唯一、母の料理として覚えているのが、日曜夜に作ってくれたチューリップ(鶏手羽元の唐揚げ)。母は塩味で作ってくれました。
祖父母が宮津(京都府)に住んでいて、新米の時期になると米を必ず送ってくれたんです。祖父母は地元中学の教師でしたが、小さな田んぼも持っていました。その新米がおいしくて、チューリップと一緒に食べる日曜の晩さんだけは、良き思い出として残っています。
私は16歳の時に家出して上京しました。お金がなく炊飯器を買えなかったので、アパートではよくスパゲティかジャガイモをゆでて食べていました。
だからたまに外食する時は、白米がごちそうでした。ラーメン屋に行っても、ラーメンは高いから頼まずに、サイドメニューのご飯だけを頼んだんですよ。メンマや高菜などのトッピング総菜を、店主がサービスしてくれたんです。銀シャリが甘くておいしかったこと。
私がインドに最初に行ったのは、37歳の時。2006年のことです。その時から今に至るまで、年に1度は中部のウムレッドという都市の郊外のウダサ村で過ごします。地元の青年たちと学校も運営しています。
どこの家庭でも、自分たちの作った野菜や豆をすって、カレーを作るんです。それをインディカ米にかけて、手で混ぜながら食べる。インディカ米はカレーと混ぜると、とてもおいしく感じました。
インドの村では、人々が力を合わせて米や野菜を育て収穫をします。村人が総出で手伝い合い、収穫物で行事や集会をやるんです。夕食も、毎晩のように誰かの家に行って、そこの家族と一緒に食べます。
インドでは、テーブルではなく、床に車座になって食べます。外国人の私も、家族のように受け入れてくれます。子どもたちは屋根の上で星空を眺めながら一緒に寝ます。みんな心の距離が近いんです。私も村にいる時は、日本にいる時以上に安らぎを感じます。
そんなインドの村も、最近は少しずつ雰囲気が変わってきています。都会に出たまま戻らない若者も増えました。いつも一緒に遊んでいた子どもたちも、スマホを持つようになってバラバラに過ごし始めました。ある青年は、のんびりした子でしたが、SNSで町の若者とつるむようになって、半ばひきこもりみたいになりました。両親も祖父母もお手上げ。僧侶である私が一度真剣に叱ったら、翌日また親の農作業を手伝い始めて、ほっとしたことがあります。
自分さえ良ければいいという風潮は、日本でもインドでも強くなっている気がします。一人一人が役割を果たす。支え合って生きていく。その当たり前の姿は、国や時代を超えて変わらないはずです。農業はその象徴でもあるのです。
自然の力や近隣の人々の力を借りて、作物を育てていく。その授かりもので社会は成り立っている。農業は、人をつなぎ、社会を支える大事な仕事です。そうした価値観を人々が取り戻してくれたらと思います。
私は貧乏だった10代の頃も、すっかり大人になった今でも、食べて一番幸せを感じるのは、炊きたての白米です。日本の米は、最高のぜいたく品。農村の皆さんが力を合わせ、汗水流して作ったお米には、特別な力があるのでしょう。
私の心に残る一番の食の記憶といえば、お米なのです。その背後には農作物を育てる人たちの姿があります。それがどれほど大事な意味を持つか。インドに渡って、ようやく見えてきた気がします。(聞き手・菊地武顕)
くさなぎ・りゅうしゅん 1969年、奈良県生まれ。16歳で家出をして上京。高校に通わず大学入試検定を経て、東大法学部卒業。ビルマ国立仏教大学専修課程修了。インドで得度出家し、同国マハーラシュトラ州に活動拠点を置きNGOと幼稚園・小学校を運営する。仏教を「暮らしの改善に役立つ方法」として分かりやすく紹介し、著書多数。近著に「ストレスと闘う日々にやすらぎを取り戻す 怒る技法」。