半世紀以上前、全国からの入植者が米作りを始めて誕生した秋田県大潟村。今では、経営者が20、30代の3代目に移りつつある。米を巡る情勢が厳しい中、彼らはどう立ち向かうのか。園芸品目を始めるなど、新たな取り組みをする若手農家の挑戦を紹介する。
祖父、父の代まで稲作専業だった。米価低迷など厳しい環境が続く中、収益性の高い園芸品目を重視。昨年まで50アールで育てていたカボチャの面積を1ヘクタールに拡大した。トルコギキョウは先輩農家の教えを聞いて栽培技術を磨いた。
「村には皆で園芸作物の質を高めようという機運がある」と庄司さん。県やJA大潟村が催す勉強会やJAの品目別部会への参加も役立った。
課題は花き部会の規模が小さく、若手が少ないことだ。部会員は全員で10人程度。平均年齢は43歳前後で、20代は庄司さんしかいない。「挑戦を続けて品質と価格を高め、もうかる姿を見せ、若手が村に入って来るようにしたい」(庄司さん)と意気込む。
27歳の時に父から経営を引き継いだ。現在は両親と夫と協力し、米15ヘクタール、カボチャなど野菜35アール、メロン2アールを栽培する。
「村の子育て支援によって両立ができている」と山田さん。村は1日8時間までなら2000円でこども園が利用できる制度を用意する。月に最大14日まで使え、働く親を支える。
山田さんが課題視するのは米価の不安定さだ。今後も15ヘクタールで米を作り続けて良いのか悩んでいる。「情勢を見ながら、カボチャや麦・大豆への転作も考えたい」と語る。
継がない選択も
農業を継ぐことを決めた3代目がいる一方、継がない選択をした3代目もいる。
藤井真さん(62)は20代の子3人を持つが、全員が農業を継がないことを決めて村を出た。長男(28)は北海道の鉄道会社の社員、次男(26)は岐阜県内の高校教師、長女(21)は秋田市でトリマーとして働く。
米価低迷、資材・農機の高騰、気候変動など厳しい情勢が続く中、「子どもに農業を継げとも言えない」と話す。自分の道は自分で決めるよう背中を押してきた。
藤井さんは2代目として今も現役で米15ヘクタールを栽培するが、引退すれば農地は村の若手農家に貸したり、売却したりする考えだ。
村によると、全ての入植者がそろった1978年に589あった農家戸数は年々減少し、今年4月時点では2割減の473となった。だが、離農しても農地は村内の農家に全て継承されており、耕作放棄地は出ていない。一方、農家1戸当たりの経営面積は拡大。当初の15ヘクタールから19ヘクタールとなった。
村は3代目の就農に重点を置く。県の農業試験場などで2年間研修を受けて就農する人に助成金を支給。2年で180万円を支払う。村は「毎年1、2人が利用し、後継者に育っている」(産業振興課)とする。
大潟村の歴史
県西部に位置する国内最大の干拓地。耕地面積は1万1500ヘクタール。戦後の食糧難に伴う米増産へ、国内2番目の面積を持つ八郎潟を埋め立て1964年にできた。
全国からの入植者が営農を始めたが、70年に国が米の生産調整を開始。村は国に協力する農家と協力しない農家に二分された。反発した農家の中には上限を超えた作付けをし、国の指導で青刈りするという事態も起きた。
農政に翻弄(ほんろう)された村だが、生産調整が廃止された今では需要に合わせた生産に取り組む。将来の需要減少を見据え、タマネギの大規模産地化(目標面積100ヘクタール)も進める。
大潟村・高橋浩人村長の話
他の市町村では若い人がなかなか少ない中で、村の場合は、一定数まとまって活動しているので心強い。
村の若手は、ドローンや衛星利用測位システム(GPS)、またはインターネット上のソウトウェアで農業に関することを調べるなど新しい技術をどんどん取り入れて挑戦を始めている。
村は今、以前のような農業の方向性の違いはなくなっているので同じ方向を向いていろんな取り組みをしている。米だけにとらわれない複合経営を3代目が進めてくれている。
<取材後記>
まるで黄金色の海──。見渡す限り広がる出来秋の風景に心が奪われる。そんな農地は壮絶な歴史の上に成り立っていることを知った。村が将来どうなるのか、関心を持ち、取材を進めた。
見えてきたのは、次世代を担う3代目が着々と力を付けている光景だった。庄司さんは挑戦心にあふれ、米に依存しない経営へとかじを切っていた。山田さんも農業と子育ての両立に生き生きとしていた。
かつて対立した村人も、今は団結して村の発展へ動いている。変化する村の姿を、これからも報道していきたい。
(木寺弘和)