だが「何かあると怖い」(受賞経験者)といった理由から、「本物」は祝賀会などが終わると同振興会に預けられる場合も多い。天皇、皇后両陛下に業績を直接説明する機会も設けられる。これらも「最高の栄誉」とされるゆえんだ。
時代を映す受賞者 第1回に米作名人 多収975キロ評価
第1回天皇杯は1962年で、農産、園芸、畜産、蚕糸、林産、水産の6部門を表彰した。当時の河野一郎農相の指示で、全国の農業関係行事の集約点として国民的祭典「農業祭」を開催、天皇杯の表彰もするようになった。
農業祭は、産業組合中央会や帝国農会などを中心に開いていた「新穀感謝祭」(35年~)が前身。農林省から農水省への改称に伴い78年には農林水産祭となり、五穀豊穣(ほうじょう)を感謝する宮中祭祀(さいし)、新嘗祭(にいなめさい)が行われてきた11月23日の勤労感謝の日を中心に開かれている。部門は時代に応じて統合・変更し、79年には「むらづくり部門」の新設で7部門となった。
受賞者の姿は時代の鏡。第1回の農産部門は長野県富士見町の稲作農家・小池政之さん(45=当時)が受賞した。米の収量を競った「米作日本一」を61、62年の2年連続で受賞した名人。当時の本紙によると、標高1080メートルの高冷地で10アール収量975キロを記録した多収技術が評価された。品種は「ふ系55号」。米の自給達成は67年で、まだ増産意欲が高い時代だった。
畜産部門 乳牛5頭で「大規模」
一方で、畜産部門で受賞した富山県高岡市の酪農家・田島信雄さん(43=当時)は、水稲の裏作で牧草を栽培して乳牛を飼う「複合経営」だった。園芸部門は、青森県弘前市の「冷水組」。リンゴ5ヘクタールを11人で集団栽培し、品質を高めたことが評価された。田植え機などの普及前だったことから、小池さんの水田面積は1・3ヘクタール。当時の本紙が「かなり大きい経営」と伝える田島さんも搾乳牛5頭で、年間の平均乳量は6・375トンだった。
ちなみに第1回の中央審査委員会会長は、農林水産技術会議会長だった農業経済学の重鎮・東畑精一氏が務めた。第1回の農業祭では、東京都渋谷区の明治神宮から銀座などを経て新宿まで、天皇杯受賞者らを乗せたオープンカーによるパレードも実施。パレードは81年まで行っていた。