農業協同組合法の制定は1947年、さらには近代的協同組合制度の始まりである産業組合法の制定は1900年です。JAは100年以上の歴史の中で、組合員の営農と暮らしを支えてきました。
では、19世紀までこのような相互扶助の組織はなかったのかというと、そうではありません。もともとは鎌倉時代から講(こう)と呼ばれる仕組みが集落などにありました。代表的なものは講の構成員がお金を出し合い、お金で困っている構成員がいたら貸し出すというものでした。
講には、伊勢神宮への参拝資金のための伊勢講のような、特定の目的を達成するための基金の他、農村には水田などの共同作業を行うための「もやい講」、労働力の交換や農耕のための牛馬を貸し借りするための「ゆい講」など、基金ではない講もありました。
その中で、大原幽学が今の千葉県旭市で1838年に設立したのが先祖株組合です。幽学は、一人や一家を越えた社会性を持つことにより「誠の道」が存在すると考えていました。先祖株組合では組合員が先祖から受け継いだ所有地の一部を出し合い、ここから得られた収益の積み立てを原資にした貸し付けや、肥料などの共同購入、共同労働などを行いました。
また、少年時代の銅像でおなじみの二宮尊徳(金次郎)は若い頃、捨てられていた苗を集めて水田に植えて秋に1俵(60キロ)の米を収穫できたことで、小さな努力の積み重ねの大事さを実感し「積小為大」(小さなことを積み重ねて大きなことを成し遂げる)を唱えました。
尊徳が小田原で48年に設立したのが報徳社で、こちらも構成員の出資の基金として、お金に困っている農民に無利子で貸し出し、借金をした農民は生産が拡大し、余裕ができたら初めて借りたお金よりも多くの額を返すという仕組みでした。
尊徳は小田原の報徳社の取り組みにとどまらず、小田原藩などの財政再建や600以上の村の農村復興に取り組みました。尊徳の唱えた「道徳」と「経済」の両立は、協同組合にとどまらず、渋沢栄一をはじめとした経済界の人物にも影響を与え、これは昨今の「守りと攻めのガバナンス」にも通じます。
私見ですが、このような大原幽学や二宮尊徳などの取り組みがあったからこそ、欧州から来た近代的協同組合制度が日本でもしっかりと根付く基礎になったのだと考えます。
参考=「私たちとJA」「農業協同組合論」(共にJA全中)、「協同組合事典」(家の光協会)、報徳二宮神社ホームページ