日本食肉格付協会に聞くと「定義はなく、どんな理由で言われるようになったかは不明」。農水省、日本食肉消費総合センター、「牛の博物館」(岩手県奥州市)にも聞いたが同様の回答だった。
山形県の米沢牛銘柄推進協議会事務局によると、自ら日本三大和牛だとはPRしていないという。他の3銘柄牛の産地の団体からも、明確な答えは得られなかった。
メディアが火付け役?
次に当たったのは、雑誌専門の図書館「大宅壮一文庫」(東京都世田谷区)。約80万冊の蔵書の中で「日本三大和牛」の記述がある最も古い記事は、2010年の観光情報誌だった。
国立国会図書館で探すと、さらに古い資料が見つかった。1995年の「週刊読売」の記事。「この本にならって、独断と偏見で牛・豚にまつわる三大○○を考えてみた。三大和牛=神戸牛、松阪牛、米沢牛」とあった。
「この本」とは、100を超える分野の“日本三大○○”をまとめた「日本三大ブック」(講談社)だった。早速、同書を取り寄せるも「日本三大和牛」の記述はなかった。
93年発刊の同書の著者・加瀬清志さん(71)に聞くと当時、松阪牛と神戸牛、米沢牛、近江牛の4銘柄牛は「有名だったが、日本三大和牛として、くくられてはいなかった」と教えてくれた。
結局、誰が、いつ、「日本三大和牛」を決めたのかは分からなかった。ただ、4銘柄牛がなぜ「日本三大和牛」に挙がるようになったのかという疑問は残る。さらに取材を進めていくと、明治時代に始まった食肉文化に行き着いた。
起源は交通の要衝から
松阪牛と神戸牛、米沢牛、近江牛の4銘柄牛が「日本三大和牛」に挙がる背景として、有力な説を示してくれたのが、近江牛の生産者や販売業者らでつくる「近江肉牛協会」。「食肉文化が広まった明治時代に評判だった産地が、今も名を残している」(事務局)というものだ。
同協会によると、明治初期に、肉を食べる文化が外国人から流入。外国人の居留地があった横浜港に船で全国から農耕用の牛が運ばれ、東京などにも消費が広がった。その際、神戸港からの牛は「神戸牛」、四日市港からの牛は「松阪牛」として売られたという。
「近江牛」も当初は神戸港から運ばれたため「神戸牛」とされたが、1889年に東海道本線が開通し、近江八幡駅から鉄道で運ばれると「近江牛」と呼ばれた。
一方、山形県米沢市によると「米沢牛」は、同市で外国語講師をしていた英国人が1875年に横浜に帰任する際、連れ帰った牛が評判となり、知られるようになった。
食肉の歴史に詳しい大阪樟蔭女子大学の野間万里子准教授によると、1884年4月の「郵便報知新聞」に、東京で神戸牛が他の牛よりも2倍の高値で取引されているという記事が掲載された。「当時から人気があったと分かる」と野間准教授。他の3銘柄牛も、それ以外の産地に比べて高値で取引されていた可能性があるという。
一方、4銘柄牛がその後もよく知られている理由について、野間准教授は「東京、大阪の二大都市圏のどちらにも知られる希少な存在だったからではないか」とみる。
神戸牛、松阪牛、近江牛は、地理的に近い大阪への流通ルートも早期に確立。米沢は大阪から遠いが、米沢の特産・絹織物を買い付けに来た大阪の商人が米沢牛の牛鍋を食べて評判を呼び、大阪に伝わったという。
産地名で海外産と差異
和牛の歴史に詳しい和牛技術コンサルタントの小野健一さん(66)によると明治時代、4銘柄牛と同時期に、中国地方の牛の肉も東京で「おいしい」と評判になった。体格や繁殖能力に優れていたが、主に農耕用の牛の繁殖に使われ、「肉牛としては全国的に広がらなかった」という。
小野さんは「日本三大和牛は、91年の牛肉輸入自由化後に生まれた言葉ではないか」と指摘する。当時、安価な輸入牛肉と差別化するため、産地の名前を付け、一定の条件で生産するなど牛肉の銘柄化が進んだ。
中でも4銘柄牛は「歴史が長いだけでなく、出荷条件も厳しい」と小野さん。「ブランド価値を高めるためにまず流通業者が使い、消費者や他産地から評価され、日本三大和牛と呼ばれるようになったのでは」とみる。
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四つの有力な銘柄牛があるのに、なぜ「三大和牛」という言葉が浸透したのかという点も気になる。
「日本三大ブック」の著者・加瀬清志さんは「日本三大名城、日本三大温泉など、日本人は“三大○○”を好む」と指摘。その上で「松阪牛と神戸牛の2銘柄と並んで、東日本は米沢牛、西日本は近江牛と、地元に近い銘柄牛をそれぞれ選んで、三大和牛としたのではないか」と加瀬さんは見立てる。