テレビでもアメリカのドラマが放送され、「名犬ラッシー」(日本では1957年放送開始)で見た、ピッチャーの牛乳をコップに入れて飲むシーンが印象に残っています。日本では牛乳は小さな瓶入りで、紙のふたを取って飲んでいました。ピッチャーにたくさん入っているのを見て、向こうは豊かなんだなあと感じました。
そんな時代に、母はポタージュスープを作ってくれました。私にとっては、決して忘れられないソウルフード。おみそ汁よりも強い思い出があります。
今ならポタージュスープのもとが出ていますが、母は一から手作りで、ジャガイモをこしていました。それがえらくおいしくて。あれほどのポタージュスープは、その後食べたことがないですね。もう食べることができませんし、私の頭の中では「幻の食べ物」に変換されています。
もう一つ、母が作ってくれたドーナツもおいしかった。材料をきちんと量り、小麦粉から作るなどなかなか面倒なんですよね。
後にホットケーキミックスを使った手作りドーナツというのが紹介されて母も作ってみましたけど、やっぱり小麦粉をきちんと量って作る方がおいしかったですね。
延ばした生地を型を使って抜いて作るんですけど、残った生地も無駄にせず、ひねって変な形にしたりして一緒に揚げます。面白いのは、なぜかそちらの方が丸いドーナツよりもおいしいんです。
出来上がったドーナツは、そんなに甘くない。いくつでも食べられました。混ぜ物がないから、たくさん食べられたんでしょう。
安全な食べ物は、いくらでも食べられるんじゃないですかね。というのは、祖父母の家で食べた料理を思い出したからです。
毎年、夏と冬に、水戸にある祖父母の家に行きました。
夏に行くと、祖母が必ずトウモロコシをゆでてくれました。近くの人が取ったものを持って来てくれたのか、ひょっとすると祖母がどこかで作っていたのかもしれませんが、取れたてでした。今のトウモロコシと違って、甘過ぎない。その代わりゆで上がったときの香りは強くて、心が躍るよう。歯応えもすごくありました。そのトウモロコシは何本でも食べられましたね。
祖母といえば、思い出すのは鶏をつぶした姿。孫が来たからと、放し飼いにしていた鶏をつぶしてさばいて料理を作ってくれたんです。でも鎌と首のない鶏を持って歩く祖母の後ろ姿を見て、ギェーッて感じで、まるで鬼ばばだと思いました(笑)。
ショックのあまり、どんな鶏料理が出たか覚えていないんですが、ワイルドな味だったと思いますね。命をいただいているという感覚がものすごく強くありましたし。
私の小学生時代は基本、まだまだ貧しい時代。そこに、アメリカの豊かな文化が押し寄せてきたわけです。母は料理本や女性誌で横文字の料理を知り、作ってみたいと思ったんでしょうね。すごく手間がかかるけど、出来上がったポタージュスープを食べた子どもが狂喜乱舞した。それを見て、いろいろ作り続けざるを得なかったのかもしれません。
貧しいけれど、希望のある時代でした。「明日は今日よりも良い日」と皆、信じていました。次はまた知らないおいしいものを食べる、食べさせる。その思いで、母はたくさんの洋食を作ってくれたのでしょう。母の料理はもう二度と食べられませんが、私の思い出の中にいつまでも生きています。
くみこ 1954年、茨城県生まれ。早稲田大学卒。82年、シャンソンの老舗「銀巴里」のオーディションに合格し、プロとしての活動を開始する。2002年、アルバム「愛の讃歌」の収録曲「わが麗しき恋物語」が反響を呼び、翌年シングルカットし、異例の大ヒットに。10年、被爆について歌った「INORI~祈り~」でNHKの「紅白歌合戦」に出場した。7月12日に「時は過ぎてゆく/ヨイトマケの唄」を発売。