[論説]能登半島地震2カ月 復興へ長期的視点必要
発災後、しばらくは「農村の自助」が際立った。政府は被災県の要望を待たずに物資を送るプッシュ型で即応したが、半島を巡る国道249号がずたずたに寸断され、海港も使えず、3000人以上が孤立した。十分な食料が届くまでに3~4日を要した。
津波の被害もあった石川県穴水町曽根地区では、住民の農家が自宅に保存していた米や野菜など食料を被災者に提供し、“自給自炊”を実現した。避難所となった旧小学校は給食が自校式だったため調理場もあった。炊き出しのリーダーを務めた室木律子さん(68)は、「地域の食材で作る家庭料理が何よりも元気の源」だったと言う。能登地域は高齢化率が5割前後と悲観的に語られがちだが、被災者による自助は、知恵を持つ農村の高齢者が中心となった事実を忘れてはならない。
二次避難所の開設が整うまでの2カ月間は「農村の共助」が発揮された。全住民が稲作に携わる珠洲市若山地区も旧小中学校が避難所となり、一時は100人を超えた。横浜から帰省中だった元農水省職員の本鍛治千修さん(71)は「故郷を放っておけない」と残ることを決断、現在も避難所運営や在宅避難者の安否確認などに奔走する。
本鍛冶さんが気になったのは、支援を待つだけの人の多さだった。自ら憎まれ役となり「自分たちでできることは助け合ってやらんと、地域はなくなるぞ」と厳しい言葉を発し続けた。当初はけげんそうだったが、被災者同士で協力し、山から水を引いて風呂場を仮設したり、炊き出しに参加したりするようになった。ふさぎこんでいた90歳の女性も、生き生きと活動するようになった。これが農村を支える「共助の力」だ。
1995年の阪神・淡路大震災を機に国による「公助」が整備されたが、これまでの課題を踏まえたビジョンづくりも必要だ。11日で13年を迎える東日本大震災を教訓にしたい。東京電力福島第1原子力発電所事故が起きてしばらく「人は住めない」と、国が除染しなかった福島県の帰還困難区域は震災から10年後、帰還を求める声を受けて拠点地域の除染が始まり、営農が本格的に再開される。
中山間地域である能登地域の復旧は確かに多難だが、農村の未来を否定的に捉えることは早計だ。政府には長期的ビジョンと支援を求めたい。