ユーリ・ミハイロフ 1954年2月キーウ生まれ。国立技術大学を1978年に卒業。ソ連軍空軍陸戦隊に将校として従軍した後、熱力学や機械工学専門家として製糖工場などに勤務。1996年から97年、米農務省の農業市場分析研修を受ける。農業雑誌の編集長を経て、現在はフリーランスの農業ジャーナリスト。ウクライナ農業ジャーナリスト組合名誉会長。
ロシアによって侵略された地域の取材を日本農業新聞の記者から依頼されたのは、6月上旬だった。キーウ市在住の私自身も現地取材には関心があったので、電話口で「喜んでこの仕事を受けたい」と答えた。
妻はこの計画に強く反対をした。戦闘が続く場所の近くに行くことは「危険だ」と考えたからだ。しかし、戦争は続いており、程度の違いはあるものの、ウクライナに安全な場所はない。
ここで、私が住んでいるキーウの現状について触れておこう。
キーウではミサイルやドローンによる攻撃が続いている。多くはウクライナ軍による迎撃で防いでいるものの、一部は市内に被害を与えている。
私の家に最も近い防空壕は、実際には200メートル離れた地下横断道だ。椅子やトイレなどの設備はない。ロシア軍の攻撃は主に夜間であり、一晩に何回か自宅から移動して数時間立ち続けるのは非常に疲れる。妻と話をして、警報が鳴ってもコンクリート製の集合住宅にある自宅で過ごすようにした。直撃弾さえ免れれば、生き延びられるだろう。
農家に行くことは家にいることに比べ、格段に危険だとは言い切れない。妻も納得して私の現地取材に賛成してくれた。
訪問する農家を選ぶため、ウクライナの農民組合アグロ・コネクションを訪ねた。ハリコフ、チェルニヒウ、ヘルソン、ミコライフ地域の取材を勧められた。調べるとハリコフの農家はロシア国境から5キロしか離れておらず、常に砲撃を受けていたため断念。残りの3カ所を回ろうと準備を始めたが、直後に発電ダムをロシアが爆破したことから、一帯が浸水したヘルソン訪問も見合わせることにした。住民の避難で混乱し、ロシア軍の砲撃が激しかったからだ。
2カ所の取材のための移動は民間のバスを利用した。キーウからのバス便は本数は少ないものの、動いている。平時と異なるのは、何回も厳密なIDチェックが必要だったことだ。重要な交差点、都市の境界などで身分を証明する必要がある。
ウクライナは国内で侵略者と戦っている。ロシアのスパイが紛れ込んで、破壊工作やかく乱行為を実行したり、軍事攻撃目標の位置を調べたりするのを防ぐ必要がある。
写真撮影は厳しく規制されている。私はプレスパス(記者証)を持っているが、軍事施設やミサイルが着弾して被害が出たところなどは撮影できない。敵がその写真を基にして座標を調整し、新たな攻撃を招きかねないからだ。
カメラを構えて写真を撮っていると、「不審者」として住民が警察に通報し、拘束される恐れもある。私たちが戦争の中で生活をしていることを忘れてはならない。
7月に入って訪問した3人の農家は、それまで平和だった生活や農業が、2022年2月24日に突然断ち切られたことへの怒りに満ちていた。ロシア軍に農場を占拠され、あるいは農場が戦闘の最前線になった。砲撃や爆撃で破壊されなかった機械や道具類、生活物資はロシア兵によって略奪された。盗めないものは面白半分のように破壊していった。
3人はロシア兵が地元住民に対して残虐行為を働いたことを指摘した。 私が訪問した時には激しい戦闘行為から時間が経過していたこともあって、爆撃による焼け跡の臭いなどを感じることはなかった。一部の畑には作物が植えられていた。
しかし、多くの場所で地雷が残されていた。畑のあちこちに掲げられた「危険」の看板は、ウクライナの農業がこれから長い時間くぐり抜ける困難を象徴している。全土にばらまかれた地雷をウクライナ軍が処理するのは時間がかかる。訪れた農場の一つでは労働者が自分たちで処理しようとして失敗し、片足を吹き飛ばされるという悲劇もあった。
破壊された倉庫や牛舎、トラクター。手つかずのまま放置されている所も多い。ロシア侵攻がウクライナの農家に与えた気の遠くなるような被害に直面し胸が詰まった。
あらゆる面で国際社会の支援が必要だ。まずはロシアの蛮行を止め、ウクライナから引き揚げさせること。国民が安心して暮らせるインフラを再建すること。同時に前を向いて復興に立ち上がるウクライナの農家に力を貸してほしい。畑を耕し、種をまき、収穫する。乳を搾る。ごく普通の農村の光景を取り戻すまでには何年もの時間がかかるだろう。