子どもの頃のごちそうといえば、誕生日に出たトンカツ。それと年に1回、暮れに牛肉をすき焼きで食べました。
普段、肉といえば鶏。うちでは鶏を20羽くらい飼っていて、つぶして食べることも。
鶏小屋は玄関のすぐ前にあって、毎朝、子どもたちが卵を取っていました。鶏の餌にカキの殻を砕いて与えていたからでしょうか。今になって思うと、うちの卵の殻は硬かったです。その頃は意識もしていなかったけど、たぶん卵もおいしかったでしょうね。自然のものを餌として育った鶏ですから。
米と野菜は、祖父が作ったものを食べていました。肥料は人ぷんや牛のふんでしたから、自然の肥料で作られた米と野菜で育ったわけです。
港がすぐ近かったので、魚屋が市場に上がった地の魚をリヤカーに載せて売りに来ていました。メゴチ、キスは刺し身で、カレイは煮付けにすることもありましたが、刺し身でも食べていました。魚は他にアナゴ、ハモ、ウナギ。
ウナギは川と海の間にいるのが一番おいしいというので、よく河口に釣りに行きました。鈴を付けた釣りざおを10本くらい垂らすんです。引っかかると鈴が鳴るので釣り上げました。
捕まえたウナギはさばいて、蒸さずに地焼きにしていました。家ではつぼに継ぎ足しのたれがあって、それを付けてかば焼きにして。これがおいしくてね。一番の好物でした。
他には、カニも捕れたんです。網を作りサバの頭を餌にして海に落とすと、それにカニがどんどん入ってくる。捕まえたカニは母がゆでてくれました。カニも好きでたくさん食べていたら、ある日兄貴に言われたんです。「カニは再生能力があるから、お前の胃袋の中で生き返って胃袋を切ってしまうぞ。そうするともうウナギも食えなくなっちゃうぞ」と。それでカニが嫌いになってしまい、以来カニを食べてはいません。同じように、エビも食べるのをやめました。
あとはアサリも自分で採りましたね。海に行って歩いてみて、足でアサリを確認。いると分かったら潜って採るという手法です。
他に捕まえたといえば、スズメ。今では禁止されたかすみ網で、大量に捕っていました。あの頃は、焼き鳥というとスズメ。あまり食べる所がなかったですけどね。
そういう田舎で育ったのですが、18歳で東京に出る時、おやじから「これだけは言っておく」と食べ物について教わったことがあります。
「東京に行ったら、今まで食ったことのないものを食え。新宿の紀伊國屋書店の隣のビルの6階に、グラタンというものを出す店がある。食べてみろ。浅草に駒形どぜうというどじょう屋がある。お前が川で捕ってきたドジョウとは違うぞ。もう一つ、渋谷にくじら屋という店があり鯨の尾の身の刺し身があるので、それを食べてみろ。お前が給食で食べていた鯨とは違うから」
東京に出て、この三つをすぐに食べに行きました。食べたことのない味ですし本当においしかった。こんな料理を知っているとは、おやじはハイカラな人間だったのでしょう。
僕が生まれ育った頃は、日本はまだ経済が豊かではなく、そのおかげというのも変ですが、自然に育まれた動植物をたっぷりと食べていました。生まれるのがもうちょっと早ければ戦中戦後の食べ物がない時代でしたし、もうちょっと遅ければ人工的な食料がたくさん出てきたわけです。その間で、しかも田舎に生まれたというのが、良かったのだと思います。その時代と場所で食べられる最高の食事で育ててくれた親に、感謝しています。(聞き手・菊地武顕)
わたなべ・てつ 1950年、愛知県生まれ。75年旗揚げの劇団シェイクスピア・シアター全37作品中36作品に出演。85年「乱」で映画デビュー。以降、映像、舞台問わずに活躍。近年は海外作品の出演も多い。3月26~31日、東京・下北沢ザ・スズナリで舞台「お目出たい人」(作・演出=水谷龍二)出演。ドラマ「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」(東海テレビ)出演中。