
「地震から1カ月後にガスと水道が復旧し、温かい給食が再開された時、涙があふれました」。栄養教諭の徳橋智恵子さんが振り返る。大学卒業後、初めて赴任した同小で被災し、避難者対応に当たった。20年後の今春、再び同小の担当として小千谷に戻ってきた。
日本有数の豪雪地帯。寒さに震えた記憶は鮮明だ。徳橋さんは「各家庭にあるものを食材にし、日常の有難さを伝えよう」と災害給食に取り組んだ。
献立は、市内の工場で製造された「魚沼産こしひかり」のパックご飯と、缶詰や魚肉ソーセージで作ったカレーとサラダに、ミカンゼリーと牛乳。同僚の栄養教諭らと考案した災害給食は同日、小中全13校で提供された。
「いただきます」。16人が多目的室の床にござを敷き、手を合わせた。亡くなった3人は当時5、6年生。生きていれば、在校生の親と同じ年頃になっていた。
6年の片岡龍生さんが「母から地震のことを聞かされてきました」と語り、同級の平澤樹さんは「震災を伝える教師になりたい」と言った。3年の片岡小桜さんは「みんなで食べると何でもおいしい」と思いを口にした。

震災は、無数の小さな谷を刻む山間地の過疎化を早め、東山小も発災から6年で児童数が3分の1に減った。ところが近年は、Uターンの若者が増えて児童数も下げ止まり、5年後には増加に転じる見通しという。その理由を富樫亜紀教頭は「子どもたちが故郷を大切に思う心を、地域ぐるみで育んでいる」からだと考える。
「ごちそうさまでした」。色づき始めた渓谷に、16人の感謝の声がこだました。