私が結婚して芸能界を引退したのは、23歳の時。お義母(かあ)さんと一緒の暮らしが始まりました。お義母さんから受け継いだ味といえば、なます。大きなたるに二つも作るんですよ。
使うのは必ず三浦ダイコン。ニンジンの他に、ユズも入れます。お酢を何杯、お砂糖何杯、みりん何杯入れるという目安はなく、入れる量は全部あんばいなんです。湯原家の味になるよう作り方を覚えないといけないので、最初のお正月は緊張しました。私の中では、お雑煮以上に「自分で作れるようにならなければ」という思いが強かったです。
もう一つ。おいなりさんも、お義母さんとの思い出には欠かせません。湯原家では酢飯を甘くしないんですよ。お酢が多めで、鼻にツンとくるくらい。それにごまを加えて、肉厚でしっかりとしたお揚げさんに詰めました。お揚げは甘味の濃い味付け。お義母さんに「何を食べたいですか」と聞くと、いつも「いなりずし」と。それくらい好きだったんですね。ですからお墓参りには必ずおいなりさんを持って行きますし、月命日にもあげています。
実家の母との食の思い出と言えば、おにぎりと卵焼き。母は働いていましたから、学校から帰ると、毎日、食卓におにぎりが置いてあったんですよ。私はお菓子よりも、そのおにぎりが好きでした。ソフトボールをやっていたので、ランドセルを放り投げて、おにぎりを一つ持って家を飛び出して行きました。
母は金ごまと塩をいって瓶に入れていました。炊きたてのご飯を握って、瓶からごまと塩を手に取って、ご飯に付ける。具は何もないおにぎりですが、ごまと塩とご飯がおいしくて。母の作る卵焼きも大好きでした。九州の卵焼きは甘いんです。砂糖をたくさん入れると、ふっくらとするんですよね。それが好きでした。
父との思い出といえば、お茶です。酒を飲まない父は、お茶を丁寧に入れていました。ものすごく高価なお茶で、母がよく言っていました。「お酒を飲むよりもお金がかかる」と(笑)。朝、私たちが起きると父の入れたお茶があるんです。それを飲んでから学校に行くのが習慣でした。
家族で出かける前でもゆっくりと入れるので、母がせかすと怒るんですよ。父がお茶を入れている時に何かを言うと、大変でした。皆、ただひたすら待つしかなかったです。
湯原が結婚のあいさつに来た時も、父は時間をかけてお茶を入れてくれました。湯原にとっては、お酒を出してもらった方が話しやすかったかもしれませんね(笑)。黙って、お茶ができるのを待っていました。
結婚してから、父はお茶を2、3カ月に1回、送ってくれました。結婚する時に父と同じお茶器のセットをもらったので、入れてみるのですが、どうやっても父のお茶の味にはならないんです。二度とあのお茶は飲めないんです。父のお茶は再現できませんが、これまで出合った味を大切にして、主人と楽しんでいます。
湯原家では卵焼きはだし巻きの方が好きだったようですが、私は九州の甘い卵焼きを作っています。主人は卵焼きの端っこを好んで食べています。主人はたくあんでもタコの足でも、食べ物なら端っこが好きなんです。それで卵焼きの端を主人に出していたんですが、お義母さんが生きていた頃は、嫁だけが真ん中のきれいでおいしいところを食べていると思われるんじゃないかと気を使いました。それで、取りあえずきれいな方を主人の皿に盛って、あとで皿を交換していました。今になってはこれも良い思い出です。(聞き手・菊地武顕)
あらき・ゆみこ 1960年、佐賀県生まれ。77年、歌手デビュー。主演ドラマ「燃えろアタック」(79~80年)でスターに。83年、湯原昌幸さんとの結婚を機に引退。義母との20年間にも及ぶ介護経験を基にした「覚悟の介護」刊行を機に、2004年に芸能活動を再開。夫婦での番組出演、夫婦共著「夫婦力22章」を出版するなど、多方面で活躍中。結婚生活40年を超えても、おしどり夫婦ぶりを見せている。